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<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

彼に代弁をさせているだけなのだ

2016年09月13日 20時17分23秒 | Weblog

ゆふされば大根の葉にふる時雨(しぐれ)いたく寂しく降りにけるかも      斎藤茂吉「あらたま」より

夕方となった。雨が降っている。まだ止まない。畑の大根の、青々とした葉に時雨が打ち付けている。それが故意にことさら見ている世界を寂しくさせて、降って来る。

功成り名を成した人でもこうか。大根の葉に雨が降っている。それだけで寂しいのか。一日を閉じる夕方が来た、だからなのか。時雨だから、そぼ降っているのだろう。大根の葉に落ちて来る雨の、雨音すら聞こえていないのかも知れない。寂しさを雨にして我が身に受けるということ、たったそれだけのことが魂を打って来る。生命の本質をしたたかに打って来る。これでやっと魂の出番を迎えたのだ。

なぜだ。それにしてもなぜだ。たったこれだけのことがどうして読者の心を捉えて離さないか。読者もやはり寂しいからである。どうしようもなく寂しいからである。雨は大根にばかり降っているのではない。そしてそこに寂しさを感じているのはこの短歌の作者ばかりではない。彼に代弁をさせているだけなのだ。

 

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ああ、いい一日だったと思う

2016年09月13日 20時07分00秒 | Weblog

植え付けたフカネギがそろそろ根付いたようだ。ここに牛糞を施肥する、うっすらと。それから有機石灰をうっすら掛ける。それからうっすらと土を被せた。夕方にやったことがこれ。見え上げると月があった。15日が満月だから、今日はその2日前。雲がときおりこれを隠した。7時になって作業を終えた。「ああ、いい一日だった」と思う。人様の仕事量とはまるで比較にもならない。仕事の質に於いてはなおさら以て相手になれない。でもこれでいい。わたしはともかくわたしなりに充実充足して夜を迎えた。

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寂しさは樹蜜

2016年09月13日 14時02分03秒 | Weblog

さみしい。これはいったいなんだろう。どうやったらいいのだろう。さみしさに戻ってくる。出て行ったらいいだろうに、戻ってくる。さみしいところには蜜があるのか。蝶々やカミキリムシやクワガタが樹蜜に寄って来るように。

幾山河越えさり行かば寂しさの終(は)てなむ国ぞ今日も旅ゆく    若山牧水

山河を幾つ越えていけば寂しさがないところへ行き着けるかと牧水は詠っているが、生きている限り、感情を我が胸に宿させている限り、終わりにはならないのである。この歌は牧水の22歳の頃の作。明治40年であった。彼は大学の4年生だった。場所は岡山県と広島県の県境、二本松峠。茶店で一泊した。その折に友人宛に葉書を書いた。そこにこの歌がしたためられていた。旅をすればするほど寂しくなることくらいは分かっていたはずだ。むしろ寂しさを求め求めて旅を続けていったというのが本当に近いのではないか。そんなふうにも思われる。

さみしい。寂しくない人と触れ合ってもさみしい。触れ合わなければなおさら寂しいが、どこまで行こうとそこに泉が湧いて、この寂しさの泉の水が涸れることはない。それどころか泉の水はどんどん青く澄み渡って行く。

寂しいとしていぬ人の瞳(め)を見れば青き泉の澄みわたるかも    釈 応帰 

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触れるための全身を持ち、触れられるための全身を持つ

2016年09月13日 12時27分37秒 | Weblog

人間の全身にはくまなく触覚が働いている。触れると感じるように造られている。だから、全身は触れるための器官である。もちろん触れられるための器官でもある。全身が感覚器官であってこれが機能していることが「官能」である。刺激するとこの官能、機能する感覚器官は高まりを見せる。こどもはお母さんに触れてもらっていると安らぐ。落ち着く。これは異性間でも機能する。異性でなくったっていい。そよろと吹く秋風にさらしていたっていい。安らぎが来る。異性間でのようなねっとりしたものは味わえないけれど。

触るるため触れらるるための全身を風にさらして秋深みけり    釈 応帰

人間の全身は触覚を持つ。実感をしてみるとよく分かる。触覚もまた宝物である。触れないで過ごすこと、触れられないで過ごすことが余りにも多いけれども。「触れ合い」などということばがある。これは主に他者とのこころの交流を指しているだろうが、そこに限定をしてしまうのは勿体ないのではないか。恋人たちは手と手を触れて歩いている。この刺激が全身をあたためていく。生きている恍惚へも導かれて行くことができる。

老爺である僕の場合は、秋が深くなっていくのを風と触れ合うことで以て実感をするのみである。

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もうそろそろ柿を食うとき

2016年09月13日 12時11分21秒 | Weblog

これからさき柿を食う楽しみがうまれる。まだ少々早いけれど。スーパーにはもうお目に掛かる。我が家の庭にも甘柿渋柿いろいろ植えてあった。彼岸柿は彼岸にはもう胡麻が入っていて食べられた。小さい柿だった。霜捏ね(シモゴネ)のいう品種は一番おいしかった。弟も此が大好きだった。二人でムシャムシャ喰った。これは霜が降る頃まで置いていて食べた。とんがっていた。甘柿はそうとう高くなった木で、小学校から帰ってきたら一番にここに登って木の上で食べた。四角錐形をしていた。富有柿のように平べったいのはあまりなかった。

正岡子規に柿を詠った次の歌がある。

柿の実のあまきもありぬ柿の実のしふきもありぬ しふきそうまき

明治30年頃の歌である。子規は知人から柿をどっさり贈られた。その礼状代わりである。

甘い柿の実も食べました。少々渋があるのもいただきました。いやいや渋い方もなかなかおいしかったですよ。ちゃんと57577に収まっているから短歌と言えそう。正岡子規が詠うとどれも秀歌に見えて来るから、あらふしぎ。直球に近いか。ちょっとカーブしているかも。「しふきそうまき」は漢字にすると「渋きぞ旨き」だろうか。

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喰っても喰わなくてもいいけれど

2016年09月13日 12時01分26秒 | Weblog

お昼が来た。面倒だから喰っても喰わなくてもいいが、区切りにはなる。いつものように素麺を茹でるとするか。簡単簡潔でいい。葱は昨日植え付けたフカネギの青いところを片手に一杯摘まんでおいた。それをすぐに刻んでタッパーに詰めておいた。これを使おう。鷹の爪が真っ赤に熟れている。辛みにはこれを潰す。老爺の一人だ。作るのも一人、喰うのも一人、後片付けも一人だ。実に気ままな暮らしだ。デザートに李を剥こう。

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月おし照る河原菅原

2016年09月13日 10時56分24秒 | Weblog

ながき夜の ねむりの後も、なほ夜なる 月おし照れり 河原菅原       釈迢空「海やまのあひだ」より

仲秋の名月は明後日らしい。雨雲も遠離ったことだし、今夜くらいは満ちて行く月が見えるかもしれない。眠っても眠ってもまだ夜が明けないということは誰もが経験をしたことだろう。そっと起きていって窓を開けると向こうに河原菅原が広がっていて、そこに煌々と月が照っていた。そういう情景が目に浮かぶ。釈迢空の歌は57577の間に一時の空間が空けられている。そこが飛び石になっていてそこを飛び越えて進んで行く。空間は読者各人の想像で埋められることになる。

短歌は日本独自の詩的空間の広がりである。空間に描かれているのは叙景詩だったり叙情詩だったりする。それに刺激されてこころが発動する。沈滞の淀みが切って落とされて、そこから水が溢れ、流れ出していく。それで新しく動きが生まれて来る。人は己の内にこうして新鮮さを取り戻すことになる。そこにはっきりした意味があってもなくてもかまわない。牛の胃袋の反芻行動みたいなものだ。

菅原の菅はスゲの古形。カヤツリグサ科の草の総称。繁殖力が強いので河原を覆い尽くしてしまう。昔は此を材料にして笠や蓑を作ったのでなにぶんか重宝したが、現代はもはや見捨てられたまま生い茂っているばかり。

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地上高くアキアカネの群舞

2016年09月13日 09時08分51秒 | Weblog

青空が広がっている。ところどころに白い筋雲。光が反射屈折して眩しい。地上ではアキアカネの群舞。これは彼らの愉快の表現。祝祭行動。何をいったい祝っているのだろう。なんの祈りがかなったのだろう。

僕は、夜中の読書が長くなって、朝方になってうとうとして眠ってしまった。考え考え夢をたくさん見ていた。起きたら8時を過ぎていた。顔を洗って歯を磨いて、そそくさと朝ご飯を済ませた。

室内の気温は26度。半袖の腕がひんやりしている。YouTubeで大好きなバイオリン協奏曲を聴いている。といってもただうっとり聞き惚れているだけ。音楽の知識があるわけではない。

今日することはキャベツ、ブロッコリー苗の植え付けだ。トラクターで耕耘してもらった。畝も作ってもらった。土作りも終わり、植え付けるばかりになっている。それからジャガ芋の植え付けに掛かる。種芋はすでに買って来ている。椅子に座って作業するから、進捗しない。時間がたっぷり必要だ。

作業をしている間は何も煩うことがない。諸案諸事がすっかり抜け落ちてしまっている。これがいい。疲れたら手を休めて青空を仰ぐ。風にあたる。アキアカネを眺める。藪叢の鈴虫を聞く。元気回復したらまた作業に掛かる。一人だからすべてきままだ。

 

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夕方サイクリングに出た

2016年09月13日 01時39分46秒 | Weblog

夕方六時。ようやく雨が止んだので、サイクリングに出た。城原川の川土手を南下して、走った。濁流を見た。土色だった。堰を落ちて水煙が揚がっていた。葦の穂が風に揺れた。久しぶりにペダルを漕ぐ。筋肉が堅くなってしばらくは順応しなかった。踏みしめて踏みしめた。体が火照った。上着を脱いだ。小雨が途中からまた降り出してきた。帰宅したらもう夜の闇だった。寂しさをどこかで見失ったようだった。

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