徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

人知れず ひっそりと佇む 記念碑たち(その3)

2014-03-17 22:50:15 | 歴史
▼豊前街道と吉次往還との追分石

 これは記念碑というより、昔の街道の分岐点を示す「追分石」である。熊本市北区徳王の、ロッキースーパーマーケット徳王店の真ん前に当る。(下記地図参照)



「是より左きとめ通きちしこえたかせへのみち」

と記されているが、現代風に書き換えると

「これより左 木留道 吉次越え 高瀬への道」

つまり、「ここから左折すると、木留(現在は植木町木留)を通って吉次峠を越え、高瀬(現在は玉名市高瀬)へ向かう道」という意味だ。

 今では地元の人でも、この追分石の存在というより、かつてこの道が重要な街道であったことを知らない人が多いそうだ。吉次峠は西南戦争の激戦地。当時はさぞや多くの人馬がこの追分石の前を行き交ったことだろう。この石もまた、いつの日か人知れず捨て去られるのかもしれない。



宮本武蔵と熊本のはなし。

2014-03-16 23:21:32 | 歴史
 テレビ朝日で二夜連続、木村拓哉主演のドラマ「宮本武蔵」をやっていた。「なぜ今宮本武蔵?」と思いながらも気になって見始めた。僕にとって、物ごころついてから、最初に読んだ長編小説は吉川英治の「宮本武蔵」だったから、僕の中では各キャラクターのイメージが確立していて、それは絶対譲れない。だから映画やドラマでイメージのギャップが大き過ぎると、とたんに見る気が無くなってしまう。今回も案の定、一回目の半分も行かないうちに見る気が失せた。



 それはさておき、宮本武蔵は熊本藩主・細川忠利公に招かれて晩年を熊本で暮らしたので、熊本には武蔵ゆかりの地が沢山ある。僕が見た所をあげてみると
 ・武蔵塚 ・泰勝寺跡の供養塔 ・岩戸の里の霊厳洞 ・千葉城町旧居跡 ・谷尾崎梅林公園の座禅石 ・小峰墓地入り口前の引導石 等々。中でも泰勝寺跡は年に7、8回は行くので最もなじみ深い。 
 これも以前、このブログに掲載したが、郷土史家の鈴木喬先生が生前、武蔵と泰勝寺の関わりについて、とても興味深い話をされているので再掲したい。

▼宮本武蔵と泰勝寺(郷土史家・鈴木喬先生)
 泰勝寺というのは細川家の菩提寺ですよね。忠利公が小倉から熊本に来る時にお祖父さん(藤孝公)とお祖母さん(光壽院)とお母さん(玉子=ガラシア)、この三人をあそこに祀るんですね。それでお祖父さんの戒名である泰勝院を使って「泰勝院」と名付けました。で、お父さん(忠興公)は八代に行っているんですが、お父さんはお父さんで自分の父を祀る所を八代に作って同じく「泰勝院」と名付けるんですね。ですから「泰勝院」が二つできるわけです。その後、忠利公の方が先に亡くなるわけですが、忠興公が亡くなると、次のお殿様(光尚公)が八代の方を廃し、熊本にまとめて「泰勝寺」とするわけです。細川家にとって初代夫妻と二代目夫妻を祀った一番大事なお寺ですから、そこのお坊さんには一流のお坊さんを連れてくるわけですね。最初は沢庵禅師に来てほしかったらしいのですが、なにしろ沢庵禅師は将軍様(徳川家光公)のお声がかりなので無理ということで沢庵禅師のお弟子さん(大淵玄弘)を連れてくるんですね。そのご住職と武蔵はとても親しい。そしてそのお弟子の春山和尚とも親しくなります。まだ若いけれど利発だったから武蔵も楽しかったのでしょう。とても親しくなります。武蔵にとって泰勝寺は、殿様の菩提寺であることやご住職とその弟子とも親しかったということもあってしょっちゅう足を運んだことでしょう。ですから武蔵が死んだ時は大淵和尚に引導を渡してもらったという引導石が入口に残っています。そういうわけで武蔵と泰勝寺は深い縁があるわけですね。

「くまもとをどり 2014」 演目

2014-03-15 19:56:09 | イベント
 週間天気予報によれば3月21日(金・祝)は「曇時々晴」。大雨に見舞われた昨年は本丸御殿での縮小開催となっただけに、今年は何としても2年ぶりに二の丸広場での開催になってほしいと願っている。


※「出演予定」と記された演目が舞踊団花童の出演予定演目

▼「くまもとをどり 2012」における「肥後の花娘」

「城下町くまもと時代絵巻 2014」 迫る!

2014-03-14 21:47:06 | イベント
■くまもとをどり
 と き 3月21日(金・祝)午後1時~3時
 ところ 熊本城二の丸広場
 内 容 多彩な城下町文化をモチーフとした唄や踊りを1000人の出演者が繰り広げます。

■城下町くまもと時代絵巻 2014
 と き 3月22日(土)正午~午後4時
 ところ シンボルロード(交通センター前)~熊本城二の丸広場
 内 容 シンボルロードにて演舞を行ない、その後、二の丸広場まで武者行列が行われます。
 


「こむらさき」 の はなし。

2014-03-13 20:41:43 | 熊本
 初めて熊本ラーメンなるものを口にしてからやがて60年近くが経とうとしている。最近では前ほど食べなくなったが、やはり熊本ラーメンは好物の一つだ。僕にとっての熊本ラーメンのお初は、熊本ラーメン元祖の「こむらさき」だ。しかし、僕が初めて「こむらさき」の暖簾をくぐった時、既に最初の広丁から上通り(現在の上通本店)に移っていた。「こむらさき」が上通りに店を出した頃、僕の母は近くの幼稚園に勤めていたが、当時の園長先生の昼食は、毎日「こむらさき」のラーメンだったと、よく昔話をする。
 ところで、「こむらさき」という店名の由来だが、開業した昭和29年当時、既に鹿児島に「こむらさき」という人気のラーメン店があったので、それに倣ったのだという何とも安易なネーミングの話を聞いたことがあるが、本当にそうだったのかどうかはさだかではない。ラーメン店に限らず、およそ「こむらさき」と名のつくものはほとんどが、歌舞伎の「権八・小紫」もので知られる実在した吉原一の花魁、三浦屋小紫にあやかっていると言ってよい。江戸時代前期の延宝7年、愛人の白井(平井)権八が辻斬りなどの罪で死罪となったあとを追い、権八の墓前で自害したと伝えられる。以来、「小紫」という名前は特別の名前になったらしく、吉原に限らず、各地の遊郭に、「小紫」を名乗る遊女が出現したという。熊本の二本木遊郭にも「小紫」を名乗る筆頭格の花魁がいた。おそらく熊本ラーメン「こむらさき」の創業者もそんな話は承知の上で店名を付けられたものと思う。

瀬戸坂から寺原田畑を往く

2014-03-12 20:33:20 | 熊本
 津々堂さんのブログ「津々堂のたわごと日録」を拝見していると、津々堂さんが所属しておられる郷土史研究の会「熊本史談会」では現在、「熊本城下の坂」をテーマに取り上げておられるようだ。坂の多い京町に住む一人として、とても興味深いものがある。実は随分前に京町の坂をブログのテーマとしてシリーズ化しようと取りかかったのだが、調べるのが面倒臭くなってそれっきりになっている。その頃、書きかけた文章がいくつか残っているのでこの際アップすることにした。
 とりあえず今回は「瀬戸坂とその周辺」について。

 「瀬戸坂」、古い文書では「迫門坂」とも書かれているが、同じ意味で、坂の近くに「瀬戸(迫門)」つまり「海や川の狭まったところ」があったということだろう。今日、地域住民の間では常識となっているが、寺原田畑はかつて海だったという。その証拠に周辺一帯には海に関係する地名がズラリと並ぶ。すなわち、「舟場」「津の浦」「打越」「永浦」等々(下の写真参照)。ところが、じゃあいったいいつ頃まで海だったのかというと、これがよくわからないのだ。有明海が内陸部まで入り込んだ時期というのは6千年も前の「縄文海進」や千年ほど前の「平安海進」などがあるが、6千年も前に、まるで和歌にでも出てきそうなこんな美しい地名がつくとは到底思えない。ということは「平安海進」の時ということになるかというと、寺原田畑が海ということは今の熊本市は大部分が海に浸かっていたことになる。平安時代頃の熊本の歴史を調べてもこれまた腑に落ちないものがある。ここから先は僕の仮説なのだが、海が退いた後、低地が沼沢として残り、かつて海だった記憶が子々孫々まで伝わり、沼沢を海に見立てて地名をつけたのかもしれない。ちなみに寺原(てらばる)とはこの地に浄国寺があったことからこの名がついた。浄国寺は近年、「谷汲観音」があることで有名になったが、現在の所在地は元の寺の位置ではない。

※写真はいずれもクリックして拡大できます

瀬戸坂


 上の写真は今の瀬戸坂の頂上だが、手前で瀬戸坂と直角に接しているのが、昔、「西の柳川小路」と呼ばれた通りで、ここから100mほど東の「東の柳川小路」までが切り通されて坂になったのは明治時代になってからだ。下の京町絵図(細川綱利公の時代、1650年代)で見ると、「東の柳川小路」まで平坦な土地に武家屋敷が並ぶ。そして「東の柳川小路」に取り付けられた階段から下が迫門坂となる。ということは「東の柳川小路」が現在のように南北から瀬戸坂に接する坂道になったのも明治時代になってからかもしれない。
 僕らが高校生の頃、瀬戸坂はまだ石畳で、ここを下駄音を響かせながら通学するのが一つのステイタスだった。





▼舟場…船着場 ▼津の浦…みなとの入江 ▼打越…波が塘を越えること ▼永浦…長細い入江

 

 

江里口5年連続 野林4年連続ナンバー1!

2014-03-11 14:12:00 | スポーツ一般
 2013熊本陸上競技ランキングが発表された。僕が毎年注目している短距離部門は、男子の江里口匡史(大阪ガス)が100mで5年連続7回目。女子では野林祐実(九州学院高)が100m・200mともに4年連続のナンバー1となった。
 新シーズンの開幕もあと半月余りに迫って来たが、高校を卒業し、新ステージに活躍の場を移す野林祐実と、世代交代でどんな選手が伸びてくるのか注目していきたい。

 


山頭火が世に出たワケ

2014-03-10 17:19:56 | イベント
 今日は毎年恒例の「種田山頭火供養祭」が山頭火ゆかりの植木町・味取観音瑞泉寺で行われた。法要や講演会、俳句入選作の表彰、托鉢体験などが行われた。僕の楽しみは「うえき山頭火の会」の中尾末義さんによる講演。今回の主なポイントをまとめてみた。

▼山頭火が世に出たワケ
 同人仲間でもあった大山澄太という人は物心両面で山頭火を支えたが、昭和40年代に山頭火を紹介する著書を数冊出した。これがマスメディアの目にとまり、新聞各社が山頭火を取り上げるようになり、一気に山頭火の名が全国に知れ渡った。この、大山澄太氏の存在がなければ、山頭火が世に出ることはなかった。なお、瑞泉禅寺、報恩禅寺、大慈禅寺に建てられている山頭火の句碑は大山氏の寄贈によるもの。

▼雲水であったことが幸いだった
 熊本市で事件を起こし、報恩禅寺の望月義庵に預けられ、大正14年得度したことが、後の雲水としての行乞の旅や、俳句の評価にもプラスに働いた。ただの放浪者だったらはたしてどれだけの支援や評価を得られただろうか。

▼名家育ちのお坊っちゃん
 山頭火は多くの人たちに支えられていた。しかし、山頭火自身は「人の迷惑顧みず」的なところがあったが、それは山口の名家のお坊っちゃんとして育ったことが影響していると思われる。

▼味取観音堂でも落ち着かず
 得度した3ヵ月後、望月義庵は山頭火の自立再生を期し、味取観音堂の堂守をさせる。しかし、山頭火がここに在籍した1年2ヵ月足らずの間も、故郷山口に帰ったり、亡くなった知人のお参りに佐伯に旅行したりして、実質的に堂守を務めた日数は少ない。




松のはなし。

2014-03-09 20:08:15 | 音楽芸能
 今日では、近場に松の木を見かけなくなった。僕らが子供の頃はよく松ぼっくりを拾ったり、松ヤニが手にくっついて往生したりしたものだが、近年、松ぼっくりが落ちているのさえ見たことがない。わが家の近くに九州森林管理局があるので電話して聞いてみたが、やはり昭和30年代から40年代にかけて、輸入丸太に寄生する松クイ虫による松枯れ病によって、多くが枯死してしまったらしい。今でも有明海沿岸まで行けば、ところどころにクロマツの林が残っていたり、藤崎八旛宮の参道などでかろうじて見ることが出来るが、アカマツとなると熊本市内では立田山あたりの実験林とか監物台樹木園に行かなければ見ることはできない。
 松と言えば常緑樹であることから不老長寿の象徴として、いにしえより、謡曲、筝曲、地歌、長唄、端唄などに寿ぎの歌の題材とされてきた。世阿弥の能「高砂」などが代表的で、「高砂の松」と「住之江の松」の精の老夫婦が「相生の松」として登場する。結婚式でおなじみの「高砂や この浦舟に 帆を上げて・・・」という有名な謡曲はこの能の中で唄われる。ちなみにワキとして登場するのは熊本・阿蘇神社の神主、阿蘇友成。熊本にもゆかりのある能の一つなのである。


アカマツ(監物台樹木園)




今年より 千度迎ふる 春ごとに
なほも深めに 松の緑か 禿の名ある
双葉の色に 大夫の風の 吹き通ふ
世々の誠と裏表
比べごしなる 筒井筒
振分け髪も いつしかに
老となる迄 末廣を
開き初めたる 名こそ祝せめ

今日は一日 ビデオ三昧!

2014-03-08 20:21:50 | テレビ
 今日は一日、一歩も外に出ず、ゴロゴロしながらテレビを見て過ごす。合間には録りだめしたビデオを見た。見たのは次の3本。

■にっぽんの芸能「清衡」(NHK-Eテレ)
 東日本大震災から3年。震災復興支援公演として平成25年11月に東京国際フォーラムで行われた創作舞踊劇「清衡」。出演は片岡愛之助、中村壱太郎、花柳基、花柳源九郎、尾上菊之丞、若柳吉金吾、尾上菊之丞、若柳吉蔵ほかの豪華な顔ぶれ。震災復興への願いを込めた歌舞伎俳優と日本舞踊家による舞踊絵巻。原作はかつてNHK大河ドラマにもなった高橋克彦作「炎立つ」。作・演出 水口一夫、振付・藤間勘十郎、作曲・苫舟。


■新日本風土記「祇園」(NHKプレミアム)
 京都・東山、八坂神社の門前町として発展し、300年以上の歴史をもつ花街「祇園」。細い路地に、昔ながらの紅柄格子のお茶屋が50軒以上、軒を連ねている。夕暮れ、お座敷に向かうのは美しく着飾った芸妓と舞妓。お客に披露される優美であでやかな舞。そして、厳しいしきたりの世界でひたすらに芸をみがく芸舞妓たち。この花街・祇園に生きる女たちの日常に密着したドキュメント。

■目指せ!日本一の稲穂の郷 ~菊池川流域「米」の取り組み~(RKK熊本放送)
 江戸時代から日本でも有数の米どころだった菊池川流域。今、流域の市町村が連携し、「菊池川流域「米」モデル推進協議会」なる組織をつくり、米づくりの振興と新商品開発による消費促進活動を展開している。その活動の様子を追ったドキュメント。

今年も「海達公子まつり」が・・・

2014-03-07 17:19:02 | 文芸
 昭和8年3月26日、16歳の若さで世を去った少女詩人・海達公子。今年も荒尾市では彼女の命日を期して「第5回海達公子まつり」が開かれる。
 大正5年、徳島県阿部村の行商人(通称いただきさん)だった母の行商先、長野県の飯田で生まれ、炭鉱の町、熊本県の荒尾で育った公子は小学校に入ると間もなく父の指導で自由詩や童謡を作り始める。文芸誌「赤い鳥」に頻繁に投稿し、その多くが選者の北原白秋に賞賛された。また童謡誌「金の星」の誌上では選者の若山牧水からも高く評価された。しかし、女学校卒業の春、その才能は大きく花開くことなく、16年の短い生涯を閉じる。あとには5000編の詩と300首の短歌が残された。
 その公子と若山牧水が初めて対面した時のエピソードが面白いのであらためて紹介したい。





天草れいほく町での公演

2014-03-06 19:28:05 | 音楽芸能
 上村さん情報によれば、来る3月8日(土)、舞踊団花童が天草の苓北町で公演をすることになったそうだ。花童のレパートリーには天草を題材としたものもいくつかあるが、なぜか今まで天草とはあまり縁がなかった。今回の公演を、僕の知人で苓北町で真珠養殖業を営む阿倍さんも楽しみにしておられるようだ。これをきっかけに天草との繋がりが強くなれば嬉しい。
 そこで、花童の天草関連演目の主なものをリストアップしてみた。

牛深ハイヤ節
 天草市牛深に江戸時代から伝わるハイヤ節は、全国40ヶ所以上のハイヤ系民謡のルーツといわれる。江戸時代より、船の往来により海の道を通じて全国に広まり、「佐渡おけさ」や「越中おわら節」や「阿波踊り」などのルーツになったと言われる。

牛深三下り
 「牛深ハイヤ節」の前唄として唄われる。「三下り」とは三味線の三弦を一音下げてひく奏法のことで、これにより「粋な音色」になると言う。歌詞は口説の部分と天草弁の囃子唄の部分とで構成されるが、座興唄として遊郭などで歌われていたものと思われる。

愛の南十字星
 「からゆきさん」を題材としたラジオドラマをモチーフとして長唄三味線の今藤珠美さんが創作したもので、三味線や筝に加え二胡の響きが、遠い異国で南十字星に明日への希望を託す少女たちの哀しい心情を表現している。

◆福連木の子守唄
 昭和の時代まで、小さな少女を子守奉公に出す風習も残っていた貧しい山村の少女たちの哀しい心情を歌った唄。戦後、商業ベースに乗って全国的に有名となった「五木の子守唄」よりも古い歌だとも伝えられる。福連木というのは天草下島を本渡から下田へ山越えする途中にある山村。



写真のチカラ

2014-03-05 17:58:18 | イベント
 熊本大学五高記念館で行われている写真展「冨重写真所と熊本の近代化」を見に行った。冨重写真所の写真展はこれまで3回ほど見ているが、今回は特にポスターに使われている写真(下に掲載)に強く惹かれた。何の写真だろうと説明を読んでみると、場所はなんとわが母黌・済々黌ではないか。明治35年に熊本で行われた陸軍特別大演習の際、五高の隣に新築された済々黌校舎が外国の駐在武官宿舎として使用されたとある。われわれの時代には既に校舎は建て替えられていたが、初代校舎の前で演習視察から帰って来たと思しき外国武官たちの乗馬姿に時代を感じる。
 展示されている写真の多くは、すでに写真展や写真誌で見たことのあるものだったが、明治時代や大正時代の熊本市内の写真の前では、自ずと現在の風景をダブらせながら見入っていて、時の経つのを忘れてしまう。写真というのは、どんなに言葉で説明されたり、文章を読んだりするよりも、人を納得させる強いチカラを持っていることをあらためて感じた。


ポスターをデジカメで撮影させていただきました


熊本大学五高記念館


帰りに立ち寄った泰勝寺跡(立田自然公園)入口の早咲きの桜

不開門(あかずのもん)

2014-03-04 11:50:05 | 歴史
 「春のくまもとお城まつり」のイベントの一つとして、国指定重要文化財「不開門」の特別公開が行われているので先日見に行った。特別公開と言われても「不開門」自体は本丸御殿の行事を見に行く時によく通る馴染みの門だが、櫓内部を一応見ておきたかった。昨年秋に公開された、同じく江戸時代から残る「東十八間櫓」に比べればスケール感もなく、展望が良いというわけでもない。ただ、この門が「あかずのもん」となるに至った城の鬼門に関する様々な言い伝えはさておき、僕が「不開門」側から本丸御殿へ登る時いつも感じるのは、急坂ではあるが、あっけないほどの近さである。本丸御殿の行事が昼の場合は「不開門」がまだ開いているので、ここをくぐって帰ることにしているが、急坂を利用して、本丸からあっという間に降りられる。ここら辺に何か秘密がありそうだ。

※写真をクリックして拡大できます
 

 



■不開門の話題2題

1.崩壊の危険性


 不開門の北側の城壁の一番下に、違和感を抱かせるコンクリートと赤土が見える。これは昭和初期に城壁下部が膨らんできて崩壊の危険性があったため、当時の軍が応急的に補強工事を行なった所である。田尻熊本市長の時代(昭和61年~平成6年)に改修工事を行なうべく城壁内部等の調査を行なったが、城壁一部だけの改修で崩壊の危険性を防止することは難しいことが判明。迂闊に手を出すと、上の五間櫓や不開門等の重要文化財の倒壊を招く危険性があるため、妙案がないまま今日に至っている。

2.不開門が人波で埋まった日


 普段は閑散として、熊本城入口の中でも最も入場者が少ないと思われる不開門。この不開門が人の波で埋まった日があった。それは昨年の10月26日。天皇皇后両陛下が、第33回全国豊かな海づくり大会ご臨席とご視察のため来熊された時。宿泊先となったホテル日航熊本で行われた歓迎レセプションの合間にバルコニーにお立ちになり、熊本城本丸広場からの提灯奉迎にお応えになった。不開門から登った人波は5、6千人にも達したという。

ひなまつり の 憂鬱

2014-03-03 16:38:26 | ファミリー
 今日はひなまつり。どうしても孫娘のことを考える。2、3日前に孫娘のみわは10歳の誕生日を迎えた。2、3日前というのは誕生日が2月29日なのでハッキリと言えないのだ。夏季オリンピックのある年にしか誕生日が巡って来ないのはちょっと可哀想な気もする。それにしてもみわがもう十代の仲間入りとは!。子供より孫の方が育つのが早い気がするのはやはり責任感の軽さゆえか。4月からは5年生。きっとあっという間に中学生になり、高校生になり、爺婆からはだんだん離れて行くのだろう。ちょっぴり寂しい春の夕暮なのである。



 
3歳のひなまつりの時のみわと今年10歳になったみわ


 折しも下通アーケード一帯では「城下町くまもと 肥後のひなまつり」が行われていて、ひな人形が多数展示され、行き交う人々の視線を集めていた。