のすたる爺や

文明の果てなる地からのメッセージ

内なる異性

2007年02月10日 | 日記・エッセイ・コラム

 以前、テレビで武田鉄也が人間は歳をとるとだんだん中性化していくと言う話をしていました。男性の中にも女性的な要素があり、女性の中にも男性的な要素がありまして、これをカール・グスタフ・ユングは「アニマ」と「アニムス」と呼んでいます。

 「繁殖」の必要がなくなった晩年なら取り立てて男であることや女である事を強調せずとも、そのエネルギーを余生に向けるために中性化した方が穏やかに過ごせるから自然の摂理かもしれません。夫婦や男女がお互いについて理解し会えるのが晩年になるのも。お互い中性化していく過程の中で、自分自身を知ることで理解できるのかもしれません。

 私自身がそんな事を感じるようになったのは40歳前後で、今まで「女々しい」と毛嫌いしていた花の栽培などをやるようになり、この何年かはすっかりはまり込んでいます。何事も理論整然としていないと気に入らない攻撃的な性格だったのですが、曖昧を許容するようになり妥協をおぼえてきたのも年齢を経て中性化している証左なのだろうか?

 ジェンダーフリーとやらで、男性と女性との境界線を取っ払う動きがでていますが、これはあくまでも社会的なことで、本来人間が持っている「野生」の部分を変化させる事は良い結果を招くとは思えません。

 少子化が問題になる国に生きる人たちには、男性の中にある女性的性格「アニマ」と、女性の中にある男性的性格「アニムス」のバランスがおかしくなっているのではなかろか?などと考えてしまいます。女性である本質を乗り越えて男性的な部分を押し出していたり、男性である本質を押さえて女性的な部分を受け止めていたり、若くして中性化しているように思えます。

 女性が働き家庭を養い子供も育ててしまうロシアでは、本来男性がすべきことまで女性が取って代わっているので男性の影と髪の毛は薄くなるばかり。「主夫」を生業としている男性も少なくないそうです。それでも彼らに「有事」において鉄砲もって立ち上がる場がありますので、戦争でもなくなれば男性の肩身は狭くなるばかりでしょう。日本ではまだ社会の中心に男性がいられますが、この先どうなることやら?

 日露カップルの衝突にお互いの考えている女性像・男性像の違いがあります。何も国際カップルに限らず同じ国の男女たちでもお互いのイメージする男性像・女性像とのギャップはあるわけで、その振幅が大きい・小さいの差でしょう。

 ユング的な解釈をすれば、人は恋愛相手に対しては自分の深層心理の中にある「アニマ」「アニムス」を軸に相手の理想像を構築し強要するようで、その自分が作り出した幻影と現実のギャップを乗り越えられないと、ひどい場合には「アニマ崩壊」「アニムス崩壊」が「心の崩壊」を招くこともあるそうです。「思い入れ」と「思い込み」の違いは大きなものです。

 大きな声で言えないので、小さな文字で書きますが、昔柔道していた仲間に新宿2丁目のオミセのママを営んでる男(女)がいます。失恋が原因で「目覚めた」と言っていますが、失恋のあまりのショックに苦しんだ末たどり着いたのは「自分の理想とする女性になろう!」というとんでもない結論だそうです。

 それを転じれば、昨今の日本女性の下品さの背景に彼女らが見てきた男性の悪しき一面を垣間見る思いで心苦しいものがあります。

 若かりし頃の失恋の数々は女性たちのアニムスが理想とする男性像と私がかけ離れていた事が要因の大半を占めると思いますが、こちらも些細な事が気になって理想の女性像が崩れて失望したことも多々あるものです。

 ユング理論でも「アニマ」「アニムス」の形成にはその人が育っていく過程の中で接してきた異性の断片が大きく影響するそうです。必ずしもそれが好ましい断片でないこともありますので、理想像とする異性が違うのはそのためでしょう。何であんな素敵な女性がこんな男と?その逆を含め自分の理想とはかけ離れたカップルは多々あるものですが、「相性」「縁」とは不思議なものです。

 国際カップルに年齢差が大きいカップルが多い理由を「アニマ」「アニムス」で説明するならば、「決断」や「判断」は元々男性がもっていた「性格」で、「受容」や「感性」は男性の中の女性的性格「アニマ」が握っている性格です。年齢を経ると中性化する理論からすれば、男性は年齢を重ねるほどアニマの影響を受け「受容」や「感性」が性格に影響するようになる。自分の思い入れとは異なる性格でも「受容」する能力が高くなると言うことかもしれません。こういうのを「オトナ」になると言うのでしょうか?

 したたかなおじさんたちは決してアニマを軸にした自分の理想を放棄したわけではなく、相手を受け止めたふりをしながら、若い嫁を自分の理想の女に仕立てようとさまざまな罠を張り巡らせるのですが、敵もさるものひっかくものです。状況によっては蹴っ飛ばしもしますし、噛みつきだってあります。土鍋投げつけられた友人もいます。

 「悩み」は複数の答えが存在して、そのどれにも納得できないときに生じるものですが、体と心・感情と理論の食い違いで起こる事が多いものです。「好きなんだけど納得できない」本性とアニマ(アニムス)の対立が生み出しているのかもしれません。

 こういう状態に陥った場合後で思い起こすと情けないほど自分自身に余裕がなくなっていることに気がつき悔やむものですが、後悔役に立たず。同じ事を何度も繰り返してしまうものです。簡単な事を難しく考えるよりも、難しい事を簡単に考えることの方が「難しい」ものです。

 最近おじさんになることでしたたかになってきましたので、こうなったらどうするという状況設定で道筋をいくつも想定しているので「こんなこともあるものさ」と考えられるようになったように思えます。

 「男性」「女性」何ぞや?と考えると難しくなりますが、男性が女性を好きになることも女性が男性を好きになることも健全なことです。小さく書かれる「好き」のありかたも、「好き」になれない感情を持てぬ人よりはましかな?

 「アニマ」「アニムス」の深層心理については、1973年にユングの妻のエンマ・ユングが書いた「内なる異性」が面白いです。興味のある人は読んで参考になさる程度にして、深く考えて自滅しないように。

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