のすたる爺や

文明の果てなる地からのメッセージ

大化の改新

2006年12月03日 | 日記・エッセイ・コラム

 「日本」という国号をはじめて用いたのは中大兄皇子(天智天皇)だそうで、その記念すべき日は大化一年(645年)の12月3日なのだそうです。

 中大兄皇子といえば、聖徳太子亡き後、天下を思うままにしていた蘇我入鹿を殺し、天皇中心の中央集権国家を作った人物で、その事件を「大化の改新」と呼んでいます。
 豪族が支配していた土地や人民を国が直接支配する「公地公民」や、戸籍を作り耕地を公民に分け与え、死ぬと国に帰す「班田収授の法」、全国を国と郡・里に分けた「国郡制度」。
 口分田の広さに応じて稲を納める「租」、労役の代わりに一定量の布を納める「庸」、その土地の特産物をおさめる「調」の「租庸調の税制」など律令国家としてのスタートを切り、701年の大宝律令の下地を作りました。

 天地天皇の時代、朝鮮半島では唐・新羅の侵略を受け、百済(現在の韓国前羅道あたりにあった国)が日本へ出兵を依頼してきます。日本は応じて出兵したのですが唐に大敗をするのが「白村江(はくすきのえ)の戦い」です。
 その後、唐の報復を懸念した天智天皇は667年に都を近江の琵琶湖のそば大津京に遷都します。

 遣唐使が唐から文化を学んでくる反面、政治的には脅威となった隣の大国の影響を、良くも悪くも大きく受けた時代でした。

 その遣唐使も菅原道真の時代になると廃止(894年)されます。唐の内乱もありましたが、中華からの離脱と言う見方もできます。

 聖徳太子の「日出づる国の皇子より」の文面、菅原道真の遣唐使廃止、福沢諭吉の「脱亜入欧」。わが国は中華ではない主張だと思います。

061203 中華からの離脱をした典型と言えばラーメン。

 中国のラーメンはスープにいれて食べる食べ方ではなく、茹でた麺にミソのようなペーストを絡めて食べることがほとんど。

 スープに入ったラーメンは「タンミェン(湯面)」と言って、日本のタンメンもそこから来た名前のようです。

 最近東京方面で流行の行列のできるラーメン屋などを見ていると、完全に日本の料理として昇華されていますね。

061203a   流行のラーメン屋のスタイル(黒いTシャツとバンダナ)を見ていると、食料を扱う店に思えませんが、中国の食堂など白衣を着ていても食料品店に見えない汚さがあって、これまたたまらない魅力です。これでもかと食い散らかしてよごす客に、客を客とも思わないウェイトレスの横柄な態度(日本の有名ラーメン屋なども似たようなものですが)など、”えらいところにきてしまった!”と唖然とすることもありましたが、近年は年々普通のレストランになってきているようです。

 多分、本家中国のラーメン(タンミェン)をそのまま日本に持ち込んでも、素直に日本人の口には合わないでしょう。そのくらい変化しています。

061203b_1  中国のラーメンがシルクロードを越えてローマに伝わり、スパゲッティになったと言うのは有名な話ですが、遣隋使や遣唐使はラーメンを持ち帰らなかったのだろうか?

 日本人で初めてラーメンを食べたと言われるのは水戸黄門で、水戸光圀は明国から儒学者朱舜水を招聘して儒学を学びつつ、ラーメンまで学んだようです。

 私が記憶している昭和30年代のラーメンは一杯40円でナルトとシナチクと赤いハムが乗っていた醤油ラーメン。麺は乾麺でした。

 その頃即席めんも出ていましたが、まだまだ高価な代物だったのか、母が即席めんを作るときには麺の3倍くらい白菜や野菜が入っていました。豚のマークをおぼえていますからエースコックのラーメンでした。

061203c  学生時代。金がなくてインスタントラーメンばかり食べていました。

 鍋で茹でてドンブリにもあけずにそのまま食べていましたが、うっかりこぼしてしまったことがあり、とっさにとった行動と言うのがちゃぶ台からこぼれるスープを飲もうとして、ちゃぶ台の下に顔をつっこみやけどをしました。

 「一杯のかけそば」という話はいつのまにか忘れられてしまいましたが、一杯のラーメンには誰しも悲喜こもごもの思い出があるのではないでしょうか?

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