高野山への参詣道のひとつに、
九度山慈尊院より丹生官省符神社から高野へと向かう道がある。
参詣道というにはあまりの距離で、高野山奥の院まで、こちらの参詣道スタート地点より24キロに及ぶ。
こちらの慈尊院、空海が高野山で必要な物資を調達するための政所としてつくられた。
(「慈尊」とは遠い未来に人々を救うために現れた弥勒菩薩でこの寺の御本尊)
又、慈尊院は空海が母親のために建立したともいわれる寺院で、女人禁制であった高野山より、
月に九度、慈尊院まで24キロに及ぶ道を80歳を過ぎた母上(余生を慈尊院で過ごされる)に逢いに訪れたことが、この地「九度山」の由来だと言う。
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高野山までの道を歩いてみたい。
この日、一緒に慈尊院を訪れた友人は二度、高野山までこの道を歩いたのでいつか連れて行ってと頼んだ。
これまで友人から話を聞いていただけだったけど、初めて九度山から高野山への参詣道に立ち、様子がわかる。
↑の卒塔婆が一本目。20キロ余の道程に一町(いっちょう、109メートル)ごとに町石(ちょういし)と呼ばれている卒塔婆石が216基ある。迷わないための心強い目印だ。
歴代天皇から一般庶民にまで踏みしめてこられた高野山への真の信仰の道だと思われる。
直ぐ近くを南海高野線が走り抜け、高野線沿線に住む私にとって高野山は、これまで、そう遠い地の印象ではないのだけれど・・・
自分の足で「この道」こそを、歩いてみたいと・・・この日、本当に強く思ったのでした。
この日、慈尊院にて、三人目を授かったうちの娘に安産お守りを求める。
九度山。
真田信繁(幸村)、昌幸親子。関ヶ原の戦いで敗れ、家康の命により、その命は助けられるが高野へと流される。
当初は高野山に入ったものの、家族と共に(高野山は女人禁制)と望んだのだとか・・・
家臣があまりに多かったからだとか、諸説あり九度山の地で蟄居生活が許される。
信繁、生涯で一番長い時間を過ごしたといわれる地でもある。
昌幸は九度山で生涯を終え、信繁(幸村)は大坂冬の陣、夏の陣へは、こちらから出立、活躍後、戦死した。400年前のこと。
九度山の今。
わかやま~~~~~!!い・な・か~~~~~~~!!
柿の名産地~~~~~!!
のんびり空気がながれていた。