曽野綾子さんの「人間にとって成熟とは何か」を読ませていただきました。曽野さんは、日本の作家で、私が最も尊敬している一人です。この幻冬舎から発行されたばかりの新刊は、「もっと尊敬されたいという思いが自分も他人も不幸にする、他愛のない会話に幸せはひそんでいる、「うまみのある大人」は敵を作らない、などの章からなっていますが、どれも読みごたえありです。
「醜いまでに華麗な絨毯のような」この世の諸相を鋭く切り取り、素晴らしい切り口で語ってみせるエッセイの人気の高さは、ご存じの通り。「諦めることも一つの成熟」という言葉には、わたしもなるほどと納得しました。大体、今は頑張ることやをもてはやす風潮になっていますが、頑張ったからといって、必ず夢がかなう訳でもないし、挫折し嘲笑を浴びることだって、あります。諦めることも、人間の大切な智恵で、そうすることで、思いもしなかった平安が訪れることもあります。
私も、短くはない歳月を生きてきて、絶対的な善というものもないかわり、100%の悪もないということがわかってきました。早い話、そんなにいい人もいないかわり、極悪人というのも滅多にいないのです。曽野さんが、アフリカへ行った時、骨と皮ばかりに痩せ細った母親にたった一つだけあった飴を渡したことがあったそうです。彼女が抱いている赤ん坊に口移しで、甘い唾液を与えてやればよい、と。でも、その母親は自分が飴玉を食べただけだといいます。その時の印象を、曽野さんはこう書いています「すべてのことは、崇高なばかりでもなく、動物的なだけでもなかった。すべてのことに、私はいささかの真実と虚構があることを見たのであった」。この母親を非難する人も、硬直した考え方しかできないということになるのかもしれません。
曽野さんは、面白いことも言っています。最近の日本女性の着物は、色が淡く地味になったと。歌舞伎や能の衣装は派手な色遣いで、存在感が際立っていたのに・・・。「私が外国で着物を愛するのは、あの巨大な色とりどりの大理石の柱、実物の人間よりはるかに大きい天使の羽が広がっているような彫刻、部厚で凹凸のはっきりした金縁、鏡、シャンデリア、といったような派手な道具立ての建物の中で、日本人が、細い路地の築地塀の外を静かに歩く女性が着ていると美しいと思う紬など、実は雑巾にしか見えないことを発見したからだ」--これ、秀抜ですね。
P.S 曽野さんは、「ソノ食堂」と題して、自宅で家族や秘書たちに料理を作るのだそう。それで、そのメニューがおからをかけたごはん。美味しそうです。