落ち方の素赤(すあか)き月の射す山をこよひ襲はむ生くる者残さじ
磧(かはら)より夜をまぎれ来(こ)し敵兵の三人(みたり)迄を迎へて刺せり
ひきよせて寄り添ふごとく刺(さ)ししかば声も立てなくくづをれて伏す
一角の塁奪(と)りしとき夜放(よるはな)れ薬莢(やくけふ)と血潮(ちしほ)と朝かげのなか
俯伏(うつふ)して塹(ざん)に果てしは衣(い)に誌(しる)しいづれも西安洛陽の兵
(宮柊二「山西省」『宮柊二集1』岩波書店、1989年)
周知のように、白秋を師と仰ぐ宮柊二は一兵卒として4年間中国侵略戦争に従軍しました。これらの凄惨な白兵戦の歌は、その3年目の1942年、宮柊二30歳のときに詠われたものです。
高野公彦を介して宮柊二の孫弟子に当たる大松達知は、1995年と2002年に「宮柊二の旅」に参加して、山西省を訪れ、次のような歌を詠っています。
日本軍を語る老人ふりあげてふりおろす手の鈍(どん)たれど速し
語りゆき顔赤らめる老人は怒りてゐるか表情が読めず
カメラにてわが追ひてゐし幼子を無言のままに引き寄せし女(ひと)
写さんとすれば隠るる女ありかく犯せしかあのときの兵ら
(大松達知『大松達知歌集 フリカティブ』柊書房、2000年)
日本鬼子(リーベンクイズ)とささやかれつつこの村過ぎたる中に柊二ありけん
(大松達知『大松達知歌集 スクールナイト』柊書房、2005年)
この間の中国における「反日」感情の高まりや、それに対抗する日本での「反中国」感情の高まり。
また、それと深く関わる「靖国」問題。
これらの複雑な問題を粗雑なナショナリズムの罵詈雑言の応酬に終わらせないためにも、上記の歌を含めた宮柊二の戦場詠を改めて丁寧に丁寧に読み解いていくことが必要だと思います。
そこには、侵略戦争への疑問と中国民衆への敬意の芽生えとともに、よき日本人であろうとし、戦友の死を深く悲しまざるをえない、ひとりの誠実な揺れ動く魂の記憶がリアルに詠われているからです。
遅まきながら、『宮柊二集』全11巻をインターネットで買い求めました。これまで長いあいだ短歌の世界とは無縁の場所で考え続けてきたことを、短歌との関わりでも考えて見たいと思い始めたのです。