2015年3月15日礼拝メッセージ
『「目からウロコが落ちる」の本当の意味(上)』
【ヨハネ8:12~20】
はじめに
先週まで何週間かに亘ってネヘミヤ記を学びました。これまで話して来た通り、これは会堂の再建のための学びという面もありますが、それ以上に平和を再建するための学びであると私は考えてメッセージの準備をして語って来ました。ただし、これまでのネヘミヤ記のメッセージでは、どのようにして平和のために働きたいと私が考えているかの具体的なことについては、何も語りませんでした。
そこで、今週と来週の2回は、具体的に何をどのように平和の働きへとつなげて行きたいのか、いま私が準備中のことについてお話ししたいと思います。
「ヨハネの福音書の永遠観」で平和の働きに貢献
それは早く言えば、「ヨハネの福音書の永遠観」を多くの人に知っていただくことを通して平和の働きに貢献したい、ということです。この「ヨハネの福音書の永遠観」については、これまでもその全体像を皆さんにもお話しして来ましたし、その他の方々にもお伝えしようと努力して来ました。そうする中でわかって来たことは、「ヨハネの福音書の永遠観」の全体像を知っていただくためには、ヨハネの福音書の全体を知っている必要があることはもちろん、旧約聖書の全体像もある程度は知っている必要がありますし、新約聖書の使徒の働きの全体像もある程度知っている必要がありますから、聖書に馴染みのない方々にわかっていただくことは当たり前ですが全く不可能であり、また信徒の皆さんにもかなり荷が重いことであるということです。一方、牧師の先生方は聖書の知識という面では大丈夫なのですが、先生方は既に自分なりの聖書観がしっかりと出来上がっていますから、やはり「ヨハネの福音書の永遠観」を分かち合うことは、大変に難しいことなのだということがわかりました。
それで少し作戦を変えて、いきなり永遠観の説明をするのではなく、「愛弟子を1世紀から救出しよう」という作戦を考えてみました。そして、このテーマで本を書こうと思ってA4紙に30ページぐらい書いた段階で、ある先生に読んでいただくことができました。そして、その後で私は東京へ行って先生とじっくりと話をすることができたのですが、東京から帰って来て、私はこの「愛弟子作戦」も引っ込めたほうが良さそうだという結論に達して、別の作戦を考えることにしました。
「愛弟子作戦」のどこが悪かったかというと、愛弟子はヨハネの福音書の13章から登場する人物です。私としては、先ずその13章以降を入口にして読者にヨハネの福音書に入ってもらい、それから1章から12章までの三つの時代が重なり合っている区間に読者を誘導して永遠観について説明したいという意図があったのですが、いま考えてみれば当たり前のことですが、先生から私への質問やコメントは13章以降のことに集中していて、肝心の1章から12章までの区間の永遠観についての議論ができませんでしたから、どうも「愛弟子作戦」もあまり上手くないようです。
それで今考えている作戦は、あまり欲張らないで、1章から12章までの区間の中でも、さらに狭い区間を切り取って、その区間についてじっくりと説明して平和の働きにつなげようという作戦です。今週と来週、その説明をさせていただきますが、仮に作戦の名前を付けるとしたら「目からウロコが落ちる作戦」ということになるでしょうか。ヨハネの福音書の8章から9章に掛けては「目からウロコが落ちる」とはどういうことか、その本当の意味が隠されているからです。
ユダヤ人迫害の火種となったヨハネの福音書
きょう聖書朗読で呼んでいただいた箇所の始めのヨハネ8章12節でイエスさまは「わたしは世の光です」と言っておられますが、イエスさまは、9章5節でも「わたしは世の光です」と言っておられます。この8章12節と9章5節の二つの「わたしは世の光です」はサンドイッチのパンの役割をしていて、中身の具を挟み込んでいます。この二つの「光」が挟んでいる中身は「闇」です。この「闇」は悪魔に支配されています。8章44節を見ていただきますと、
8:44 あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと願っているのです。悪魔は初めから人殺しであり、真理に立ってはいません。彼のうちには真理がないからです。彼が偽りを言うときは、自分にふさわしい話し方をしているのです。なぜなら彼は偽り者であり、また偽りの父であるからです。
というように、イエスさまがユダヤ人たちのことを「悪魔」であると言っています。この8章から9章に掛けての背後に何が隠されているのかについては、既に礼拝説教で一度ご説明したことがありますが、その時には単にこの区間の構造について説明しただけでした。今回は、「平和のための働き」ということを意識しながら、もう一度、説明させていただくことにします。
ヨハネ8章44節は、いま見たようにイエス・キリストがユダヤ人たちを激しく批判していますから、ユダヤ人とキリスト教徒との間の激しい対立の火種になってしまいました。ユダヤ人の著者によって1983年に書かれた『ユダヤ人はなぜ迫害されたか』(デニス・ブレガー、ジョーゼフ・テルシュキン著、松宮克昌訳、ミルトス、原著1983、訳書 1999)という本には、反ユダヤ主義についての様々な事例が記されており、キリスト教徒による反ユダヤ主義にも多くのページが割かれています。その中で著者はヨハネの福音書について8章44節を念頭に置いて次のように書いています。
「ユダヤ人は悪魔であるとする考えは、西暦100年頃に書かれたヨハネ福音書に端を発している。特別に反ユダヤ色の強いヨハネ書はユダヤ人は悪魔であるとする理論を定型化して、ユダヤ人がイエスを拒絶し殺害したと説明した。」(p.153)
ここで著者はヨハネの福音書のことを「特別に反ユダヤ色の強いヨハネ書」と断定しています。そして、「ユダヤ人は悪魔である」とする理論を定型化したと説明しています。さらに著者は中世の状況について次のように書いています。
「中世には至るところでキリスト教徒たちは、ヨハネ福音書にあるユダヤ人は悪魔の子であるという告発を繰り返した。数百万のキリスト教徒たちは、ユダヤ人は実際には人間ではなく、悪魔の落とし子、サタンの仲間、反キリストの化身と信じはじめた。この、ユダヤ人を悪魔であるとして間化したことは、ユダヤ人に対するあらゆる非難をもっともらしいものにさせた。」(p.160)
こうしてキリスト教徒はユダヤ人を迫害して、多くのユダヤ人が命を落としました。20世紀のナチス・ドイツによるユダヤ人の大量虐殺には、また別の要因が絡んでいますが、古くからのユダヤ人迫害と決して無関係ではありませんから、延長線上にあると言っても良いと思います。
ヨハネの福音書がこのような解釈をされて読まれて来たことは悲劇としか言えません。ユダヤ人とキリスト教徒の双方が共にヨハネの福音書が発信するメッセージを誤って読み取っています。この誤読が憎悪を生み、数多くの悲劇が起きました。
「目からウロコが落ちる」とはどういうことか
このような悲劇が起きたのは、ほとんどの読者が、ヨハネの福音書の表面の部分、つまり目に見える部分しか見ていないからです。目に見える表面だけを読めば、イエスさまは確かにユダヤ人たちのことを「悪魔」と呼んでいます。しかし私たち読者は目に見える表面部分だけでなく、目に見えない深い部分が見えるようにならなければなりません。この目に見えない深い部分が見えるようになることが、「目からウロコが落ちる」ということです。
この「目からウロコが落ちる」の語源がどこから来るかは、よく知られているように使徒の働き9章で、ダマスコ途上で目が見えなくなったパウロの目が見えるようになった時の描写から来ます。そして、その出来事はヨハネの福音書においては、9章の盲人の目が開かれたことと重ねられています。この9章の説明は、来週の後編で詳しくすることにしたいと思いますが、少しだけ話しておくと、ダマスコ途上のパウロは目からウロコが落ちたことで霊的な目が開かれました。ですから「目からウロコが落ちる」とは霊的な目が開かれるということです。では、霊的な目が開かれるとはどういうことか、それはヨハネの福音書の深い部分が見えるようになることである、とも言えるでしょう。
ですから、新約聖書の使徒の働きが語源である「目からウロコが落ちる」の本当の意味は、霊的に深いことが本当にわかるようになることであると言えます。しかし、日本語として一般的に「目からウロコが落ちる」という言葉が使われる場合には、そんなに深い意味では使われていないと思います。私としては、そこを狙い目にして、「目からウロコが落ちる」の本当の意味を説明することで、平和の働きにつなげて行けないだろうかと考えています。
ここで一旦、聖書を離れて、日本語として一般的に、この「目からウロコが落ちる」という言葉がどのように使われているかを見てみたいと思います。
まず、辞書を調べてみると、「デジタル大辞泉」には次のように書いてありました。
「目から鱗(うろこ)が落ちる:《新約聖書「使徒行伝」第9章から》何かがきっかけになって、急に物事の実態などがよく見え、理解できるようになること」
これは、わかりやすい説明ですね。もう一度説明部分をお読みします。
「何かがきっかけになって、急に物事の実態などがよく見え、理解できるようになること」
さてしかし、インターネット上の書店のamazonで「目からウロコ」と入力して検索してみたところ、「目からウロコ」は(「が落ちる」は省略された形で)本の名前にたくさん使われていることがわかりました。それらの書名を挙げてみます。
『目からウロコの○○○』、『目からウロコの×××』、『目からウロコの△△△』、『目からウロコの□□□』などなど、です。
これらの本の題名を見ると、今ひとつ軽い使われ方がされているなあという印象を私は受けました。これらの本の題名は、確かに辞書的な意味の、「何かがきっかけになって、急に物事の実態などがよく見え、理解できるようになること」を満たしているのかもしれません。しかし、「使徒の働き」9章のパウロが語源になっていることを考えるなら、パウロの人生がそれ以降、根本的に変わったように、その人の人生を根本的に変える力のあるものが本来の意味での「目からウロコが落ちる」ではないかと私は思いますし、さらに言えば、本人の人生が変わるだけでなく、パウロがイエス・キリストを宣べ伝えたことで、他の人々の人生も変わり、そうして世界も変わって行ったように、「目からウロコが落ちる」は世界が変わるぐらいの力のある時に使うべきものではないかと私は言いたい気がします。
そして私は、「ヨハネの福音書の永遠観」には、そのように世界を変える力があると確信しています。4年前の2011年の6月にヨハネの福音書の隠された構造に気付いた時、私の目からはウロコが落ち、それ以来、私はこのヨハネの福音書を宣べ伝えることを通して平和の働きをするのだという私の人生の方向が定まりました。それまでも平和の働きをしたいと願っていましたが、どの方向に進んだら良いかわからないでいました。ですから、ヨハネの福音書の構造を知って私の人生の方向が定まったことは、私の人生を変えたと言って良いのだろうと思います。ですから私は、このヨハネの福音書が内部に秘めた深い世界を是非多くの方々と分かち合い、平和のために貢献したいと願っています。
律法のことばであり、聖霊であるイエス
さてヨハネの福音書の8章と9章の説明です。来週もう一回見ますから、もしきょうあまり理解できなかったとしても、あまり気になさらないで下さい。
最初のほうで話したように、この8章と9章では、8章12節と9章5節の2つの「世の光」が8章44節の「悪魔」を挟み込む構造になっています。「悪魔」は「闇」を支配していますから、二つの「世の光」に挟まれた「悪魔」は「光と闇」、「明と暗」のコントラストを鮮やかに浮かび上がらせています。「光」は「闇」の存在によって一層はっきりと存在感を示すことができます。ですから、この箇所からヨハネの福音書の読者が読み取るべきことは「『世の光』とは何か」ということだと私は考えます。
「『世の光』とは何か」、それはつまり、「イエスとは誰か」ということになります。なぜならイエスさまは「わたしは、世の光です」とおっしゃっているからです。
では、イエスとは誰でしょうか。「イエスとは誰か」を考えるとすれば、必然的にヨハネ1章1節と1章14節のみことばも絡んで来ます。1章1節は、ご存知の通り、
「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」(1:1)
であり、1章14節には、
「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。」(1:14)
と書いてありますね。
この1節と14節の「ことば」とはイエス・キリストのことです。すると、「世の光」とは実は「ことば」のことであることになります。イエスは世の光であり、ことばでもあるということになります。
そうして「イエスは世の光であり、ことばでもある」ということになれば、詩篇119篇の有名なみことば、すなわち105節の「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です」との関係も見えて来ます。
この詩篇119篇は、律法のことばへの愛を告白している詩篇ですから、ことばであるイエス・キリストは律法のことばであるということにもなります。さらに言えば、使徒の働きでパウロの目を開いたのは聖霊ですから、世の光であるイエスは聖霊でもあります。つまり、世の光であるイエスは律法のことばであり聖霊でもあります。これはエレミヤ書の成就であるとも言えるでしょう。エレミヤ31章33節に次のように書いてある通りです。
31:33 彼らの時代の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうだ。──【主】の御告げ──わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
マナセ・アモン王の時代に献金箱の中にいたイエス
さて今、世の光であるイエス・キリストが律法のことばであることを、ヨハネ1章1節の「初めに、ことばがあった」と、詩篇119篇105節の「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です」との関係から導き出しました。このことに加えてさらに、ヨハネの福音書の背後にある旧約聖書からも導き出すことができます。
(ブログを読んで下さっている方への注:ヨハネの福音書は下図のような構造をしており、1~12章の区間では「福音書」の背後に「旧約聖書」と「使徒の働き(使徒行伝)」が重ねられている重層構造になっています。)

それは、世の光に挟まれている闇の時代が、悪王であるマナセ王とアモン王の時代に重ねられているからです。この悪王のマナセ・アモンの前のヒゼキヤ王の時代では律法が重んじられ、マナセ・アモン王の後のヨシヤ王の時代にも、やはり律法が重んじられました。しかし、マナセ・アモン王の闇の時代には律法を重んじませんでしたから、律法の書の存在がその間に忘れられてしまいました。そして、ヨシヤ王の時代に、宮の献金箱から律法の書が発見されました。歴代誌第二の34章をご一緒に見ましょう(旧約聖書p.787)。1節に、
34:1 ヨシヤは八歳で王となり、エルサレムで三十一年間、王であった。
とありますから、ここにはヨシヤ王の時代のことが書いてあります。そして、14節に、
34:14 彼らが、【主】の宮に携え入れられた金を取り出していたとき、祭司ヒルキヤは、モーセを通して示された【主】の律法の書を発見した。
とあります。彼らは、献金箱を開けて金を取り出していた時に、律法の書を発見しました。これは、ヒゼキヤ王の時代に大切にされていた律法の書ですね。それが悪王のマナセとアモン王の時代には大切にされていませんでしたから、その存在が忘れられていたのですが、何と献金箱の中にあったのでした。そして面白いことに、ヨハネの福音書には、ちゃんとこのことが記されています。
ヨハネの福音書8章の20節と21節を、お読みします。
8:20 イエスは宮で教えられたとき、献金箱のある所でこのことを話された。しかし、だれもイエスを捕らえなかった。イエスの時がまだ来ていなかったからである。
8:21 イエスはまた彼らに言われた。「わたしは去って行きます。あなたがたはわたしを捜すけれども、自分の罪の中で死にます。わたしが行く所に、あなたがたは来ることができません。」
20節でイエスさまは献金箱のある所で話をしていて、21節で、「わたしは去って行きます」とおっしゃいました。つまり律法の書であるイエスは献金箱の中に去ってしまって捜しても見つからなくなるというわけですね。ヨハネの福音書というのは、ユーモアに富んでいる書でもあると言えるでしょう。このような面白い表現がヨハネの福音書のあちこちにあります。このヨハネの福音書の独特のユーモアがわかるようになると、ヨハネの福音書をより一層深く味わえると思います。
火種にはならないヨハネ8:44
このように、律法の書の存在がわからなくなったマナセ王・アモン王の時代は悪魔の時代であり、この悪王マナセの悪行のゆえにユダの国が滅ぼされてユダの民がバビロンに捕囚として引かれて行きました。列王記第二には次のように書かれています(Ⅱ列王24:3,4)
24:3 ユダを主の前から除くということは、実に【主】の命令によることであって、それは、マナセが犯したすべての罪のためであり、
24:4 また、マナセが流した罪のない者の血のためであった。マナセはエルサレムを罪のない者の血で満たした。そのため【主】はその罪を赦そうとはされなかった。
70年後にバビロン捕囚を解かれてエルサレムに帰還したユダの民が律法を重んじるようになったのは、この悪魔の時代の反省の上に立っているわけであり、それがイエスの時代のパリサイ人たちにも受け継がれて行っているわけですから、8章44節でイエスさまが「あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た者である」と言ったことも、背後に「旧約の時代」があることがわかるなら、別に怒ることはないんですね。
或いは、この「悪魔の時代」とは、「使徒の時代」においてはパウロの目からウロコが落ちる少し前の時代のことですから、パウロが率先してイエスを信じる者たちを迫害していた頃のことです。ですからヨハネ8章44節の「悪魔」とはキリスト者を迫害していた時のパウロのことであると考えるなら、キリスト教徒がこの44節を理由にユダヤ人を悪魔とみなして迫害することは、まったくおかしな話だということになります。
従って、このヨハネ8章44節によってユダヤ人が悪魔とみなされ、多くのユダヤ人がキリスト教徒によって殺されたことは本当に悲劇としか言いようがありません。
ですから私は、是非多くの方々にヨハネの福音書の表面だけでなく、もっと深い部分を知って目からウロコを落としていただきたいと思います。そうして、平和な世界へと変わって行って欲しいと願っています。そして、この働きをより効果的なものにするため、平和憲法の考え方と絡めることを今、考えています。このことについては来週お話しする予定でいます。
おわりに
昨日の沼津コーストFMの「潮風の中で」はカトリック教会の司祭がメッセージを担当されましたが、その中で日本のカトリック中央協議会の戦後70年司教団メッセージが紹介されました。メッセージのタイトルは「平和を実現する人は幸い~今こそ武力によらない平和を」で、メッセージの中では「戦争放棄への決意」が明文化されています。これは私が神様から与えられている使命とピタリと重なりますので、大変に励まされました。今週は沼津伝道者会がまた持たれますので、このメッセージに私が大変に感銘を受けたことを先生方と分かち合うことが出来たらとも思っています。
このように、いま平和の働きのための機運が高まっていると感じていますから、皆さんと共に働くことができたら幸いに思います。
お祈りいたしましょう。
『「目からウロコが落ちる」の本当の意味(上)』
【ヨハネ8:12~20】
はじめに
先週まで何週間かに亘ってネヘミヤ記を学びました。これまで話して来た通り、これは会堂の再建のための学びという面もありますが、それ以上に平和を再建するための学びであると私は考えてメッセージの準備をして語って来ました。ただし、これまでのネヘミヤ記のメッセージでは、どのようにして平和のために働きたいと私が考えているかの具体的なことについては、何も語りませんでした。
そこで、今週と来週の2回は、具体的に何をどのように平和の働きへとつなげて行きたいのか、いま私が準備中のことについてお話ししたいと思います。
「ヨハネの福音書の永遠観」で平和の働きに貢献
それは早く言えば、「ヨハネの福音書の永遠観」を多くの人に知っていただくことを通して平和の働きに貢献したい、ということです。この「ヨハネの福音書の永遠観」については、これまでもその全体像を皆さんにもお話しして来ましたし、その他の方々にもお伝えしようと努力して来ました。そうする中でわかって来たことは、「ヨハネの福音書の永遠観」の全体像を知っていただくためには、ヨハネの福音書の全体を知っている必要があることはもちろん、旧約聖書の全体像もある程度は知っている必要がありますし、新約聖書の使徒の働きの全体像もある程度知っている必要がありますから、聖書に馴染みのない方々にわかっていただくことは当たり前ですが全く不可能であり、また信徒の皆さんにもかなり荷が重いことであるということです。一方、牧師の先生方は聖書の知識という面では大丈夫なのですが、先生方は既に自分なりの聖書観がしっかりと出来上がっていますから、やはり「ヨハネの福音書の永遠観」を分かち合うことは、大変に難しいことなのだということがわかりました。
それで少し作戦を変えて、いきなり永遠観の説明をするのではなく、「愛弟子を1世紀から救出しよう」という作戦を考えてみました。そして、このテーマで本を書こうと思ってA4紙に30ページぐらい書いた段階で、ある先生に読んでいただくことができました。そして、その後で私は東京へ行って先生とじっくりと話をすることができたのですが、東京から帰って来て、私はこの「愛弟子作戦」も引っ込めたほうが良さそうだという結論に達して、別の作戦を考えることにしました。
「愛弟子作戦」のどこが悪かったかというと、愛弟子はヨハネの福音書の13章から登場する人物です。私としては、先ずその13章以降を入口にして読者にヨハネの福音書に入ってもらい、それから1章から12章までの三つの時代が重なり合っている区間に読者を誘導して永遠観について説明したいという意図があったのですが、いま考えてみれば当たり前のことですが、先生から私への質問やコメントは13章以降のことに集中していて、肝心の1章から12章までの区間の永遠観についての議論ができませんでしたから、どうも「愛弟子作戦」もあまり上手くないようです。
それで今考えている作戦は、あまり欲張らないで、1章から12章までの区間の中でも、さらに狭い区間を切り取って、その区間についてじっくりと説明して平和の働きにつなげようという作戦です。今週と来週、その説明をさせていただきますが、仮に作戦の名前を付けるとしたら「目からウロコが落ちる作戦」ということになるでしょうか。ヨハネの福音書の8章から9章に掛けては「目からウロコが落ちる」とはどういうことか、その本当の意味が隠されているからです。
ユダヤ人迫害の火種となったヨハネの福音書
きょう聖書朗読で呼んでいただいた箇所の始めのヨハネ8章12節でイエスさまは「わたしは世の光です」と言っておられますが、イエスさまは、9章5節でも「わたしは世の光です」と言っておられます。この8章12節と9章5節の二つの「わたしは世の光です」はサンドイッチのパンの役割をしていて、中身の具を挟み込んでいます。この二つの「光」が挟んでいる中身は「闇」です。この「闇」は悪魔に支配されています。8章44節を見ていただきますと、
8:44 あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと願っているのです。悪魔は初めから人殺しであり、真理に立ってはいません。彼のうちには真理がないからです。彼が偽りを言うときは、自分にふさわしい話し方をしているのです。なぜなら彼は偽り者であり、また偽りの父であるからです。
というように、イエスさまがユダヤ人たちのことを「悪魔」であると言っています。この8章から9章に掛けての背後に何が隠されているのかについては、既に礼拝説教で一度ご説明したことがありますが、その時には単にこの区間の構造について説明しただけでした。今回は、「平和のための働き」ということを意識しながら、もう一度、説明させていただくことにします。
ヨハネ8章44節は、いま見たようにイエス・キリストがユダヤ人たちを激しく批判していますから、ユダヤ人とキリスト教徒との間の激しい対立の火種になってしまいました。ユダヤ人の著者によって1983年に書かれた『ユダヤ人はなぜ迫害されたか』(デニス・ブレガー、ジョーゼフ・テルシュキン著、松宮克昌訳、ミルトス、原著1983、訳書 1999)という本には、反ユダヤ主義についての様々な事例が記されており、キリスト教徒による反ユダヤ主義にも多くのページが割かれています。その中で著者はヨハネの福音書について8章44節を念頭に置いて次のように書いています。
「ユダヤ人は悪魔であるとする考えは、西暦100年頃に書かれたヨハネ福音書に端を発している。特別に反ユダヤ色の強いヨハネ書はユダヤ人は悪魔であるとする理論を定型化して、ユダヤ人がイエスを拒絶し殺害したと説明した。」(p.153)
ここで著者はヨハネの福音書のことを「特別に反ユダヤ色の強いヨハネ書」と断定しています。そして、「ユダヤ人は悪魔である」とする理論を定型化したと説明しています。さらに著者は中世の状況について次のように書いています。
「中世には至るところでキリスト教徒たちは、ヨハネ福音書にあるユダヤ人は悪魔の子であるという告発を繰り返した。数百万のキリスト教徒たちは、ユダヤ人は実際には人間ではなく、悪魔の落とし子、サタンの仲間、反キリストの化身と信じはじめた。この、ユダヤ人を悪魔であるとして間化したことは、ユダヤ人に対するあらゆる非難をもっともらしいものにさせた。」(p.160)
こうしてキリスト教徒はユダヤ人を迫害して、多くのユダヤ人が命を落としました。20世紀のナチス・ドイツによるユダヤ人の大量虐殺には、また別の要因が絡んでいますが、古くからのユダヤ人迫害と決して無関係ではありませんから、延長線上にあると言っても良いと思います。
ヨハネの福音書がこのような解釈をされて読まれて来たことは悲劇としか言えません。ユダヤ人とキリスト教徒の双方が共にヨハネの福音書が発信するメッセージを誤って読み取っています。この誤読が憎悪を生み、数多くの悲劇が起きました。
「目からウロコが落ちる」とはどういうことか
このような悲劇が起きたのは、ほとんどの読者が、ヨハネの福音書の表面の部分、つまり目に見える部分しか見ていないからです。目に見える表面だけを読めば、イエスさまは確かにユダヤ人たちのことを「悪魔」と呼んでいます。しかし私たち読者は目に見える表面部分だけでなく、目に見えない深い部分が見えるようにならなければなりません。この目に見えない深い部分が見えるようになることが、「目からウロコが落ちる」ということです。
この「目からウロコが落ちる」の語源がどこから来るかは、よく知られているように使徒の働き9章で、ダマスコ途上で目が見えなくなったパウロの目が見えるようになった時の描写から来ます。そして、その出来事はヨハネの福音書においては、9章の盲人の目が開かれたことと重ねられています。この9章の説明は、来週の後編で詳しくすることにしたいと思いますが、少しだけ話しておくと、ダマスコ途上のパウロは目からウロコが落ちたことで霊的な目が開かれました。ですから「目からウロコが落ちる」とは霊的な目が開かれるということです。では、霊的な目が開かれるとはどういうことか、それはヨハネの福音書の深い部分が見えるようになることである、とも言えるでしょう。
ですから、新約聖書の使徒の働きが語源である「目からウロコが落ちる」の本当の意味は、霊的に深いことが本当にわかるようになることであると言えます。しかし、日本語として一般的に「目からウロコが落ちる」という言葉が使われる場合には、そんなに深い意味では使われていないと思います。私としては、そこを狙い目にして、「目からウロコが落ちる」の本当の意味を説明することで、平和の働きにつなげて行けないだろうかと考えています。
ここで一旦、聖書を離れて、日本語として一般的に、この「目からウロコが落ちる」という言葉がどのように使われているかを見てみたいと思います。
まず、辞書を調べてみると、「デジタル大辞泉」には次のように書いてありました。
「目から鱗(うろこ)が落ちる:《新約聖書「使徒行伝」第9章から》何かがきっかけになって、急に物事の実態などがよく見え、理解できるようになること」
これは、わかりやすい説明ですね。もう一度説明部分をお読みします。
「何かがきっかけになって、急に物事の実態などがよく見え、理解できるようになること」
さてしかし、インターネット上の書店のamazonで「目からウロコ」と入力して検索してみたところ、「目からウロコ」は(「が落ちる」は省略された形で)本の名前にたくさん使われていることがわかりました。それらの書名を挙げてみます。
『目からウロコの○○○』、『目からウロコの×××』、『目からウロコの△△△』、『目からウロコの□□□』などなど、です。
これらの本の題名を見ると、今ひとつ軽い使われ方がされているなあという印象を私は受けました。これらの本の題名は、確かに辞書的な意味の、「何かがきっかけになって、急に物事の実態などがよく見え、理解できるようになること」を満たしているのかもしれません。しかし、「使徒の働き」9章のパウロが語源になっていることを考えるなら、パウロの人生がそれ以降、根本的に変わったように、その人の人生を根本的に変える力のあるものが本来の意味での「目からウロコが落ちる」ではないかと私は思いますし、さらに言えば、本人の人生が変わるだけでなく、パウロがイエス・キリストを宣べ伝えたことで、他の人々の人生も変わり、そうして世界も変わって行ったように、「目からウロコが落ちる」は世界が変わるぐらいの力のある時に使うべきものではないかと私は言いたい気がします。
そして私は、「ヨハネの福音書の永遠観」には、そのように世界を変える力があると確信しています。4年前の2011年の6月にヨハネの福音書の隠された構造に気付いた時、私の目からはウロコが落ち、それ以来、私はこのヨハネの福音書を宣べ伝えることを通して平和の働きをするのだという私の人生の方向が定まりました。それまでも平和の働きをしたいと願っていましたが、どの方向に進んだら良いかわからないでいました。ですから、ヨハネの福音書の構造を知って私の人生の方向が定まったことは、私の人生を変えたと言って良いのだろうと思います。ですから私は、このヨハネの福音書が内部に秘めた深い世界を是非多くの方々と分かち合い、平和のために貢献したいと願っています。
律法のことばであり、聖霊であるイエス
さてヨハネの福音書の8章と9章の説明です。来週もう一回見ますから、もしきょうあまり理解できなかったとしても、あまり気になさらないで下さい。
最初のほうで話したように、この8章と9章では、8章12節と9章5節の2つの「世の光」が8章44節の「悪魔」を挟み込む構造になっています。「悪魔」は「闇」を支配していますから、二つの「世の光」に挟まれた「悪魔」は「光と闇」、「明と暗」のコントラストを鮮やかに浮かび上がらせています。「光」は「闇」の存在によって一層はっきりと存在感を示すことができます。ですから、この箇所からヨハネの福音書の読者が読み取るべきことは「『世の光』とは何か」ということだと私は考えます。
「『世の光』とは何か」、それはつまり、「イエスとは誰か」ということになります。なぜならイエスさまは「わたしは、世の光です」とおっしゃっているからです。
では、イエスとは誰でしょうか。「イエスとは誰か」を考えるとすれば、必然的にヨハネ1章1節と1章14節のみことばも絡んで来ます。1章1節は、ご存知の通り、
「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」(1:1)
であり、1章14節には、
「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。」(1:14)
と書いてありますね。
この1節と14節の「ことば」とはイエス・キリストのことです。すると、「世の光」とは実は「ことば」のことであることになります。イエスは世の光であり、ことばでもあるということになります。
そうして「イエスは世の光であり、ことばでもある」ということになれば、詩篇119篇の有名なみことば、すなわち105節の「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です」との関係も見えて来ます。
この詩篇119篇は、律法のことばへの愛を告白している詩篇ですから、ことばであるイエス・キリストは律法のことばであるということにもなります。さらに言えば、使徒の働きでパウロの目を開いたのは聖霊ですから、世の光であるイエスは聖霊でもあります。つまり、世の光であるイエスは律法のことばであり聖霊でもあります。これはエレミヤ書の成就であるとも言えるでしょう。エレミヤ31章33節に次のように書いてある通りです。
31:33 彼らの時代の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうだ。──【主】の御告げ──わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
マナセ・アモン王の時代に献金箱の中にいたイエス
さて今、世の光であるイエス・キリストが律法のことばであることを、ヨハネ1章1節の「初めに、ことばがあった」と、詩篇119篇105節の「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です」との関係から導き出しました。このことに加えてさらに、ヨハネの福音書の背後にある旧約聖書からも導き出すことができます。
(ブログを読んで下さっている方への注:ヨハネの福音書は下図のような構造をしており、1~12章の区間では「福音書」の背後に「旧約聖書」と「使徒の働き(使徒行伝)」が重ねられている重層構造になっています。)

それは、世の光に挟まれている闇の時代が、悪王であるマナセ王とアモン王の時代に重ねられているからです。この悪王のマナセ・アモンの前のヒゼキヤ王の時代では律法が重んじられ、マナセ・アモン王の後のヨシヤ王の時代にも、やはり律法が重んじられました。しかし、マナセ・アモン王の闇の時代には律法を重んじませんでしたから、律法の書の存在がその間に忘れられてしまいました。そして、ヨシヤ王の時代に、宮の献金箱から律法の書が発見されました。歴代誌第二の34章をご一緒に見ましょう(旧約聖書p.787)。1節に、
34:1 ヨシヤは八歳で王となり、エルサレムで三十一年間、王であった。
とありますから、ここにはヨシヤ王の時代のことが書いてあります。そして、14節に、
34:14 彼らが、【主】の宮に携え入れられた金を取り出していたとき、祭司ヒルキヤは、モーセを通して示された【主】の律法の書を発見した。
とあります。彼らは、献金箱を開けて金を取り出していた時に、律法の書を発見しました。これは、ヒゼキヤ王の時代に大切にされていた律法の書ですね。それが悪王のマナセとアモン王の時代には大切にされていませんでしたから、その存在が忘れられていたのですが、何と献金箱の中にあったのでした。そして面白いことに、ヨハネの福音書には、ちゃんとこのことが記されています。
ヨハネの福音書8章の20節と21節を、お読みします。
8:20 イエスは宮で教えられたとき、献金箱のある所でこのことを話された。しかし、だれもイエスを捕らえなかった。イエスの時がまだ来ていなかったからである。
8:21 イエスはまた彼らに言われた。「わたしは去って行きます。あなたがたはわたしを捜すけれども、自分の罪の中で死にます。わたしが行く所に、あなたがたは来ることができません。」
20節でイエスさまは献金箱のある所で話をしていて、21節で、「わたしは去って行きます」とおっしゃいました。つまり律法の書であるイエスは献金箱の中に去ってしまって捜しても見つからなくなるというわけですね。ヨハネの福音書というのは、ユーモアに富んでいる書でもあると言えるでしょう。このような面白い表現がヨハネの福音書のあちこちにあります。このヨハネの福音書の独特のユーモアがわかるようになると、ヨハネの福音書をより一層深く味わえると思います。
火種にはならないヨハネ8:44
このように、律法の書の存在がわからなくなったマナセ王・アモン王の時代は悪魔の時代であり、この悪王マナセの悪行のゆえにユダの国が滅ぼされてユダの民がバビロンに捕囚として引かれて行きました。列王記第二には次のように書かれています(Ⅱ列王24:3,4)
24:3 ユダを主の前から除くということは、実に【主】の命令によることであって、それは、マナセが犯したすべての罪のためであり、
24:4 また、マナセが流した罪のない者の血のためであった。マナセはエルサレムを罪のない者の血で満たした。そのため【主】はその罪を赦そうとはされなかった。
70年後にバビロン捕囚を解かれてエルサレムに帰還したユダの民が律法を重んじるようになったのは、この悪魔の時代の反省の上に立っているわけであり、それがイエスの時代のパリサイ人たちにも受け継がれて行っているわけですから、8章44節でイエスさまが「あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た者である」と言ったことも、背後に「旧約の時代」があることがわかるなら、別に怒ることはないんですね。
或いは、この「悪魔の時代」とは、「使徒の時代」においてはパウロの目からウロコが落ちる少し前の時代のことですから、パウロが率先してイエスを信じる者たちを迫害していた頃のことです。ですからヨハネ8章44節の「悪魔」とはキリスト者を迫害していた時のパウロのことであると考えるなら、キリスト教徒がこの44節を理由にユダヤ人を悪魔とみなして迫害することは、まったくおかしな話だということになります。
従って、このヨハネ8章44節によってユダヤ人が悪魔とみなされ、多くのユダヤ人がキリスト教徒によって殺されたことは本当に悲劇としか言いようがありません。
ですから私は、是非多くの方々にヨハネの福音書の表面だけでなく、もっと深い部分を知って目からウロコを落としていただきたいと思います。そうして、平和な世界へと変わって行って欲しいと願っています。そして、この働きをより効果的なものにするため、平和憲法の考え方と絡めることを今、考えています。このことについては来週お話しする予定でいます。
おわりに
昨日の沼津コーストFMの「潮風の中で」はカトリック教会の司祭がメッセージを担当されましたが、その中で日本のカトリック中央協議会の戦後70年司教団メッセージが紹介されました。メッセージのタイトルは「平和を実現する人は幸い~今こそ武力によらない平和を」で、メッセージの中では「戦争放棄への決意」が明文化されています。これは私が神様から与えられている使命とピタリと重なりますので、大変に励まされました。今週は沼津伝道者会がまた持たれますので、このメッセージに私が大変に感銘を受けたことを先生方と分かち合うことが出来たらとも思っています。
このように、いま平和の働きのための機運が高まっていると感じていますから、皆さんと共に働くことができたら幸いに思います。
お祈りいたしましょう。