勢いを誇った奥州藤原氏は三代で滅びて行った。時代の覇者争いを演じた源氏も平家もほどなくして互の破局を迎えた。栄枯盛衰は世の習いというが、無常は権力者達の独占物でもない。
静かな我が村里にもそれが見える。豪邸が次々と廃墟になっていく。跡目を継ぐ者がいないのだ。都会に出て行って戻って来ないという事例も多い。夏草が庭を蔽い入り口を塞いでいる。
我が母の里の旧家も、さまざまなドラマを従えて、この夏ついに途絶えてしまった。家も取り壊されて更地になってしまった。近くの檀那寺の駐車場になってしまった。二代に亘ってその娘達が次々に嫁いでいってしまったのだから、しようがない。
夏草を抜きながら、そんなことこんなことに思いを馳せながら、そうは言っても我が家もいつこうなるかはわからないなと思った。我が家も娘三人である。ここに留まる保証はない。ここは村里である。それほど価値が高いというものでもない。ないけれども愛着はある。しかし、土地と家はそもそも借り物なのだ。
誰にも等しく言えることなのだが、それがなんであろうと永久的に「我が所有」と言うことはないのだ。無論、我が命でさえも。時間も空間も、しばしをお借りしているだけなのだ。だから、返すときが来れば返すしかない。返さない、返したくないとする方が間違っているのだ。そういう諦めに至り着くしかないのかも知れない。
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