[レビュー]在日コリアン排除に投影された日本の民主主義の虚像
被爆者の孫振斗氏、金敬得弁護士、枝川朝鮮学校など
「在日の人権問題は、すなわち日本社会の問題」
「共生」を求めて: 在日とともに歩んだ半世紀
田中宏著、中村一成編、解放出版社刊
田中宏・一橋大学名誉教授(86)が大学卒業後に就職したアジア学生文化協会は、アジア出身の留学生を支援する組織だった。日本の1000円紙幣の肖像が聖徳太子から伊藤博文に変わった1963年11月のある日、東南アジアから来た華僑の留学生が田中氏に言った。「伊藤博文は朝鮮民族の恨みを買いハルビンで殺害された人物ではないか」。日本で最も多く暮らす外国人である朝鮮人も同じ1000円紙幣で毎日物を買うはずなのに、残酷なことではないか(…)1億人が何を考えているのか、なんだか背筋が寒くなる」
ベトナム戦争の真っただ中だった1973年には、ある南ベトナムからの留学生が日本共産党の機関紙「赤旗」に掲載された広告を田中氏に見せて嘆いた。「インドシナ3国に普及しているフランス語を習い、インドシナ人民と友好を」と書かれた広告だった。その留学生は普段も東大の学生たちが自身に植民地の言語であるフランス語で話しかけてくるといい、「東大生は植民地支配について何も習わなかったのか」と問いただしたことがあった。
そのような経験を通じて確認した「日本人たちとは違うアジア人たちとの感覚のすれ違い」が、現在の田中氏を作ったわけだ。フリーライターの中村一成氏の質問に田中氏が答えた本『「共生」を求めて: 在日とともに歩んだ半世紀共生に向かって』(韓国語版『「共生」に向けて: 在日とともに歩んだ半世紀』キル・ユンヒョン訳)は、田中氏が関与した在日コリアンの権利闘争の歴史を振り返り、田中氏自身の人生と在日コリアン人権運動の流れを織り交ぜている。韓国人原爆被爆者として日本政府に治療と補償を要求するために密航してきた1970年代の孫振斗(ソン・ジンドゥ)氏の裁判から、2010年代の高校無償化で総連系の朝鮮学校を排除した処分に対する取消訴訟まで、田中氏が一生を捧げて献身してきた在日コリアンの権利闘争の足跡が歴然としている
孫氏は1970年12月、3回目の密入国で逮捕され、懲役8カ月を宣告されたが、結核の治療のために福岡のある病院に入院することになる。治療が終わり刑務所で刑期を終えた後、韓国に送還されるところだった。孫氏から「被爆者健康手帳」制度があるという説明を聞いた田中氏は、関連する法律のどこにも国籍を日本に制限する条項がない事実を確認し、「まずは被爆者健康手帳を申請しよう」と孫氏を説得する。1971年10月に申請したが、福岡県と厚生労働省は手帳を交付しないという決定を下し、田中氏は孫氏を助け、その決定の取消を求める行政訴訟を提起し、最終的に勝利した。この裁判以降、韓国人被爆者の日本への「訪問治療」が可能になり、日本の領土を離れた日本人も同様に助けを得ることが可能になった。田中氏は裁判に勝った「決定的な要因は『国籍条項』がなかったこと」だと説明する。田中氏は、自身が関与した在日コリアン権利闘争は『すべて“国籍”問題に還元」されるとして、自身の過去の活動をつぎのように要約する。「国籍というものを端緒として、植民地支配の清算問題というか、最近使われている言葉で表現するならば、ポスト植民地問題の最大の根幹を追及してきたという感じです」
孫氏の事件に先立つ1970年には、日立製作所の入社試験の履歴書に実名ではなく日本式の名前である通名を使って合格した、在日2世の朴鐘碩(パク・ジョンソク)氏の入社決定が取り消されることがあった。朴氏はその年の12月に民事訴訟を提起し、原告勝訴の一審判決で日立が控訴をあきらめ、これもまた当初の目的を達成した。日本国内で孫氏を助ける団体が結成され、韓国でも日立不買運動が広がるなどの状況が、その助けとなった。「この裁判で勝とうが負けようが、自分は完全に新しく生まれることができたので、むしろ日立に感謝したいほど」だと朴氏は語り、裁判が終わった後には「民族差別と闘う連絡協議会」(民闘連)結成され、1970~80年代の在日コリアン差別撤廃闘争を牽引した。
1976年には司法試験に合格した在日コリアン2世の金敬得(キム・ギョンドク)氏が司法研修所への入所のためには日本国籍である必要があるとする最高裁の要綱に反発して記者会見を行い、請願書を提出するなどの闘争を行った結果、最終的に勝利した。金氏以前に司法試験に合格した在日コリアン12人は全員日本に帰化したが、金氏は「帰化した私がどんな形で朝鮮人差別を解消する問題に関与できるのか」として主張を曲げなかった。弁護士になった金氏は1994年、東京都保健所に勤務していた在日コリアンの鄭香均(チョン・ヒャンギュン)氏の裁判を担当した。管理職昇進試験に外国人は受験できないという決定に対抗した裁判だった。約10年も続いた結果、2005年に最終敗訴という結論が出たが、裁判に臨んだ鄭氏が話した内容は、敗訴にもかかわらず大きな響きを与えた。
「差別に負けたくない。屈服したくない。最初にぶつかったものが闘わないと、ほかの人の門を閉ざすことになる。それで決意した」
指紋押捺拒否と枝川朝鮮学校裁判では勝利したが、外国人参政権要求と高校無償化排除の撤回などは、実を結ぶことはなかった。そうした勝利と敗北が交錯する過程を経て、田中氏は悟った。在日コリアンの問題がすなわち日本の核心問題だという事実を。「戦後の重要な問題というものは、在日コリアンの処遇をめぐる争点から見ると、本当に丸見えです。日本の戦後の平和と民主主義というもの中身が空っぽである様子があからさまに示されていると言えます」。在日コリアンの権利をめぐる争点は「明らかに在日コリアンの人権問題だが、他方では日本社会が抱えている問題でもある」ということが田中氏の判断だ。
そうかと思えば、「日本の外国人政策の改善は、きっと韓国にも良い影響を与えることになる。韓国の民主化に寄与するだろう」と述べていた金敬得弁護士の発言は、在日コリアンの権利闘争が、また他の意味を呼び起こす。日本と韓国の両国の民主主義が連動され、相互に影響を与えあうという事実だ。本のタイトルが『「共生」を求めて』である理由がそこにもある。