平和への道

私の兄弟、友のために、さあ私は言おう。「あなたのうちに平和があるように。」(詩篇122:8)

たとい山々が移り、丘が動いても(2016.4.17 礼拝)

2016-04-17 16:03:21 | 礼拝メッセージ
2016年4月17日礼拝メッセージ
『たとい山々が移り、丘が動いても』
【イザヤ54:2~10】

はじめに
 きょうの礼拝説教からはソロモンの神殿建設についての学びを始めることにしていました。しかし、木曜日の夜から九州で地震が頻発しており、震源が熊本から大分方面に移動していることもあって日本全体に大きな不安が広がっています。教会の皆さんも不安に思っておられる方が多いだろうと思います。そこで、きょうは予定を変更して、このような不安な時に私たちの心の拠り所になるみことばに目をとめたいと思います。

たとい山々が揺れ動いても
 まず、みことばを見ましょう。一つ目は、聖書交読で読んだ詩篇46篇の1節から3節までです(旧約聖書p.950)。私のほうでお読みします。

46:1 神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。
46:2 それゆえ、われらは恐れない。たとい、地は変わり山々が海のまなかに移ろうとも。
46:3 たとい、その水が立ち騒ぎ、あわだっても、その水かさが増して山々が揺れ動いても。

 詩篇46篇の詩人は、神は私たちの避け所であるから、たとい地が変わり、山々が揺れ動いても恐れないと詩っています。神様への信仰を持っていれば、私たちは恐れることはありません。
 ただし、詩篇の詩は人間が書いた詩ですから、このような詩は人間の側の一方的な思い込みではないのかと思われる方もいるかもしれません。或いは、そこまでは思わなくて、自分もこの詩人のような揺るがない信仰を持ちたいと思っても不安の方が勝ってしまって、なかなか、この詩人のような心境にはなれないという方もおられるかもしれません。
 一方、きょうの聖書箇所のイザヤ書54章のみことばは人間の側の信仰告白ではなくて、これは主ご自身のみことばです。10節で主はこのように仰せられています。

54:10 たとい山々が移り、丘が動いても、わたしの変わらぬ愛はあなたから移らず、わたしの平和の契約は動かない」とあなたをあわれむ【主】は仰せられる。

 これはイザヤを通して語られた主のことばです。詩篇は人間の詩ですが、イザヤ書54章は主ご自身のことばです。ここにある、「たとい山々が移り、丘が動いても」は地震のことを言っているというよりは、主の愛は変わらない、移らないということを強調するための表現だと思います。しかし大地が動く地震列島と呼ばれる日本に住む私たちは、このみことばからいくつか学べる点があると思います。きょうは、この聖書箇所から示された3つのことをお話ししたいと思います。

①一つめは、山々が移り、丘が動いて地震が起きるのは自然現象であって神の怒りの表現ではないといこと、
②二つめは、神の変わらない愛は、神がひとり子をお与えになるほどのものであること、
③そして三つめは、神の愛が変わらないから私たちには永遠の命が保証されているということをお話ししたいと思います。神の愛が変わるものであるなら、永遠の命は保証されていないということになってしまいます。
 以上の三つについて話をして、最後に今日の礼拝後の新会堂に関する説明会への備えも短くしたいと思います。

地震が起きるのは自然現象
 まず一つめは、山々が移り、丘が動いて地震が起きるのは自然現象であって神の怒りの表現ではないということについて話します。
 地震などの自然災害が起きると、これは神による天罰だなどと言う人が現れますが、そんなことはないでしょう。私たちが住む地球に地が動く仕組みを与えたのは確かに神様ですが、それは人間を懲らしめるために、このような仕組みを作ったのではありません。人間が生きていくのに必要だから与えた仕組みです。地が動くのは地球の表面のプレートが、それより内部にあるマントルの熱移動に乗って動くためです。地震のメカニズムの説明として、プレートが大陸の下に沈み込んでできる海溝付近でプレートが跳ね上がる解説図をテレビでよく見ると思います。今回の熊本地震は海溝型の地震ではなくて断層型の地震とのことですが、断層もプレートが動くことで地表付近にシワが出来て、このシワの部分が滑って断層ができると考えてよいのだと思います(素人的な考察ですが)。このようにプレートが動くことによって地球上に凹凸ができて山や海が形成されます。この起伏に富んだ山と海の地形があるからこそ、多様な生物が地球上に住むことができ、この生物の多様性によって地球の生命が保たれ、私たちの命も支えられています。
 仮に地球に海が無くて陸地だけだったら水分が不足して多くの生物は生きていけないでしょう。その反対に海しか無ければ哺乳類は鯨やイルカやアザラシの類しか生きられず、人間は生きられないでしょう。それ以前に、海しかなければ塩分の濃度が高くなり過ぎて生物は生きるのが難しいとも言われています。イスラエルの死海は塩分の濃度が高すぎて生物が住むことができないので、死の海、死海と呼ばれていますね。地球上には岩塩などの形で陸地にもかなりの量の塩分があります。もし地球上に凹凸がなくてすべてが海になっているなら、いまは岩塩として陸地に存在している塩分も水に溶け込みますから、海の塩分の濃度は今よりもかなり高くなります。すると生物が生きていくには大変に厳しい環境になります。今の海に生物が豊かに存在するのは、塩分がちょうど良い塩梅に調節されているからです。
 このように、私たちが住んでいる地球は、表面のプレートが動いているがゆえに地表に起伏ができて山や海が形成され、それによって多様な環境が作られ、生物の多様性が保たれて多くの命が生きることができ、人間もまた生きていくことができるのですね。ですから地球上のプレートが動く以上、地震が起きることは避けられないことです。それゆえ私たちは地震が起きても大きな被害が出ないように備えながら生活することが必要になります。
 それゆえ、地震があったとしてもそれは神が人間を懲らしめようとしているわけではありません。人を造ったのは神様ですから、神様は人を愛しています。

神は御子を与えるほど人を愛している
 そして、この神様の愛はひとり子をお与えになったほどの愛です。神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛されました(ヨハネ3:16)。これが二つめのポイントです。
 いま私たちが開いているのはイザヤ書54章ですが、この一つ前の53章では皆さんがご存知のとおり、イエス・キリストの十字架が予言されています。53章の4節から6節までを交代で読みましょう。6節はご一緒に読みます。
 
53:4 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。
53:5 しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。
53:6 私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、【主】は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。

 このように神がひとり子をお与えになったのは、御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためです。御子イエスを信じる私たちには、永遠のいのちが与えられています。

変わらない神の愛によって保証されている永遠の命
 そして三つめのポイントは、私たちに永遠の命が保証されているのは神の愛が変わらないからだということです。
 もう一度、イザヤ書54章の10節をご一緒に読みましょう。

54:10 たとい山々が移り、丘が動いても、わたしの変わらぬ愛はあなたから移らず、わたしの平和の契約は動かない」とあなたをあわれむ【主】は仰せられる。

 主は、わたしの変わらぬ愛はあなたから移らないと仰せられます。このように主が仰せられるから、私たちには永遠の命が保証されていると言えるのだと思います。天においても地においても私たちは主に支配されていますから、もし主が心変わりする方であったら、天の御国に行ったとしても安心できないということになってしまいます。でも、そんなことはありませんね。

永遠の命を与えられているので恐れることはない
 イエスが神の子キリストと信じる者には、永遠の命が与えられます。これは本当に素晴らしい恵みです。もし大規模な災害が起きるならクリスチャンといえども、この世では命を失うでしょう。クリスチャンは永遠の命を約束されていますが、この世での永遠の命が約束されているわけではありません。このことを私たちはよく覚えておく必要があると思います。他の方々を救いに導くための働きが長くできるように、この世の命を長く与えられ、様々に守られることは確かに多いだろうと思います。しかし、逆に早くにこの世を去ることで一粒の麦となって他の多くの人々を救う場合もあります。イエス・キリストの地上生涯も30年でしたから、人の一生としては短いものでした。
 クリスチャンの地上生涯は長い場合もありますし、短い場合もあります。しかし、永遠の命が与えられていることに変わりはありません。このように永遠の命が与えられているのですから、災害の危険があったとしても恐れることなく、しかし、しっかりと備えて暮らすようにしたいと思います。
 いざ本当に自分の身に危険が迫った時に、どのように行動できるのか私自身も自信はありません。ペテロのような、みじめな行動を取ってしまうのかもしれません。それは、その時になってみなければわかりません。しかし、何があっても恐れることはないという信仰を持ち、危険に備えているなら、主が取るべき行動を教え導いてくれることでしょう。難しいことかもしれませんが、主にすべてをお委ねして恐れることなく備えていたいと思います。そのように備えていることがキリストの香りを放ち、他の方々を救いに導くことにもつながって行くのでしょう。

説明会への備え
 さて、きょうは礼拝の後で私たちの新しい礼拝堂の最新の設計案の建設費について設計担当の兄から説明をしていただきます。そのことにも短く備えたいと思います。
 きょうの聖書箇所のイザヤ書54章の2節と3節を交代で読みましょう。

54:2 「あなたの天幕の場所を広げ、あなたの住まいの幕を惜しみなく張り伸ばし、綱を長くし、鉄のくいを強固にせよ。
54:3 あなたは右と左にふえ広がり、あなたの子孫は、国々を所有し、荒れ果てた町々を人の住む所とするからだ。

 2節に、「あなたの天幕の場所を広げ、あなたの住まいの幕を惜しみなく張り伸ばし」とあります。そのようなるように、主は私たちの教会に隣の土地を与えて下さいましたから、私たちの教会の敷地は増えました。そして3節、「あなたは右と左にふえ広がり、あなたの子孫は、国々を所有し、荒れ果てた町々を人の住む所とするからだ」とあります。
 神様から離れている人々の心の中は荒野のように荒れ果てています。そのような人々が住んでいる町もまた霊的には荒れ果てていると言えます。荒地には避け所がありません。神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助けと先ほど詩篇46篇で読みましたが、霊的な荒地に住む人々は、避け所となる神を持たず、不安に恐れおののいています。
 その荒地の真ん中に私たちの教会は建ち、人々を避け所である神へと導いてさしあげます。これから私たちが建てる礼拝堂は、その働きのために用いられます。その働きのために最善の礼拝堂が与えられるように私たちは祈りを積んで行かなければなりません。しかし、ただ単に祈るのでなく、私たちの現状をしっかりと把握した上で祈るべきです。そのための資料を週報に挟みましたので、ご覧下さい。
(以下、省略)

おわりに
 最後にもう一度イザヤ書54章の2節と3節を交代で読み、それからもう1箇節、10節をご一緒に読んで終わりたいと思います。

54:2 「あなたの天幕の場所を広げ、あなたの住まいの幕を惜しみなく張り伸ばし、綱を長くし、鉄のくいを強固にせよ。
54:3 あなたは右と左にふえ広がり、あなたの子孫は、国々を所有し、荒れ果てた町々を人の住む所とするからだ。

54:10 たとい山々が移り、丘が動いても、わたしの変わらぬ愛はあなたから移らず、わたしの平和の契約は動かない」とあなたをあわれむ【主】は仰せられる。

 お祈りいたしましょう。
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