雪の朝ぼくは突然歌いたくなった

2005年1月26日。雪の朝、突然歌いたくなった。「題詠マラソン」に参加。3月6日に完走。六十路の未知の旅が始まった…。

015:秘密から

2006-11-19 23:41:14 | 題詠blog2006から

一片の秘密もあらでフェルマーの最終定理燐光を帯ぶ(謎彦

<フェルマーの最終定理>とは、3以上の自然数nについて、(xのn乗)+(yのn乗)=(zのn乗)となる0でない自然数 (x, y, z) の組み合わせがない、という定理のことです。
17世紀にフランスの数学者フェルマーが発見しましたが、その証明をフェルマーは残しませんでした。
その後、実に360年間、どんな数学者もその証明も反証をもなしえなかったため、いつしか<フェルマーの最終定理>と呼ばれるようになりました。
ところが、ついに1994年、イギリス人数学者ワイルズによってこの難問中の難問は正しかったことが証明されたのです。
したがって、もはや<フェルマーの最終定理>には数学上の<一片の秘密も>ありません。
とはいえ、なんといっても360年もの間の<秘密>に耐えたこの定理です。
今もその痕跡とでも言うべき<燐光>が、数学を学び、愛する人々には見えるのでしょう。
謎彦さんもそのお一人のようです。

一片の秘密もあらでフェルマーの最終定理燐光を帯ぶ

<一片の秘密もあらで><燐光を帯ぶ>という短歌的表現と<フェルマーの最終定理>との結合が、なんとも見事ですね。

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<014:刻>から

2006-11-16 11:12:29 | 題詠blog2006から
亡き父の時計を拭けば蘇る秒針細く夜光を刻む(水須ゆき子

ジョギング用のタイム・ウォッチも兼ねるので、長らくデジタル・ウォッチしか持ったことがありません。
この歌で、昔のアナログの腕時計がありありと目に浮かびました。
たしかに細い秒針に蛍光塗料が塗ってありましたね。
その秒針が、深夜、遺品のゼンマイ手巻きの腕時計を拭いていると突然動き始めたのです。
<蘇る秒針細く夜光を刻む>というさり気ない表現に込められた、亡き父への深い思いがしみじみと伝わってきます。

                             *

それなりにこだわりながら生きてきた証しを刻む猫は柱に(野良ゆうき

猫嫌いにとってはとうてい耐えられないような柱や壁紙の引っかき傷も、猫好きにはなんとか耐えられます。
しかし、それが猫たちの<それなりにこだわりながら生きてきた証し>だとすれば、なんとか耐えられるどころではありません。
むしろ、愛おしささえ感じてしまうではありませんか。
幼子の丈比べの柱のキズを愛おしむ歌は数多あれども、猫の引っかき傷を愛おしんで詠った歌はこれがその嚆矢かもしれませんね。
<証し>は<証>でしょう。

                             *

刻々と雲の流れて果つるまで大地にもたれ空をながむる(みずすまし

<大地にもたれ>という表現がとても新鮮ですね。
思いがけず世界が90度回転したようで、なるほどと思いました。
これから芝生になぞ寝転がって空を眺めるときには、きっとこの歌を思い起こすことでしょう。

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<013:クリーム>から

2006-09-24 10:12:28 | 題詠blog2006から
命名は金子光晴そのむかし母愛用のクリームはモンココ (原田町)

<クリーム>の題で甦ったのは、懐かしい<モンココ>という<そのむかし母愛用のクリーム>。
しかも、それを命名したのは<金子光晴>だというのです。

正確には、そのクリームは<モンココ洗顔クリーム>だったのではないでしょうか。
1940年、アジア・太平洋戦争の開戦前夜に、<モンココ本舗>という化粧品会社が売り出したクリームです。
金子光晴が命名したのは、1932年に彼の実家である大鹿家の兄弟たちがつくったその化粧品会社の社名です。
アジア・ヨーロッパを妻の森三千代と共に食うや食わずで放浪し、最底辺で苦しみ生きる人々と苦楽を共にして帰国したばかりのときでした。
金子はこの会社の宣伝部の社員になって、ようやく親子3人そろった暮らしを始めたのです。
<モンココ>は、一般的には<mon coco>(直訳すれば<わたしのオンドリちゃん>)で、年下の男の恋人や子どもを呼ぶ呼び方ですが、金子は永井荷風の『ふらんす物語』の中の娼婦の名から取ったということです。
『ふらんす物語』には直接当たっていないので、その<モンココ>という娼婦の名の謂れや金子がなぜそれを選んだのかはわかりませんが。

モンココ洗顔クリーム>の貴重な映像を見つけたので、原田さん、どうぞ懐かしくご覧ください。

      

                          *

サヨナラと声だけ残しゆく人の緑哀しきクリームソーダ(佐田やよい

若いころ、クリームソーダが好きでした。
喫茶店で、あの緑色のソーダ水をストローで飲み、アイスクリームをスプーンで食べる。
ただそれだけで幸せでした。
恋人と2本のストローで分け飲めば、もっと幸せでした。
でも、幸せはながく続きません。
やがて、別れの時がやってきます。
相手は注文したクリームソーダを飲み残したまま、立ち去ります。
<サヨナラ>という<声だけ残し>て。
残されたワタシは、緑色のソーダ水を見るともなしに見つめるしかありません。
その緑の色はもはや幸せの色ではなく、哀しみの色に変わっています。

ぼくにもそんな情景が、半世紀も前にあったような気がしてきました。
しかも、立ち去ったのはぼくの方だったのかもしれないのです。

切ない歌ですね。

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<012:噛>から

2006-09-22 23:30:22 | 題詠blog2006から
残生や岩を甘噛む潮騒のおほわたつみをふかぶかときく(みの虫

<残生> は<のこりよ>と読むのでしょうか。
人生の黄昏を迎えた身に、浜辺で聴く穏やかな潮騒は<岩を甘噛む>かのようだというのです。
<おほわたつみ>は<大海神>ではなく、単に<大海>ということでしょう。
太平洋(?)の<岩を甘噛む>潮騒の、途切れることもなく、あたかも永遠に続くかのような響きを、作者は自らのはかなく限りのある<残生>を思いながら<ふかぶかと>聴いているのです。
一昨年、故郷の福島の海で潮騒を聴いた情景がありありと甦りました。

                         *

磨り減つてゐるのでせうね 噛みあはぬ歯車だからゆつくり止めた(村本希理子

<磨り減つてゐる><噛みあはぬ歯車>。
夫婦の関係でしょうか。
長年の友人関係でしょうか。
いずれにせよ、このままの回転を続ければ、いつか決定的な破綻は避けられません。
だからといって、急激に回転を止めれば衝撃が大きすぎて、すべてが一瞬に壊れてしまうかも知れないのです。
<だからゆつくり止めた>のですね。
この歌のリアリティをぼくはそう感じて、打たれました。

初心者のぼくには、こうした<希理子ワールド>の<現代短歌>の解釈はあいかわらず難しいのです。
もしまったくの見当違いでしたら、お笑いください。

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<011:からっぽ>から

2006-09-20 10:06:06 | 題詠blog2006から
からっぽの洗濯機へと放り込めしろたえの衣と軽いため息と(てん

自らを励ます歌でしょうか。
日々の生活で少し汚れた白いシャツと疲れた心を洗濯し、パリっと干し上げ、アイロンでもかけようか、と。
<からっぽの洗濯機へと放り込め>の勢いが、<しろたえの衣と軽いため息と>で巧みに和らげられ、静かな余韻が残ります。
<からっぽ>という現代語と<しろたえの衣>という古語の組み合わせも、いいですね。

                           *

産み終えてからっぽとなり・・・わたくしに満ち満ちてくる獣の母性(素人屋

そうなんでしょうねえ。
こればっかりは男どもには実感できません。
<・・・> も効いています。
<産み終えてからっぽとなり>、そして、なんですね。
<獣の母性>が<わたくしに満ち満ちてくる>のは。
<獣の母性>も、すごいですね。

                           *

砂時計見つめています からっぽの部分に過去が満ちてゆきます(cocoa

なるほど。
砂時計の新たな真実、ですね。
永遠に止まることのない時の流れが、平明な口語表現でまったく新しい角度から表現されていて、感動的です。
口語短歌もいいものですね。

                           *

穴ひとつ見つけて小石を入れる児はからっぽなどとつぶやきながら(内田かおり

母親として愛情深く幼児を観察しているだけでなく、幼児のそうした一見無意味な行動と思いに共感できる、記憶と柔らかな心を作者自身が保っていられるのでしょう。
同じ作者の <007:揺>の題詠歌<ひとつぶの涙のわけを手にとれば幼き言の葉わずかに揺れる>にも感じた感動が、甦りました。

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<010:桜>から

2006-09-19 11:38:03 | 題詠blog2006から
ひとり往く旅路に手向けの花あらば大和の桜その撩乱を(ねこまた@葛城)

<大和の桜> は、<大和地方の桜>とも、<日本の桜>とも取れます。
後者なら、海の向こうにひとり旅立つ人に贈るにふさわしい<手向けの花>があるとすれば、<大和の桜その撩乱を>というわけでしょう。
いずれにしても、この<大和の桜その撩乱を>の表現が豪快・新鮮ですね。
誰やらの<美しい日本>などという空虚な自讃にはまるで感じられない、日本語の力があふれ出ています。

                           *

緋を含むつぼみ育ちし桜枝の あおいろ薄き空に映ゆるも(鈴雨)

春先、桜の蕾が日一日ふくらんでいく憧れに満ちた情景が、上質な日本画のように切り取られています。
<桜枝の>という響きがやさしく心に残りました。

                           *

乳房(ちちふさ)の冷えゆく真昼 千の手を伸ばす桜の白き闇往く(ことら

花冷えの日でしょうか。
真昼だというのに心も乳房も冷え冷えとするなか、満開の花の下を通れば、並木はまるで<千の手を伸ばす桜の白き闇>。
桜はただ美しいだけではありません。
ある種のもの狂おしさをもった花です。
見る人の心のあり方しだいで、ひとを、場合によっては民族を丸ごと魔境に引きずりこむ妖しさを秘めています。
<千の手を伸ばす桜の白き闇>が、その妖しさをみごとに捕らえているように思いました。
<乳房(ちちふさ)の冷えゆく真昼>という、女性ならではの表現もぴったりです。

                           *

散りいそぐ桜をのせて大川のみづは海へとやさしく流る(瑞紀

隅田川の満々たる水に乗って、桜吹雪となって散ってしまった桜の花びらが無数に浮かび、東京湾に向ってゆっくりと流れて行く 情景が、やさしく目に浮かびます。
ちょうど今年、そのころに大川端を娘と歩きました。
この歌を読むと、そのときに桜の花の流れるのを見たわけでもないのに、なんだか実際に見たような気がしてしまいます。
もしかしたら、実景ではなく作者の記憶に残る懐かしい情景を歌ったものかもしれませんね。

                           *

「桜」とふ入浴剤の湯は紅(あか)く われも卵(らん)持つ魚(うお)であらまし(黄菜子
*桜の時期、産卵のために体が赤く染まった鯛を桜鯛と呼ぶと知りて詠める*

桜鯛が<桜の時期、産卵のために体が赤く染まった鯛>のことをいうのを知って(ぼくも初めて知りました)、こんな素敵な歌ができたのですねえ。
<「桜」とふ入浴剤>の袋に載せてあげたいほどです。
ただし、<008:親>の題で<うつしみの親子一世の契り終え吾が子二十歳の骨のちひさき>と詠まれた作者の歌として読めば、また別になお胸に迫るものがありますね。

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<009:椅子>から

2006-09-14 23:19:14 | 題詠blog2006から
よりかかるとすればそれは椅子の背もたれだけと言い切ってくれた凛とした声(ドール)
凭れるは椅子の背だけと言いし人の詩集抱えて坂を上りぬ (お気楽堂)

ぼくが20代半ばから日本の詩人でもっとも敬愛し続けた茨木のり子さんの、早すぎる死を悼む歌です。

<椅子>という題に、最後の詩集『倚りかかりらず』を思い浮かべ、ぼくもこう歌いました。

<敬愛する詩人茨木のり子の早すぎる死を悼みて詠める>
倚りかかる椅子の背もたれ要らぬ日の詩人に早く訪ふも悲しく
 060302 日々歌う

茨木さんに一度だけ、お会いしたことがありました。
彼女の韓国語の先生に誘われ、3人だけで。
 060220 日々歌う

今ぼくも、椅子の背もたれに倚りかかりながら心底ふかく共感します。
もはや、できあいの思想・宗教・学問、いかなる権威にも倚りかかりたくはない。
<じぶんの耳目/じぶんの二本足のみで立っていて/なにか不都合のことやある>、と。

同じ思いをもって歌を詠まれる方がいらっしゃるのですね。

 WHEN I WAS MOST BEAUTIFUL 060225

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<008:親>から(3)

2006-06-08 17:22:07 | 題詠blog2006から
母親としばしの別れに涙する登園の子をそつと抱きしむ(宮沢耳)

最愛のわが子との永久の別れを強いられた母親のかなしみには比すべきもありませんが、<母親としばしの別れに涙する登園の子>のかなしみもその子にとっては、決してそう浅いものではないでしょう。
親バカだったぼくなども、毎朝一人娘と別れるとき、もしかしたらこれが永久の別れになるのではないかという不安を感じていました。
まして幼い子どもにとっては、最愛の母親との別れを<しばし>とだけは思えなくても不思議ではありません。
ただしその幼い不安は母親が愛情深く<そつと抱きし>めてくれさえすれば、あっという間に消え去ってしまうのでしょうが。

最後の<そつと抱きしむ>が、そうした諸々を包み込んで見事です。

                      *

おそろしいのです ひとの親になる私はひとの祖先になるのです(沼尻つた子)

すべての現存し、実在した<ひと>は、過去に向かっては万世一系です。
はるかな数百万年前のご先祖様が、万世一系の果てにぼくなんぞのしょうもない子孫を見たらおそらく嘆くこと必定でしょう。
ましてや、自分の子孫が人殺しだったり詐欺師だったり、戦争中毒のどこやら大国の大統領だったり、そヤツに尻尾をふってばかりの忠犬ポチだったり、冷酷・誇大妄想の<将軍様>だったりしたら。
ただし、未来に向かっては途中で子孫が途絶える可能性がありますから、そんな悪人の子孫の祖先になることを免れる可能性がないとはいえませんが。
でも、やっぱり<ひとの親になる私>が<ひとの祖先になる>可能性は十分にあります。
ひとの親になり、そのことによって善良で愛情深い聡明な子孫の祖先になれるなら、どんなにうれしいことでしょう。
でも、それが容易に信じられないのです。

だから<おそろしいのです>。

戦争や内戦などで2億人ものいのちを奪い合った<戦争と暴力の世紀>が終わって、21世紀こそはと思ったのも束の間。
南北間の格差も国内の格差も広がる一方。
人々、子どもたちが共有できる確固とした希望も理想もどこにも見当たりません。
好戦的なナショナリズムと弱肉強食の拝金主義だけが、ますます声高にのさばっていくかのようです。

こんな時代に、初めて<ひとの親になる>ことのアンビヴァレント(両義的)なこころの揺らぎが、なんと平易な口語で鋭く歌われているのでしょうか。

<おそろしい/のです ひとの/親になる/私はひとの/祖先になるのです>
かなりの破調ですが、あえて句分けすればこうなるのかもしれません。
こうした破調が気にならないほど、冒頭の<おそろしいのです>から惹き込まれてしまいました。

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<008:親>から(2)

2006-06-06 23:29:55 | 題詠blog2006から
親密な小鳥のやうにおとうとが春のゆくへをうんぬんしに来る(村本希理子)

年上の姉貴にかまってもらいたくて<親密な小鳥のやうに>すりよってくる<おとうと>が、<春のゆくへをうんぬんしに来る>というのです。
無邪気というか、ませたというか、ひねこびたというか。
その非現実的なアンバランスが、妙にリアリティを感じさせる不思議な歌ですね。

                        *

親しさを推し量るべく白昼のひかりに肌をさらし戯る(クロエ)

おそらく最後の<戯る>は<交わる>と同義なのでしょう。
性愛の真実の一つを鋭く歌っているように思います。

                        *

うつしみの親子一世の契り終え吾が子二十歳の骨のちひさき(黄菜子)

<夭折の子を持つ親のかなしみを湛へて届く賀状もありて>
ぼくのこの題の出詠歌です。
ここにもまたそうした<夭折の子を持つ親>の深いかなしみがありました。

<うつしみの親子一世の契り>。
親子の関係の強さとはかなさを表現して、みごとです。
その、<契り>が突然終わってしまったのでしょう。
たった<二十歳>で。
しかも、荼毘に付した後の<吾が子二十歳の骨のちひさき>。

不条理な人生のかなしみに胸深く迫られる歌ですね。


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<008:親>から

2006-06-04 10:55:46 | 題詠blog2006から
子を抱く温みがときに恋しくて親の都合で抱きしめてをり(ほにゃらか)

一人娘が小さいころ、家のドアを開けると娘の方から飛んできて抱きついてくれました。お風呂にも一緒に入って。
それがだんだん離れて行くさびしさに、つい。
そんな懐かしく切ない記憶が甦る歌です。

                          *

親知らず抜くためまなこ閉じをれば白衣の声に心乱れぬ(小原英滋)

歯医者のいすに仰向けにされ、これから痛む親知らずを抜くために目を閉じているときの誰しも感じるあの不安が、<まなこ閉じをれば白衣の声に心乱れぬ>によってみごとに表現されています。
<白衣の声>。
もしこれが<医者らの声>などだったらと思うと、ことばの力というものを改めて感じさせられますね。

                          *

腹を割く朱塗りの箸を持つ人の広々とした 親指の爪(新明さだみ)

<腹を割く>で一瞬どきりとしますが、<朱塗りの箸を持つ人の広々とした 親指の爪>と続く歌は、おそらく恋の歌。
<朱塗りの箸>とありますから、割烹か和食の店なのでしょう。
この<広々とした 親指の爪>という表現は、そこで向かい合いに座り、鮎の塩焼きの腹でも箸で割いている相手の手許を、惚れ惚れと見ている作者(または作中人物)にしか生まれませんね。
ちなみに、ぼくの親指の爪も人一倍大きいのでかつて恋人からそんな目で見られたことがありましたねえ。ははは。

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