平和への道

私の兄弟、友のために、さあ私は言おう。「あなたのうちに平和があるように。」(詩篇122:8)

御霊の証し(2015.6.21 礼拝)

2015-06-22 08:43:28 | 礼拝メッセージ
2015年6月21日礼拝メッセージ
『御霊の証し』
【ローマ8:9~16】

はじめに
 先週から三回のシリーズの予定でジョン・ウェスレーの学びをしています。ジョン・ウェスレーは18世紀にイギリスでメソジスト運動を始めた人物で、私たちのインマヌエルの群れは、そのメソジスト運動の流れの下流に位置しています。私たちが会堂問題に取り組んで行く時、私たちの霊の一致は欠かせないことですが、私たちの教会は、様々な教会からの出身者が寄り集まっています。そこでインマヌエルの群れの上流のほうに位置するジョン・ウェスレーについて共に学んで学ぶことで私たちの結束を強めたいと願っています。

シュパンゲンベルグの問い掛け
 先週はウェスレーの信仰生涯をごく簡単に紹介しました。若い頃のウェスレーは善行、善い行いをすれば救いの確証を得ることができると信じて善行に励みました。しかし、いっこうに救いの確証を得ることができず、深く思い悩むようになりました。特にアメリカでインディアンに伝道すべく乗り込んだアメリカ行きの船が嵐に巻き込まれた時には自分が死の恐怖に怯えていたことに大変なショックを受けました。一方、この時に同じ船に乗り合わせたモラビア派の信徒たちは激しく揺れる船の中でも少しも動揺することなく平然としていました。そこでウェスレーは、アメリカ上陸後にウェスレーはモラビア派のシュパンゲンベルグという人物に近づいて助言を求めました。このウェスレーとシュパンゲンベルグとの会話は、先週もご紹介しましたが、もう一度ご紹介したいと思います。
 その前に、今日の聖書箇所のローマ8:16をお読みしておきたいと思います。シュパンゲンベルグは、このローマ8:16について確証があるかをウェスレーに問いただしていました。

ローマ8:16 私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。

 ではシュパンゲンベルグに助言を求めた時のウェスレーの日記をお読みします。

「私は自分の行動についてシュパンゲンベルグ氏に助言を求めた。彼は、『兄弟、それでは初めに質問させていただきます。あなたは、自分の内に確証がありますか、自分が神の子であるということを、自分自身の霊とともに、神の御霊は証ししていますか』と尋ねた。私は驚いてしまった。なんと答えてよいかわからなかった。彼はそれに気づいたのか、続けて『あなたはイエス・キリストを知っていますか』と尋ねた。わたしは少し間をおいて、『主がこの世界の救い主であるということを知っています』と答えた。すると彼は、『確かにそうです。しかし主が【あなた】を救われたということを知っていますか』と尋ねた。私は答えた。『主が死なれたのは、私をも救うためであったことを望んでいます』。それに対して、彼は『あなたは本当に自分自身を知っていますか』と尋ねた。『はい、知っています』と答えたものの、それらが空しい言葉であることを自分ではわかっていた。」

 このようにウェスレーに対するシュパンゲンベルグの質問はローマ8:16を念頭に置いたものでした。この時のウェスレーは救いの証しを得ることはできていませんでしたから、ウェスレーの悩みは益々大きくなって行きました。しかし、アメリカからの帰国後にアルダスゲイトの回心で救いの確証を得て、そしてブリストルでの野外説教で迷いが無くなりました。そしてブリストルでの初めての野外説教の7年後の1746年に「御霊の証し」という説教を行い、それが説教集に残されています。この「御霊の証し」の聖書箇所がローマ8:16でした。
 きょうは、この「御霊の証し」について、ご一緒に考えてみたいと思います。私たちの教会が霊の一致を保つためには、神の霊が私たちの中でどのように働いているかについて、共通の理解を持つことがとても重要であると思うからです。ただし霊のことについては、それぞれで感じ方が違いますから共通の理解に達するには、なかなか難しいことと思います。それでも、ある程度の共通の理解が得られるなら、それは大変に有意義なことであろうと思います。

「御霊の証し」と「私たちの霊の証し」
 では、ウェスレーの「御霊の証し」についての説教の聖書箇所であるローマ8:16を改めて、今度はご一緒に読みましょう。

8:16 私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。

 私たちが神の子どもであることの証しについて、ウェスレーの説教では、「御霊ご自身による証し」と「私たちの霊による証し」の二つに分けて説明しています。ウェスレーによれば、「御霊ご自身による証し」は、私たちが神の子どもであることの直接的な証しであり、「私たちの霊による証し」は、私たちが神の子どもであることの間接的な証しである、ということです。そして、「御霊の証し」は「私たちの霊」の証しに先立つものであるとウェスレーは語っています。これを読んで、私もなるほどと思いました。
 わかりやすいのは、間接的なほうの「私たちの霊による証し」です。これは、例えば自分の中に御霊の実が与えられたことを感じると、なるほど自分は神の子とされたのだなとわかります。この場合、まず御霊の実を感じて、それによって自分が神の子とされたことを感じますから、これは間接的な証しであるとウェスレーは説きます。御霊の実というのは、この礼拝説教でも何度か引用していますが、ガラテヤ5章22節と23節に書かれていることがらです。お読みします。

5:22 御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、
5:23 柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。

 この御霊の実が与えられることで私たちは神の子イエス・キリストに似た者とされていきます。そのことを自分の中で感じる時、私たちは確かに自分が神の子とされていることを感じることができるでしょう。これは間接的な証しであり、これが「私たちの霊による証し」です。自分がきよめられて愛や喜びや平安を感じるとき、私たちは確かに自分が神の子であると感じることができます。
 いっぽう、わかりにくいのは直接的な「御霊ご自身による証し」のほうです。ウェスレーはこの「御霊の証し」は「私たちの霊の証し」に先立って与えられると説いていますが、この直接的な証しの説明が難しいことはウェスレー自身も認めています。ウェスレーは、先ずはわかりやすいほうの「私たちの霊の証し」を説明しました。そして、次にこれと共同して働く「御霊の証し」について、次のように書いています。

 「私たちの霊の証し」と共同して働く「神の霊の証し」とは何でしょう。どのようにして神の霊は、私たちの霊とともに、私たちが神の子どもであることを証ししてくれるのでしょうか。私たち人間のことばで「神の深み」(Ⅰコリ2:10)について説明することは至難の業です。実に、神の子どもとして私たちが経験する事柄を適切に説明できる表現というものはありません。(Ⅰ1:7)

 ウェスレーはこのように、「御霊の証し」、すなわち「神の霊の証し」を説明することが大変に難しいと正直に認めています。しかし、その後で、このようにも語っています。

「しかし恐らく、次のような表現は妥当ではないかと思います。御霊の証しとは、たましいに与えられる内的印象であり、それによって神の霊が直接に私の霊に、私が神の子どもであり、イエス・キリストが『私を愛し私のためにご自身をお捨てになり』(ガラ2:20)、私の罪がすべて消され、私、この私が神と和解しているということを証しされることです。」(Ⅰ1:7)

 ウェスレーは、御霊の証しとは、私たちのたましいに与えられる内的印象であると語っています。「内的印象」とは、ひどく漠然とした表現ですね。

幼子の信仰で感じる「御霊の証し」
 今回、私は「御霊の証し」について説教をしようと決めた時、実はこの「御霊の証し」について、まだよく理解できていませんでしたが、説教を準備する過程で学びを進めればわかって来るのではないかと期待して学びを進めました。しかし、なかなかわからなかったので、今回の説教の準備は久しぶりでだいぶ苦労しました。そうして、ようやくわかったことは、この「御霊の証し」は学べば学ぶほどわからなくなるものらしいということです。学べば学ぶほど知識が増して、その知識が「御霊の証し」を感じるのを妨げるようです。それが「御霊の証し」というもののようです。
 なぜそこに思い至ったかというと、私が教会に通い始めた頃のことを考えてみたからです。私が高津教会に通い始めた頃、私は聖書のことは何もわかっていませんでしたが、教会に何か居心地の良さを感じました。そして、パウロが復活したイエス・キリストに出会って、人生が180度変わった話を聞き、そういうこともあるのだなと特に疑いもしませんでした。そして、この教会に集っている人たちと同じ信仰を持ちたいと段々と思うようになりました。そして、それにつれて、それまで自分を守ってくれていたのが聖書の神様だったのだということがわかってきました。それまで事故に遭ったり人生の進路からはずれたりして危険な所を通って来ましたが、不思議と守られて来ました。それで私は誰かが自分を守ってくれていることを感じていましたが、それが誰なのかわからずにいました。それが聖書の神様であったことがわかって来ました。そうして、洗礼を受けたいと思うようになり、そのことを一人の兄弟に話したら、それが藤本先生に伝わり、藤本先生と二人で話をして、お祈りをしてもらった時に、心の平安を得ることができました。今から考えると、その時に私は聖霊を受けていたように思います。この時の私は、まだまだ聖書の知識はほとんどありませんでした。でも今から思うと、この時に私は「御霊の証し」が与えられたのではないか、そのような気がします(救いは必ずしも救いの教理の順番の通りにもたらされるものではありません)。
 私たち自身の霊の証しを知るには、御霊の実のことなどの知識が必要ですが、御霊の証しを知るには知識は不要であり、むしろ知識があると邪魔なのかもしれません。
 それはちょうど、まだ言葉を話すことができない幼子が親の愛情を感じているのと同じことだろうと思います。そして幼子が成長すると、自分が成長できたのは親の愛があったからだと知ります。そして自分は確かにこの親の子なのだと確証します。

御霊によって「アバ、父」と呼ぶ
 今回、私が「御霊の証し」について説教をすることにしたのは、私たちの教会が霊の一致を保つためにウェスレーを学ぶことが有効であろうと思い、そのウェスレーの学びの一環として「御霊の証し」について学ぶことにしたからです。この説教の準備にはだいぶ苦労してしまいましたが、今回、「御霊の証し」について学ぶことができて良かったなと思います。それは、御霊を感じるには、知識が邪魔になることがあることを学ぶことができたからです。しかし、もちろん知識が不要であるのではありません。私たち自身の霊の証しを知るには知識が必要でしょう。ローマ人への手紙8章の15節と16節を交代で読みましょう。

8:15 あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父」と呼びます。
8:16 私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。

 15節に、「私たちは御霊によって、『アバ、父』と呼びます」とあります。私たちは幼子のように「アバ、父」と呼びます。それは御霊によることです。この時に知識は一切要りません。ただ幼子のように神の愛を感じながら御霊によって「アバ、父」と呼びます。このことによって私たちは自分が神の子とされていることを感じています。そして、さらに知識を得ることによって私たちの霊と御霊との共同作業で、自分が神の子とされていることを、より一層深く知ることができるようになります。
 今回、私は大いに反省させられました。私は学べば学ぶほど神様のことがよくわかるようになると思っていましたが、根本的な部分を感じるには、むしろ学びが邪魔になるのですね。このことを私が高津教会に通い始めた頃のことを思い出すことで確認できたことは、大変に感謝なことでした。私たちは学びも大切ですが、それ以上に、まず御霊を感じ、御霊によって「アバ、父」と呼ぶことが、とても大切なことです。

御霊に導かれる礼拝に
 ここで礼拝について考えてみることにします。
 礼拝は、礼拝です。礼拝は、学びの場ではなく、神を礼拝する場であるということです。しかし、私たちは学びもします。それは学ぶことで私たちが神の子であることの確証をより確かに得ることができるようになるからですね。しかし、私たちは先ずは知識によってではなく、知識を横に置いておいて、御霊を感じながら自分が神の子であることを感じることができるようになる必要があります。
 良い機会ですので、ここで礼拝プログラムの順番について変更を提案したいと思います。来週の幹事会に議題として上げることにしたいと思いますが、使徒信条を祈りの「後」に持って来るようにしたいと思います。私は神学生の時にあちこちの教会でご奉仕させていただきましたが、この教会に来て初めて、使徒信条が祈りより「先」に来るプログラムを見て、「おや?」と思いましたが、そのまま踏襲して来ました。しかし、きょうの「アバ、父」のことを考えるなら、先ずはお祈りで天の父に呼びかけるべきだと思います。私たちの信条を告白するのは、その後にすべきでしょう。
 そう思って、少し前に前任の先生の転任先の教会から送られて来た週報を見たら、そちらの教会ではちゃんとお祈りが先にあって、その後で使徒信条を告白しています。沼津教会が使徒信条を祈りよりも先に告白するようになった経緯はよくわかりませんが、他の教会と同様に私たちの教会も、礼拝のプログラムにおいては御霊に導かれながら、まず天の父に呼びかける順番に改めたいと思います。そうして御霊に導かれながら、霊の一致を保ちたいと思います。

おわりに
 いま私たちは会堂月間の中を通っています。次の会堂をどこに建てるのか、それもまた御霊に導かれて決めなければなりません。私たちは、会堂とは礼拝する場であることを、先ずは第一に考えたいと思います。礼拝は礼拝です。礼拝で一番大切なことは神様を礼拝することであり、学びはその次に行うべきことです。礼拝は義務ではなく、私たちが喜びを持って捧げるものです。そして私たちは、この喜びをもっと多くの方々と分かち合うことができるようになりたいと願っています。これが神様と私たちの願いです。そのためには、どこに新しい会堂を建てたら良いのか、御霊の導きをしっかりと感じることができる私たちでありたいと思います。
 お祈りいたしましょう。

8:15 私たちは御霊によって、「アバ、父」と呼びます。
8:16 私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。
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