各地に大雨の被害が出ている中、午前中は降る気配がなかったので雨が降り出すまで仕事をしてました。今日は一人仕事。気温はそれほど高くなかったのですが、湿度がたっぷりで汗が乾かない。実施、家の中に干した洗濯物も乾かない不快指数100%とも思える湿気。
薪を積んだ屋根の下から茶トラ猫の三井田さんが顔を出して「なんか食い物ねぇかなぁ。」と、こちらを見ていました。軽トラの中に三井田さん用のキャットフードを持ってきていたので、一掴み板の上に置いておいたら、作業している間に食べたようでなくなっていました。
9時半を回ったころ、2kmほど離れた地区のおやじさんが散歩してきました。80代後半なのに足腰達者だなぁ。と感心しました。少し早いけれどお茶にしようかなと、「お茶でも飲んでいきませんか!」と声をかけて、綾鷹のペットボトル手渡して、丸太に腰かけてどら焼き食べながらお茶タイム。屋根の下から三井田さんが顔出して「何食ってるんだ?」と凝視していました。
伊勢湾台風の時の話をしてくれました。私が生まれる前の台風なのでどんな規模だったのかはわかりませんが死者行方不明5000人の大災害。昭和34年9月26日。これは昔山口百恵が出演していた「赤い疑惑」の冒頭で毎回出てきたので覚えています。当時このおやじさんは名古屋で働いていたのでその被害を鮮明に覚えていました。が、ところどころ話が混とんとしたり、私のことを私の父と勘違いしている様子だったので、まさか?と思い「ちょっと仕事の電話してくるから、お茶飲んで待っててください。続きの話も聞きたいですから、」と、その場をちょっと離れて息子さんに電話を入れると、「急にいなくなって探していたんです。」やはり。うまく話を合わせながらここにとどめておくから。と、迎えに来てもらうことにしました。
その間、昭和39年の新潟地震の話なんかしていたのですが、奥さんが妊娠中で先ほど電話した息子さんが飛び出てくるんじゃねぇかと心配だったそうです。私も3歳になるちょっと前でしたがあの地震の時はよく覚えています。家の外で遊んでいたら地面が揺れだして家の玄関のコンクリートがひび割れて持ち上がり、母が家から飛び出してきて私を抱えて裏の林の中に走って行ったのですが、当時の家の裏には釣り堀があり、その池の水が沸騰したように飛び跳ねていたのを覚えています。
「人生ってのはあれだね、災害を経験しながら積み上げていくもんだね。」と言うあたり、ほんとにボケているのかな?と疑いたくもなりますが、おやじさんは伊勢湾台風どころか戦争だって経験してきているんじゃない。「終戦の時は8歳だったけどな。」人柄なのか?きれいでいいボケ方しています。
そんな話をしていると息子さんが迎えに来てくれましたが「どっかで見た人だけど、どちらさんかね?」と、息子のことがわからない。ああ、心配しないで、私の友人だから家まで乗せてってもらうといい。もうすぐ雨が降るよ。と、助手席に乗せて、また懐かしい話でもしましょう。と、送り出しました。息子さんも目に涙ためて深々と一礼すると「ご迷惑おかけしました。」迷惑なんてとんでもねぇ、面白い話聞けて良かった。大事にしなせぇ。と、見送りました。
高齢化地帯に住んでいるとこういう老人と接することはよくありますが、病院や施設に入ったのか、いつの間にか姿を見なうなったと思って対碑が建ち訃報が入る。歳を纏うことはこういうもんでやがて自分の姿なんだけど。まさか今日見た姿が最後になるかも?と、思うと、貴重な時間だったんじゃなかろうか?
午後から土砂降りになったので引き上げてきましたが、猛暑の8月よく生き延びられました。
明日は関東大震災101年目か。