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弘川寺の桜

2011-04-16 23:42:26 | おでかけ

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花桃

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大阪府河南町 

昨年3月1日・・・白梅の美しい弘川寺を訪ねていた(うちから車を走らせることほんの20分くらい)。その時の絵がこちら!↓

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弘川寺、生命を深く見つめ花を月をこよなく愛した平安末期の大歌人、西行法師の終焉の地なのです。

祖先が藤原鎌足という裕福な武士の家系に生まれ、幼い頃に亡くなった父の後を継ぎ17歳で皇室の警護兵となる。西行は御所の名誉ある精鋭部隊「北面の武士」(一般の武士と違って官位があった)に選ばれ、同僚に彼と同い年の平清盛がいた。北面生活では歌会が頻繁に催され、そこで西行の歌は高く評価される。武士としての実力も一流で、疾走する馬上から的を射る「流鏑馬(やぶさめ)」の達人であり、公家&武士社会を代表するスポーツ「蹴鞠(けまり)」の名手でもあった。「北面」の採用には容姿も重視され、西行は容姿端麗だったと伝えられている。文武両道で美形、華やかな未来が約束されていたにも関わらず、22歳の若さで出家。阿弥陀仏の極楽浄土が西方にあることから法号を「西行」とした。

出家直後、小倉山(嵯峨)や鞍馬山、奈良・吉野山に移り、長く煩悩に苦しみ、出家後の迷いや心の弱さを素直に歌に込めていった。どの宗派にも属さず地位や名声も求めず、ただ山里の庵で自己と向き合い、和歌を通して悟りに至ろうとしたのは通常と異なっていたという。その後、高野山、伊勢と移り・・・源平の動乱時には戦乱の世を嘆いた歌も詠んでいる。
71歳、西行自身がたどり着いた集大成ともいえる和歌観を語っている。「歌は即ち如来(仏)の真の姿なり、されば一首詠んでは一体の仏像を彫り上げる思い、秘密の真言を唱える思いだ」。1189年、西行は大阪河内の山里にある、役(えんの)行者が開き、行基や空海も修行した弘川寺の裏山に庵を結び、ここが終焉の地となった。1190年2月16日没

西行が亡くなる十数年前に詠んでいた歌。
『願はくは花のもとにて春死なむ その如月(きさらぎ)の望月の頃』
(願わくば2月15日ごろ、満開の桜の下で春逝きたい)2月15日はお釈迦様の命日。
西行が来世へ旅立ったのは陰暦の2月16日。(陽暦では3月下旬から4月の頃)
西行の思いは叶う。きっと満開の桜の下で永遠の眠りにつかれたことでしょう。合わせて釈迦の後ろを一日遅れでついていくことも叶ったのです。

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3月、じっと咲開く時を待ちわびているかのように見えた桜のつぼみも・・・

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この13日、愛らしい花びらは艶やかで美しく、陽光の下、晴れやかに咲き誇っていた。

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『ゆくへなく月に心のすみすみて 果てはいかにかならんとすらん』
(どこまでも月に心が澄んでいき、この果てに私の心はどうなってしまうのだろう)

『松風の音あはれなる山里に さびしさ添ふる蜩(ひぐらし)の声』
(松風の音が情緒のある山里に、寂しさを添えるヒグラシの声が聞こえるよ)

『荒れ渡る草の庵に洩る月を 袖にうつしてながめつるかな』
(荒れ果てたこの草庵に差し込む月光を、袖に映して眺めているよ)

『さびしさに堪へたる人のまたもあれな 庵ならべむ冬の山里』
(冬の山里で私と同じく寂しさに堪えている人がいれば、庵を並べて冬を乗り切るのに)

『霜冴ゆる庭の木の葉を踏み分けて 月は見るやと訪ふ人もがな』
(霜がはった庭の葉を踏み分け名月を見ていると、誰かと一緒に見たいなぁと思うのさ)

『谷の間にひとりぞ松も立てりける われのみ友はなきかと思へば』
(この地に友は誰もいないと思っていたら、谷間にひとり松も立っていた)

『心をば深き紅葉の色にそめて別れゆくや散るになるらむ』
(私の心を深紅の紅葉の色に染めて別れましょう。散るとはそういうことです)

『水の音はさびしき庵の友なれや 峰の嵐の絶え間絶え間に』
(峰から吹き付ける強風の中に、時々聞こえる川の音は寂しい庵の友なのだ)

『ひとり住む庵に月のさしこずは なにか山辺の友にならまし』
(独り寂しく住む庵に差す月の光は、まるで山里の友のようだ)

『花見ればそのいはれとはなけれども 心のうちぞ苦しかりける』
(桜の花を見ると、訳もなく胸の奥が苦しくなるのです)

『春ごとの花に心をなぐさめて 六十(むそぢ)あまりの年を経にける』
(思えば60年余り、春ごとに桜に心を慰められてきたんだなぁ)

『吉野山花の散りにし木の下に とめし心はわれを待つらむ』
(吉野山の散った桜の下に私の心は奪われたまま。あの桜は今年も私を待っているのだろう)

『いつの間に長き眠りの夢さめて 驚くことのあらんとすらむ』
(いつになれば長い迷いから覚めて、万事に不動の心を持つことができるのだろう)

『鈴鹿山浮き世をよそに振り捨てて いかになりゆくわが身なるらむ』
(浮き世を振り捨てこうして鈴鹿山を越えているが、これから私はどうなっていくのだろう)

『世の中を捨てて捨てえぬ心地して 都はなれぬ我が身なりけり』
(世の中を捨てたはずなのに、都の思い出が煩悩となり私から離れない)

『花に染む心のいかで残りけん 捨て果ててきと思ふわが身に』
(この世への執着を全て捨てたはずなのに、なぜこんなにも桜の花に心奪われるのだろう)

西行が眠るこの地・・・西行が生きた時代と現在では・・・里の景色の移りはどうだろう・・・あまり変わっていないかもしれないな・・・このあたり・・・

江戸中期、西行を深く慕い弘川寺に移り住んだ広島の歌僧・似雲法師が、西行の墳墓を発見。似雲法師は西行が愛した桜の木を、墓を囲むように千本も植えて、心からの弔いとしたという。

悟りの世界に強く憧れつつ、現世への執着を捨てきれず悶々とする中で、自然や人生を真っ直ぐに見つめ、内面の孤独や寂しさを飾らずに詠んだ西行の和歌は、ゆえにどこまでも自然体なのですね。

この春、初鶯の声を聞いたのが奇しくも3月11日。

西行の眠る弘川寺に・・・今日も「鶯」が、春の訪れを知らせている・・・

次回は深緑の頃に・・・訪れるといたしましょう・・・

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