のら猫の三文小説

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次平の敗北 No.9

2012-12-13 08:23:20 | 次平の敗北

次平の各医院



各地の医院については、格別の変化も無かった。貧しい人や困った人への後払いは、それなりに機能していた。。西洋の科学で一変する可能性の高いのは医術いや医学なのだ。少しずつでも、たとえ直ぐに時代遅れになろうとも、今に対処していくのだ。検診制度も定着してきた。ただ激動期なので、人の出入りは大きいので、継続してみれない人も増えてきた。それはやむを得ない事であった。



次平は、少しつづ入ってくる西洋からの波は、大きく医術の世界を洗い流すようになるかも知れないとは、思っていた。堤防に穴が開いて、水が漏れて、その水が少しづづ増え、そして堤防そのものも流し出すように。しかし 今はその新しい知識、技術、薬などを吸収して行く事が必要なのだ。

そして多くの人に伝えて行こう。私が死んだ後は、残った人が考えればいいのだ。私は今入ってくる知識を学び、そして自分のものとし、病人のために応用し、そして多くの人に伝えて行くのだ。それに戦闘行為とその結果生じる負傷は、残酷ではあったが、外科にも多くの知見を与えていた。西洋の医学の研究ともに、次平に、外科的な多くの刺激を与えていた。


次平とおゆき、東京へ行く!


世の中では、大政奉還そして鳥羽伏見の戦いとして江戸の開城と進んだ。禁裏も江戸へ移り、名前も東京になった。次平は50才を超え、おゆきも40代後半になっていた。次平とおゆきは、江戸、今は東京へ移った。鉄平とお香は60才を超えた。



 次平は、各医院は各医院の自主性に任せていく方向にした。 後払い制度は、一種の基金のようになった。各地の医師の申請で医療補助をしていた。




松江と萩は五人から十人規模の病院に成っていき、薬種問屋の各店が運営していく事になった。最も薬種問屋と云っても、小規模の工場が、それぞれ製薬会社になっていた。その直営の薬屋と医院というように再編していった。 



福岡は十数人の医師がいる病院になり、独立した病院になっていた。病院から数人の医師が薬種問屋というより、製薬会社へ移り、病院と協力しながら、処方薬の販売をしていた。


問屋そのものは薬屋に転換した。医学校も独立したが、その教員の多くは、病院に依存していた。



長崎も同様であったが、医師の数そのものは10人程度の病院となり、病院から数人の医師が薬種問屋というより、製薬会社へ移り、病院と協力しながら、処方薬を販売すると共に及び原末の一部を大坂や江戸を除いた地域の製薬会社に販売していた。問屋そのものは薬屋に転換した



大坂では、病院の規模は大きくなり、20人を超える医師がいた。数人の医師が薬種問屋というより、製薬会社へ移り、病院と協力しながら、処方薬を販売していた。問屋そのものは薬屋に転換した。医学校も独立したが、その教員の多くは、病院に依存していた。




京つまり京都では薬種問屋よりも薬種を売る漢方薬屋になり、医院は、次平が東京へ去ると、次第に規模が少なくなっていった。東京医院は次平が来た事もあり、医学校と病院はもっと大規模になった。教員そのものは、相互に依存している部分もあったが、独立性は高かった。

次平自身は、禁裏との関係も強かったが、通常の診察も時には行っていた。従来、手足の切断といった手段しかない事も、可能性があれば、治療したり、血管や神経も縫合していく事なども始めていた。心臓では実験的な手術は、生死に直結していたが、手足そして心臓を除く臓器等について、外科的な対応を検討して、いくつか実施していた。そして外科的な対応の出来る医師が次平の下から育っていった。



薬種問屋は、やがて製薬会社になり、今までの問屋はその営業を担うようになった。お恵の云った時間稼ぎの段階は、思っていたより長かった。一平は、製薬会社に移っていった。お恵の思っていた次ぎの段階は直ぐには来なかったので、完全な製薬会社への移行は一平が担当して、検討していた。



お恵は製薬会社でも、全体の総括を行っていたが、物産問屋を商会に替え、そこで仕事する事が多くなった。西洋薬の輸入のみならず、各地の物産を販売する部分と事業部門での製造した商品を販売していた。



事業部門は結局一番成長し、総括する会社と幾つかの会社に分割した。鉄加工品や鉄そのものを製造する会社、工作機器や機械を製造する会社、裁縫や織物などを行う会社及び時計や細工物などの精密機械を製造する会社などである。

鉄一は総括する会社にいて、一部の営業は商会から来ていたが、販売の多くは商会で行っていた。工作機器や機械を製造する会社で、研究しながら、指揮をとっていた。鉄一はここにはほとんど口を出さず、他の会社についても、功一に技術的な相談をしていた。



洋介は、ついに東京の病院で医師として勤務し始め、次平とおゆきと一緒に住んでいた。次平は東京の学舎で教えると同時に、東京の病院の院長として頻度は少ないものの、診察もしていた。直接執刀する事は少なくなっていたが、神の手にも似た手術の鮮やかさは、洋介も見る事が出来た。



鉄平は、各地の製薬会社での会長とも云うべき地位であったが、ほとんど会社には、出てこず、江戸の郊外の屋敷にいた。お香は物産問屋や事業部門の総括会社に行く事もあったが、次平ほどではないものの、出かける頻度はすくなくなっていた。



鉄平とお香は、もうのんびりと江戸郊外に住んでおり、次平とおゆきが来たり、鉄平夫婦が、次平らの屋敷に行く事もあった。



鉄平「次平はまだ頑張って手術などもやっているそうだ。もう少し遅く生まれていたら、色々な手術が出来るのに、ぼやいていた。今まで切るしかなかったものが、手足の血管や神経を縫合して、また動くようにできたらしい。

臓器なども手術できる事があるそうだ。ただ俺に対してした手術は、今になっても出来ないそうだ。俺はあの時死ぬと思っていたし、次平も無理と思っていたが、万一の望みでやったそうだ。切らずに延命治療する事も色々できて、ますます出来にくくなった。鉄平さんは奇跡の人だと笑っていた。俺は次平こそ奇跡の医者と言ったら、いや今は私も躊躇する。お互い若かったと言っていた。拾った命で、ここまで生きてきた。もうのんびりさせてもらうよ。

お香「お恵もよくやっているし、もうおほとんど恵に任せているよ。私ものんびりあんたと暮らしていくよ。」

鉄平「洋介さんも医者になり、次平の診察や手術も見てる。次平はまだまだと言ってるが、いい医者になってくれるといいな。今後の製薬会社は、これから本当の激動期になる。忠助はまだ頑張っているが、あんまり出る幕はなくなったと嘆いている。お香、お前までのんびりしていいのか?」

お香「もうお恵に任せておけば、大丈夫だよ。お恵は忙しくしていた方がいい女だよ。私は相談受けたり、書類を見てるし。」

鉄平「結局 お恵がほとんど処理するようになったが、鉄一は不満じゃないか?」

お香「そんな時代じゃないし、鉄一も分かっているよ。それに鉄一の会社は規模としては一番大きく、しかも独立させた。」

鉄平「でも実質的には、お恵の所で販売しているのだろう。」

お香「やがては販売を含めて独立していくと思うけど、今はお恵が販売している方がうまくいくから。お恵は製薬会社では、どうなの。」

鉄平「全体の取りまとめという役割かな。実質的には一平さんが研究や開発を指揮しているので、今は販売と管理の総括という立場かもしれない。でも通常の取り扱いは、ほとんど忠助に任せているらしい。お恵は完全な西洋薬への全面的な転換をどうするか、忠助、一平さん及び各地と相談している。お恵曰く、そんなに世の中が進んでいかない。早すぎても遅すぎても困るけど、どうするかと云ってるが、俺にはもう分からない。次平もよく分からないと言ってる。 この間、三之助が来たが政府でも色々と方針が決まっていないとこぼしていた。」

お香まあ変わる時は一挙に変わるけど、それまではそんなに変わったと思えないから。

鉄平「お恵も同じ事を言ってるぜ、料理屋はどうなってる。」

お香「高級店は独立して、各地で営業している。給食設備は病院に吸収してもらったり、弁当屋や給食屋を始めているわ。人入れ屋は、事業部門の各会社がほとんど吸収した。」

鉄平「俺達が死んだらどうなるだろう」

お香「そんな事は鉄一とお恵が考えていけばいいわ。私たちが心配してもどうにもならない。ただ出資金の名義切替の事もあるし、相談しないと行けない。次平先生との問題もあるし。」

鉄平「次平と俺との間で、曖昧な事多いからな。俺が暇だから俺がやるよ。お香名義の方が多いから、その時は話してくれ。」

お香「この間 会社も給料にして、分配金も受け取ってくれと言われて貰ったのが、私の最初の賃金。でも溜まっていた分配金も出資の形での処理した事も多かった。それでも結構貰った。今頃もらってもね。 まああんたからのお金でやってきたし、楽しかったし、お金の問題じゃないけど、一平さんはもう医者には未練ないの」

鉄平「一平さんも薬に興味があって、次平先生や東京の医院とも相談して、新しい薬の研究や西洋からの導入だから、普通の医者では出来ないほど、難しいらしい。」





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