<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

白足和尚は川を渡っても足袋が濡れない

2018年10月26日 20時50分08秒 | Weblog

華厳経を中国語に翻訳した翻訳家、杜順は白足和尚だった。川を渡れば、水が、彼を尊重して、退いて礼拝するので、履いている足袋が濡れなかった。という。嘘か誠か。いつも野に寝ていた。乞食行を徹底した。華厳の教えを実践した。それでいつの間にか全身を自然界のパワーが住処にした。心地よい住処だったのである。彼はたやすく人を癒すことができた。凄まじい求道だったのである。昔の素朴な仏道修行者にはそういう人がいた。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

不安は安心の欠片

2018年10月26日 20時39分25秒 | Weblog

不安は安心の欠片。かけら。大岩の欠片。

欠片は土塊になって、千年万年後にやがてまた大岩の巌を成す。

不安は大空を行く雲。千切れる雲の欠片。消えてはまた生まれる。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

雨は降っていても静かだ

2018年10月26日 20時26分25秒 | Weblog

夜に入って本降りになってきた。雨音が高い。天気予報官の予報する通りだった。耳の邪魔にはならない。邪魔になったという人はいない。不思議なことだ。問題にしていないからだろう。問題にしても勝ち目はない。勝ち目がなければすんなり受け入れるしかあるまい。

雨は降っていても静かだ。雨が降っている方が、寧ろ、静かかも知れない。そういう錯覚に沈む。これで罷り通る。これでいい。どれだけの錯覚に慰められていることか!

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

音の雨がしている

2018年10月26日 19時35分15秒 | Weblog

雨の音雨の音雨の音雨の音雨の音。音の雨。

夜に入った。障子戸の向こうは暮れて闇。音だけしか聞こえてこない。音の雨が降っている。

湯も浴びた。あつ湯をした。温もった。冷えないように冬物長袖に腕を通す。もう寝てもいい。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

一生悪を造って暮らして来たのに その3

2018年10月26日 14時42分57秒 | Weblog

造善ではなく造悪のわたしであったのに、そのわたしを目当てにして誓願があったのだ。この条件下で仏の誓願がわたしに向かって来たのだ。「救われ得ないわたしが救われる道」があったのである。

造悪と弘誓は相性がいいのだ。とろりと融け合うのである。

造悪者は涙涙涙になる。弘誓者も涙涙涙になる。人が泣いて仏が泣くのである。

それにしても、この話、あまりにも虫のいい話ではないか。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

一生悪を造って暮らして来たのに その2

2018年10月26日 14時39分39秒 | Weblog

せっかくこの世に生まれながら、せっかく命を永らえながら、そのいのちはただただ悪を造ることに費やすばかりだった。そういう己が此処にいる。どうしようもない己がどうしようもなくして此処に居る。悔やむ。恥じる。

悔やんでも恥じても、懺悔しても、己では己を救えないのだ。

そのわたしの元へ阿弥陀仏がやって来る。己と仏が一対一で向かい合う。

阿弥陀仏は手に弘誓(ぐぜい=仏の誓願)を携えて来た。造悪の己を船に乗せて仏果の国に渡すというのである。わたしは渡って行く。     

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

一生悪を造って暮らして来たのに その1

2018年10月26日 14時02分17秒 | Weblog

一生造悪値弘誓    親鸞聖人「正信偈」より

(いっしょう ぞうあく ちぐぜい) 

一生造悪して弘誓に値う

一生を悪を造って暮らせども、我は阿弥陀仏の弘誓に値(もうあい)ぬ。

わたしは悪を造って一生を過ごして来たのに、それでもそのわたしに、56億7千万年掛かって、阿弥陀仏の誓いが届いて来た。

わたしが救われないでは、法蔵菩薩は阿弥陀仏にはなれなかったのである。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

梟が来て冬物語る

2018年10月26日 13時49分53秒 | Weblog

沈黙に圧(お)されたる夜にふたりあれば梟(ふくろう)が来て冬ものがたる     薬王華蔵

このふたりはどういうふたりか。恋人か。友人か。老いた夫婦か。若い兄弟か。ともかくふたりには会話が途切れて、長く沈黙をしている。長い沈黙に圧し潰(つぶ)されている。或いは眠れないでいるのかも知れない。

梟が鳴くのは真夜中。梟は夜行性だから。人が寝静まった頃に鳴きだして来る。梟は人間達の沈黙を気遣ったようにして、冬物語の今年の物語を聞かせてくれる。ホーホーホーホー、山麓から谺して来る。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アケビは秋の山の耳

2018年10月26日 13時37分19秒 | Weblog

割れているアケビは秋の山の耳 人の跫音(あおと)を呼びつけて聞く     薬王華蔵

木通(あけび)は割れると耳になる。耳の形をする。幾つも耳が山の中の高い木から垂れている。耳だから、聞く。人が近づいて来る。跫音が複数する。子ども等も雑じっている。木通は里中の人たちには人気者なのだ。自分では村里に下りていけないから、人を呼びつける。そして人間のにぎやかな跫音を聞く。聞いて、秋の賑わいを楽しむ。

ミツバケビ。ムベアケビ。どちらも赤紫色をして、そのうちに割れて、中の実を小鳥たちが来て啄めるようになる。甘い。砂糖のように甘くはないが、上品に甘い。

山へ入ると耳がある。ぷらりと垂れた耳がある。そこを歩いて行けば幾つも幾つもある。わたしの動きを耳傾けて聞かれている。

でもこれは落選歌だった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

人は老いてうつくしくなれる

2018年10月26日 13時28分15秒 | Weblog

嫗(おみな)の背まるくまがりぬ うつくしく老いてしずかな影の坐す秋     薬王華蔵

嫗は、「おうな」とも「おみな」とも読む。年老いたご婦人のことだ。人は老いてうつくしくなれる。とりわけ影がうつくしくなる。影がやわらかになる。その場にマッチして動かずにいる。縁側に坐している。背中が丸く静かに曲がっている。生涯を働きづめに働いた人にこれが多い。秋が来て秋日が膝元に射している。「人のいる絵」が生まれている。嫗はうとうとして眠っているのかもしれない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする