2013年9月22日礼拝メッセージ
『他人の足を洗うことの意味』
【ヨハネ13:1~11】
はじめに
きょうはヨハネの福音書13章の、イエスが弟子たちの足を洗った有名な場面に注目します。この場面を読んで私たちは主であるイエスが腰をかがめて、弟子たちの汚れた足を洗ったことを知ります。そして私たちもまた、へりくだらなければならないことを学びます。このへりくだる姿勢を学ぶことは、非常に大切なことだと思います。しかし、これは目に見えることですから、見れば誰にでもわかる教えであるとも言えます。イエスがへりくだっている姿は誰にでも見えるわかりやすい姿ですから、ああ、私たちもイエスのようにへりくだらなければならないのだな、と教わることは、見れば誰でもわかることを教わっているに過ぎないとも言えます。そして、イエスを真似て形だけ人の足を洗うことなら、私たちにもできないことではないでしょう。難しいのは、イエスの心を持って足を洗うことではないでしょうか。
私たちは、毎週、礼拝を捧げています。形だけの礼拝を捧げることは、そんなに難しいことではありません。しかし、イエスは「神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません」(ヨハネ4:24)と言っておられます。霊とまことによって礼拝を捧げることは、簡単なことではありません。なかなか難しいことです。それと同じように、言わば霊とまことによって他人の足を洗うことは、なかなか難しいことであると思います。きょうのメッセージでは、このことを、ご一緒に考えてみたいと思います。
1.愛を残るところなく示されたイエス
ヨハネの福音書13章1節から見て行きましょう。
13:1 さて、過越の祭りの前に、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので、世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された。
この13章1節に、「イエスは、その愛を残るところなく示された」とあります。イエスが残るところなく示された愛というのは、一体どれほどの愛でしょうか。エペソ人への手紙でパウロは次のような祈りを捧げています。
「こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、
すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、
人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。」(エペソ3:17-19)
パウロは、キリストの愛は、人知を遥かに越えているとエペソ人への手紙に書いています。それは、一体どれほどの愛でしょうか。
私たちは、この礼拝のメッセージでヨハネの福音書について学び、ヨハネの福音書はイエスの地上生涯だけではなく、「旧約の時代」のイエス・キリストも、「使徒の時代」のイエス・キリストも描いていることを知っています。イエス・キリストは父・御子・聖霊の三位一体の神として、永遠の中を生きていることを知っています。ヨハネの福音書は、紀元1世紀の始めの30年あまりのイエスの地上生涯だけを描いたものではなくて、永遠の中を生きるイエスを描いたものであることを知っています。
そしてイエスは、どの時代においても、つまり「旧約の時代」においても、「使徒の時代」においても、そして現代においても、人々に愛を注いでいます。それらの全ての愛を、イエスはこの最後の晩餐の席で残るところなく示された、とヨハネ13章1節は書いています。それは、正に人知を遥かに越えた愛ですね。イエスが弟子たちの足を洗った場面のイエスは永遠の中を生きるイエスであることを、ぜひ覚えておきたいと思います。この場面のイエスは永遠の中を生きるイエスですから、イエスは私たちの足もまた、洗ってくださっています。これは、とても霊的なことです。私たちは、是非この場面から霊的なことを学び取りたいと思います。単にイエスが弟子たちの足を洗った形を見て、その形だけを真似たとしても、つまらないことです。形だけ真似ても、それは形だけの礼拝を捧げるようなもので、あまり意味はありません。私たちは、是非とも霊的なことを、ここから学び取りたいと思います。
2.目に見える汚れを落とすための洗足
とは言え、まずは外面的なことを押さえておきたく思います。その後に、霊的なことを見て行きたく思います。まず外面的なことを見て置きましょう。13章2節、
13:2 夕食の間のことであった。悪魔はすでにシモンの子イスカリオテ・ユダの心に、イエスを売ろうとする思いを入れていたが、
ここでヨハネの福音書はイスカリオテのユダについて記しています。ユダについては、11節でも言及されていますから、11節を見る時に、ユダのことについても、ご一緒に考えてみたいと思います。続いて3節から5節まで、
13:3 イエスは、父が万物を自分の手に渡されたことと、ご自分が神から出て神に行くことを知られ、
13:4 夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。
13:5 それから、たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗って、腰にまとっておられる手ぬぐいで、ふき始められた。
このようにして足を洗うことは、奴隷がする仕事なのだそうですね。イエス・キリストは神であるのに、へりくだって、このような奴隷がすることを率先して行いましたから、私たちは感動し、私たちもそうありたいと思います。私たちも、イエス・キリストのようにへりくだって他人の足を洗うことができる者でありたいと思います。ただし、形だけを真似するのでなく、イエス・キリストの心を持って行うことができる者でありたいと思います。6節と7節、
13:6 こうして、イエスはシモン・ペテロのところに来られた。ペテロはイエスに言った。「主よ。あなたが、私の足を洗ってくださるのですか。」
13:7 イエスは答えて言われた。「わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります。」
このイエスのことばも意味深ですね。「わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります。」この「あとでわかるようになる」の「あとで」とは、一体いつのことでしょうか。そして私たちは果たして、わかるようになっているのでしょうか。8節、
13:8 ペテロはイエスに言った。「決して私の足をお洗いにならないでください。」イエスは答えられた。「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません。」
このイエスのことばは、何を意味するでしょうか。次の9節と10節を見てから、段々に外面的なことから、霊的な領域へと入って行くことにしたいと思います。9節と10節、
13:9 シモン・ペテロは言った。「主よ。私の足だけでなく、手も頭も洗ってください。」
13:10 イエスは彼に言われた。「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身きよいのです。あなたがたはきよいのですが、みながそうではありません。」
私は先ほど、まず外面的なことから見て行きましょうと話しました。この、足を洗うという行為は、まさに、そういう外面的な目に見える汚れを洗い流す行為です。まずは、このことをしっかりと押さえておきたいと思います。8節でイエス・キリストは、「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません」と言いました。このこともまた、外面的なこととして、しっかり押さえておきたいと思います。
教会に通い始めた頃、私たちは霊的なことは、ほとんど知りませんでした。聖書の深い真理は知りませんでしたから、形だけ教会に来たに過ぎません。しかし、まずは、このように形だけでも、教会に来ることが大切ですね。そして、形だけでも、礼拝を捧げることが大切です。そうして、段々と、霊的な深い世界に入って行けば良いのです。きょうの話の始めのほうで私は、形だけ礼拝を捧げても意味がないというようなことを言いましたが、それは教会に何年も通っている人の話です。何年も教会に通っているのに、いつまでも形だけの礼拝を捧げているのでは、あまり意味がないという話です。しかし、今まで教会に一度も来たことがなかったような方は、まずは形から入ることが必要です。8節でイエスが言った、「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません」とは、そのようなことと言えるでしょう。
そして次に9節でペテロが「主よ。私の足だけでなく、手も頭も洗ってください」と言ったことに対してイエスは答えました。「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身きよいのです。」ここでイエスが言った「きよい」ということばは、ひらがなの「きよい」であることに注意したいと思います。この「きよい」は、英語で言えば「clean」であって、「きれい」に近い意味の「きよい」です。私たちは「きよい」ということばを見ると、ついつい聖書の「聖」、すなわちホーリネスの「holy」を思い浮かべがちだと思いますが、この、ひらがなの「きよい」は「clean」のほうで、ホーリネスの「holy」のほうではありません。ホーリネスの「holy」の「聖い」は、新改訳聖書もちゃんと聖書の「聖」という漢字を使って表しています。たとえば、ローマ人への手紙の12章1節です。ご一緒に見てみましょう(新約聖書p.308)。
ロマ 12:1 そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。
パウロは「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい」と書いています。ここは漢字の「聖い」になっています。この漢字の「聖い」は、俗的な世に汚れたものでなく、聖別されたものです。世俗とは一線を画した聖別された聖さを指します、と一応、言っておきますが、これはとても簡単に言い表せるものではありませんね。この「聖」とは何か、については、例えばジョン・オズワルトの「『聖き』を生きる人々」(伊藤・國重訳、日本聖化協力会出版委員会 2009)という本がとても参考になると思います。
3.ユダの裏切りはわかりやすい罪
ヨハネの福音書13章10節に戻りましょう。ここにある「きよい」はホーリネスの「holy」の「聖い」ではなく、「clean」の「きよい」ですから、比較的わかりやすいですね。
イエスが言った、「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身きよいのです」は、文字通り、そのまま捉えたら良いと思います。水浴したものは、全身がきれいです。ただ、外を歩けば、足は汚れますから、足は洗う必要があります。
さてしかし、次のイエスのことばがありますから、少し混乱しますね。「あなたがたはきよいのですが、みながそうではありません。」そして、11節、
13:11 イエスはご自分を裏切る者を知っておられた。それで、「みながきよいのではない」と言われたのである。
人を裏切ることは、心の問題ですから、体がきれいというのとは違うはずです。これを、どのように考えたら良いでしょうか。
私は次のように考えます。
ユダの裏切りというのは、私たちから見ても、わかりやすい裏切りですね。このようなわかりやすいユダの裏切りは、神であるイエスから見れば、目に見える体の汚れと大差はないということではないか、私はそのように考えます。本当に問題なのは、もっと目に見えにくい心の罪であって、ユダのようにわかりやすい罪は、人間の力でも、或いはきれいにすることができるかもしれません。しかし、もっと見えにくい罪は、イエス・キリストの血潮によってのみしか、きよめることができない、そのようにヨハネの福音書は言っているのではないでしょうか。
そう考えれば、イスカリオテのユダが悪者にされていることの居心地の悪さも解消されます。私は以前から、ヨハネの福音書のイスカリオテのユダが目立つ形で悪者にされていることに、何か違和感があって仕方がありませんでした。しかし、どうやらイスカリオテのユダの裏切りは、たいして大きな問題ではなく、小さなことなのだとヨハネの福音書は言っているようです。イエスは、これらのことについて、「今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります」と7節で言っているのでしょう。
4.聖霊が注がれるとわかるようになること
では、その「あとで」とは、一体いつのことでしょうか。何のあとでわかるようになるのでしょうか。それは、聖霊が注がれた後で、ということでしょうね。イエスは14章の26節で、
「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます」
と言いました。また、16章13節では、
「しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます」
と言いました。こうして、聖霊が注がれる前にはわからなかったことも、聖霊が注がれた後なら、私たちは、わかるようになります。そうして聖霊が注がれるなら、私たちは罪のこともわかるようになります。罪にもいろいろありますが、見えやすい罪よりも、見えにくい罪のほうが、より問題が大きいこともわかるようになります。
その見えにくい罪について、わかりやすい形で提示してくれているのが、ルカの福音書の「放蕩息子の帰郷」ですね。「放蕩息子の帰郷」のたとえ話には、兄息子と弟息子の二人の兄弟が登場します。家を出て遠い国に行って放蕩して、父にわけてもらった財産を使い果たしてしまった弟息子の罪は、見えやすい罪です。ルカの福音書のイエスが問題にしているのは、弟息子よりも、むしろ、兄息子のほうです。ルカのこのたとえ話は、イエスがパリサイ人たちへ語り掛けるところから始まります。そして、兄息子に対する父親のことばで終わります。つまり、イエスはパリサイ人たちに対して、あなたがたがこの兄息子なんですよ、と言っているわけです。
ルカの福音書15章の、このたとえ話を短く見てみることにしましょう(新約聖書p.146)。
1節から3節、
15:1 さて、取税人、罪人たちがみな、イエスの話を聞こうとして、みもとに近寄って来た。
15:2 すると、パリサイ人、律法学者たちは、つぶやいてこう言った。「この人は、罪人たちを受け入れて、食事までいっしょにする。」
15:3 そこでイエスは、彼らにこのようなたとえを話された。
「彼らに」というのは、パリサイ人や律法学者たちです。ここから始まる一連の話は、パリサイ人たちに対するものです。まず、いなくなった一匹の羊の話、そして、なくした一枚の銀貨の話をして、それから放蕩息子の話に入ります。細かい話は省略して、この話の最後のほうに行きます。25節から30節までをお読みします。
15:25 ところで、兄息子は畑にいたが、帰って来て家に近づくと、音楽や踊りの音が聞こえて来た。
15:26 それで、しもべのひとりを呼んで、これはいったい何事かと尋ねると、
15:27 しもべは言った。『弟さんがお帰りになったのです。無事な姿をお迎えしたというので、お父さんが、肥えた子牛をほふらせなさったのです。』
15:28 すると、兄はおこって、家に入ろうともしなかった。それで、父が出て来て、いろいろなだめてみた。
15:29 しかし兄は父にこう言った。『ご覧なさい。長年の間、私はお父さんに仕え、戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちと楽しめと言って、子山羊一匹下さったことがありません。
15:30 それなのに、遊女におぼれてあなたの身代を食いつぶして帰って来たこのあなたの息子のためには、肥えた子牛をほふらせなさったのですか。』
イエス・キリストはパリサイ人たちに、あなたがたが、この兄息子です、と言っているのですね。兄息子は、一見すると父親に従っているようですが、実は父親に背を向けていました。父親と一緒に暮らしてはいましたが、心は父親から離れていました。パリサイ人たちも、一見すると律法を守って神様と共に歩んでいるように見えましたが、実はパリサイ人たちの心は神様から離れていました。これは、弟息子の罪のわかりやすさと比べると、見えにくくてわかりにくい罪です。イエス・キリストは、こちらの見えにくい罪のほうの問題が大きいと指摘しています。
しかし、そんな罪深い兄息子に対しても、父親は、このように言いました。31節です。
15:31 父は彼に言った。『子よ。おまえはいつも私といっしょにいる。私のものは、全部おまえのものだ。
父親は、こんなに罪深い兄息子に対して、「私のものは、全部おまえのものだ」と言っています。何と大きな愛でしょうか。父親は、こんなにも兄息子を愛しているのですから、兄息子も父親の愛に応えて、悔い改めなければなりません。すなわち、弟が戻って来たことを、父親と一緒に喜べば良いのですね。32節で父親は兄息子に言いました。
15:32 だがおまえの弟は、死んでいたのが生き返って来たのだ。いなくなっていたのが見つかったのだから、楽しんで喜ぶのは当然ではないか。
兄息子は、自分が小さなプライドにしがみついて父親に背を向けていたことを悔い改めて、父親と一緒に楽しんで喜べば良いのです。弟息子のように、「お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。」と言って父に謝罪し、弟が戻って来たことを、共に喜べば良いのです。すると、兄息子にも聖霊が注がれて父親の大きな愛が、さらに一層良くわかるようになることでしょう。
神の大きな愛を知ることは、大きな喜びです。この喜びを知ると、何でもできるようになるのですね。神のためなら、何でもしようという気になります。イエス・キリストはもちろん父の大きな愛を知っていましたから、これを喜びとして、何でもできました。奴隷の仕事である足を洗うことなど、何でもないことです。父の大きな愛を知り、それを喜びとするなら、何でもできます。そして、イエス・キリストは十字架に掛かることさえもできました。
おわりに
私たちにも聖霊が注がれて、イエスの大きな愛を知り、それを喜びとするなら、プライドから解放されて何でもできるようになるのではないでしょうか。自分の小さなプライドにしがみつくのではなく、イエス・キリストの大きな愛に全てを委ね、そのことに喜びを感じるなら、イエス・キリストのように愛を持って人々に仕えることができるようになるのではないでしょうか。このような霊的な喜びを知っている私たちは、素晴らしい恵みを神様からいただいています。
私たちの周囲にいる人々の大半は、ペテロのように、霊的な喜びをまだ知らない方々です。私たちはそのような方々に愛を持って接し、イエス・キリストの愛をお伝えすることができる者でありたいと思います。ただ単にイエスの形だけを真似てへりくだるのでなく、イエス・キリストの愛を知る者として、イエスのように人々に仕え、イエスの愛をお伝えすることができる者でありたいと思います。
お祈りいたしましょう。
『他人の足を洗うことの意味』
【ヨハネ13:1~11】
はじめに
きょうはヨハネの福音書13章の、イエスが弟子たちの足を洗った有名な場面に注目します。この場面を読んで私たちは主であるイエスが腰をかがめて、弟子たちの汚れた足を洗ったことを知ります。そして私たちもまた、へりくだらなければならないことを学びます。このへりくだる姿勢を学ぶことは、非常に大切なことだと思います。しかし、これは目に見えることですから、見れば誰にでもわかる教えであるとも言えます。イエスがへりくだっている姿は誰にでも見えるわかりやすい姿ですから、ああ、私たちもイエスのようにへりくだらなければならないのだな、と教わることは、見れば誰でもわかることを教わっているに過ぎないとも言えます。そして、イエスを真似て形だけ人の足を洗うことなら、私たちにもできないことではないでしょう。難しいのは、イエスの心を持って足を洗うことではないでしょうか。
私たちは、毎週、礼拝を捧げています。形だけの礼拝を捧げることは、そんなに難しいことではありません。しかし、イエスは「神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません」(ヨハネ4:24)と言っておられます。霊とまことによって礼拝を捧げることは、簡単なことではありません。なかなか難しいことです。それと同じように、言わば霊とまことによって他人の足を洗うことは、なかなか難しいことであると思います。きょうのメッセージでは、このことを、ご一緒に考えてみたいと思います。
1.愛を残るところなく示されたイエス
ヨハネの福音書13章1節から見て行きましょう。
13:1 さて、過越の祭りの前に、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので、世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された。
この13章1節に、「イエスは、その愛を残るところなく示された」とあります。イエスが残るところなく示された愛というのは、一体どれほどの愛でしょうか。エペソ人への手紙でパウロは次のような祈りを捧げています。
「こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、
すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、
人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。」(エペソ3:17-19)
パウロは、キリストの愛は、人知を遥かに越えているとエペソ人への手紙に書いています。それは、一体どれほどの愛でしょうか。
私たちは、この礼拝のメッセージでヨハネの福音書について学び、ヨハネの福音書はイエスの地上生涯だけではなく、「旧約の時代」のイエス・キリストも、「使徒の時代」のイエス・キリストも描いていることを知っています。イエス・キリストは父・御子・聖霊の三位一体の神として、永遠の中を生きていることを知っています。ヨハネの福音書は、紀元1世紀の始めの30年あまりのイエスの地上生涯だけを描いたものではなくて、永遠の中を生きるイエスを描いたものであることを知っています。
そしてイエスは、どの時代においても、つまり「旧約の時代」においても、「使徒の時代」においても、そして現代においても、人々に愛を注いでいます。それらの全ての愛を、イエスはこの最後の晩餐の席で残るところなく示された、とヨハネ13章1節は書いています。それは、正に人知を遥かに越えた愛ですね。イエスが弟子たちの足を洗った場面のイエスは永遠の中を生きるイエスであることを、ぜひ覚えておきたいと思います。この場面のイエスは永遠の中を生きるイエスですから、イエスは私たちの足もまた、洗ってくださっています。これは、とても霊的なことです。私たちは、是非この場面から霊的なことを学び取りたいと思います。単にイエスが弟子たちの足を洗った形を見て、その形だけを真似たとしても、つまらないことです。形だけ真似ても、それは形だけの礼拝を捧げるようなもので、あまり意味はありません。私たちは、是非とも霊的なことを、ここから学び取りたいと思います。
2.目に見える汚れを落とすための洗足
とは言え、まずは外面的なことを押さえておきたく思います。その後に、霊的なことを見て行きたく思います。まず外面的なことを見て置きましょう。13章2節、
13:2 夕食の間のことであった。悪魔はすでにシモンの子イスカリオテ・ユダの心に、イエスを売ろうとする思いを入れていたが、
ここでヨハネの福音書はイスカリオテのユダについて記しています。ユダについては、11節でも言及されていますから、11節を見る時に、ユダのことについても、ご一緒に考えてみたいと思います。続いて3節から5節まで、
13:3 イエスは、父が万物を自分の手に渡されたことと、ご自分が神から出て神に行くことを知られ、
13:4 夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。
13:5 それから、たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗って、腰にまとっておられる手ぬぐいで、ふき始められた。
このようにして足を洗うことは、奴隷がする仕事なのだそうですね。イエス・キリストは神であるのに、へりくだって、このような奴隷がすることを率先して行いましたから、私たちは感動し、私たちもそうありたいと思います。私たちも、イエス・キリストのようにへりくだって他人の足を洗うことができる者でありたいと思います。ただし、形だけを真似するのでなく、イエス・キリストの心を持って行うことができる者でありたいと思います。6節と7節、
13:6 こうして、イエスはシモン・ペテロのところに来られた。ペテロはイエスに言った。「主よ。あなたが、私の足を洗ってくださるのですか。」
13:7 イエスは答えて言われた。「わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります。」
このイエスのことばも意味深ですね。「わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります。」この「あとでわかるようになる」の「あとで」とは、一体いつのことでしょうか。そして私たちは果たして、わかるようになっているのでしょうか。8節、
13:8 ペテロはイエスに言った。「決して私の足をお洗いにならないでください。」イエスは答えられた。「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません。」
このイエスのことばは、何を意味するでしょうか。次の9節と10節を見てから、段々に外面的なことから、霊的な領域へと入って行くことにしたいと思います。9節と10節、
13:9 シモン・ペテロは言った。「主よ。私の足だけでなく、手も頭も洗ってください。」
13:10 イエスは彼に言われた。「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身きよいのです。あなたがたはきよいのですが、みながそうではありません。」
私は先ほど、まず外面的なことから見て行きましょうと話しました。この、足を洗うという行為は、まさに、そういう外面的な目に見える汚れを洗い流す行為です。まずは、このことをしっかりと押さえておきたいと思います。8節でイエス・キリストは、「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません」と言いました。このこともまた、外面的なこととして、しっかり押さえておきたいと思います。
教会に通い始めた頃、私たちは霊的なことは、ほとんど知りませんでした。聖書の深い真理は知りませんでしたから、形だけ教会に来たに過ぎません。しかし、まずは、このように形だけでも、教会に来ることが大切ですね。そして、形だけでも、礼拝を捧げることが大切です。そうして、段々と、霊的な深い世界に入って行けば良いのです。きょうの話の始めのほうで私は、形だけ礼拝を捧げても意味がないというようなことを言いましたが、それは教会に何年も通っている人の話です。何年も教会に通っているのに、いつまでも形だけの礼拝を捧げているのでは、あまり意味がないという話です。しかし、今まで教会に一度も来たことがなかったような方は、まずは形から入ることが必要です。8節でイエスが言った、「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません」とは、そのようなことと言えるでしょう。
そして次に9節でペテロが「主よ。私の足だけでなく、手も頭も洗ってください」と言ったことに対してイエスは答えました。「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身きよいのです。」ここでイエスが言った「きよい」ということばは、ひらがなの「きよい」であることに注意したいと思います。この「きよい」は、英語で言えば「clean」であって、「きれい」に近い意味の「きよい」です。私たちは「きよい」ということばを見ると、ついつい聖書の「聖」、すなわちホーリネスの「holy」を思い浮かべがちだと思いますが、この、ひらがなの「きよい」は「clean」のほうで、ホーリネスの「holy」のほうではありません。ホーリネスの「holy」の「聖い」は、新改訳聖書もちゃんと聖書の「聖」という漢字を使って表しています。たとえば、ローマ人への手紙の12章1節です。ご一緒に見てみましょう(新約聖書p.308)。
ロマ 12:1 そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。
パウロは「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい」と書いています。ここは漢字の「聖い」になっています。この漢字の「聖い」は、俗的な世に汚れたものでなく、聖別されたものです。世俗とは一線を画した聖別された聖さを指します、と一応、言っておきますが、これはとても簡単に言い表せるものではありませんね。この「聖」とは何か、については、例えばジョン・オズワルトの「『聖き』を生きる人々」(伊藤・國重訳、日本聖化協力会出版委員会 2009)という本がとても参考になると思います。
3.ユダの裏切りはわかりやすい罪
ヨハネの福音書13章10節に戻りましょう。ここにある「きよい」はホーリネスの「holy」の「聖い」ではなく、「clean」の「きよい」ですから、比較的わかりやすいですね。
イエスが言った、「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身きよいのです」は、文字通り、そのまま捉えたら良いと思います。水浴したものは、全身がきれいです。ただ、外を歩けば、足は汚れますから、足は洗う必要があります。
さてしかし、次のイエスのことばがありますから、少し混乱しますね。「あなたがたはきよいのですが、みながそうではありません。」そして、11節、
13:11 イエスはご自分を裏切る者を知っておられた。それで、「みながきよいのではない」と言われたのである。
人を裏切ることは、心の問題ですから、体がきれいというのとは違うはずです。これを、どのように考えたら良いでしょうか。
私は次のように考えます。
ユダの裏切りというのは、私たちから見ても、わかりやすい裏切りですね。このようなわかりやすいユダの裏切りは、神であるイエスから見れば、目に見える体の汚れと大差はないということではないか、私はそのように考えます。本当に問題なのは、もっと目に見えにくい心の罪であって、ユダのようにわかりやすい罪は、人間の力でも、或いはきれいにすることができるかもしれません。しかし、もっと見えにくい罪は、イエス・キリストの血潮によってのみしか、きよめることができない、そのようにヨハネの福音書は言っているのではないでしょうか。
そう考えれば、イスカリオテのユダが悪者にされていることの居心地の悪さも解消されます。私は以前から、ヨハネの福音書のイスカリオテのユダが目立つ形で悪者にされていることに、何か違和感があって仕方がありませんでした。しかし、どうやらイスカリオテのユダの裏切りは、たいして大きな問題ではなく、小さなことなのだとヨハネの福音書は言っているようです。イエスは、これらのことについて、「今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります」と7節で言っているのでしょう。
4.聖霊が注がれるとわかるようになること
では、その「あとで」とは、一体いつのことでしょうか。何のあとでわかるようになるのでしょうか。それは、聖霊が注がれた後で、ということでしょうね。イエスは14章の26節で、
「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます」
と言いました。また、16章13節では、
「しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます」
と言いました。こうして、聖霊が注がれる前にはわからなかったことも、聖霊が注がれた後なら、私たちは、わかるようになります。そうして聖霊が注がれるなら、私たちは罪のこともわかるようになります。罪にもいろいろありますが、見えやすい罪よりも、見えにくい罪のほうが、より問題が大きいこともわかるようになります。
その見えにくい罪について、わかりやすい形で提示してくれているのが、ルカの福音書の「放蕩息子の帰郷」ですね。「放蕩息子の帰郷」のたとえ話には、兄息子と弟息子の二人の兄弟が登場します。家を出て遠い国に行って放蕩して、父にわけてもらった財産を使い果たしてしまった弟息子の罪は、見えやすい罪です。ルカの福音書のイエスが問題にしているのは、弟息子よりも、むしろ、兄息子のほうです。ルカのこのたとえ話は、イエスがパリサイ人たちへ語り掛けるところから始まります。そして、兄息子に対する父親のことばで終わります。つまり、イエスはパリサイ人たちに対して、あなたがたがこの兄息子なんですよ、と言っているわけです。
ルカの福音書15章の、このたとえ話を短く見てみることにしましょう(新約聖書p.146)。
1節から3節、
15:1 さて、取税人、罪人たちがみな、イエスの話を聞こうとして、みもとに近寄って来た。
15:2 すると、パリサイ人、律法学者たちは、つぶやいてこう言った。「この人は、罪人たちを受け入れて、食事までいっしょにする。」
15:3 そこでイエスは、彼らにこのようなたとえを話された。
「彼らに」というのは、パリサイ人や律法学者たちです。ここから始まる一連の話は、パリサイ人たちに対するものです。まず、いなくなった一匹の羊の話、そして、なくした一枚の銀貨の話をして、それから放蕩息子の話に入ります。細かい話は省略して、この話の最後のほうに行きます。25節から30節までをお読みします。
15:25 ところで、兄息子は畑にいたが、帰って来て家に近づくと、音楽や踊りの音が聞こえて来た。
15:26 それで、しもべのひとりを呼んで、これはいったい何事かと尋ねると、
15:27 しもべは言った。『弟さんがお帰りになったのです。無事な姿をお迎えしたというので、お父さんが、肥えた子牛をほふらせなさったのです。』
15:28 すると、兄はおこって、家に入ろうともしなかった。それで、父が出て来て、いろいろなだめてみた。
15:29 しかし兄は父にこう言った。『ご覧なさい。長年の間、私はお父さんに仕え、戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちと楽しめと言って、子山羊一匹下さったことがありません。
15:30 それなのに、遊女におぼれてあなたの身代を食いつぶして帰って来たこのあなたの息子のためには、肥えた子牛をほふらせなさったのですか。』
イエス・キリストはパリサイ人たちに、あなたがたが、この兄息子です、と言っているのですね。兄息子は、一見すると父親に従っているようですが、実は父親に背を向けていました。父親と一緒に暮らしてはいましたが、心は父親から離れていました。パリサイ人たちも、一見すると律法を守って神様と共に歩んでいるように見えましたが、実はパリサイ人たちの心は神様から離れていました。これは、弟息子の罪のわかりやすさと比べると、見えにくくてわかりにくい罪です。イエス・キリストは、こちらの見えにくい罪のほうの問題が大きいと指摘しています。
しかし、そんな罪深い兄息子に対しても、父親は、このように言いました。31節です。
15:31 父は彼に言った。『子よ。おまえはいつも私といっしょにいる。私のものは、全部おまえのものだ。
父親は、こんなに罪深い兄息子に対して、「私のものは、全部おまえのものだ」と言っています。何と大きな愛でしょうか。父親は、こんなにも兄息子を愛しているのですから、兄息子も父親の愛に応えて、悔い改めなければなりません。すなわち、弟が戻って来たことを、父親と一緒に喜べば良いのですね。32節で父親は兄息子に言いました。
15:32 だがおまえの弟は、死んでいたのが生き返って来たのだ。いなくなっていたのが見つかったのだから、楽しんで喜ぶのは当然ではないか。
兄息子は、自分が小さなプライドにしがみついて父親に背を向けていたことを悔い改めて、父親と一緒に楽しんで喜べば良いのです。弟息子のように、「お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。」と言って父に謝罪し、弟が戻って来たことを、共に喜べば良いのです。すると、兄息子にも聖霊が注がれて父親の大きな愛が、さらに一層良くわかるようになることでしょう。
神の大きな愛を知ることは、大きな喜びです。この喜びを知ると、何でもできるようになるのですね。神のためなら、何でもしようという気になります。イエス・キリストはもちろん父の大きな愛を知っていましたから、これを喜びとして、何でもできました。奴隷の仕事である足を洗うことなど、何でもないことです。父の大きな愛を知り、それを喜びとするなら、何でもできます。そして、イエス・キリストは十字架に掛かることさえもできました。
おわりに
私たちにも聖霊が注がれて、イエスの大きな愛を知り、それを喜びとするなら、プライドから解放されて何でもできるようになるのではないでしょうか。自分の小さなプライドにしがみつくのではなく、イエス・キリストの大きな愛に全てを委ね、そのことに喜びを感じるなら、イエス・キリストのように愛を持って人々に仕えることができるようになるのではないでしょうか。このような霊的な喜びを知っている私たちは、素晴らしい恵みを神様からいただいています。
私たちの周囲にいる人々の大半は、ペテロのように、霊的な喜びをまだ知らない方々です。私たちはそのような方々に愛を持って接し、イエス・キリストの愛をお伝えすることができる者でありたいと思います。ただ単にイエスの形だけを真似てへりくだるのでなく、イエス・キリストの愛を知る者として、イエスのように人々に仕え、イエスの愛をお伝えすることができる者でありたいと思います。
お祈りいたしましょう。