徒然なか話

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明治天皇と熊本

2012-06-20 20:23:16 | 熊本
 来月30日は明治時代が終わって、つまり明治天皇の崩御からちょうど100年となる。熊本には明治天皇ゆかりの地やそれにまつわる話がいろいろ残っている。明治天皇が熊本へ行幸されたのは明治5年(1872)と明治35年(1902)の2回だ。最初の明治5年は西国・九州巡幸の折、6月18日長崎から、熊本藩が明治新政府に献上した軍艦「龍驤艦」で熊本小島沖に到着された。遠浅のため沖合から小舟に乗り換えて上陸するまで手間取り、上陸されたのは夜遅かったという。その際、随行した西郷隆盛は軍関係者の不手際に怒って、行在所で供されたスイカを投げ割ったというエピソードが残っている。行在所となったのは旧藩時代、細川家の御旅所となっていた米村家(現存)だった。
 余談になるが、この時からさかのぼること約20年、嘉永6年(1853)に薩摩藩・篤姫のお輿入れに西郷さんが随行した時は、豊前街道・御馬下の角小屋での休息の折、篤姫が供されたスイカのあまりの美味しさについ食べ過ぎて侍女にたしなめられたというエピソードもあり、さすがは熊本、スイカの名産地である。
 さて、翌19日の行在所となったのが新町の会輔堂、旧藩時代は御客屋として肥後藩の迎賓館だった所である。この8年前には長崎に向かう勝海舟や坂本龍馬も宿泊している。現在は一新幼稚園の敷地となっており行幸記念碑が建っている。
 2回目の行幸は明治35年、熊本で陸軍大演習が行われた時だ。まるで父のように慕っていた西郷さんは明治10年に逆賊として死んでいった。前回の熊本行幸のわずか5年後のことだ。2度目の熊本で明治天皇の胸に去来するものは何だったろうか。この2度目の行幸に際し、御料車が登れるようにと行幸坂(みゆきざか)と行幸橋(みゆきばし)が造られた。今、熊本には明治天皇の行幸を記念する「みゆき」という名前を冠するものがいくつかある。この行幸坂と行幸橋はもちろんそうだが、明治天皇が最初に上陸された小島には「御幸(みゆき」という地区があるし、熊本市の南区には頭に「御幸」を付けた町名が多い。すなはち御幸笛田町や御幸西無田町など。その由来については御幸小学校のホームページに次のような記載があった。

▼学校名「御幸」の由来
明治35年11月13日、陸軍大演習統覧のために熊本に行幸された明治天皇は、その帰り、西無田付近で沿道の奉迎者の中に婦人に背負われた老婆をご覧になって早速、清浦法相(熊本県出身で、後の内閣総理大臣)に命じて調べさせられたところ、同村、田中茂二太の母ヤヲ(88歳)と娘ジュミ(55歳)と分かった。天皇は、老婆の健康と娘の孝順をたたえるために、徳久恒徳知事を自宅に遣わして、お見舞いのことばとお菓子を賜った。このことに感激した地元部田村では、上村校長の提案で、御幸村と村名を改称することを村会で議決、当局に申請した。翌年3月に内務省は官報をもって正式に告示した。明治36年3月12日「御幸村」と改称するとともに明治36年1月1日本校名を「御幸小学校」と変更した。

 明治5年の「西国・九州巡幸」に随行した幕末・明治期の写真師・内田九一が撮影した当時の写真が残っている。


明治天皇が見た明治5年の熊本城(1)
数寄屋丸の方から大小天守を望む。平左衛門丸には錦山神社(加藤神社)が見える。


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