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錦坂(にしきざか) ~ 紅燈艶かしい京町遊郭の名残り ~

2014-06-13 16:47:56 | 歴史
 父の教員仲間だったI先生が師範学校生時代の昭和10年に著した京町についての研究レポートがある。各種文献や地区の長老の話などをまとめたものであるが、その中にこんな記述がある。

 商業都市としての京町の本通りには遊郭が生じて、今の加藤神社(新堀)の所は坪井川の河江の港として、天草、島原よりの薪船等が、百貫の港のようにどんどん港付し、一つの港町として栄えたのである。ゆえに港町にふさわしい遊郭ができるのももっともである。

 明治7年に加藤神社が城内から新堀の錦山に遷座した時、下を流れる坪井川の舟客が錦山の神社に登るために付けられたのが錦坂なのである。そして明治10年までのわずか3年余の間、京町・新堀は遊郭の町となった。
 僕が幼稚園の帰り道のルートの一つであった昭和25年頃の錦坂周辺は、すでに坪井川は付替えられ、新堀は上熊本-藤崎宮間の電車が走り、港町の痕跡はどこにも見当たらなかったのである。

※京町に遊郭ができた経緯については下の文章をご参照ください



▼明治7年、新堀に遷座した頃の加藤神社(錦山神社)と手前の磐根橋


▼新堀に遷座した頃の磐根橋と門前町


▼現在の錦坂と旧坪井川(暗渠化)と錦橋


▼現在の磐根橋


▼現在の旧新堀町


▼現在の京町1丁目本通り


▼京町に遊郭ができたワケ(紅燈夜話:大正14年発行より)
 坪井立町の三浦栄次という人が慶応年間に京町1丁目に「ゆくとせ」という料理屋を開業した。それが時流に乗り、明治4年の廃藩置県が施行されると当時、二の丸にあった八代松井家のお茶屋「一日亭」の払い下げを受けた。そしてそれを新堀町に移築し、「一日亭」そのままの名前で営業を続けた。さすが松井家のお茶屋だっただけにその風格ある店構えに、地位ある人々の行楽の場所となった。「ゆくとせ」時代から抱えていた多くの芸者に加え、「一日亭」となってからも新たな芸者が加わり大いに人気を集めた。それと相前後して、船場にあった「うろこ」という飲食店が同じく新堀に移り、「鱗開楼」という料亭を開業した。ここは一風変わっていて、西洋料理を食べさせるなど当時の人々の興味をそそった。また「一日亭」と同じく10数名の芸者が艶を売るという具合で、一流の料亭として高級官僚など著名人を顧客として繁盛を極めた。
 その頃、町中の小料理屋にも町芸者を抱えていて紅燈緑酒の様を呈していたが、一方では私娼、売女の群が、徳川太平の世になれて、維新後に及んでも益々蔓延っていた。明治政府は先進諸国にならい、私娼を一ヶ所に集めた公営遊郭の必要性に迫られた。明治7年、菊川喜太八という人が願主となって遊郭設置の請願を行ない、許されて初めて熊本に遊郭が誕生することになった。初代の熊本県令安岡良介の時である。当時の達示によるとその区域は新堀、京町1・2丁目に限るということであった。新堀、京町が指定されたのは町が劃然と一つの区画として整っていたこと。加えて、「一日亭」、「鱗開櫻」などによって既に花街の体をなしていたこともあった。当時店を張った妓楼は清川楼、玉川楼、新玉、満月、東雲楼、泉屋、ぬしや、浪花亭などがあり、さらに次々と増え20余軒に及んだ。東雲、清川、満月などの大店といわれる店には17・8人から25・6人、小店でも7・8人からの女を抱えていた。
 こうしてぼんぼりの灯影なまめかしい遊里となった京町には幾多の艶話哀話が生まれた。芸妓瀧次と相場師天満屋卯平との恋物語、種田少将の愛妾小勝の義侠心その他多くの語り草を残している。明治9年神風連の乱の際、襲撃を受けた熊本鎮台の聨隊長輿倉中佐は「一日亭」に入り込み髭を剃り落し、使用人の法被を纏って姿を消したという逸話もある。
 全盛を誇った京町の廓、丸3年の栄華の夢も明治10年の西南の役で焼けて灰燼に帰した。その後、京町の遊廓の存続について関係者の間で協議されたが、地域住民とのトラブルも絶えなかったことなどから断念し、その内、二本木及び迎町に限って遊廓地の許可を乞う申請があり、同年の冬、時の県令富岡敬明は、当時畑地であった二本木一帯に公娼地の許可をした。ここには京町から移って来たものや新たに開業するものなどもあり、曲折を経ながら西日本屈指の遊郭として繁栄して行った。


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