徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

東雲節の時代

2017-10-27 23:17:54 | 音楽芸能
 熊本民謡の中にも含まれている東雲節(しののめぶし)別名ストライキ節。年配者の中にはこの歌がふと口をついて出る、なんていう方が結構いらっしゃる。しかし、今ではこの歌の演奏をナマで見たり聞いたりする機会はほとんどない。「ポンポコニャ」や「キンキラキン」などの他の熊本民謡と同様、意外と歌うのは難しいという話も聞く。演奏家の皆さんにも機会があれば、ぜひ披露していただきたいものだ。昭和57年(1982)4月に発行された「熊本県大百科事典」には、この歌について次のような解説が掲載されている。

 熊本とかかわりのある民謡で、のちにストライキ節となって流行する。本来は端唄の一種で、元歌の

〽なにをくよくよ川端柳 こがるるなんとしょ
 水の流れを見てくらす
 東雲の暁の鐘 ごんとつきゃ辛いね
 てなことおっしゃいましたかね―

は、遊客が敵娼(あいかた)とのきぬぎぬの別れを惜しむ情歌だった。それが明治30年代から全国的に起きた娼妓解放運動にひっかけて、次のような替え歌が普及したといわれる。

〽祇園山(花岡山)から二本木見れば 倒るるなんとしょ
 金は無かしま(中島) 家も質(茂七)
 東雲のストライキ さりとは辛いね
 てなことおっしゃいましたかね―

 東雲というのは熊本市二本木遊郭の大店・東雲楼のこと。米相場師中島茂七の経営で、90人の娼妓を抱える御殿のような豪勢さだったが、借金に縛られる娼妓たちの生活にはひとかけらの自由もなかった。しかし全国的解放運動の中で、熊本でも明治33年(1900)10月から12月にかけて110人前後の廃業届が出た。楼主たちはありとあらゆる手段を使って自由廃業を妨害したが、そうした楼主たちの悪どさ、それに廃業した娼妓たちが容易に社会復帰できない哀れな現実を歌ったストライキ節が流行したのである。楼主の名前を巧みに盛り込んだ替え歌は、娼妓と民衆との間の一種の共同幻想の歌といってよかろう。この時期には二本木遊郭での娼妓の集団脱走やストライキの記録は残されていない。
(藤川治水・小川芳宏)



東雲楼随一の売れっ子・東雲(左)とストライキの指導者・夕霧


東雲楼の庭園


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