平和への道

私の兄弟、友のために、さあ私は言おう。「あなたのうちに平和があるように。」(詩篇122:8)

遠くから見える十字架(2015.6.17 祈り会)

2015-06-18 19:56:59 | 祈り会メッセージ
2015年6月17日祈り会メッセージ
『遠くから見える十字架』
【民数記21:4~9/ヨハネ3:14~16】

はじめに
 先週は民数記の13章と14章を開きました。きょうは民数記21章のモーセが青銅の蛇を上げた場面と、その場面を引用しているヨハネ3章の箇所から学ぶことにします。

成長しないイスラエルの民
 まず民数記を見ましょう。民数記21章の4節と5節、

21:4 彼らはホル山から、エドムの地を迂回して、葦の海の道に旅立った。しかし民は、途中でがまんができなくなり、
21:5 民は神とモーセに逆らって言った。「なぜ、あなたがたは私たちをエジプトから連れ上って、この荒野で死なせようとするのか。パンもなく、水もない。私たちはこのみじめな食物に飽き飽きした。」

 イスラエルの民はここでも神とモーセに逆らって不平不満を言っています。イスラエルの民はエジプトを脱出した直後から何度も何度も、特に水と食べ物のことで不平不満を言っては神を怒らせて来ました。私は、イスラエルの民がこのように荒野でグズグズ言っている場面を見ると、スーパーで幼い子が自分の買って欲しいお菓子を握りしめて泣いている姿を連想します。親は買ってあげないと言っているのに納得せずに泣きわめきます。親は広い視野と長い時間の中で、ここで今この子に、このお菓子を買ってあげるのが良いか悪いかを判断して買うか買わないかを判断します。しかし、幼い子は狭い中での今現在しか見えていません。
 ただ、そんな子でも、成長すればスーパーで泣きわめくことはなくなります。だいたい幼稚園生ぐらいになればスーパーで駄々をこねて泣くことはなくなるでしょう。ことばをかなり覚えて親との会話が十分にできるようになれば、親がもっと広い視野で物事を見ていることが何となくわかるようになりますから、親の意見に従うようになります。
 ところが、イスラエルの民は一向に成長しませんでした。それが、聖霊を与えられていない者たちの限界であることを聖書は教えてくれています。スーパーで泣きわめく子は成長するに連れてことばを覚えて親と会話ができるようになり、親が考えていることの一部が何となくわかるようになります。一方、人間が神と会話を交わすためには聖霊が注がれる必要があります。旧約の時代には限られた預言者にしか聖霊が注がれませんでしたから、イスラエルの民は神と会話を交わすことができませんでした。それゆえイスラエルの民は神に不平不満を言っては神を怒らせました。6節、

21:6 そこで【主】は民の中に燃える蛇を送られたので、蛇は民にかみつき、イスラエルの多くの人々が死んだ。

 ここで注意したいのは、私たちは物事が起こった時間的な順番をここに厳密に適用しないほうが良いということです。9節には、「もし蛇が人をかんでも、その者が青銅の蛇を仰ぎ見ると、生きた」とあります。すると、6節のようにまだ青銅の蛇が上げられる前に蛇にかまれた者は気の毒だったということになるかもしれません。しかし、私たちは2000年前の十字架が私の罪のためということを信じている者たちですから、時間的な順番を厳密に考える必要はありません。ですから6節で死んだ者たちというのは、蛇が上げられても、なお蛇を仰ぎ見なかった者たちだと考えれば良いと思います。

モーセの蛇と十字架
 少し先まわりして9節まで行ってしまいましたが、戻って7節から9節までを交代で読みましょう。

21:7 民はモーセのところに来て言った。「私たちは【主】とあなたを非難して罪を犯しました。どうか、蛇を私たちから取り去ってくださるよう、【主】に祈ってください。」モーセは民のために祈った。
21:8 すると、【主】はモーセに仰せられた。「あなたは燃える蛇を作り、それを旗ざおの上につけよ。すべてかまれた者は、それを仰ぎ見れば、生きる。」
21:9 モーセは一つの青銅の蛇を作り、それを旗ざおの上につけた。もし蛇が人をかんでも、その者が青銅の蛇を仰ぎ見ると、生きた。

 荒野を放浪していたイスラエルの民は何十万人もいました。ですから、この蛇は、かなり遠くからでも見えるものであったことを覚えておきたいと思います。
 神様はイスラエルの民を愛しておられましたから、憐れんで下さり、蛇にかまれて死ぬはずであった者たちも、蛇を仰ぎ見れば命を得ました。
 そして、この蛇にかまれて死ぬはずであった者たちとは、実は私たちのことであることをヨハネの福音書3章は教えてくれています。私たちも、まだ神様を知らなかった頃、神様を怒らせる恐ろしいことを平気で言っていました。そのように神を恐れぬことを平気で言っていた私たちを神様は憐れんで下さり、その罪をすべてイエス・キリストに負わせて私たちの罪を赦して下さいました。
 では、ヨハネの福音書3章の14節から16節までを交代で読みましょう。

3:14 モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。
3:15 それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」
3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

 有名なヨハネ3:16は単独で取り上げられがちですが、私たちはぜひ14節にある民数記の場面とセットで思いを巡らすようにしたいと思います。モーセの時代のイスラエルの民は聖霊が注がれていませんでしたから、神様と霊的な会話を交わすことができずにいて信仰が成長しませんでした。それゆえスーパーの幼子のように泣きわめいてばかりいました。そんなイスラエルの民に対しても神は憐れんで下さりモーセが上げた蛇を見れば死なずに生きるようにして下さいました。
 私たちもイエス・キリストを信じる前は、神様と霊的な会話を交わすことができませんでしたから、神を恐れぬ恐ろしいことを平気で言っていました。そんな私たちのことを神様は憐れんで下さり、イエス・キリストの十字架を仰ぎ見て信じるなら、私たちに聖霊を注いで下さり、命を与えて下さいました。聖霊を注いで下さったということは、神様と霊的に会話を交わすことができるようになったということです。そうして聖霊が注がれた者は神様との霊的な会話を通じて信仰が成長しますから、もはやスーパーの幼子のように泣きわめくことはなくなります。

エジプトを出た私たち
 さて、いま私たちは会堂月間の中を通っています。会堂問題という荒野の中を進む私たちの教会とイスラエルの民とは随分と似たところがあるなあと最近私はつくづく思うようになりました。皆さんも感じておられると思いますが、私たちの教会はもうひとつ霊的に一つになることができていないと思います。一人一人には聖霊が注がれているかもしれませんが、教会は霊的に一つになっていないと感じます。そのように教会が霊的に一つになっていないなら、教会には霊が注がれていないのと同じだということにならないでしょうか。
 去年の7月、私たちの教会は今の会堂の屋根の葺き替えやリフォームはしないで新会堂の取得を目指すことを決めました。この点では私たちは一致しました。つまり、その時点で私たちは霊的にはエジプトを脱出して約束の地カナンを目指して旅に出たことになります。去年の7月の時点では約束の地がどこにあるのか見当も付きませんでしたが、とにかく神様を信じて一歩を踏み出すことにしました。
 そうして、しばらくの間は約束の地がなかなか見えて来ませんでしたが、今年の3月になって地主さんと接触するようになってから、もしかしたら、その土地が約束の地ではないかと感じるようになりました。そして、その確信は益々増して来ています。1週間前の水曜日の時点でも私自身は確信していましたが、木曜日に新たな動きが2つありましたから、その確信はより一層強固なものになっています。このような状況の中、もし私たちの教会が霊的に一つにならないなら、私たちはイスラエルの民のようになり、荒野を放浪し続けることにもなりかねないと思います。
 私たちは信仰的にはまだまだスーパーに連れて行ってもらった幼子のようなものだと思います。しかし信仰が幼くても神様のおっしゃることを素直に聞くことができる者たちでありたいと思います。私たちは神様に比べたら遥かに視野が狭いのですから、自分が欲しい物を欲しがるのではなく、神様が与えて下さるものをいただくようにしたいと思います。
 神様は多くの人々を救いに導きたいと思っておられますから、私たちが新しく建てる教会は目立つ所に十字架を高く掲げたいと思います。そして、その十字架を多くの人々が仰ぎ見ることができるようになれば幸いだと思います。
 私が高津教会に導かれることができたのは、電車の高津駅のホームから高津教会の十字架が見えていたからです。私は高津教会に通うようになるずっと前から、そこに教会があることを知っていました。教会に通うようになる前まで、その高津教会の十字架は風景の一部でしかありませんでしたが、高津教会に通い始めてまもなく、十字架は私の大きな心の支えになりました。

おわりに
 私たちの教会も、多くの方々が十字架を仰ぎ見ることができる場所に新しい会堂を建てたいと思います。それが神様の御心であると私は確信しています。
 お祈りいたしましょう。

3:14 モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。
3:15 それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」
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