おやすみなさい。月が出ているでしょうか。外に出てみます。それからやすみます。いい一日でした。格別自慢にするようなことなどなんにもなかったのでありますが、それでも十分にいい一日でした。
午前中と午後と一日に2回も外に出て農作業をした。楽しかった。そんなもの楽しくなんかあるものかと言われたらその通りかも知れないが、それでもわたし一人のこころの中では楽しかった。何より何より。一人でいいようにしている。午前中には青首大根の種蒔きをした。午後からは小松菜の種蒔きをした。
実は本当だったのである。嘘だと思って歯牙にも掛けていなかったのだが、実は本当だったのである。疑う力があると思って疑っていたのだが、有るように見えてなかったのである。仏の智慧を上回るだけの智慧が己にあると思っていたのだが、あるにはあっても、到底比較を絶していたのである。同じ土俵になど立ててはいなかったのである。すべてこちらのはったりだったのである。
*
復(ま)た次に人有って貧窮下賤(ひんきゅうげせん)にして多く病苦を受け愚痴(ぐち)暗鈍(あんどん)にして善悪をわきまえざらんに、若しよく此の呪を誦持(じゅじ)し我が名を称念(しょうねん)せば、一切の所求(しょぐ)必定(ひつじょう)して成就す。富貴自在にし無病安楽にして智辨才を得て世出世(せしゅっせ)のこと意(こころ)にかなわざることなく、乃至(ないし)無上菩提を証得(しょうとく)す。
「仏説十一面観世音菩薩随願即得陀羅尼経」より
*
おんまかきゃろにきゃそわか。これが観世音菩薩が言及した呪文である。この呪文を称え観世音菩薩の名を称え念じていれば、次の事柄が円満する。
その1、求めているものがすべて成就する。
その2,富貴(ふうき)も自在となる。
その3,からだの病がなく健康に暮らしていける。
その4,こころも安らかに暮らしていける。
その5,智慧の眼が開ける。
その6,辨が立つようになる。
その7,世の中に出ても受け入れられる。
その8,我が意に染まないことはおきなくなる。
その9,この上もない菩提(悟り)に到達する。
*
十一面観世音菩薩が釈迦牟尼世尊の前に出て以上の衆生済度を約束している。これができて初めて菩薩である。
*
実は本当だったのである、というのはさぶろうの見解である。客観性はない。だからなぜならが申し立てられない。だからこれはさぶろうだけに通用することである。残念ながら他者には通用しない。さぶろうがこれを信じて、さぶろうがこの功徳に与るばかりである。さぶろうだけがこの功徳を受けるのが心苦しいのだが、これは一人一人の問題なのであるから、その通りだという領下は押し売りができないのである。
*
功徳がその9まであるがさぶろうはそんなにたくさんは要らないように思う。まだそこまでは受け取る下地が出来上がっていない。
ああ、楽しかった! お昼までしばらく農作業をした。有機石灰、化学肥料、牛糞などを運んで来て、撒いて、土作りをして、それからそこにカリフラワー、キャベツ、ブロッコリーの苗を植えた。一段落した後、さらに小松菜、チンゲンサイの種蒔きをした。防虫剤オルトランを散布しておかないと発芽後すぐに虫に食い尽くされてしまう。これを丹念にする。水をたっぷり撒いてそれで終わり。そこでお昼のサイレンが鳴った。それだけのことだけど、日射しがあって、汗が下着を濡らしてびしょびしょになった。百舌鳥が背中のあたりの 高い木の梢で鳴いた。お風呂場でシャワーを浴びた後、素麺を茹でて啜った。
夕方日が傾いたらまた外へ出て農作業を続行しよう。やっておかねばならないことは山ほど有る。といってもままごと遊びのレベルである。それでお金儲けをしようというのではない。楽しく過ごすことが出来たらそれで十分である。
*
人様は最前線に立って有意義な社会貢献をされている。たとえばそんな重量感のある方々から「おまえはそんなことくらいを楽しいこととしているか」と指摘されたら、この他愛ない老爺はまったく返す言葉があるまい。無責任だが、<それですませてもらっている>のだ。日々、こうして社会人としての義務遂行なしの暮らしをしているが、罰則なし。ぐうたらですませてもらっている。これに感謝をするばかりだ。
吸う空気がおいしい/空気を腹一杯吸いこむ/吸う分はいつも届けてもらっているのだ/
空気はわたしを生かそう生かそうとする地球の愛情である/具体的な/はっきりした宇宙の意思である/
そういうプレシャスな自分であることを僕はどれだけ自覚しているのだろう/どれだけそれをわたしの嬉しさへ導き入れているのだろう/
そしてそれを僕はどれだけ宇宙全体の嬉しさへ還元しているだろう/
鼻から吸いこむ空気がおいしい/腹いっぱいに吸う空気がおいしい/このおいしさが/僕の今日の元気度合いに匹敵している