なんでそうなるのか

青森県八戸市で公務員試験塾オクトを主催する岡政也のブログです。

当たり前のことなのに

2019-03-26 18:27:20 | 日記
結論が出ていることに関して、潔く行動すべきだ。
選ばなかった方の選択肢に未練をのこしていると、ろくなことがない。
どうせすぐに、次の決断が必要な場面になる。
前回、潔く行動していれば、次もまた潔く選べるはずだ。
体は一つしかない。過去に遡ることはできない。
あまりにも当たり前のことを、なぜかしばしば、認識していない。

理屈っぽいということ

2019-03-25 17:20:28 | 日記
未来に向かっての理屈は理想を実現するための道標であり、過去に向かう理屈は現在を肯定するための解釈だ。
しかし、実際に未来をつくるのは理想よりも現実の需給、利害、情動などである。
また、過去はイメージのフィルターの向こうで、如何様にも変貌する。
そのように考えると、理屈とは全く無意味なもの、のように思えるが、それがそうでもない。何らかの理が欲しい。理を求めるのも、自然な成り行きだ。
現実の大きな波の中で翻弄される私たちだが、理とは、大きな力に弄ばれつつも、わずかでも自らの意志の下で世界を収束させようとする作用なのかもしれない。
だから、少々理屈っぽくても我慢が必要というものだ。

囚われ

2019-03-24 15:58:24 | 日記
すべての行為は、なかったことにはできない。すべて履歴として残っている。その履歴を完全に把握しているのは、自分と神様しかいないけど、なかったことにはできない。
では、現在の自分は、過去のすべての行為に拘束されるのか。それも違う。不完全ではあるが選び取ることができる。選び取る際、自分以外の、つまり神様の意志が働いて、忘れしまいたい過去が付きまとう、ということはよくあるが、こちら側にだって拒否権はある。振り払うことはできる。現在とこれからを規定するのは過去ではなく、過去との関わりで生じている現在の自分だ。なかったことにして忘れる、というのはあまりいい方法ではない。乗り越えていないのだから、忘れたころにリベンジがあるかもしれない。
なかったことにはできない。だが、囚われを振り切ることはできる。現在の自分と、これからの自分を、今の自分が決めることは誰にでもできるはずだ。

2019-03-23 17:26:05 | 日記
ワナは至る所にある。決して油断してはならない。
罠とは、狭義の意味においては、「他者の不利益を意図的に引き起こすことにより、自己の利益を図る、秘匿された手段」のことだろう。
もちろん、これにも気を付けなければならない。だが、広義の意味における罠にはもっと警戒が必要になる。
それは、「誰かが明確に意図しているわけではないが、結果的に罠として機能するワナ」だ。
欲に負けると目がくらむ。見えていないのに欲しがる。するとたやすくワナにはまる。
いたるところにある。神様が仕掛けたとしか思えないが、人が仕掛けている。
ワナにはまらないために、五感は鋭く、思念は正しく、ありたい。

いやでも

2019-03-22 18:11:16 | 日記
いやでもやらねばならないことがある。
いやいやでもやればとりあえず合格だ。
いやだからと逃げてしまったら、まわりのひとがいやな思いをする。
そして本人も後でもっといやな思いをする。

やればならないことは、いやでもやる。

それを重ねて、心が壊れてしまう人もいる。
そうならないためには、ときどき「やらねばならないこと」の見直しが必要だ。選択と決断が必要になる。
それでも気の進まないことは残ってしまう。それがいやでもやらねばならないことだ。