ゆふされば大根の葉にふる時雨(しぐれ)いたく寂しく降りにけるかも 斎藤茂吉「あらたま」より
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夕方となった。雨が降っている。まだ止まない。畑の大根の、青々とした葉に時雨が打ち付けている。それが故意にことさら見ている世界を寂しくさせて、降って来る。
功成り名を成した人でもこうか。大根の葉に雨が降っている。それだけで寂しいのか。一日を閉じる夕方が来た、だからなのか。時雨だから、そぼ降っているのだろう。大根の葉に落ちて来る雨の、雨音すら聞こえていないのかも知れない。寂しさを雨にして我が身に受けるということ、たったそれだけのことが魂を打って来る。生命の本質をしたたかに打って来る。これでやっと魂の出番を迎えたのだ。
なぜだ。それにしてもなぜだ。たったこれだけのことがどうして読者の心を捉えて離さないか。読者もやはり寂しいからである。どうしようもなく寂しいからである。雨は大根にばかり降っているのではない。そしてそこに寂しさを感じているのはこの短歌の作者ばかりではない。彼に代弁をさせているだけなのだ。