雪の朝ぼくは突然歌いたくなった

2005年1月26日。雪の朝、突然歌いたくなった。「題詠マラソン」に参加。3月6日に完走。六十路の未知の旅が始まった…。

題詠blog2008<022:低>から

2008-10-26 23:10:32 | 題詠blog2008から

こゑ低き君にしあればガラスより繊細な魂(たま)ふと見失ふ(みずき

小学生だった頃、我が家を訪ねた初めての客がぼくの声を聞くときまってこう言ったものです。
「ぼうや、お風邪?」
それほど幼いぼくの声はしわがれていたらしいのです。
それなりに毎度、ひそかに傷つきました。
ボーイソプラノで目のくりっとした二つ違いの兄とは対照的に、ぼくは目も細くてどこかジジくさい子どもだったのですね。
中学2年の頃に、やっと声変わりしました。
どうした作用なのか、一転してぼくのしわがれ声は普通の声に変わったのです。
しかも、かなり低音の。
山の家に行った先で、他クラスの女の子から「低音でステキ!」と言われた記憶が未だに耳に残っているほどです。
よほどうれしかったのでしょうね。

中学3年を終わるころから、ものを思うようになりました。
水泳やバスケットボールに打ち込む一方で、人生に深く悩み始めたのです。
本を読み漁り、音楽に浸り、恋に恋をし、ともすれば自死の誘惑に駆られました。
それは、大学になんとか現役で合格した後も1年ほど続きました。

スポーツで鍛えた身体と低音の持ち主だったそのころのぼくに、そんな<ガラスより繊細な魂>が隠されていたことを知っていたのは、家族とごく限られた友だちだけだったでしょう。

<こゑ低き君にしあればガラスより繊細な魂(たま)ふと見失ふ >

一読して、まるで半世紀近く前のぼくの若き日を誰かが詠ってくれていたかのような、そんな錯覚をおぼえました。

以下は、そのほかに気になった歌です。

散りてのち 花の紅よりなお赫く 低きを染める 桜の屍(水風抱月
往還に枝撒き散らし鵲の巣は去年(こぞ)よりも低く仕上がる(今泉洋子
西日のみ低く差し込むアパートの窓より世界の黄昏を見る(つばめ


コメント (8)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

題詠blog2008<020:鳩>から

2008-08-30 16:22:52 | 題詠blog2008から

恐れずに近づかないで無防備に 私は鳩を食べたことがある(野坂 りう

<鳩食す習ひのなきをいぶかしむ中国人の生徒をりけり>
これは<020:鳩>の僕の出詠歌です。
10年ほど前、北京からやってきたひとりの中国人高校生が、遠足に行った日本平の駐車場で鳩が群れているのを見ながら、どうして日本人はこんなおいしそうな鳩を食べないのかと、ボソリとつぶやきました。
彼は夏休みに北京に帰った際に、お土産に食用の生きたサソリを持ち帰って飼っていると話して、僕を驚かせた直後のことでした。
俗に、中国人は「机と父親以外は何でも食べる」などと言われたりしますが、サソリも鳩もかとさすがに驚きました。

とすれば、おそらく中国では日本でのように鳩が人を<恐れずに近づ>いたりはしないのでしょう。
もちろん、サソリも。

その僕が、しばらくしてベトナムのハノイを訪れ、鳩を食べることになります。
子どもの頃に、お祭りの出店で雷魚釣りというのをしたことがありますが、ハノイ名物の一つに雷魚料理がありました。
半信半疑で食べに出かけてみました。
客はベトナム人だけの素朴な店構えでした。
ところが、ターメリックと現地ならではの野菜を山のように載せて七輪で焼いた雷魚は、絶品の味で僕たちを魅了したのです。
フォーはもちろん毎日のように食べましたが、なにかベトナムらしいものはほかにないかと探しているうちに、鳩料理が目につきました。
今度の店はけっこう高級そうな店構えだったのですが、残念ながら鳩料理のほうは雷魚のようにはいきませんでした。
どうということもない凡庸な味で、雷魚のようにぜひもう一度食べたいとはとても思えませんでした。
その後、ベトナムには2回行きましたが、南部と中部だけだったので、あのハノイの雷魚料理も食べることはできませんでしたし、鳩料理はもちろん食べていません。

それでも、僕は一度は鳩を食べています。
作者も<鳩を食べたことがある>というのですから、僕と似たり寄ったりのことかもしれません。

ともあれ、日本の鳩たちは僕や作者のような危険な人間がそ知らぬ顔をして街中を歩いているのを知りません。
それどころか、もしかして餌をもらえるかもしれないという甘い期待で、<無防備に>僕たちにも近づいてきさえします。
僕とちがって、作者は「平和の象徴」たる鳩を食べたことを残酷なことをしてしまったと後悔し、胸が痛むのでしょう。
そこで、鳩たちについこう言わざるをえないのです。

<恐れずに近づかないで無防備に 私は鳩を食べたことがある>

ことは、鳩だけの問題ではないかもしれませんが。

ちなみに、<野坂 りう>という作者の名前は、僕たち年配者にとっては、あの野坂参三の妻<野坂りょう(竜)>を思い出させて、一瞬ギクリとさせるものがありますね。

以下は、そのほかに気になった歌です

鳩胸の母と妹 わたくしは鳩のこどもぢやなかつたさうだ(村本希理子)
言いたくて言えないことがまたひとつ鳩尾あたりでのたりとうごく(青野ことり
いつせいに鳩立ちしあとしらじらと道はありたりわたくしのため(吉浦玲子


コメント (14)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

題詠blog2008<018:集>から

2008-08-30 11:25:15 | 題詠blog2008から

つばくらめチュピルルルとわら集め傾く店のしばし賑はふ (草蜉蝣)

ツバメの鳴き声が好きです。
いつだったか、道を歩いていたら頭上からふしぎな鳴き声が聞えてきました。
思わず頭(こうべ)を返して、空を見上げました。
その鳴き声の主は、ツバメでした。
2羽のツバメが電線に止まって、何ともいえない囀(さえず)るようなかわいらしい声でいつまでも鳴き交わしていました。
ツバメが虫を取りながら空中を流れるように飛んでは返す姿や、ヒナに餌を与える姿は、時おり見かけます。
しかし、ツバメの鳴き声を聞いた記憶はありませんでした。
子どもの頃からきっと聞いていたはずですが、僕の方に聞く耳がなかったのでしょう。
それにしても、実に愛らしい鳴き声でした。
正直なところ、ツバメってこんなかわいらしい声で鳴くのだと感動したものです。
<チュピルルル>
そうでした。
まさに、そうでした。
<チュピルルル>です。

僕が鳴き声を聞いたツバメたちは電線でしばしの休憩を愉しんでいましたが、この歌の<つばくらめ>は鳴きながらも健気に働いています。
<わら>を<集め>ての巣作りです。

ツバメたちはどうして人家の軒先に巣作りをするのでしょう。
人間から餌をもらうわけでもなく、ふしぎです。
天敵から身を守るためでしょうか。
しかも数千キロも離れた東南アジアからやってきて、毎年よく同じ人家の軒先に帰って来られるものだと、いつも感心します。
最近でこそ、ビルやマンションの<軒先>に巣を作っているのを見かけますが、やっぱりツバメの巣が似合うのは伝統的な日本家屋の庇の長い軒先です。

<傾く店のしばし賑はふ>

日本中に広がってしまった「シャッター商店街」。
そんな商店街のさびれた日本家屋の店が、思い浮かびます。
まだ細々と店は続けているのでしょうが、商売はすっかり<傾>いているのでしょう。
もしかしたら、もはや物理的にも店舗が<傾>いているのかもしれません。
その店の軒先に、<つばくらめ>が<チュピルルルとわら集め>て巣作りを始めたのです。
巣が完成すれば、卵を産み、孵ったヒナが巣立つまで、<つばくらめ>たちは休む間もなく虫を捕らえては巣に電光のように帰り、すぐまたまた狩りに出かけます。
店先にはフンも落ちますが、なんといっても生の営みによる活気が生まれます。
ヒナたちが育てば、人びともどれどれと覗いていきます。
しかし、それも<しばし>の束の間のことにすぎません。
ヒナたちが巣立ち、親鳥といっしょに南国に帰ってしまえば<賑は>ひは去り、残るのは<傾く店>だけです。

<つばくらめチュピルルルとわら集め傾く店のしばし賑はふ>

わづか31文字で、こうした懐かしくも哀しい情景が見事に浮かび上がってきて、素敵です。
<つばくらめ>の古語と<チュピルルル>というオノマトペの組み合わせも、ぴったりときまっているように思います。

以下は、そのほかに気になった歌です。

切り抜きを父が集めしその中に南田洋子の若き日のあり(梅田啓子
キッチンの床にこぼせし米粒を集めゐてふいになみだ湧きいづ(近藤かすみ

なお、順番をまちがえて<018:集>からが<019:豆腐>からの後になってしまいました。


コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

題詠blog2008<019:豆腐>から

2008-08-30 00:28:36 | 題詠blog2008から

辛いのが苦手な割りに好きなんだ麻婆豆腐とあなたの皮肉(イツキ)

毎晩、料理名人の吾妹の助手としていっしょに夕食をつくります。
ときどき、指示がいい加減だとか、聞いてなかったとかで、小競り合いが起きたりしますが、おおむね仲良くおいしい料理をつくって楽しんでいます。
その吾妹のもっとも得意とする料理の一つが、麻婆豆腐と麻婆ナスです。
実は今晩の夕食のメインディッシュも、麻婆ナスでした。
僕の友人からもらった自家栽培のとろけるようなナスが、ひときわ引き立ってこたえられませんでした。
今日は僕はピータン豆腐を任されていたので、麻婆ナスには直接手を出しませんでした。
とはいっても、麻婆ナスにも使う大量のニンニクとショウガのみじん切りにネギのみじん切りは、僕がつくりました。
包丁のキレがいまひとつでしたが、包丁を研ぐのは僕の仕事ですから文句は言えません。
麻婆豆腐のときは、これ以外に、豆腐の水切り、豆鼓(トウチ)のみじん切り、豆板醤や甜面醤、片栗粉の用意などが加わります。
味付けは、料理名人のカンです。
したがって、毎回微妙に味はちがいますがトモカクおいしいのです。

二人とも辛いのは大好きです。
吾妹は、基本的に物言いはストレートです。
時として、愚にもつかないダジャレと皮肉を言うのは僕です。
辛いものと麻婆豆腐大好きの吾妹が、果たして僕の皮肉まで好きかどうかは大いに疑問です。

<辛いのが苦手な割りに好きなんだ麻婆豆腐とあなたの皮肉>

こう言い切れる作者の若さが、まぶしいようです。
どうか、皮肉屋の彼とさらにおいしい麻婆豆腐をつくっていつまでも仲良く暮らされますように。


コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

題詠blog2008<017:頭>から

2008-08-14 12:27:56 | 題詠blog2008から

病む母もまだ母であり涙目でうつむく娘の頭をこづく(やや

ドクダミの花が好きです。
そうであればあるほど、毒々しいの<ドク>に<濁声>の<ダミ>を連想させる<ドクダミ>というネーミングが気になります。
  誰呼びしかくも清楚に白き花咲かせる草をドクダミなどと(080608日々歌ふ)
イヌフグリのネーミングなども、花の可憐さからみれば不似合いですがつい笑ってしまうユーモアがあります。
  道の端で可憐に咲きしイヌフグリ果実のせいでふふふの汚名(050319日々歌う)
ドクダミにはそのユーモアもありません。

<認知症>というネーミングが気になります。
これは花の名前ではなく、病名です。
ユーモアは必要ありません。
それまでの<ボケ=呆け><痴呆症>というネーミングが持っていた毒々しさは、たしかになくなりました。
ただし、病名としての正確さに欠けています。
<認知>に困難、障害が現れる病気ということであれば、せめて<認知困難症>とか<認知障害>とかすべきだったはずです。
お役所的命名とそれに無批判なジャーナリズムのおかげで、いつのまにかこのあいまいな用語が広く<認知>されてしまいました。

この歌の<病む母>の病は、使いたくありませんがこの<認知症>なのでしょう。
もはや寝たきりの状態なのでしょうか。
毎日献身的に介護している実の娘のことも、すでに<認知>できなくなってしまっている様子です。
その日の機嫌によって、実の娘に向って「どちらさまですか?」とか「アンタ誰!?」とか口走るのかもしれません。
どうやら、今日は機嫌が悪いようです。
一所懸命に世話をした挙句、邪険に他人呼ばわりされ、つい<涙目でうつむく娘>。
その<娘の頭をこづく>母。
その<病む母もまだ母であ>るのです。
哀しい情景です。

類例のない速度で超高齢社会が到来しつつある日本。
僕たちはこれからこうした哀しさを生きなければなりません。
少しでもその哀しさを和らげるための、医療の進歩と、とくに福祉行政の根本的転換とが必要でしょう。
その切実さを、この歌は静かに教えてくれます。


コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

題詠blog2008<016:% >から

2008-08-13 11:19:19 | 題詠blog2008から

海亀の子が親になる%(パーセント)預金通帳見つつ思えり(原田 町

一度だけ、インドネシアの美しい海の中を悠々と泳ぐ海亀を見たことがあります。

数年前に吾妹とバリ島を再訪した際、隣にあるロンボク島にも足を伸ばしました。
最初にバリ島に行ったとき、ロンボク島でつくられるという素朴な焼物に魅せられたためです。
バリ島はヒンドゥーですが、圧倒的にイスラムが多いインドネシアでロンボク島はもちろんイスラム。
若い頃にトルコを訪ねたことがある吾妹とちがって、僕にとっては初めてのイスラム圏でした。
ちなみに、<ロンボク>とはインドネシア(ジャワ)語で<唐辛子>の意。
そのことを思い知らされたのは、真っ赤に色づいた鳥肉料理を一口ガブリと噛んで、飲み込んだ瞬間でした。
少々の辛いものには平気な僕にとっても、まさにそれは驚天動地の辛さ。
一瞬、何が起きたかわかりませんでした。
脳天をガーンとぶん殴られたような衝撃で、息もできません。
口もきけません。
死ぬかと思いました。

その衝撃からも不死鳥のように無事立ち直って、ダイビングのメッカとよばれている小島に行くことになりました。
浜辺で現地の青年と少年の二人組みと交渉し、小さな船でシュノーケル・ダイビングにふさわしいポイントに連れて行ってもらったのです。
そのハイライトが、海亀ポイントでした。
「あそこだ、あそこ!」という青年の指示に従って海中深く目を凝らすと、青白い水底に1匹の海亀が悠然と現れ、そして去っていくのが見えました。

あの海亀も大潮の満月の夜にはどこかの浜辺に上がって、産卵をしたことでしょう。
砂浜で孵化したばかりの海亀の子どもたちが、海に帰るのも大潮の夜。
その必死の行軍の健気な姿を、TVの映像で何度か見たことがあります。
しかし、海でその子どもたちを待っているのは大きな魚たち。
ほとんどが彼らの餌として容赦なく食われてしまいます。
何年か後の大潮の満月の夜、親となってまた同じ浜辺に戻って来られるのはその1%にも、いや0.1%にも満たないといいます。
いかに自然の摂理とはいえ、子どもたちの必死で健気な姿を見てしまった目には、きびしくも切ない数字です。

作者は、それを<預金通帳見つつ思えり>というのです。
バブル期の乱脈経営のツケで苦しむ巨大銀行を、いわば預金者から金利分をふんだくって救済したバブル崩壊後の超低金利政策。
その結果は、普通預金の金利がいっときは0.1%にも満たず、定期預金でさえ未だに1%にも満たないという、異常な状態を招きました。
まさに、この数字は<海亀の子が親になる%>そのものではありませんか。
海亀の子の悲哀は一転して、小泉政治のツケに苦しむ日本の庶民の悲哀へ。
非日常から日常への巧みな転調、ですね。
僕もこういう歌をはやく詠めるようになりたいものです。

以下は、そのほかに気になった歌です。

(%)のような目鼻で泣いている若きピカソが愛した女性(五十嵐きよみ
袖触れしあなたがそっとさしだしたティッシュの金利は13.5%(じゅうさんてんご)(市川周
10%(パー)と10%かけても100%にならぬと知るため算数を習う(小林ミイ


コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

題詠blog2008<015:アジア>から

2008-08-11 00:51:27 | 題詠blog2008から

六年の任期を終えた妹は東南アジアの熱気をまとう(青野ことり

50歳に近づいた頃から、アジアを旅するようになりました。

最初に訪れたのは、1991年に歴史教育のシンポジウムで報告することになった韓国でした。
以来、韓国には主に歴史教育関係の交流で10回近くも旅したでしょうか。
その間、シンポジウムなどでの通訳に大活躍をしてくれた韓国の大学院留学生のKさん(今は東北のある大学の先生になっています)は、日本に10年近くも暮らしていました。
その彼女が、ソウルの町を歩いていると「韓国語が上手だね」としばしば声をかけられるのだと言って、笑っていました。
僕たちから見るとどう見ても100%韓国人のKさんが、どうやらすっかり<日本の湿気>をまとってしまったようなのです。

韓国に行ったことが機になってか、出不精の僕が思いがけなく他のアジア諸国にも積極的に旅するようになりました。
ベトナムに3回。インドネシア(バリ島・ロンボク島)2回。台湾1回。中国(雲南省)1回。タイ1回。ネパール1回。カンボジア1回。
アジア以外では、イギリス1回、ハワイ1回、アメリカ本土1回、ノルウェイ1回ですから、圧倒的にアジアを旅してきたことになります。
アジアも韓国を除けばほとんどが東南アジアで、台湾以外はすべて個人的な旅行です。

バリ島に最初に行ったときのことでした。
吾妹の女友達の女友達が、バリでフィールドワークを長年続けている文化人類学研究者である上に、ちょうど同じ飛行機でバリに行くことがわかったのです。
しかも、現地に広い一軒家を借りているから、よければ泊めてくれるというのです。
成田で飛行機に乗り、次々に乗ってくる乗客のそれらしき日本人の女性を探しました。
しかし、どうしてもわかりません。
やっと最後にわかった彼女は、どこをどう見てもインドネシア人の妖しい美女です。
とうてい日本人には見えません。
名前を名乗り合い、普通の日本語で会話をして、なお信じられない思いでした。
でも、まちがいなく当の彼女なのでした。
ただし、彼女には一見(?)独特なクールな雰囲気があって、<東南アジアの熱気をまとう>という感じではなかったのですが。

2年前の夏に、ひとり娘とネパールを旅しました。
シニア海外協力隊の隊員として義兄が滞在していた、カトマンドゥの隣の古都パタンを訪ねたのです。
農業協同組合を専門とする義兄の案内で、普通の観光旅行ではとても行けない場所や人々を訪れ、貴重な出会いがあった旅でした。
義兄のいわば同僚に当たる青年海外協力隊の隊員のNさんは、カトマンドゥ郊外の農村に入って活躍していました。
浅黒く日に焼け、現地の女性の服装を身にまとった関西人だという陽気なこの彼女こそ、まさしく<東南アジアの熱気をまとう>という印象そのものだったのです。
その彼女でさえ、2年足らずの勤務だったはずです。

六年の任期を終えた妹は東南アジアの熱気をまとう

さもありなん、さもありなんと、この歌に深く納得、共感したのは、きっとそのためでしょう。


コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

題詠blog2008<014:泉>から

2008-08-09 12:40:26 | 題詠blog2008から

主計(かずえ)町くらがり坂の泉には母の鏡と花を沈めん(久野はすみ

金沢には二度しか行ったことがありません。
しかも、考えたら情けないことにその二度とも修学旅行でした。
一度目は、自分が中学生のときで、もう半世紀も前のこと。
兼六園に行ったことしか覚えていません。
二度めは、高校生を引率しての修学旅行で、十数年前です。
山口から裏日本をたどる旅の一応の終点で、兼六園以外には魚市場と武家屋敷を歩いたのがせいぜい印象に残っている程度。
近年建設されて評判の高い21世紀美術館も気になりますし、歴史の重みを感じさせるあの落ち着いた街並みを、今度こそ自分の足でゆっくりと歩き味わいたいと、ときおり思わずにはいられません。

<主計(かずえ)町くらがり坂>。
最初に見たときは、山本周五郎か藤沢周平の小説にでも出てくる地名かと思いました。
調べてみると、その金沢に実在する地名でした。
では作者も金沢のひとかと思いましたが、それにしても<泉には母の鏡と花を沈めん>とはいったい何のことだろうと疑問でした。
<主計町>という変わった地名は、元来は加賀藩士の富田主計(かずえ)の屋敷があったことに由来し、1999年に全国で初めて旧町名の復活に成功したのだそうです。
現在の主計町は、浅野川沿いに美しい格子戸の料亭が立ち並ぶ、金沢を代表する茶屋街のひとつだとか。
とても、修学旅行で歩くところではありませんでした。
<くらやみ坂>というのは、川沿いにあるその茶屋町というか色町に男たちがこっそり下る、細くて急な文字通りの<暗闇>坂だったようです。
写真をネットで見ると、今は石かコンクリートの階段になっていますが、相変わらず細くて急です。
途中に泉が湧くような場所とはとうてい思えません。
<泉には母の鏡と花を沈めん>とはいったい何のことだろうと、ますます疑問が募りました。
その疑問が一挙に解けたのは、このくらやみ坂を隣町に生まれ育った泉鏡花が遊び場にしていたという記事を見つけたときでした。
思わず笑ってしまいました。
言葉遊びの歌だったのですね。
作者のブログを訪ねてみたところ、なんと四国の松山の方でいらっしゃいました。
かなりの想像力とある種のユーモアがないと、こういう歌はなかなか詠めません。
僕にはとてもできない芸当です。

今回は、このほかにも取り上げたい歌がいくつもあって迷いました。
下に、歌だけを挙げさせていただきます(投稿順)。

マラソンをともに走りし青泉さん恙なきやと問うすべもなく(原田 町
血縁と遠く離(か)れきて漬けありし泉州水茄子ほろほろと食ぶ(吉浦玲子
父の胸うねりし大江健三郎われにあふるる川原泉(沼尻つた子
泣かぬ子の小さき瞳の影深く泉のありて我はたじろぐ(内田かおり


コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

題詠blog2008<013:優>から

2008-08-08 12:10:11 | 題詠blog2008から

君と吾とここに絶えなむ優性の遺伝やさしくなみうつ髪も(本田鈴雨

愛しあい、睦みあう五十歳前後の、しかし子のない夫婦を詠った歌でしょう。
作者は、もしかしたらまだぎりぎりで人工授精技術でも駆使すれば子を生すことが絶対に不可能ではない年齢、なのかもしれません。
<ここに絶えなむ>という表現に、それを感じます。
<なむ>は、完了・実現が確実なことについての推量を表わす古語です。
<…テシマウダロウ><キット…スルダロウ><…スルコトハマチガイナイダロウ>。
五十を大きく過ぎたならば、もはや<なむ>という推量の表現は成り立ちません。
なにが確実に絶えてしまうのだろうかといえば、<優性の遺伝やさしくなみうつ髪も>です。
<君と吾(あ)と>がそれぞれに持つ<優性の遺伝>は色々です。
その中でもとりわけ印象的なのが、<なみうつ髪>なのでしょう。
俗に言う<天然パーマ>です。
おそらく、夫婦そろっての。
だとすれば、妻はともかく、五十を大きく過ぎた夫に<やさしくなみうつ髪>の表現は似合いません。

<ここに>も微妙です。
<君と吾(あ)>は、ともに一人っ子なのでしょうか。
だとすれば、<ここに>には二重の意味がこめられていることになります。
つまり、ひとつは、子を生すことがほぼ確実に不可能となってしまった今という時間です。
もうひとつは、ともに一人っ子の<君と吾(あ)と>の間という場所です。
両方の祖先から連綿として受け継がれてきた<なみうつ髪>などの優性遺伝が、二人の間で永久に絶えてしまうことになります。

ところで、この歌の<なむ>という表現ですぐ思い起こされたのは、なぜか牧水のあの歌でした。
<幾山河越えさり行かば寂しさのはてなむ国ぞ今日も旅ゆく>
人生を旅に喩えれば、鈴雨さんの歌も人生という旅の大きな一区切りでの歌として読むことができるでしょう。
そこに<寂しさ>がないと言えば嘘になります。
しかし、牧水の歌の底にある若さゆえの焦燥感のようなものはここにはありません。
牧水の歌を借りれば、
<幾山河越えさり<来な>ば寂しさのはてなむ国ぞ今日も旅ゆく>
とでもなるでしょうか。

因みに、僕も母からの優性遺伝で<天パー>です。
ただし、六十路半ばに達してかなり<寂しさ>が増していますが。
ははは。


コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

題詠blog2008<012:ダイヤ>から

2008-08-03 17:17:28 | 題詠blog2008から

好きなものを好きだと言えるこの町でダイヤの乱れを愛しく思う(小林ミイ

<好きなものを好きだと言えるこの町>。
おそらく作者は、普段、あるいはこれまで、<好きなものを好きだと言えない町>に住んでいる(いた)のではないでしょうか。
<好きなものを好きだと言えない町>。
それは、他人を信用できない町。
それでいてすべてが整然と動いている町、です。
もちろん、電車のダイヤの乱れなどあろうはずもありません。

作者は、そんな息苦しい町からやっと、あるいは束の間、<好きなものを好きだと言えるこの町>に脱出してきたのです。
生まれ育った田舎ののんびりとした町に戻ってきたのでしょうか。
それとも、外国の町に旅に出たのでしょうか。
いずれにしても、そこではよろいを脱ぎ捨て、ありのままの自分をさらけ出すことができます。
誰もそれを気にしたり、とがめたり、ましてスキを衝いて攻撃してきたりもしません。
そんなおおらかな町なのです。

その代わり、すべてが決められたとおりの場所や時間に、あるものはあり、来るものは来るというわけにはいきません。
おおらかであることの反面は、いい加減でもあるということなのです。
列車のダイヤも然り、です。
そのいい加減な<ダイヤの乱れを愛しく思う>という結句の、いさぎよい断言。
そこに、人々の中に生まれつつある利便至上主義社会に生きることへの疲労と嫌悪、批判が、巧みに表現されているのではないでしょうか。

<数分もダイヤくるはばいら立ちのつのるわれらのどこか狂ひぬ>(髭彦)
僕の題詠歌です。


コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする