多病息災発達障害者こよりの日常

両手で数えきれない障害と持病を抱えつつ毎日元気に活動中。発達障害の息子たちの子育ても終え、悠々自適の毎日です。

子どもの資質を見抜く

2017-03-31 20:37:26 | 修業について
2人の凸凹っ子と 一緒に暮らしてきて、


「親子といえども、きょうだいといえども、こんなに違うんだなあ」と感じる事が



何度も何度もあった。



私も 凸凹っ子、子どもたちも 凸凹っ子である。共通点も もちろんあるが、


別の人格を持っていて、素質も もちろん違うから、


同じことを 目指しても、行く方向、その子どもが伸びたい、と思う方向は 


当然違ってくる。


家の中でのルールや、社会でのルールは 教えたけれど、


子ども自身が「やりたい」と思う事は 周囲が「その子には無理じゃ・・・」と


言っても 私は とりあえずやらせてみた。


逆のパターンも もちろんあった。「この子ならできますよ!お母さんが 甘やかしすぎじゃないですか?」と


非難を受けたことも ある。


だが 今 自分の子が どの程度の エネルギーを 持っているのか、これは


させても 大丈夫なことか、それとも 負担になるだけなのか、


私は 様子を見つつ その子その子に 合うと思った 修行を 続けていった。


すべてにおいて 「平均以上の 力を持った人」には 成れなくとも、


「自分の 資質を 最大限に生かせる人」に なってほしかったし、


「人生を楽しめる人」、そして何より 「親がいなくとも 生きていける人」になってほしかった。


乗り物嫌いで、パニックを起こしていた子。「過敏だから仕方ない」と 



そのままにしていて、いつか 私が 自家用車では 送迎ができなくなった時、


この子はどうなるのか?と 幼いわが子を目の前にして 考えた。


「まずは 人の車にも乗せてもらえる子にする事、いずれは公共交通機関で


自力で移動できる子にする事」これが 最終目標だった。



泣きわめく子を抱きかかえながら、周囲の「うるさいなあ、黙らせろ」という視線を


感じながらも、「今は うるさい子、しつけのなってない子、くらいに思われるだけで済むが、


5年後、10年後に 同じだったら 私では抑えられないだろう。


暴れだした時に その気はなくとも 人に 危害を与えかねない」と思い



出口に 陣取って子どもを 抱えながら「次に降ります!」を連呼して


次の駅に着くのを 待った。


それを 何度繰り返しただろう。


乗ってすぐわめいていた子が 少しずつではあるが 慣れて行き、


何度か 途中下車をしながらも 最後には 終点まで 乗れるようになった。


文字の読み書きは 一生できないとも 宣告されたが、スーパーのマークは ちゃんと見分ける。


好きなお菓子のパッケージは わかる。


検査で測る知能は 低かったかもしれないが、「わかる力」がこの子には ある、と思って育てた。


今、幼い時の 自閉っ子しか知らない人に 出会うと、「今何してる?」と聞かれる。


「就職して お給料の中から 食費を入れてくれて、休みの日には


友人と出かけたり 一人で 買い物に行ったりしています。」と言うと



びっくりされる。


案内図や 地図を ちゃんと読んで、目的地に向かう 路線を選んで、


いろんなところへ出かけている。


バス一停留所分に 乗るだけで 大パニックを 起こしていた子。あの時のまま


あきらめていたら、一人で 外出なんかできなかったろう。働くことも 無理だったろう。


知能に 問題はなくとも、字を書く能力に 欠けがあって、わかっていることも


答案に書けなかった長男。がんばって書いても 読んでもらえず 



学校で「怠けている」「ふざけている」と 言われて 人の何倍も努力しても 


認めてもらえず 力尽きて 不登校になった長男。


理解力は あるのだから、とそこに働きかけて


自信を持たせ、体を動かすことや 家事をする事などを通して


自分でも できることは あるんだ、ということを 気づいて行ったように思う。


中学卒業後、「高校にいく」と言い出し、通信制の高校を選んだ。


いくら ゆっくり書いても、期日までに出せば、答えさえ合っていれば 点数や単位がもらえる。


教科書や プリントから 書きたい文字を選び出して、それを 写生するように


答案に ゆっくりゆっくり書いていた姿が 思い出される。


「この線何本?」と聞かれた文字は 大きく書いて見せて 教えた。


小学校でも 数回の 行き渋りがあったし、中学は 半分も行けていない。


高校の先生は「最低でも(卒業までに)4年はかかるでしょう」と


おっしゃったが、「何年かかってもいいので 本人に 努力させてやりたいので


お願いします」と 伝えてきた。


自分のペースで やれることの うれしさ。「自分は できる」という 結果が出る楽しさ。


4年はかかる、と言われた卒業は、3年後に やってきた。



卒業後、「アルバイトに行く」と言い出し、履歴書の書き方を教え、


書くのに 苦労しながらも、時間をかけて 書き上げた。


ハローワークの場所と行き方、就職情報誌の 入手の仕方、を教えて


あとは 「わからない事があったら いつでもいいなさい」と 本人に任せた。



「障害のことは 言いたくない。手帳も取りたくない」というので


本人の意思を尊重し、「障害のことは 言いたくないなら 言わなくていいと思うけど、


文字が 苦手だという事は 伝えなさい。仕事を任されて そこで


書けません、と 言ったら会社が困るから。その代り 他の仕事を やらせてください」と


お願いしてごらん」と 話した。


今の職場を 見つけ、面接の時に 「字が下手なので、伝票書きや 日報書きで 迷惑かけたら


困るし 自分も嫌なので、そういう仕事は できたら 外してほしいです。それ以外の仕事なら


がんばってやります。未経験ですが やりがいのある仕事だと思って 面接に来ました」と


話したそうだ。


採用通知が来て、最初は 体力的にも ハンディがあるし、専門学校や大学卒で 知識のある人には



かなわない。時給も 最低で、後から入った 後輩の方が 高い時給だと知って むくれていたが、


「仕事が できる人の方に 会社は お金を払うよ。会社に貢献した人の方に高い時給を


払うのが 当たり前だよ。悔しいなら その人より 仕事ができるようになってご覧。きっと


時給が あがるから」と 話した。


専門学校や 大学で、知識や 実習を 経験済の人に 追いつくのに 何年かかったか。


ついに その日が来た。


「OO君、君うちの 正社員にならないか」「はい!ありがとうございます」


その日は うれしそうに 報告してくれた。


その後 他の人が 知識や 経験で 判断してこなしている仕事を、


「説明のできないカン」(本人談)で 判断して、「このやり方の方が いいように思います」と


上司や 先輩に 提案した。「知識も 無いやつが 何を言う」と言われたが、


長男が 「それは ダメだと思います」と 言った時には 成果が出ず、


それが 何回も続いたので、上司の方が 上に報告なさったそうだ。


そこで 長男が呼び出され、「なんで そう思った?」と聞かれたが


本人にしたら 「なんとなく わかるんです」としか言えない。


「ためしに あいつに やらせてやれ」と 許可が出て、


長男が その仕事を 自分の判断で やってみたら、2割以上の 成果が 上がったそうで、


今 長男が その仕事を 任され、もっと いい方法がないか、と毎日


試行錯誤の 毎日である。



学校で いろんな先生から 「こんな風では ろくな 人間になりませんよ、お母さん」と言う意味の事を


言われたが、その人たちが 今の 長男を 見たら どう思うだろうか。


「一生文字の読み書きが できない」と 宣告した 人は 今生き生きと 働き


余暇を楽しむ自閉っ子を見たら どう思うだろうか。


どちらの子にも 可能性があり、資質が あるという事が 私には わかっていたから、


どんな時も あきらめずにいられたし、悲観もしなかった。


ただただ 将来を 楽しみにし、毎日の 成長を 喜んで見ていられた。


発達凸凹の 子どもたちは 私の手を離れ、今は 私を 助けてくれる立場になっている。


「ろくな大人になりません」「一生文字の読み書きはできません」「発達障害は治りません」etc・・・・


それらの言葉を 鵜呑みにしないで 修行してきて よかったと思うし、


人生を謳歌している子供たちの 姿を見て 今 小さな発達凸凹のお子さんを


抱えて 苦労している方に 「どんな子にも 可能性があるし、必ず成長しますから


あきらめないでください」と 伝え続けたいと思う。 











 



















自閉っ子と未来への希望
浅見淳子
花風社

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