キルトの時間 猫の時間 green+

☆いつもそばにももがいた☆
拙いブログですが、PC版でご覧頂ければ幸いです。

高野山真言宗 牛頭山 龍泉寺 富田林 龍泉

2018-11-21 20:32:54 | 分類なし

 

かんこ神社

サンシュユの赤い実

龍泉寺は推古天皇二年(595)勅命により蘇我馬子が創建した寺院。伝説によるとこの地には古い池があり、そこに悪い龍が棲み人々に被害を与えていました。馬子は、人々を救うため修法を行ったところ、悪龍は仏法の力にはとてもかなわないと言って飛び去ってしまいました。やがて馬子は聖徳太子とともに、この地に寺を建て仏法の興隆に努められたといいます。

この時期から奈良時代後半にかけ、金堂、東西の塔や僧侶の住まいなどの建物や施設が完成したと発掘調査の結果から推定されます。

ところが、その後、池の水が枯れ果て、付近にも水がわかず、ついに寺も衰退してしまいました。

弘仁十四年(823)正月八日、弘法大師がこの地を訪れ、里の老人に水をこうたところ、湧水が少なく困っているという話を聞かされます。大師が訳を尋ねると、老人は昔話をし「自分はこの地主牛頭天王である。汝の来たるを待っていた。ここに暫くとどまり、霊地を再興せよ。自分もまた助けよう」といってこつ然と消えてしまいました。

大師は池に向かって七日間の祈祷をしました。七日目の夜半に雨が滝のように降り始め再び龍が現れ、やがて夜が明けると池には清水満々として三つの島が出来ました。大師はそれらの島に聖天、弁財天、叱天を祀り牛頭天王を鎮守とされました。この池は現在も庭園として残されています。

天長五年(828)には勅使を派遣して堂塔の再建がはかられています。この時期の伽藍の様子は「春日文書」にある「龍泉寺関連文書」から明らかにすることができます。

やがて鎌倉時代末期の建治元年(1275)には金剛力士像が作られ、それ以前にこれを収めた八脚門が建てられています。

南北朝時代には龍泉寺城を岳山山頂(281.6メートル)に築いたため、戦乱に巻き込まれ伽藍の大半を失うことになってしまいました。又、戦国時代のはじめ、畠山義就(よしなり?よしひろ?)と政長の家督争いに単を発した争乱による戦禍のため、立ち直りの機会をも失ってしまったようです。

織豊時代には、灯明料として三石の除地を与えられ、江戸時代には、地元白木藩主石川氏代々の崇敬を受け、度々の修理を経て今日に至っております。

↑ 龍泉寺の歴史  龍泉寺より。

富田林の里には10月桜のかわいい姿。

此処こそに龍泉の湧き水を見る!(のかな?) 

美しい波紋。


ヒメツルソバ

2018-11-04 11:49:46 | 観察日記

ヒメツルソバ