のすたる爺や

文明の果てなる地からのメッセージ

糟糠の妻

2006年12月06日 | 日記・エッセイ・コラム

 「糟糠(そうこう)の妻は堂より下さず(後漢書・宋行伝)」 「糟糠」とは「かす」や「ぬか」のことで、粗末な食べ物を意味します。貧しい時代、苦労をともにしてきた妻は、後に偉くなり出世しても家から追い出すようなことをしてはならない。という意味です。

 後漢の光武帝の時代の建武2年(西暦25年ごろ)、宋行という要職につく人物がいました。糟糠も宋行も日本語では(そうこう)と読めますが、名前の語呂合わせではありません。

 宋行はとても真面目で厳格な人間で、その上温厚な人柄でした。光武帝が下品な音楽を好むことを戒めたり、美人画の屏風に夢中になっているのを注意したり、自分の「意」とすることをはっきりいえる人物だったそうです。さしずめ今で言うなら「総理!モーニング娘の歌を聞いて、ビニ本に夢中になっていて政治が勤まると思っているんですか!」といえる国務大臣でしょう。

 まだ天下が動乱の時代だったころ、赤眉の軍隊が長安に迫ってきて、宋行に赤眉に従うように圧力をかけてきました。宋行は赤眉に従うくらいなら、渭水に身を投げて死のうとしました。しかし、助け出され説得され、家族と共に宋行は死んだという噂を流し、人目をしのんで立ち上がる時が再び来るのを待ちました。宋行の妻はそんな厳しい時代を共に苦労し支えてくれた妻でした。

 その頃、光武帝の姉の湖陽公主の夫が死に、姉の夫にふさわしい人物がいないものだろうか?と宦官たちと相談したところ、誰もが宋行様ほど人物人徳に抜きん出た人物はいませんと口をそろえて言います。

 確かに宋行は徳のある人物だが、本当にそうなのだろうか?と思った光武帝は宋行を試してみることにしました。

 光武帝は「世間ではよく”貴にして交わりを易(か)え 富みては妻を易う (地位が高貴になったら地位にふさわしいように付き合う相手も変える、財力が豊かになってきたら貧しいころの妻に替えて財力にふさわしい妻をめとる)”というが、これは人の情というものではないか?」と宋行に問います。

 宋行の答えは「いいえ、私は”貧餞の交わりは忘るべからず(貧しく地位が低かった頃の友達はいつまでも忘れてはならない)、糟糠の妻は堂より下さず(苦労を共に下妻は家から追い出してはならない)と聞いています。また、そういうものだと思っています」と毅然と答えました。

 光武帝は屏風の陰に姉の湖陽を隠して、宋行とのこの会話を聞かせました。私はこのことから、光武帝の姉の湖陽が宋行を気に入っていて、妻と別れさせて自分の夫にしたいと思っていたので、光武帝が一計を案じたのではないかと推測していますが、光武帝は屏風の陰にいる姉に「うまくいかないものですね」とつぶやいたそうです。

 糟糠の妻をないがしろにしてとんでもない雌狐に食い荒らされてしまった男はあまたといます。芸能人などを見ていると、売れない下積み時代を支えた妻がいながらも、浮気を不倫と言い換えることで罪悪感が麻痺し週刊誌の飯の種になっている連中があとを立ちません。この類に憑依する雌狐は人様の物を略奪するまでも過程が楽しいだけなので、だいたい、糟糠の妻と別れると雌狐にも見限られ、ブラウン管からも消えていきます。

061206l  財を成して糟糠の妻をないがしろにすると、あとから来るのは消費だけがとりえのデフレ対策の切り札のような女で、贅沢三昧の自称グルメで”糖尿の妻”になるのがオチでしょう。

 艱難汝を珠にするか艱難汝を駄目にするかの分かれ目は当人の心がけ次第でしょうが、人間「安定」するとろくなことを考えないもので、「苦労」が無いことは不幸への序章かもしれません。

 「官につくなら執金吾 妻をめとらば陰麗華」 後漢を興した初代皇帝・光武帝劉秀の言葉です。

 今から2200年前に秦の始皇帝の作った秦を打ち破った楚の項羽を倒してから200年。中東ではイエスキリストが生まれたころ。漢は衰退し劉一族は追われ、王莽(おうもう)の反逆による(西暦8年~25年)という国にっていました。このをはさんで劉邦の打ち立てた前漢劉秀の再建した後漢に分かれています。

 後漢から200年後の三国志の時代にの末裔劉備元徳は蜀です。

 執金吾というのは都の治安を守る警備隊の長官のことで、漢の劉一族の末裔とはいえ、当時たいした身分でもなかった劉秀は「こんな身分の役人になってみたい」と憧れた職務でした。

 漢の劉氏の血筋とはいえ、当時の皇帝には2-3000人の後宮がいたので、劉の名こそ継いでいても末端ともなれば普通の人々と変わりません。劉秀もそんな1人でしたし、後の劉備など農民でした。

 その当時名もなき劉秀には陰麗華という恋人がいました。が、当時は礼を重んじる儒教の厳しいご時世、礼にはじまり礼に終わるどころか、何から何まで礼、礼、礼、でがんじがらめの時代です。自由恋愛など認められない世の中でしたから、正式な結婚以外は世に認められる男女の仲など存在しませんでした。

 正式な結婚とは、まず、仲人を立て・仲人が家柄のつりあいそうな相手を見つけ・親に紹介をし・両家の合意が得られたら結納をし、まあ、当事者の男女は結婚するまで相手に会ったことがないなど当然でした。日本でもごく最近まで同じような結婚形態がありましたが、中国でも同様でした。

 当時このような礼にならわない男女の仲は野合と見なされて蔑まれる対象です。没落していたとはいえ、思慮も分別もある身分の男性が「妻をめとらば陰麗華」などと、惚れた女の名を公言することは前代未聞のことでした。

 理想主義に走ったはやがて国の運営も立ち行かなくなり、各地で叛乱の火の手が上がります。これに兄の劉縯(りゅうえん)とともに劉秀も加わり、この反乱軍の名を緑林軍と呼びました。緑林軍は王莽を蹴散らし、皇室の血を引く劉玄という男を皇帝に擁立し更始帝となります。

 ところが、この更始帝、劉秀の兄弟が有能だと察すると自らの保身のために、兄の劉縯に不敬罪の濡れ衣を着せ殺してしまいます。自分の身も危ういと感じた劉秀は劉玄の元を離れ独立します。この時代、我こそが皇帝という連中が各地に蔓延した時代でした。

 劉秀が念願だった陰麗華を妻としたのは、皇帝になる前年のことでしたが、その後郭聖通という女性を妻としてめとります。皇帝乱立の時代、それらを統括して一つの国にまとめるには有力者の後ろ盾が必要でした。郭聖通の父親もまたそんな有力者の1人でした。また、郭聖通の叔父真定王・劉楊という男もひとかどならぬ大物でした。

 政治的な策略結婚で愛情などないとはいえ、やることはやったようで、程なく郭聖通のほうに男の子が生まれてしまいます。この子供が後を継いで皇帝になった場合、郭聖通を皇后にしなければなりません。思い悩む劉秀に愛妻の陰麗華はこういいます。「お子を産んだ方が皇后になるのが筋ではありませんか」そういって、陰麗華は自ら皇后を辞退します。

 やがて劉楊の援助もあって戦には連戦連勝し、劉秀は後漢の皇帝となり、荒廃した長安を捨て都を洛陽に移します。そのころには愛妻陰麗華にも男の子が生まれています。

 皇后の郭聖通は名門の生まれということもあり気位が高く、親の威光をひけらかし、他人の気持ちを慮ることができない女性でした。某総理大臣の娘さんは外務省の改革にメスを入れただけたいしたものですが、郭聖通は真紀子さんの悪いところだけ具現化したような女性でした。

 苦労人の劉秀にはこれが気に障って仕方がないことです。劉秀も郭聖通の実家の力を借りてここまでのぼり詰めたこともあって頭が上がらないうところもありましたが、やがて皇帝に対して頭ごなしに物を言うようになります。

 「この女の実家の力ももはや必要ではなくなった。」そう判断した劉秀は西暦41年、皇后・郭聖通を廃しその息子劉彊(りゅうきょう)の皇太子の地位を剥奪します。

 打算で結ばれた結婚などその目的が達成してしまえばもろいものです。しかし、愛情はどこまでも深く死してもなお尽きることがない尊いものです。比べようはずもありません。

 その後、皇后の地位についたのは皆様お待たせの陰麗華で、このとき彼女は36歳になっていました。光武帝・劉秀とは10歳とも15歳とも言われる年齢差があったそうですが、中年になってもなお夫の心を独占しつづけた魅力もあったことでしょうが、目移りもせず貫いた光武帝・劉秀という男にもひとかどならぬ魅力を感じます。

 中国の女性の物語といえば夫の威光を笠に着て邪知謀略の限りを尽くす話ばかりが、伝説の時代から西太后へ、そして毛沢東夫人の江青まで幾多となくつづきます。そんな中で陰麗華は珍しく不幸な末路を歩まなかった稀有な存在でしょう。

 英雄色を好むといいますが、男など英雄でなくてもちょっと成功したら性交に走るもので、さんざん苦労を共にした糟糠の妻を捨て若いおねえちゃんに走った挙句、世間の信用を失い、やがてその愛人からも見放され現実を思い知ったところで覆水盆に返らず。女性週刊誌をにぎわす芸能人ばかりか巷やご近所にもわんさといるものです。

 そういった意味では理想の妻を待ちつづけた劉秀も立派な男の鑑ではないかと思います。皇帝ともなればいくら妾を作ろうが、社会的に何も非難されませんし週刊誌もワイドショーもなかった時代にです。

 陰麗華も自分の魅力を容姿よりも聡明さや性格的なものにおいたところが偉大だなと感じますが、これも劉秀に愛されていると自信があったからかもしれません。歴代の后妃や有力者の妻達は容姿の衰えぬうちに主をたらしこんで、ライバルを蹴散らすことに全力を尽くすのですが、陰麗華は夫の利益のことを先に考え自ら一歩引く大きな賭けにでた度量もたいしたものです。

 「妻をめとらば陰麗華」言われただけのことはあります。

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1 コメント

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偶然ですが このブログにたどり着きました。 (moto)
2007-05-23 13:34:16
偶然ですが このブログにたどり着きました。
なんか 考えさせられる文章ですね。
書かれていること 最もで。
目には見えないけど 人の情と言うのは大切なものですね。
私は 今 主人と子供の3人暮らしですが
子供が小さいときはほんとに貧しくて(今でもあまり変わりませんが)他人さんをうらやむ気持ちでいっぱいでした。
でも、今は 家族がみんな元気で、
祖父母も 平均寿命以上生きさせてもらい 苦しまずに 老衰を迎えさせて
もらいました。まだ 100歳を前にした2人
が残っています。
結婚して21年 これが 人間の幸せかな
なんて 思っています。
また 訪問させていただきます。
長く 続けてくださいね。
よろしくお願いします。
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