徒然なか話

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隠れ御堂 ~浄国寺跡~

2021-11-17 21:16:40 | 熊本
 今では地域の通称となっている「寺原(てらばる)」地区。その名の由来は、かつてこの地区に「浄国寺」があったからと伝えられる。その「浄国寺」があった地点を示す江戸中期の絵図を今日見たので、さっそく行ってみた。
 そこは寺原の、かつて家鴨丁(あひるちょう)と呼ばれた小路の中ほどから西へ入る路地の突き当りだった。新坂の崖下になる。ここは水害も多かったためか、江戸後期に本山に移転したといわれる。それから曲折を経た後、昭和42年になって白川の河川改修に伴い、現在の北区高平2丁目へ移転して来たという。

 浄国寺跡の標柱にはその由緒について次のように書かれている。ちなみに表記は「靜国寺」となっている。

靜国寺は人皇第81代 安徳天皇 養和元年(788年前)平清盛の御願所として建立され、清盛の法号に因んで寺号を定めた。寺原一円は後鳥羽天皇 文治元年(784年前)清盛の曽孫 成幸・實明の兄弟が清盛の分骨を携え来たり 靜国寺境内に埋葬し寺内に二ヵ年居住した。
その頃兄弟が使用した茶室の井戸は吉仲氏邸に現存し清盛の分骨を埋葬の地は寺原172番地にある。
               昭和29年8月11日 熊本日日新聞社・熊本市観光課


かつて浄国寺があった地点


浄国寺跡の御堂


江戸中期の寺原の絵図


 今では浄国寺は松本喜三郎作の生き人形「谷汲観音像」の寺として広く知られている。松本喜三郎の生家は迎町で本山にほど近い。おそらく浄国寺の本山時代に縁があったのだろう。
 今年はまだ谷汲観音の参拝をしていなかったので近いうちに行くことにしよう。


現在の浄国寺(熊本市北区高平2丁目)


松本喜三郎作「谷汲観音像」


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2 コメント

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浄国寺跡 (nojinoji)
2021-11-17 23:51:58
こんばんは。
あの小道が「家鴨丁」だなんて初めて知りました。
浄国寺跡は私も知っていましたが、ここは私有地みたいでなかなか撮影しにくい場所です。前が駐車場でロープが張ってあると入って行けないし。
夕方は近くで子供達が遊んでいるので近づけないし、、、

崖崩れで亡くなった方達のための寺跡だと勝手に思っていました。
教えていただき有り難うございます。
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Re:nojinojiさま (FUSA)
2021-11-18 09:09:42
私も近年になって、かつて父や祖母が住んだことがある坪井・寺原地区を調べるようになって、昔の町名を知りました。

浄国寺跡は私もそうとは知らず、何度も近くまで行ったのですが、おっしゃるように近づきにくいこともあって浄国寺跡とは確認できていませんでした。
昨日も住民の方がいらっしゃったのですが強引に入り込みました。何か言われたら「史跡の調査」だと言うつもりでしたが、特に何も言われませんでした(笑)

移転の理由の一つは崖崩れの恐れがあったからではないかと推測しています。中坂下にあった金剛寺と同じですね。
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