平和への道

私の兄弟、友のために、さあ私は言おう。「あなたのうちに平和があるように。」(詩篇122:8)

見えない神を可視化する工夫(2016.4.20 祈り会)

2016-04-20 20:54:16 | 祈り会メッセージ
2016年4月20日祈り会メッセージ
『見えない神を可視化する工夫』
【ヨハネ20:24~31】

はじめに
 熊本で最初の大きな地震があったのは先週の木曜日の夜でした。ですから1週間前の水曜日の祈祷会の時点では、九州の地震によって日本全体がこれほど大きな不安に包まれるとは思っていませんでした。
 先日の日曜日の礼拝でも話しましたが、こういう時、永遠の命を与えて下さる神様としっかりとつながっているなら恐れることはありませんから、多少の不安があったとしても、不安が増大することはありません。ですから、この恵みをお伝えする働きをもっと確かなものにして行かなければならないと、私は今、強く思わされています。

目に見えない神を可視化する試み
 ただし神様は目に見えませんから、神様を信じるのはそんなに簡単なことではないという問題があります。一旦は神を信じた筈のクリスチャンであっても信仰が揺らぐことがあります。信じた時には神様の存在を強く感じていたものの、その後の生活の中で神様を感じることが段々となくなって来て、信仰から離れてしまう人も少なくありません。
 これまで私はヨハネの福音書について色々な切り口で語って来ましたが、ここ何ヶ月かの間で、ヨハネの福音書は見えない神を何とかして見えるようにする工夫がたくさん盛り込まれた書であると感じるようになっています。神が見えるという場合、それは霊的に見えるということですが、霊的に見えるとはどういうことか、霊的に目覚めていない人に説明することは大変に難しいことです。しかし、それを何とかわかってもらうようにしなければならないと思い、先日は「太陽光の例え」の話をしました。太陽の光には目に見える可視光線の他に目に見えない赤外線と紫外線が含まれています。このことが目に見える人間イエスと目に見えない霊的なイエスとに良く似ているという話をしました。そして今回はこの「太陽光の例え」に加えて「囲碁の例え」の話をしたいと思います。
 今年に入って囲碁が何かと話題になっています。コンピュータの「アルファ碁」が世界最強レベルの韓国のプロ棋士を四勝一敗で破ったことは大きなニュースになりました。そしてまた、今日の4月20日は、日本の囲碁の十段戦五番勝負の第4局がちょうど今行われているところです。この十段戦では伊田篤史十段に井山裕太六冠が挑んでいます。いま井山六冠が2勝1敗ですので、きょう井山六冠が勝てば七つのタイトルを独占する七冠になります。先週の第三局でもチャンスがありましたが敗れてしまい、きょう再び七冠に挑んでいます。きょうは後で碁盤の図を見ていただきながら見えない神が見えるようになるとはどういうことか、「囲碁の例え」を使って説明したいと思います。



太陽光の例え
 まず「太陽光の例え」の復習を簡単にします。図1(a)を見て下さい。太陽の光にはご存知の通り、赤や緑や青の可視光線だけでなく、目に見えない赤外線や紫外線も含まれます。そして私たちの多くは赤外線には加熱効果があり、紫外線には殺菌効果があることを何となく知っています。それは、赤外線ヒーターや紫外線消毒装置などの製品が販売されていますから、赤外線や紫外線にはそのような効能があることを何となく知っています。そして、天気の良い日に布団を外で天日に当てて干す時なども、それらの効果を期待します。布団の中の空気が温まって布団がフカフカになるのは赤外線の効果だと思いますし、ついでに紫外線で殺菌されることをも何となく期待します(どれぐらい効果があるかはわかりませんが)。或いは冬の寒い日に日なたに出て太陽の光に当たると体が温まりますから、その時は赤外線の恩恵を受けています。或いは夏に直射日光に当たって日に焼けて皮膚が痛む時、殺菌作用を持つ紫外線の高いエネルギーが皮膚にダメージを与えたことを、身をもって知ります。このように私たちが太陽の光を浴びる時、そこには目に見える光だけでなく目に見えない光である赤外線や紫外線があることを、私たちは感じています。太陽光はこれらのすべてを含めて太陽光です。
 そしてイエスも図1(b)のように、目に見えるイエスと目に見えないイエスとがいます。目に見えるイエスは【イエスの時代】の人間イエスです。【イエスの時代】とはイエスが母マリヤから生まれて十字架で死ぬまでの約30年間です。また、イエスは【旧約聖書の時代】にもいます。イエスはご自身で「アブラハムが生まれる前から、わたしはいるのです。」(ヨハネ8:58)と言っていますから、紀元前の【旧約聖書の時代】にもいました。ただし、それは霊的な存在としてのイエスです。さらにイエスは十字架で死んで復活した後の【弟子たちの時代】にも霊的なイエスとして存在し、弟子たちを励ましました。そして霊的なイエスは21世紀の現代にも私たちと共におられて、私たちを励ましています。イエスは、これら見えるイエスと見えないイエスをすべて含めてイエスです。それはイエスが神の子キリストだからです。イエスとは1世紀の最初の30年間に生きていた人間イエスだけではなくて霊的なイエスをすべて含めた存在がイエスです。
 私たちが太陽の光を浴びている時に赤外線と紫外線も何となく感じているように、私たちがマタイやマルコやルカの福音書で人間イエスについて読む時に霊的イエスの存在も何となく感じています。 それを教えてくれているのがヨハネの福音書です。では私たちは、人間イエスを通してどのように霊的イエスを感じているのでしょうか。今度は図2の囲碁の例えを使って説明します。

囲碁の例え
 図2(a)は石が何も置かれていない碁盤の図です。一見すると、ここには何も無いように見えます。(b) しかし、実はここには目に見えない神が存在しています。(c) そして神は人を造って地上に置き、(d) 人間イエスを地上に遣わしました。そして (e) マタイ・マルコ・ルカの福音書に書いてあるような人と人間イエスとの交わりが始まります。ただし人と人間イエスとの交わりが十分でない間は、依然として神は見えません。(f) しかし段々と人とイエスとの交わりが進んで囲碁で言うところの「地」が出来ると、そこに霊的なイエスが見えるようになります。ここでは黒の地を【旧約聖書の時代】の霊的イエスとして示しています。つまり、それは霊的イエスを通して天の父を霊的に見ていることになります。また白の地は【弟子たちの時代】の霊的イエスとして示してみました。そして、これは聖霊との交わりを見ていることになります。このように私たちは先ずマタイ・マルコ・ルカの福音書を読んで人と人間イエスとの交わりについて学び、それが進むと霊的イエスが霊的に見えるようになります。
 囲碁の場合、最終的に勝負が決するのは地が多いほうですから、石が置いてある場所よりも置いていない場所のほうが重要だということになります。イエスの場合も私は人間イエスも大事だけれど石が置かれていない霊的イエスの領域のほうがもっと大事であろうと思います。ただし、もちろん実際の囲碁では(f)のような石の置き方には絶対にならず、もっと複雑なものになります。しかし人と人間イエスとの関係もまた(f)のような単純なものではなくて、もっと複雑に絡み合っていますから、そういう意味でもこの「囲碁の例え」は人と人間イエスと霊的イエス、さらには三位一体の神との関係を、なかなか良く表しているのではないかと私は感じています(囲碁をよく知らない人にとっては、どうかわかりませんが)。

「見ずに信じる者は幸いです」とは?
 さて、ヨハネの福音書はこの「囲碁の例え」のように人と人間イエスとの関係を通して見えない霊的イエスが見えるようにしようと様々な工夫が盛り込まれている書です。たとえば、ヨハネ2章4節でイエスは母に「あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。女の方。」と言いました。イエスの母のマリヤは【イエスの時代】にはイエスの母でしたが、それ以外の時代ではイエスの母ではありませんでした。このヨハネ2章4節でイエスが母に言った「あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。女の方」は、図2(f)の石が置かれていない霊的なイエスの領域の話をしているのだということを暗に示していまず(ヨハネ2章の前半では霊的イエスは【旧約聖書の時代】のモーセの中におり、また【弟子たちの時代】ではガリラヤ人の弟子たちにペンテコステの日に聖霊を注ぎました)。
 そして、これまで礼拝や祈祷会で説明して来たように、ヨハネの福音書には様々な形で霊的なイエスが描かれています。これらの霊的イエスは目には見えませんが、確かに存在しています。
 きょう最初にご一緒に読んだ箇所でトマスは、自分で見なかったことを信じようとはしませんでした。そんなトマスの前にイエスは現れて、「信じない者にならないで、信じる者になりなさい」、「見ずに信じる者は幸いです」と教えました。これは見えないことを盲目的に信じなさいということではなくて、目で見えていなくても他に様々なサインがあるのだから、それらを感じて信じることの大切さを説いていると私は理解しています。
 私たちもまた見ずに信じる幸いに与りたいと思います。それは見えないことを盲目的に信じるのではなくて、様々なサインをしっかりと感じて信じるなら幸いな恵みに与ることができるということです。私たちは、まずは人間イエスに注目する必要があります。取っ掛かりとして人間イエスについて学ぶことは非常に大切です。そして、そこから霊的イエスを感じることへとステップアップする必要があります。いつまでも人間イエスにとどまっていては、霊的な恵みをいただくことはできません。霊的な恵みをいただくとは、三位一体の神の恵みをいただくということです。人間イエスだけしか知らない間は、三位一体の神の恵みをいただくことができません。見ずに信じる幸いな者とされて、霊的なイエスさまから三位一体の神の豊かな恵みに与りたいと思います。

おわりに
 最後に、礼拝の最後にいつもお読みしている第二コリント13章13節の祝福のみことばをご一緒にお読みしましょう。これは三位一体の恵みについてのパウロの祝福の祈りです。

13:13 主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがたすべてとともにありますように。

 お祈りいたしましょう。
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