雪の朝ぼくは突然歌いたくなった

2005年1月26日。雪の朝、突然歌いたくなった。「題詠マラソン」に参加。3月6日に完走。六十路の未知の旅が始まった…。

100630 日々歌ふ

2010-06-30 22:58:22 | 日々歌ふ
虹のごと合歓の花咲き胡蝶舞ふ真昼間あそぶ幸のありけり


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

虹のごと合歓の花咲き胡蝶舞ふ

2010-06-30 22:39:00 | 日々写す

                 虹のごと合歓の花咲き胡蝶舞ふ真昼間あそぶ幸のありけり


 

                         6月24日 合歓木の花に蜜を吸うクロアゲハ、小石川植物園にて


コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

髭彦閑話28 「君は秀でし背もあれよ」後日談

2010-06-30 13:26:05 | 髭彦閑話

<髭彦閑話26「君は秀でし背もあれよ」~北一輝・松本健一・渡辺京二~>を書いた後、「君は秀でし背もあれよ」の詩句についてあれだけお粗末極まりない誤読を渡辺京二に指摘され、その後松本健一はどうしたのかが気になった。
国会図書館のNDL-OPACで松本健一の著作を検索してみたところ、2004年に岩波から全5巻の『評伝 北一輝』が出ていて、その第1巻が「若き北一輝」となっていた。
ひょっとしてと思い、文京区立図書館で検索して予約してみた。
届いた本を見ると、案の定、これは問題の『増補 若き北一輝』(1973年、現代評論社)を「定本」としたものだった。
ただし、簡単にはそうとはわからない。
なぜかというと、この第1巻には長文の「評伝 北一輝 まえがき―五巻本の構想にふれつつ―」という前書きがあるのだが、そこにはこの第1巻が『増補 若き北一輝』とどういう関係になるかは何も書かれていないからだ。
もしかしたら新たな書き下ろしかとも思い、あとがきを探してみると、「初版あとがき」(1971年)「増補版へのあとがき」(1973年)がある。
しかし、『評伝 北一輝』第1巻としての新たな「あとがき」はない。
とすると、これはあの『増補 若き北一輝』のテキストかと思い、さっそく該当の例の文章を探してみた。
たしかにそれはあった。前後の文章もまったく同じだ。
ところがである、例の箇所だけは違っていたのだ!

「輝は五尺たらずの背丈だったが、北も五尺そこそこであったから、」と、ここまでは『増補 若き北一輝』と同じなのだが、なんとその後は「小柄な恋人同士である。」(p.62)となっている。

要するに、渡辺からお粗末な誤読を指摘された「彼が後年『侠少悲歌』で「君は秀でし背もあれよ」と謳ったのは、微笑を誘われる。」という部分をすっぽり削除して、さり気なく「小柄な恋人同士である。」に書き替えていたのである。

しかし、どうやらそのために、松本は苦しい小細工をしなければならなかった。
松本は、この「小柄な恋人同士である。」に続けて、「ところで」という接続詞を新たに書き加えている。
普通、「ところで」というのはそこで話の流れを変えるときに使う接続詞だ。
そう思って読むと、なるほど、それに続く文章は一転して、輝が「色白で中肉の優雅さをたたえた少女だったが、反面しんの強さをその物腰の静かさのうちに秘めていた」といった、輝の人物像に関する描写になっている。
それに比して、たしかにその前の「輝は五尺たらずの背丈だったが、北も五尺そこそこであったから、小柄な恋人同士である。」というのは、輝と北という二人の恋人像の描写であった。
したがって、この「ところで」の加筆は生きている。

しかし、元来、底本の「輝は五尺たらずの背丈だったが、北も五尺そこそこであったから、彼が後年『侠少悲歌』で「君は秀でし背もあれよ」と謳ったのは、微笑を誘われる。」という文章は、輝と北という二人の恋人像の描写が主眼ではなく、輝の人物像を主眼として描くものであった。
しかも、削除された部分は、その「五尺たらずの背丈」の輝像を修飾するための、いわば取って置きのエピソードであったはずなのだ。
なぜならば、この文章が描いている時期は輝15歳、北20歳の頃なのだが、修飾のために引用されている『侠少悲歌』はその5年も後に書かれたものであるからだ。
つまり、松本はいつか『侠少悲歌』を読んで、その「君は秀でし背もあれよ」という詩句を輝の「背丈」のことだと思い込み、ノートにでも特筆しておいた。だからこそ、わざわざ15歳の輝を描くのに際し、その「五尺たらずの背丈」を形容するにはうってつけだと思って、それをここに書き込んだのでないのか。
いや、むしろ逆かもしれない。誤読して感動した『侠少悲歌』の「君は秀でし背もあれよ」という取って置きの詩句を使うためにこそ、満を持してここで輝を描写するのに「輝は五尺たらずの背丈だったが」と「背丈」を持ち出したのか。

いずれにしても、日本近代の歴史を描く文筆家としてはお粗末極まりない誤読が、最初のボタンのかけちがいである。
それを渡辺京二にこっぴどく指摘されて、どこかで松本は正直にそれを認めたのだろうか。証拠はないが、どうもそうではないように思う。
だからこそ、僕が少々意地悪く論証したような姑息な結果になってしまっているのではないか。

岩波本の奥付けの前のページに、ごく目立たない「付記」が2項目載っている。
その第1項に、こうある。
「本書「若き北一輝」の部分は『増補 若き北一輝』(一九七三年、現代評論社刊。初版は一九七一年)」を定本として加筆した。」

全体を比較対照して検証したわけではないが、少なくとも今回問題にした「君は秀でし背もあれよ」に関する文章については、この「付記」の書き方は今の僕の眼には正確さを甚だしく欠いて見える。
正確には、こう書くべきであったのではないだろうか。
「本書<第1巻>の「若き北一輝」は『増補 若き北一輝』(一九七三年、現代評論社刊。初版は一九七一年)」を定本として加筆<・修正>した<ものである。ただし、修正は事実の明白な誤りや誤植などの最小限のものにとどめた>。」
もしこの不正確さが意図的なものであったとすれば、さらにそこには文筆家にとって致命的ともいえる「不誠実」という形容詞も必要になってくるだろう。

神は細部に宿り給うと言うが、悪魔もまた細部に宿るかもしれないのである。
天網恢恢疎にして漏らさず。
もって自戒とすべきか。


コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

100629 日々歌ふ

2010-06-29 16:29:01 | 日々歌ふ

秘めやかに白く清らに咲く花を誰ぞ名づけしヤエドクダミと

非正規の花にはあれど美しく桔梗草咲く植物園に


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

非正規の花にはあれど―キキョウソウ(桔梗草)②

2010-06-29 12:48:34 | 日々写す

                    非正規の花にはあれど美しく桔梗草咲く植物園に


           

                       6月24日 キキョウソウ(桔梗草)、小石川植物園にて


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

非正規の花にはあれど―キキョウソウ(桔梗草)①

2010-06-29 11:15:37 | 日々写す

                    非正規の花にはあれど美しく桔梗草咲く植物園に


            

                       6月24日 キキョウソウ(桔梗草)、小石川植物園にて


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

秘めやかに白く清らに咲く花を―ヤエドクダミ

2010-06-29 10:41:58 | 日々写す

                 秘めやかに白く清らに咲く花を誰ぞ名づけしヤエドクダミと


 

                              6月24日 ヤエドクダミ(八重蕺草)、小石川植物園にて


コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

100628 日々歌ふ

2010-06-28 23:19:30 | 日々歌ふ

からつゆの強き陽ざしに鮮(あざ)らけく雑草(あらぐさ)咲きぬ花くれなゐに


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鮮(あざ)らけく雑草(あらぐさ)咲きぬ花くれなゐに―ムラサキカタバミ(紫傍食)

2010-06-28 23:11:40 | 日々写す

            からつゆの強き陽ざしに鮮(あざ)らけく雑草(あらぐさ)咲きぬ花くれなゐに


          

                    6月24日 ムラサキカタバミ(紫傍食)、小石川植物園にて


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

髭彦閑話 27 「『坂の上の雲』放送を考える全国ネットワーク」にリンク・掲載

2010-06-28 18:34:37 | 髭彦閑話

<髭彦閑話23―浅い現実主義と深い理想主義>に、「坂雲管理人」というなにやら怪しげなハンドルネームのコメントが来た。
一瞬、時おりあるエロ・サイトからのコメントかとも思って躊躇したが、思い切ってコメントを開いてみると「『坂の上の雲』放送を考える全国ネットワーク」とある。
なるほど、坂雲=坂の上の雲かと納得はしたものの、それにしても「『坂の上の雲』放送を考える全国ネットワーク」などという「全国ネットワーク」が僕のような弱小・軟弱なブログに何用かといぶかりながら、コメントを読んだ。
そこには、まったく予期しない申し出が書いてあった。

                              *

私『坂の上の雲』放送を考える全国ネットワーク の管理人です。
特に4.オルタナティブ=もうひとつの選択肢の視点ーーーの部分は当会の目的意識と重なるところが多いものですから
http://kakaue.web.fc2.com/
に紹介させていただきたいと思います。
できれば
4.オルタナティブ..以降の所を転載したいのですが?。
よろしくお願いします。

                              *

僕は、「明るい明治と暗い昭和」、「日本は日露戦争まではよかった」式のいわゆる「司馬史観」にはまったく同意できないし、藤沢周平を読むようになってからはなおのこと、司馬遼太郎の英雄物語風のものは鼻について読めなくなった。
それにNHKの大河ドラマを見る習慣が元々ないので(NHKの大河ドラマに限ったことではないが)、『坂の上の雲』のドラマなどは余計見る気がしなかった。
俗耳に入りやすい「司馬史観」が、これでいっそう国民の中に刷り込まれていくのかというイヤな感じはしたものの、それ以上、特になにをするでもなしにこれまで過ごしてきた。
そこに、「『坂の上の雲』放送を考える全国ネットワーク」の「坂雲管理人」という方からのこのお申し出である。
そこで、すぐ「『坂の上の雲』放送を考える全国ネットワーク」のサイトを見てから、下のような返事のコメントを載せた。

                         *

実は、去年、出版されたばかりの中村正則さんの『「坂の上の雲」と司馬史観』(岩波書店)を本屋でたまたま手にしたところ、朝鮮「永世中立化」の道に関する僕の議論が紹介され、それを踏まえて日清戦争の不可避性と、帝国主義的侵略の道か半植民地化の道しか当時の日本になかったのかどうかが、検討されているのを見て驚きました。
今回のお申し出は、それに続く驚きです。
引退した社会科の一教師の経験と試行錯誤に基づく、しかも何年も前の議論です。
もしなんらかのお役に立つのであれば、どうぞ遠慮なくお使いください。
むしろ、光栄です。
安川寿之輔さんをはじめ、どうぞ諸先生方によろしくお伝えください。
会のご健闘をお祈りします。

                              *

安川寿之輔さんの名を出したのは、かつて安川さんが僕の福沢諭吉に関する授業実践などに著書の中で触れてくださって以来のおつきあいがあり、「『坂の上の雲』放送を考える全国ネットワーク」のサイトに安川さんの講演の予告があったからである。

HPには「参考サイト」という新設のジャンルがあり、覗いてみると、一番トップに歴史教育に関する実践記録などが3つリンクされていた。
最初の<主題学習「19世紀後半、日本人のアジア観」>というのは、東京学芸大学附属高等学校大泉校舎の田中暁龍さんという方が1997年に発表された実践記録であった。
驚いたことに、これに次の僕の文章が2つも引用されていたのである。
「福沢諭吉の視点から柳宗悦の視点へ-日朝関係史のバクロ型授業を乗り越える試み-」(『歴史地理教育』465号、1990年12月)
「日清戦争をめぐる歴史の選択肢と歴史学・歴史教育」(比較史・比較歴史教育研究会編『黒船と日清戦争 歴史認識をめぐる対話』未来社、1996年)
3番目の<いま,なぜ,世界史か>は、戦後世界史教育の吉田悟郎さんと並ぶもう一人の巨人であった故・鈴木亮さんのHPに掲載されている、1998年の鈴木さん最晩年の文章であった。
僕はかつて「比較史・比較歴史教育研究会」という小さな研究会で、晩年の鈴木亮さんと知り合い、多くのことを学んだ。
井上ひさしさんが亡くなって、「むずかしいことをやさしく/やさしいことをふかく/ふかいことをゆかいに/ゆかいなことをまじめに書くこと」という彼のモットーが広く共感を呼んだが、今にして思えばまさにこの精神を歴史教育の分野で実行して文章を書いたのが鈴木亮さんだった。
その鈴木亮さんがなぜか僕の拙い実践を評価して、時おり彼の文章に引いてくださったのである。
この「いま,なぜ,世界史か」にも、1997年に東京で開かれた「日韓歴史教育東京シンポジウム」で僕が「日韓関係の近代史を問い直す」という報告をしたときのことが書かれている。

さらに、HPの「参考サイト」にはさまざまなサイトなどがリンクされていたのだが、<書評『「坂の上の雲」と司馬史観』~『思想運動』新年号>という表題が目に入って驚いた。
これは、この数年来、オフ会で親しく行き来している畏友<酔流亭>さんのブログに載っているもので、僕が<坂雲管理人>さんに書いた返事のコメントに挙げた中村正則さんの『「坂の上の雲」と司馬史観』の書評ではないか。

さらに<坂雲管理人>さんから、アドレスをどこで知られたのかメールが届き、「福沢諭吉の視点から柳宗悦の視点へ-日朝関係史のバクロ型授業を乗り越える試み-」(『歴史地理教育』465号)の掲載許可を求めてこられた。
これも光栄であれこそお断りする理由はないのでOKのご返事をしたところ、『歴史地理教育』を発行している民間教育団体「歴史教育者協議会」のOKも取られて、HPに掲載した旨のご連絡があった。

こうして、意外な展開で一引退社会科教師にすぎない僕のブログに載せた6年前に書いた文章と、20年も前に書いた文章が、「『坂の上の雲』放送を考える全国ネットワーク」のHPに各々リンク、掲載されることになった。
現役の社会科歴史教育関係者はもちろんのことだが、それ以上にマスコミや一般の国民の皆さんの眼に触れ、問題意識を少しでも共有していただけるきっかけにでもなれば、これに過ぎる喜びはない。
<坂雲管理人>さん、ありがとうございました。


コメント (8)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする