昨日の記事には山頭火の自由律俳句については一切触れなかったので、付け足しておかなければならないだろう。
劇中、彼の多くの作品がプロジェクターで映写しながら朗読されたり、曲が付けられて歌唱されたりしたが、モチーフとなっていたのは
「分け入つても分け入つても青い山」
という句である。この句には曲が付けられ、最後は出演者全員で斉唱した。
この句は句集「草木塔」の大正十五年四月の前書きに続いて収められている。つまり、堂守を務めていた植木町の味取観音を離れ、行乞流転の旅に出発した時の句である。これから辛く寂しくあてのない旅が始まることを予感していたのだろう。
そして彼は愛する妻子のもとへ帰ることなく一生を終えるのだが、1989年にNHKで放送されたドラマ「山頭火 何でこんなに淋しい風ふく」の、妻サキノさんのセリフがすべてを物語っている。
―――残された句を、読んでみますと、なんと淋しい句が多いのでしょう。……泣きながら、旅をしております。……あたたかい団欒を、人一倍欲しがっておるのに、不器用でそれをつくれなかったお人の涙が、このたくさんの句だと思います。……結局は帰ってまいりませんでしたが、ずっと待っておってよかったとわたしは思うております。……かわいそうなお人でした。―――(作:早坂暁)
▼「草木塔」より
大正十四年二月、いよいよ出家得度して、肥後の片田舎なる味取観音堂守となつたが、それはまことに山林独住の、しづかといへばしづかな、さびしいと思へばさびしい生活であつた。
大正十五年四月、解くすべもない惑ひを背負うて、行乞流転の旅に出た。
味取観音瑞泉寺
味取観音堂
劇中、彼の多くの作品がプロジェクターで映写しながら朗読されたり、曲が付けられて歌唱されたりしたが、モチーフとなっていたのは
「分け入つても分け入つても青い山」
という句である。この句には曲が付けられ、最後は出演者全員で斉唱した。
この句は句集「草木塔」の大正十五年四月の前書きに続いて収められている。つまり、堂守を務めていた植木町の味取観音を離れ、行乞流転の旅に出発した時の句である。これから辛く寂しくあてのない旅が始まることを予感していたのだろう。
そして彼は愛する妻子のもとへ帰ることなく一生を終えるのだが、1989年にNHKで放送されたドラマ「山頭火 何でこんなに淋しい風ふく」の、妻サキノさんのセリフがすべてを物語っている。
―――残された句を、読んでみますと、なんと淋しい句が多いのでしょう。……泣きながら、旅をしております。……あたたかい団欒を、人一倍欲しがっておるのに、不器用でそれをつくれなかったお人の涙が、このたくさんの句だと思います。……結局は帰ってまいりませんでしたが、ずっと待っておってよかったとわたしは思うております。……かわいそうなお人でした。―――(作:早坂暁)
▼「草木塔」より
大正十四年二月、いよいよ出家得度して、肥後の片田舎なる味取観音堂守となつたが、それはまことに山林独住の、しづかといへばしづかな、さびしいと思へばさびしい生活であつた。
- 松はみな枝垂れて南無観世音
- 松風に明け暮れの鐘撞いて
- ひさしぶりに掃く垣根の花が咲いてゐる
大正十五年四月、解くすべもない惑ひを背負うて、行乞流転の旅に出た。
- 分け入つても分け入つても青い山
- しとどに濡れてこれは道しるべの石
- 炎天をいただいて乞ひ歩く
味取観音瑞泉寺
味取観音堂
「分け入つても分け入つても青い山」を出演者全員で斉唱でしたか!
う~ん、句だけを読むと何か訴えてくるものがあるのですが、どうもプライベートな部分を聞くと不可解さを感じます。
太宰治も青春期に何冊か目にして、心に響いた気がしますが、38歳で入水だそうですね。映画「人間失格 太宰治と3人の女たち」なんかを観ると「何だ、この青二才!」なんて思いましたね。三島由紀夫だって45歳だったんですね、
文学にしろ俳人にしても、「私」とは別物の人々に愛される「文字」の世界があるのでしょうかね?
山頭火の句「どうしようもない私が歩いている」そのものが山頭火個人から離れた「文学の世界」ならば憧れられたり、愛されたりするのでしょうか。
私自身、聖人君子でも何でもないどこにでも居る普通のおっさんですが、山頭火の「私」の部分に触れると句が色褪せてしまうのですが・・・私に何かが欠落しているんでしょうか?
三島も割腹自殺をした時には夢中で文庫本をあさりましたものですが、太宰と同様に「何をやりたかったんだろう?」と最近思うことです。
山頭火の妻サキノさんですか、「・・・ずっと待っておってよかったとわたしは思うております。……かわいそうなお人でした。」なんてまるで山頭火が我が子のようで幸せ者だったんだなと思うことです。58歳で没したんですか。
世の中には、そんな年齢で見捨てられていく者たちも山と居そうですが・・・。
何か好き勝手なことを書き連ねましてすみません。
有難うございました。
山頭火の生前からサポートし、実質的なプロデューサーでもあった大山澄太の数々の著書により、特に70年代以降、山頭火のことが広く知られるようになり、彼の自由律俳句が若い層を中心に好まれるようになりました。句のもつ自由で磊落なイメージが、自由を求める時代の空気にマッチしていたのでしょう。
実際の彼の旅はつらいものだったようですが、それは知らなくてもいいと思います。読む人それぞれが自分なりに彼の句を解釈し楽しめばいいと思います。
山頭火を強引に出家得度させた報恩寺の望月義庵師や大山澄太氏、それになんといっても彼を見捨てなかった妻のサキノさんや息子の健さん、結局、彼は人に恵まれていたんですね。