のすたる爺や

文明の果てなる地からのメッセージ

トロツキーとフリーダ・カーロ

2007年02月09日 | 日記・エッセイ・コラム

レーニン亡き後のソビエトの指導者を巡って、ヨシフ・スターリンと後継者争いをしていたのがレオン・トロツキー(1879-1940)です。この時代をあざ笑うように風刺した英国の作家オーウェルが書いた「動物農場」は12月31日のコラムで紹介しました。

 ウクライナのユダヤ系家庭の生まれで学者肌で理論派のトロツキーと、グルジア生まれで実務派のスターリン、水と油のような仲ですが、スターリンの魔の手が自分に迫ってきていることを察したトロツキーは1927年、トルコを経て、フランス・ノルウェーと逃げ延び、メキシコに行き着きました。

 マンガですが「虹色のトロツキー」(安彦良和 ・潮出版社もしくは中央公論社)と言う全8巻の本が出ています。マンガと侮るなかれ、ノモンハンの会戦や関東軍の石原莞爾のことなど、昭和前半の歴史物語が興味深く描かれています。日中戦争を避けたい石原莞爾がトロツキーと手を組んで、日本軍の矛先をスターリンのソ連に向けようとする策略や、それを盗み聞きした村岡小次郎が、東条英機が石原の監視役に満州に送り込んだ甘粕正彦に密告する話など興味深いです。ちなみに村岡小次郎はテロリスト集団の血盟団の一因で、その親玉が井上日召という私の高校の先輩に当たる人物です。

Torotsky  トロツキーは基本的に亡命者なので、ビザもパスポートもないままにトルコ・フランス・ノルウェーと渡り歩き、1937年に終焉の地メキシコにたどり着きます。

 メキシコでは著名なフレスコ画家のディエゴ・リベラに匿われ、暗殺者を警戒した要塞のような家で生活をします。当時のメキシコは各地から革命画家と呼ばれる人たちが集まっていたようで、ディエゴ・リベラはメキシコ人ですが、こうした運動に参加していたようです。画家と政治思想と言う取り合わせも奇妙な取り合わせですが、そんな時代だったと言うことでしょう。

 「革命」なんてものを旗頭にすれば勃発するのは内部分裂。メキシコの革命画家にもスターリンよりの画家がおり、スターリンは当時メキシコを代表する画家ダヴィド・シケイロスを隊長にした。20名の暗殺団を作らせトロツキーの暗殺を謀りますが失敗します。画家がゴルゴ13を描くのではなく実演していたのですから物騒な時代です。

 暗殺者を恐れ警戒する生活を送りながらも、トロツキーの生活は決してつまらないものではありませんでした。

 シケイロスの暗殺失敗事件まではフリーダ・カーロの持ち家の「青い家」に住んでいましたが、この事件をきっかけにトロツキーは引っ越します。安全のためと言う名目と、実際はフリーダ・カーロのと不倫でディエゴ・リベラとの間に不協和音が出始めたこともあるようです。

 1940年8月20日、メキシコ市郊外の家でスターリンが放った刺客にピッケルで頭を砕かれてトロツキーは絶命します。暗殺者はトロツキーの女性秘書のボーイフレンドになりすまし、トロツキーに近づきグサリとやったそうです。

Frida  さて、トロツキーと浮名を流したフリーダ・カーロなる人物。「痛みの画家」などと呼ばれるメキシコを代表する画家です。2002年には「フリーダ」と言う映画も作られ。アカデミーでも部門賞を獲得しています。

 フリーダ・カーロの人生も激しい人生でした。幼い頃わずらった小児麻痺で左右の足の長さが違い、18歳の時には交通事故で脊髄、肋骨、骨盤、鎖骨を砕き、生涯32回の種々とを受け、いつも何かしらの痛みが全身を襲っている辛い病を持っていました。自画像の画家とも言われ、自分をモチーフにした絵をたくさん残しています。ベッドに寝たままで絵を描いていたそうです。

 彼女の絵はシュール・レアリズムに属しますが、印象派のモジリアーニの絵のような華奢な人物と、男性には耐え難いような生々しい血なまぐささと言うのか、女性の持つおどろおどしい部分を描く画家でした。昨年の夏に渋谷でメキシコ女流画家の展覧会があり、彼女の絵が目玉でした。

 彼女は濃い眉毛をしていて、よく見ると左右の眉がつながっていたそうですが、彼女の描く人物画は自分がモデルなので、亀有公園前派出所の両津巡査長のように眉がつながっています。

 気性の激しい女性だったようで、革命運動はするし、結婚もしたし、浮気もするばかりか、同性愛に走ったり、ついでに離婚までしてしまった闘士型の女性画家です。これだけの女性はロシアでもいないと思います。トロツキーとの恋など彼女の人生のおまけのようなものです。

 トロツキーと言うと私の世代では既に社会主義のアラが見えていた頃なので、ソ連中国を旗頭にしたくない左派の連中が「第4インター」だ「トロツキー」だ、などとよりどころにしていた感もあり興味ももてなかったのですが、最近はそうしたしがらみもなくなり興味の一角としてとらえられるようになったと思います。

 さんざんひどい目にあいながらもスターリンの流れを汲むロシアではあまりトロツキーについては語られませんし、知られていません。もはや、タブーでもないようですが、話題にするほどの存在でもありません。

 余談ですが、メキシコの次にトロツキーが行こうとしていた国は日本だそうです。ソビエトにいた頃も日本語でサインをしたり、片言の日本語を喋ったり、日本に興味を持っていたそうです。

 実際、トロツキーが暗殺された頃、日本ではトロツキーをタンカーに乗せて日本に連れて来ようと計画が進んでいたのだそうです。

 スターリンと覇権を争ったように語られるトロツキーですが、実際にトロツキーとスターリンが顔をあわせたのはたった一度だけで、その歴史的な瞬間になぜか片山と言う日本人が立ち会っていたそうです。

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