雪の朝ぼくは突然歌いたくなった

2005年1月26日。雪の朝、突然歌いたくなった。「題詠マラソン」に参加。3月6日に完走。六十路の未知の旅が始まった…。

051023 題詠マラソンから

2005-10-23 17:58:54 | 題詠マラソン2005から
【29274】 010:線路 どれほどの会話が風になったろう道路と線路まじわるところ(佐藤弓生)

 踏み切りを「道路と線路まじわるところ」と表現したところが、まずとても新鮮です。
 遮断機が降りた踏切にはしだいに人が溜まっていき、会話をしながら電車の通過を待つ人たちもいます。
 そこに電車がやってきて、轟音とともに風を巻き上げながら通っていきます。
 その瞬間、もう誰の会話も聞えません。
 これまでにいったい「どれほどの会話が風になったろう」。
 ほんとうにそうですね。
 
 踏切が悲惨な事故の現場ではなく、せめて人びとの「会話が風に」なるところであり続けますように。

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051017 題詠マラソンから

2005-10-17 19:22:05 | 題詠マラソン2005から
【27946】 046:泥 すこやかな目覚めのやうに咲く蓮は泥のなかより白を掬ひぬ(春村蓬)
 
 仏典に見られる「汚泥華(おでいげ)」とは白蓮華のことです。
 この意味については、二通りの解釈があるように思います。
 ひとつは、「汚泥不染」。
 つまり、汚泥の中に育ちながらも汚泥に染まらず清らな花を咲かせるというもの。
 もうひとつは、汚泥の中に育てばこそ清らな花を咲かせるのだというもの。
 「高原の陸地には蓮華を生ぜず。卑湿の汚泥にいまし蓮華を生ずと」という親鸞のことばなどは、明らかに後者の意味でしょう。
 つまり、「卑湿の汚泥」の中にこそ潜む本当に清らなものが蓮華となって花開く、というのです。

 作者がどこまでそうしたことを意識されたかはわかりません。
 しかし、この歌は平易な言葉でそうした思想の深みに確かに達しています。
 「泥のなかより白を掬ひぬ」。
 実に深い表現です。


【27950】 050:変 雨の日もあつけらかんと晴れた日も空の高さは変はらぬものを(春村蓬)

 世の中には、空の高低などによってその日の気分を左右されないタフな人もいるかもしれません。
 それに考えてみれば、客観的には確かに空の高さに高低などあるはずがないのです。
 でも、ヤワで愚かなぼくたちは日々空の高低を感じ、それに左右されてジタバタ生きているのです。
 そんな情けなくもいとおしい人間の真実を、それこそ「あつけらかん」と作者は詠っているように思います。
 「あつけらかんと晴れた日」、がなんともいいですね。

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051016 題詠マラソンから

2005-10-16 15:06:44 | 題詠マラソン2005から
【27701】 089:巻 心もち開いた口に安堵あり新巻鮭のながい溜息(瀧村小奈生)

 新巻鮭を一匹丸ごと目の前にする機会はすでにありません。
 そこで目に浮かんだのは、なぜか高橋由一の有名な「鮭図」でした。
 さすがに、身の半分を切り剥がされ吊るされたあの新巻鮭には、安堵のながい溜息を感じることはできません。
 でも養殖ではない本物の新巻鮭を目の前にすれば、長い旅路を終えて故郷の川に戻り、秋の恵みとして人間の食卓に上った鮭の感慨が、きっとこうしみじみと感じられるのでしょう。

 心もち開いた口に安堵あり新巻鮭のながい溜息


【27671】 090:薔薇 やさしくてぬけてるところもあるけれど漢字で「薔薇」が書ける人です(藤矢朝子)

 いろいろと読めれど書けぬ漢字あり我は死なんか薔薇と書けずに

 これがぼくのマラソン出詠歌でした。
 もしかしてこれの本歌取りなのでしょうか。
 ならば光栄ですが。

 「やさしくてぬけてるところもあるけれど」ちゃんと尊敬できるところもある素敵な人なんですよ、私の好きなあの人は。
 という尊敬を「漢字で「薔薇」が書ける人」としたところが、とっても新鮮ですね。


【27603】 030:橋 橋守のやうなる犬の寝そべりてときどき黒き耳を立てをり(皆瀬仁太)

 「橋守のやうなる犬の寝そべりて」。
 イメージが掻き立てられます。

 いまどき「橋守」。しかも、犬。
 とうてい都会の橋ではありえません。
 田舎の小さな橋、です。
 しかも、まさか繋がれた犬ではない。
 それでは「寝そべりて」の悠々たる「橋守」のイメージになりません。

 「ときどき黒き耳を立てをり」。
 「黒き耳」というのですから、おそらく全身も真っ黒。
 いやしくも「橋守」です。
 怪しき気配にはまず「耳を立て」、注意をおさおさ怠りません。
 いざとなればいつでもという、精悍な気配が。
 絵になりますねえ。

 実際にはたまたま黒犬が橋の袂に寝そべっていただけかもしれません。
 それを作者の想像力が鮮やかな三十一字のドラマに仕立て上げました。 
  
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051015 題詠マラソンから

2005-10-15 17:14:33 | 題詠マラソン2005から
【27454】 039:紫  来年も咲けよと花を切られたる紫陽花の茎葉なをあざらけし(宮沢 耳 )

 紫陽花の花が終わったまま朽ち果てている姿ほど、目を背けたくなるものはありません。
 なんだか花のミイラを見ているようで、民家にせよ公園にせよ、世話すべき人の心根さえ疑ってしまいます。
 という心理的な問題とは別に、園芸上の実際的な問題があるのですね。
 紫陽花を来年も見事に咲かせるには、盛りが過ぎたら思い切って花を切ってしまったほうが良いのでしょう。
 当然まだ茎も葉も青々と鮮やかなうちに。

 「鮮やか」の古語である「あざらけし」は耳慣れません。
 「鮮(あざ)らけし」ならばぼくのような初心者にもわかります。
 また、「なを」は「なほ」が一般的ではないでしょうか。

 それにしても、見事ですね。
 
 来年も咲けよと花を切られたる紫陽花の茎葉なをあざらけし


【27423】 071:次元 異次元に迷い込みたる猫のごと三味の音する路地を彷徨う(屋良健一郎)

 娘の親しい独身の女性写真家は谷中(やなか)の借家で猫を飼っています。
 写真家が仕事で何日か留守をするときには娘が猫を預ります。
 最初の時にはそれこそ「異次元に迷い込みたる猫のごと」、娘の家中を彷徨って落ち着かなかったそうです。
 人間も突然、三味線の音などする谷中の路地などに迷い込んだら、同じでしょうね。
 とても新宿や渋谷と同じ都心にいるとは思えない、異次元の世界ですから。

 「三味の音」は「猫」からの連想でしょうか。
 逆かもしれません。
 いずれにせよ、それによってリアリティが増したことは確かです。

 「異次元に迷い込みたる猫のごと」、ぼくもどこか見知らぬ路地を彷徨いたくなりました。

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051001 題詠マラソンから

2005-10-01 15:39:24 | 題詠マラソン2005から
【24943】 038:横浜 横浜に槐一樹のあることを美(は)しきちからと思うおりふし(村上きわみ)

 未だに槐と針槐(ニセアカシア)の区別がしかとつきません。
 作者はきっと区別がつくのでしょう。
 針の有無、実の形にちがいがあるのですね。
 いずれにしても大木に育ちます。
 
 「横浜に槐一樹のあることを」。
 そう詠うほどの槐の巨木は横浜のどこにあるのでしょうか。
 作者はおりふしそれを見ては「美(は)しきちからと思う」のです。
 
 槐ではありませんが、僕の住む文京区にも楠の巨木があります。
 ときおり無性に見たくなります。
 美しくも雄大な巨樹が今も目に浮かびます。
 ああ、先にこう詠っておけばよかった…。
 
 文京に楠一樹あることを美(は)しきちからと思うおりふし
 
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050929 題詠マラソンから

2005-09-29 11:43:15 | 題詠マラソン2005から
【24605】097:静 ひたひたと濡れし音して車過ぐ静かに雨の降り初むらんか(久松)

 静まり返った夜更けでしょうか。
 夜明けかもしれません。
 時おり通る車の音のいつものとの微妙な違い。

 寝床の中で耳を澄まします。
 雨の音が聞えてくるわけではありません。
 それでもきっと。
 
 「ひたひたと濡れし音して車過ぐ静かに雨の降り初むらんか」。

 これはデジャ・ビュでもデジャ・エクテでもありません。
 まさしくぼくも度々経験した音であり情景です。
 みごとな歌によってそれらがありありと甦りました。
 

【24607】 099:動 嬰児が手を動かしたそれだけのことに眼のうるうるとして(久松 )

 先日、電車の中で若い父親が嬰児(みどりご)をまるでこわれもののように抱いてました。
 その嬰児(みどりご)の手のあまりの小ささに、思わず娘にあれ見てご覧とささやいてしまいました。
 そのときぼくが同時に見ていたのは、30年近くも前のそのわが娘の手でもありました。
 ただし娘にはそうは言いませんでしたが。

 たぶん、この歌の嬰児(みどりご)は作者の初孫。
 そして作者もまた、そのみどりごの母たる娘のかつての手を想い起こしたのではないでしょうか。

 結句の「うるうるとして」も、このような情景に詠われたことはこれまでなかったでしょう。
 ともすればセンチメンタルな響きになりがちなこのことばが、微塵もそれを感じさせません。
 句またがりもごく自然で、気になりませんでした。

 吾が子、吾が孫のもみじのような手が動くという、ただそれだけの事実に胸がいっぱいになる。
 その人類普遍の想いがこめられた味わい深い歌ですね。
 
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050925 題詠マラソンから

2005-09-25 23:59:27 | 題詠マラソン2005から
【24197】 089:巻 誰もみなきっといずれは消えてゆくビデオが巻き戻される速度で(五十嵐きよみ)

 本当にそうですね。
 それにしても、人の死を「ビデオが巻き戻される速度で」「消えてゆく」と表現したのは、人類史上きっとこの歌が初めてでしょう。
 ただし、見たビデオがすばらしかったときと、どうしようもなかったときとでは、巻き戻しの終わるのを待つ間の感慨は相当に異なります。
 多分、人の死も。
 惜しまれて死ぬか、そうでないか。
 
 DVD以降の世代にはよくわからないレトロな表現、と言われるようになるかもしれませんね。
 

【24192】 053:髪 渾身の力作だったまとめ髪しゅるりと解かれて夏祭り(柴田 瞳)

 「しゅるりと解かれ」たのは「渾身の力作だったまとめ髪」だけではありえません。
 夏祭りの日、着ていたのは神輿を担ぐための印半纏なのか、それとも浴衣なのか。
 いずれにしても、「渾身の力作だったまとめ髪」が「しゅるりと解かれて」しまえばその後は、ということになります。
 まあなんと粋な性愛の歌、なのでしょうか。
 お見事、です。

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050922 題詠マラソンから

2005-09-22 15:19:35 | 題詠マラソン2005から
【23833】 33:魚 秋サンマ切らうとするにためらへりおそろしくうつくしい魚め(冨樫由美子)

 低温冷蔵技術と流通体制の発達によって、都会にいても新鮮なサンマやイワシが食べられるようになりました。
 とくに、かつては考えられなかったサンマの刺身が食べられるようになったのは、魚食いにとってはうれしいことです。
 塩焼きのおいしさは格別ですが、刺身にもすてがたいものがあります。
 サンマを漢字で書けば秋刀魚。
 当然、当て字です。
 秋の刀の魚。
 この刀は、三百年のPAX-TOKUGAWANA(徳川の平和)のあいだに単なる武器から芸術品に磨き上げられた日本刀。

 「秋サンマ」。
 なるほど。
 「秋秋刀魚」ではどうにもなりませんが、これなら最初の秋に目が行ってサンマのほうの秋は見えませんね。
 切る、というのですから、やはり刺身でしょう。
 刺身にできるほど大ぶりの、背筋がピンと張りつめた新鮮な秋刀魚が、今まさに俎板に乗っています。
 三枚におろすべく、まず頭を切り落とそうと小ぶりの出刃を構えたその瞬間。
 藍のごとく深き青の背と銀のごとき腹、磨き上げられた名刀のような姿に、ためらうのです。
 そのためらいを振り切って出刃を振るうには、「おそろしくうつくしい魚め」とでも言わなければとても抗えないほどの美しさ。
 結句の「め」が見事です。
 結句だけが現代仮名遣いになっているのも効果的でした。


【23836】 36:探偵 「エーミールと探偵たち」は西校舎二階図書室東の棚に(冨樫由美子)

 死の危険を冒して最後まで祖国ドイツにとどまり、ヒトラー・ナチスに抵抗を続けたほとんど唯一の人気作家。
 それがエーリッヒ・ケストナーです。
 「本を焼く者は、ついには人間を焼くようになる」というハイネの不気味な予言は本当でした。
 六百万人のユダヤ人を殺し、死体を焼き捨てたヒトラーは、まず危険とみなした本を焼くことを命じたのです。
 ベルリンでも大量の本が焼かれました。
 熱狂するヒトラー崇拝の群衆の中に、自分の本が焼かれるのを密かに見届けていたケストナーの姿がありました。
 新たな執筆は禁止され、図書館からもケストナーの本は消え去りました。
 ところが『エーミールと探偵たち』だけはついに撤去されませんでした。
 それはドイツ中の子どもたちが『エーミールと探偵たち』を心の底から愛していたからでした。
 ケストナーは知りませんでしたが、ヒトラー・ナチスを批判するケストナーの詩は街角どころか戦場でさえ、人から人へと手渡しで読み続けられていたのです。
 
 『エーミールと探偵たち』は戦後、ケストナーのそのほかの児童小説とともに翻訳されて日本の子どもたちにも愛されました。
 おそらく作者も小学校の図書室で『エーミールと探偵たち』を知って、愛読したのでしょう。
 それも何回も何回も繰り返して。
 詠題の「探偵」で『エーミールと探偵たち』が連想されると、一気にその本が置かれていた場所までが懐かしく鮮明に甦ったのだと思います。
  「西校舎二階図書室東の棚に」。
 一見散文的でぶっきらぼうな表現ですが、多くの内に秘められたものが感じられる歌ですね。


【23707】 081:洗濯 いまだ見ぬ腸を洗濯するためにこんにやくを買ふしらたきを買ふ(櫂未知子)

 こんにやくもしらたきも栄養価はほとんどないけれど、お腹の掃除にはいい。
 若いころからそう聞いていました。
 ある時期からはダイエット食品としての再評価もあるようです。
 でも、これまで「いまだ見ぬ腸を洗濯するために」こんにゃくとしらたきを買った人はいないでしょう。
 「いまだ見ぬ腸」、「腸を洗濯する」。
 おそらく誰も考えつかなかった表現です。
 そこに、「こんにやくを買ふしらたきを買ふ」とたたみかける。
 ひょっとしたら、この歌はこんにゃくとしらたきのイメージに革命を起こすかも知れません。

 
【23710】 084:林 木が林に林が森になるあたり舌の痺るるきのこのひかり(櫂未知子)

 漢字は木が二つで林に、三つで森になります。
 それを巧みに使って、「木が林に林が森になるあたり」と、木々が次第に密になり、昼なお暗き状態になって行く様を言うなれば神話的に表現しています。
 「舌の痺るる」毒きのこは、そのあたりに「ひかり」を放って獲物を待ち受けているのでしょう。
 その獲物になるのは誰でしょうか。なぜでしょうか。

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050919 題詠マラソンから

2005-09-19 12:41:41 | 題詠マラソン2005から
【23467】 054:靴下 靴下を脱がすしぐさのあまやかに松阪慶子まだおんなざかり(美濃和哥)

 松「阪」慶子か松「坂」慶子か。
 調べてみると、デビューしたころは松「阪」慶子で、その後松「坂」慶子になって現在に至っているようです。
 ですから、この歌は松「坂」慶子のほうが正しいのかもしれません。
 最近の松坂慶子のものはほとんど見ていないのですが、ある時期までぼくのマドンナは彼女でした。
 「阿蘇の女」というTVドラマで、初めて彼女を見ました。
 1974年だったのですね。
 彼女が、22歳のときだったようです。
 その清楚で凛とした美しさに魂を奪われました。
 ということは、現在の彼女は53歳。
 どんな映画かドラマかはわかりません。
 「靴下を脱がすしぐさのあまやかに」。
 「脱ぐしぐさ」ではなく、「脱がすしぐさ」なんですね。
 うーん。
 結婚・離婚・再婚・在日・写真集、など、いつも目の片隅で気にはかけてきました。
 でも、ぼくのマドンナはやっぱり「阿蘇の女」。
 あの鮮烈なイメージを壊したくない、という思いだったのでしょう。
 まともにその後、彼女を追いかけた記憶があまりありません。
 それに、あの「阿蘇の女」は、松「阪」慶子と松「坂」慶子のどちらだったのでしょうか。

 そんな想いを呼び起こされた歌でした。
 

【23382】 083:キャベツ 最新版『地球の歩き方』を手にキャベツ畑の虹を訪ねる(矢野佳津)

 広々としたキャベツ畑の上に虹が出たのでしょう。
 雨上がりだったのかもしれません。
 この世のものとも思えぬ美しく幻想的な風景は、なにもなしに迷いこんだら怖いほど。
 そこで手にしたのが、最新版『地球の歩き方』というわけです。
 作者はきっと、なれない異国の地で『地球の歩き方』に救われた体験があるのでしょうね。
 意外性がとても効いています。
 ぼくもその最新版『地球の歩き方』を手にキャベツ畑の虹を見たくなりました。


【23383】 084:林 向きあへぬことはさておきこの秋もいびつな林檎の紅を楽しむ(矢野佳津)

 「向きあへぬことはさておき」。
 さて置かれた「向きあへぬこと」とはなんでしょうか。
 誰かと「向きあへぬこと」なのか、それとも何事か困難な、あるいはイヤな「向きあへぬこと」なのか。
 それは定かではありません。
 いずれにしても自他を含む人事に関わるそれは「さておき」、「この秋もいびつな林檎の紅を楽しむ」のです。
 「この秋も」というのですから、この楽しみは毎年のこと。
 「いびつな林檎」は、それが販売業務用のものではない庭の林檎であることを示しているのでしょう。
 秋が来ていつしか庭の林檎にまた紅がさす。
 そんな小さな自然の摂理に気づき、それを楽しむことで生まれる心の余裕と切り替え。
 北国で生きるひとの息遣いが聞えてくるような歌ですね。

 
【23367】 053:髪 洗い髪のかおり助手席からあふれ夜明けの駅へきみを送り行く(コメット) 
【23371】 057:制服 髪型や輪郭似ればチェック柄の制服の子らをつい振り返る(コメット)

 おそらく、「髪」の歌の「きみ」も「制服」の歌の「髪型や輪郭」の似た子も、親に先立ち逝ってしまったかけがえのない我が子。
 ともに切ない「亡き子を偲ぶ歌」なのでしょう。

 秋の遠足か修学旅行などでしょうか。
 夜明けの一番電車でもなければ早朝の集合時間にはまにあいません。
 そこで父親が娘を助手席に乗せて送って行けば、洗ったばかりの娘の髪からシャンプーかリンスのかおりがあふれてきたのです。
 車を運転していて、突然そのかおりとともに亡き子のことをありありと思い起こす情景が浮かびます。

 街を歩けば、「髪型や輪郭」が亡き子に似た「チェック柄の制服」の後ろ姿が目につきます。
 もしやという思いを絶ちきれず、早足で追い越しては「つい振り返」ってしまう。
 もちろん、顔を見れば我が子であるはずもありません。
 後姿とちがって似た顔ですらもないのです。
 その残酷さ。
 それがわかっていながら繰り返さざるをえない切なさ。
 
 カスリン・フェリア歌う哀切きわまりないマーラーの「亡き子を偲ぶ歌」を、作者に捧げます。


【23272】 087:計画  「ご利用は計画的に」できそうな人はお宅に借金しない(林ゆみ)

 通勤の電車でサラ金の広告を見てハラが立つことの一つに、この「ご利用は計画的に」というコピーがあります。
 なにが計画的にだっ!と腹の中で悪態をついたりしていました。
 作者はそれを見事にユーモアをもって歌にしてくれました。
 考えてみればこのコピーはとてつもないブラックユーモアの毒を秘めていますね。
 サラ金を計画的に利用する人。
 たしかに詐欺師や恐喝犯の中には、その類の輩がいます。
 まさに「 「ご利用は計画的に」できそうな人」です。
 でも彼らはサラ金から「借金」するのではないでしょう。
 騙し取るだけです。
 作者の言うのは、もちろんそういう人ではありません。
 自分の経済を「計画的に」できそうもない人がついついサラ金に手を出してしまう。
 そのことを知り尽くした上でなおそういう人に向けたセリフが、「ご利用は計画的に」なのです。
 昔で言えば「説教強盗」でしょうか。
 強盗に入って家人を縛り付けて、やおら「こういうことになったのもお前らがちゃんとカギをかけて置かないからだ」と説教した強盗が実際にいたそうですね。
 結句の「お宅に借金しない」がいいですね。
 たまに「お宅」がという話し方をする人がいますが、なにか不遜な感じがして好きになれません。
 でも今様「説教強盗」にはぴったりです。
 ところが、こうした「説教強盗」企業が大手を振って一部上場したり、陰で大新聞を買収したり(されるほうも情けない)。
 とんでもない世の中です。
 でも、その「説教強盗」企業に陰で湯水のように資金を提供してきた大銀行・ノンバンクの偽善は。
 また、そういう金融機関を救うために湯水のように公金(税金)を提供し、預金者の利子を食いつぶしてきた政治家・官僚たちの鉄面皮は。
 未来永劫「コイズミ改革」なるものがそんなところにメスを入れることはありえません。
 にも拘わらず、ああ。
 
 
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050907 題詠マラソンから

2005-09-07 18:00:44 | 題詠マラソン2005から
【22429】 015:友 横顔の美しかつた級友の真正面なる写真仰ぎぬ(春村蓬)

 仰ぐ位置にある「真正面なる写真」。
 その写真は、「横顔の美しかつた級友」のもの。
 若くして亡くなった友の弔いの日の情景でしょうか。
 大学時代の友人のことはあまり「級友」とは言いません。
 この「級友」はおそらく高校時代の友。
 同性か異性かは明示されていませんが、「横顔の美しかつた」という表現から女性のように思われます。
 その「横顔の美しかつた級友」はいま、祭壇に遺影となって「真正面」を向いているのです。
 その「真正面なる写真」を仰いで作者は、級友の美しかった横顔をありありと思い浮かべたのでしょう。
 友の早すぎる死を悼む悲しみが静かに伝わってきます。
 横、正面、上(仰ぎぬ)という三方向の表現も、悲しみの情景に奥行きと立体感を与えていて巧みです。
 

【22423】 029:ならずもの 傲慢で大口叩きのならずもの 霞ヶ関に西新宿に(桶田沙美)

 正確には「霞ヶ関」ではなく「永田町」なのでしょう。
 イチローとタローのまさに「傲慢で大口叩きのならずもの」コンビ。
 わがクニとミヤコの長(おさ)。
 ああ。
 でもいちばん情けないのは、わが民の多くがこの「ならずもの」たちを支持していること。
 海の向こうの9.11は彼のクニの長の暴走を生みました。
 あと4日に迫ったわがクニの9.11は?
 「すべての国民は自分にふさわしい政府を持つ」

 苦くそう思うことになるのでしょうか。

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