雪の朝ぼくは突然歌いたくなった

2005年1月26日。雪の朝、突然歌いたくなった。「題詠マラソン」に参加。3月6日に完走。六十路の未知の旅が始まった…。

髭彦閑話55 沖縄「復帰」40周年の日に「日米安保神話」を思う

2012-05-16 00:22:50 | 髭彦閑話

「原発安全神話」と本質的には全く同じでありながら、未だにその神話が大手を振ってまかり通り、多くの国民をだましつづけているのが「日米安保神話」でしょう。
日米の従属的な「軍事同盟」である「日米安全保障条約」に基づく「日米同盟」こそが、日本の安全保障の要だという「神話」です。
「原発安全神話」に基づいて東京(首都圏)が福島に原発を押しつけきたように、この「日米安保神話」に基づいて本土は沖縄に米軍基地を押しつけてきました。
本当に原発が絶対に安全だと言うなら「東京に原発を!」とかつて広瀬隆が言ったように、「日米軍事同盟」が日本の安全保障のために絶対に必要だと言うなら、たしかに沖縄に押しつけている米軍基地を同じように本土に移転すべきでしょう。
しかし、3.11の前まで首都圏の僕たちのほとんどが「原発安全神話」を信じていながらも、なぜか東京に原発をつくる気にはならなかったように、「日米安保神話」を信じる本土の国民の多くは沖縄の米軍基地を本土に受け入れる気持ちにはなれないのが、現実です。
つまり、「安全神話」を前提にする限り、原発と米軍基地を福島と沖縄に押しつけ、首都圏と本土の住民は利己的な差別主義者にならざるを得なかったし、これからもそうでしかありえないのです。
どうしたらよいのでしょうか?
明瞭です。
すでに「安全神話」が崩壊した原発に関しては、すべてを廃炉に(=脱原発)した上で、福島へ強いた犠牲を首都圏の我々が反省し、可能な限り償うしかありません。
沖縄に関しても、実は全く同じです。
沖縄の米軍基地は、福島の原発と同様に、廃止・撤退させる以外に本土に移転などできない危険極まりないものなのです。
原発が結局は「原子力ムラ」=「原子力マフィア」の巨大な利益のために開発され続けてきたように、沖縄の米軍基地は世界中の米軍基地と同様に、アメリカの巨大な多国籍「軍産複合体」の巨大な利益のために、第2次大戦後、世界中に張り巡らされてきた、いわば「基地帝国」ともいうべきものの極東における拠点なのです。
最近見た、イタリアの若い二人の監督による『誰も知らない基地のこと』という映画は、実に鋭くそのことを暴き、描いていました。
2年ほど前に、僕はこう書きました。「武力による自衛戦争ないしは他国との軍事同盟によって自国を守り、平和を維持するというのは、ほぼ1億人を殺しあってきた20世紀の惨憺たる歴史の深い『現実』をふまえれば、まったくの幻想に過ぎない。
他国の安全と独立、平和を最も脅かしただけでなく、日本の安全と独立、平和自体が最も危機に瀕したのは、日本が歴史上最も強大な軍隊を持った1940年代前半だった深い『現実』を、多くの人は忘れている。
今こそ、第二次大戦後の初心に帰り、その後の東西軍事同盟の対峙による冷戦と、冷戦終結後のアメリカの唯一の超軍事大国化とその下での民族紛争とテロリズムの多発の歴史を踏まえ、自国や同盟国の軍事力などに頼らない、徹底した平和主義的外交路線による『安全保障』と『平和』を、日本は自ら率先して求め、北朝鮮の冒険主義や中国の軍事大国化路線の危険性と空しさをアジアと世界に訴えていくべきなのだ。
そうしてこそ初めて、憲法第九条の平和主義につきまとう偽善性を一掃することができる。
沖縄に世界最強の米軍基地を置き続けたままでは、それを一掃するのは不可能である。
21世紀に日本が世界に貢献できるとすれば、一切の偽善とダブルスタンダードを排した徹底した平和主義の国として、いわゆる『先進国』の先頭を走り、核兵器の廃絶と一切の戦争の違法化のためのオピニオン・リーダーとなることだ。
それさえできれば、文化と技術の助けを受けて日本は世界中から支持され、尊敬されることだろう。」(髭彦閑話24「何が現実的なのか」2010/6/22)



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髭彦閑話54 剣によって立つ者は剣によって滅ぶ―カダフィの「死」に思う

2011-10-21 11:04:19 | 髭彦閑話

カダフィが「死んだ」。正確に言えば「殺された」のだろう。
リビア国民は歓喜し、一部の報道では死体が現地で「市中引き回し」されたともいう。
独裁者が倒され、独裁政権が崩壊したのは、もちろん歓迎すべきことだ。
しかし、どんな残虐な独裁者であっても、問答無用で「殺す」のはよくない。
ましてや、それを喜び、賛美すべきではない。
ビン・ラーディンをオバマ政権が「暗殺」し、それをアメリカの国民が歓喜し、賛美したのも、まちがっている。

借金で首が回らなくなったギリシア政府がIMFとEUの脅しに屈し、過酷な「ショック・ドクトリン」政策をギリシア国民に押し付けようとして、ギリシア国民の猛烈な抵抗にあっている。
基本的には非暴力的な抵抗だが、報道を見る限り一部の若者が警官隊に投石し、火炎瓶を投げつけるなど、「暴徒化」している。
高い失業率に苦しみ、未来まで奪われようとしているギリシアの若者の怒りは理解できる。
だが、それを暴力に訴えるのは正しくない。
それでは、国民的な抵抗運動が分裂し、結局は敗北に追い込まれてしまうだろう。
仮に暴力で現政権を倒すことに成功したとしても、次の政権下にその経験は継承され、いずれ暴力の連鎖が始まる。
大多数の民衆を独裁と強欲から解放するという正しい「目的」を、暴力という「手段」で達成できるというのは、幻想である。
「テロ」は「反テロ戦争」では根絶できないのだ。

ニューヨークから始まった「ウォール街を占拠せよ(Occupy Wall Street )」運動は、アメリカを先頭とする世界中の強欲資本主義者たち1%の支配から99%の民衆を解放しようとする運動である。
すでに1000名前後の参加者が、警察によって後ろ手に手錠をはめられ、逮捕・拘束されている。
しかし、運動は広がる一方だ。
NY市民の70%近くが共感・支持し、運動は全米から世界中に広がり始めた。
その一つの理由は、この運動が非暴力による抵抗という思想を強固に持っていることだろう。
その思想を逸脱しない限り、この運動を分裂させ、敗北に追い込むことはそう簡単にはできない。
99%の民衆の深い共感と連帯をかち得ない限り、運動の成功はない。
逆に、それが得られるならば運動は成功する。
世界の民衆は、この運動を注視し、そこから深く学び、連帯し、起ち上がるべきだろう。


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髭彦閑話53 マティアス・ゲルネの時代

2011-10-18 17:36:17 | 髭彦閑話

愛と死と戦を歌ひ吾らから時を奪ひぬマティアス・ゲルネは

バリトンでフィッシャー・ディスカウ超え継ぐをつひに聴きたりゲルネの歌に


10月16日(日)に開かれた「マティアス・ゲルネ バリトン・リサイタル」(東京オペラシティ・コンサートホール)に行ってきた。
聞きしに勝る歌手と演奏だった。
終演後、思わず「ゲルネの時代」と言う言葉が口から洩れた。
数年前にある音楽雑誌で、次代を担うバリトン歌手として名前があがっていた。
図書館でシューベルトの『冬の旅』を借りて聴き、その深い美声と音楽性の豊かな表現力に心を奪われた。
半世紀も前の高校生の頃から、日本でもフィッシャー・ディスカウの時代が始まり、その時代が終った後、フィッシャー・ディスカウを超えるバリトンのリート歌手は出現しなかった。
40代半ばのゲルネは若き日に、そのフィッシャー・ディスカウとこれまた一時代を代表したソプラノ歌手シュヴァルツコップの薫陶を受けている。
フィッシャー・ディスカウの歌のうまさは天下一品だったが、声自体はどこか金属的な響きがあり、決して美声という訳ではなかった。
それに対して、ゲルネは歌のうまさに加えて実に声が美しい。
ピアノではアンスネスの時代が、リートではこのゲルネの時代が始まっている。
しかし、オペラシティの決して大きくはないホールの3分の1は空席だった。
日本ではゲルネの認知がまだ遅れている。
だが、それも時間の問題だろう。
当日のプログラムは、シューマンとマーラーの歌曲を休憩なしで、愛と死と戦のテーマ毎に交互に歌うという、異例の意欲的なものだったが、その意図は十分に成功したと言ってよい。
時を忘れてゲルネの歌に聴き入った。
ピアノのアレクサンダー・シュマルツも、実にうまかった。
プログラムは、以下の通りである。
 
 <Ⅰ>
マーラー:   私はやわらかな香りを吸いこんだ (「リュッケルトの詩による5つの歌曲」から)
シューマン:  詩人の目覚め (「6つのリート」op.36から)
        愛の使い (「6つのリート」op.36から)
マーラー:   美しいトランペットが鳴りわたるところ (「子供の不思議な角笛」から)
シューマン:  ぼくの美しい星 (「愛の相聞歌(ミンネシュピール)」op.101から)
        隠者(「3つの歌」op.83から)
マーラー:   原光 (「子供の不思議な角笛」から

 <Ⅱ>
シューマン:  夜の歌 (「リートと歌」第4集op.96から)
マーラー:   浮世の暮らし (「子供の不思議な角笛」から)
        なぜそのような暗いまなざしで (「亡き児をしのぶ歌」から)
        おまえのお母さんが入ってくるとき (「亡き児をしのぶ歌」から)
シューマン:  ものうい夕暮れ (「レーナウの6つの詩」op.90から)
マーラー:   私はこの世に忘れられ (「リュッケルトの詩による5つの歌曲」から)
シューマン:  終わりに (「ミルテの花」op.25から)

 <Ⅲ>
シューマン:  兵士 (「5つのリート」op.40から)
マーラー:   死んだ鼓手 (「子供の不思議な角笛」から)
シューマン:  2人の擲弾兵 (「ロマンスとバラード」第2集op.49から)
マーラー:   少年鼓手 (「子供の不思議な角笛」から)

<アンコール>
シューマン:  献呈 (「ミルテの花」op.25から) 


Yotubeにゲルネとシュマルツの演奏があったので、リンクしておきたい。

Matthias Goerne - Alexander Schmalcz - Wanderers Nachtlied Schubert - Goethe



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髭彦閑話52「ナオミ・クライン『ショック・ドクトリン 惨事便乗型資本主義の正体を暴く』を読み始めて」

2011-09-13 00:00:52 | 髭彦閑話



9月8日、待望の書の翻訳が出版された。
ナオミ・クライン著、幾島幸子・村上由見子訳『ショック・ドクトリン 惨事便乗型資本主義の正体を暴く』上・下(岩波書店)である。
1970年生まれだというカナダの気鋭のジャーナリストであるナオミ・クライン(Naomi Klein)の、原題:The Shock Doctrine: The Rise of Disaster Capitalism(2007)の翻訳である。

まだ上巻を読み終えようとしているところだが、グローバリゼーションという名で世界中で現在進行している、市場原理主義=新自由主義的な荒々しい「改革」が、実は僕たちの想像をはるかに超えたある明確なイデオロギーと手法によって貫かれ、結ばれて来たことが、詳細な事実によって示され、驚かされる。
その本質的に反革命的=反民衆的なイデオロギーの創始者であり教祖であったのは、ノーベル経済学賞を受賞した「シカゴ学派」の総帥、ミルトン・フリードマンである。
フリードマンのゆるぎない「科学的」信念は、資本主義市場に対する政府の関与は国防と治安維持だけが正当で、あとの一切の関与は資本主義を腐敗させる害毒にほかならないという、驚くべき時代錯誤の狂信であった。
にも拘らずこの狂信とそれに基づく「改革」は、1970年代から、民主化と民衆本意の経済改革を求めて立ち上がり始めた民衆に対抗する多くの「発展途上」国(チリから中国、イラクまで)の独裁者や、いっさいの公共領域や国境を超えて莫大な利益を生み出す新たな「フロンティア」求めて止まないアメリカを先頭とする先進国の多国籍企業にとっては、極めて現実的な支配と利益を生み出すものとして熱狂的に歓迎され系統的に実行されるようになったのだ。

その狂信的イデオロギーに基づく経済政策の基本は、①民営化、②規制撤廃、③社会支出の削減の三位一体「改革」である。
要するに、自国の公共財産を内外の巨大企業に二束三文で売り渡し、生活物資の価格規制から自国産業の保護のための規制まですべての規制を撤廃して市場に任せ、フリードマンによって社会主義的だとみなされた公共教育・社会保障などへの社会支出を徹底的に削減せよ、というのだ。
そうすれば、欲望に基づき人びとが行動しながら市場の力によって自ずと本来の純粋な資本主義が実現されるというのである。

しかし、誰が考えてもこんな反民衆的な「改革」を民衆が支持するわけはない。そこで必要とされたのが、一時的に民衆が集団的に己を失って正常な判断ができなくなるような「ショック」状態だった。
その最初は、1973年の<9.11>、すなわち選挙を通じて平和的合法的に成立したチリの社会主義的アジエンデ政権を、アメリカが全面的な支持をして転覆したクーデター以後、ピノチェトの軍事独裁政権が行った民衆の大量逮捕・誘拐・虐殺・拷問による「ショック」である。
チリのクーデター計画に深く関与していたフリードマンは、シカゴ大学で狂信をたたきこんだ弟子の「シカゴ・ボーイズ」たちをあらかじめ送り込み、この「ショック」を好機として彼らの三位一体「改革」をピノチェトに実行させるのに成功したのである。
以来、ハイパーインフレにあえいだ中南米をはじめ、フリードマン自身と各国や世界銀行・IMFなどの中枢に登用された「シカゴ・ボーイズ」とその亜流たちが、「連帯」が政権をとったポーランドやソ連崩壊後のロシア、アパルトヘイトを脱却した南アフリカ、そして天安門事件を鎮圧して「社会主義」市場経済を掲げる中国などで、さまざまな惨事による民衆の「ショック」状態に乗じて、その三位一体「改革」を荒々しく押し広めてきたのだ。

下巻では、さらにその後に起きたスマトラ大津波やイラク戦争などの惨事に乗じて展開された事例が分析されるようだが、残念ながら日本の小泉「改革」の分析はない。
しかし、本書の鋭利で俯瞰的な現実分析を読めば、日本の多くの民衆が「郵政民営化」のみを掲げた「小泉劇場」のあの三文芝居にコロリとだまされてしまったのは、バブル崩壊と長期の不況で未来への展望を見失っていた大きな「ショック」のなせる業であったことが、容易に理解できるだろう。
その「ショック」に乗じ小泉の下で反民衆的な日本的三位一体「改革」の青写真を描いたのは、竹中平蔵である。竹中は、シカゴ大学ではなくハーバードで学び、しきりにジェフリー・サックスとのつながりを誇っている。本書によれば、ジェフリー・サックスはまさにボリビアとポーランドで竹中と同じ役割を若くしてさらに劇的に演じ、時代の寵児となったことがわる。竹中は、このジェフリー・サックスなどを介して、「シカゴ・ボーイズ」の亜流となったのであろうと、初めて納得できた。
そして、なによりも3.11原発大震災の巨大な「ショック」が東北を中心に日本の民衆を覆っている現在、「復興」ビジネスをバネにしたいっそうの新自由主義的「改革」をねらう内外の多国籍企業の動向に、極めて厳重な警戒が必要なことを本書は教えてくれる。

その意味で、本書は言葉の真の意味での「警世の書」である。
本来ならもっと早く、現代史家や国際経済学・政治学の研究者、練達の国際ジャーナリストなどによって書かれるべき本であったろう。
それが弱冠30代後半の女性ジャーナリストによって、初めて書かれたのだ。
ナオミ・クラインの名は、この一冊だけをもっても21世紀初頭に生きる世界中の民衆に、深い敬意と感謝の念を持って長く記憶されることになるに違いない。
そして、この2年、文字通り心血を注いで本書の翻訳に当たってきた吾妹(=つれあい)の幾島幸子と、年来の友人である村上由見子さんにも、深い敬意を表する。

本書が、民衆の幸福と平和を願う多くの人びとに読まれることを心から期待したい。

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髭彦閑話51「93歳の恩師・大田尭を描いた映画<かすかな光へ>の公開に寄せて」

2011-07-13 17:21:44 | 髭彦閑話

僕の大学時代の恩師・大田尭(たかし)先生は93歳になる現在も、学びを軸とした教育の独創的な探求を旺盛に続けられている。その大田先生の<夢とあこがれ>を描いたドキュメンタリー映画「かすかな光へ」が完成し、もうすぐ公開される。
監督:森康行/音楽:林光/詩:「かすかな光へ」作・朗読 谷川俊太郎/ナレーション:山根基世
●東京完成披露有料試写会情報
・2011/7/16(土)14:00開演(13:30開場)
・会場:早稲田大学文学部キャンパス38号館AV教室
●劇場公開情報
・2011/7/30(土)~ポレポレ東中野にて公開決定
http://kasuka-hikari.com/
                              *

僕は東大教育学部教育学科教育史・教育哲学コース(略称「史哲」)を1968年に卒業し、同じく大学院に進学して「落ちこぼれ」、中高の社会科教師になったのだが、不肖の弟子として今でも時おりおつきあいをしていただいているお一人が大田先生である。
その大田先生から、まさに3.11の当日に最新著の『かすかな光へと歩む 生きることと学ぶこと』(一ツ橋書房)が届いた。
しかし、せっかくお送りいただきながら、生まれ故郷を襲った原発大震災の強烈なショックで、しばらくはそのごく一部しか目を通すこともできないまま、机の上に積んでいた。
ようやく少し落ち着いて読み終わったのは、6月になってからである。
ちょうどその後、6月末に、その本の一節とも関わって、埼玉県東浦和の先生のご自宅で開かれた「見沼フィールドミュージアム勉強会」に参加することになった。

元社会科教師の僕は、定年退職した2年前の4月から不思議な縁で、毎週木曜日、埼玉県<見沼田圃>の野草の勉強に通っている。その見沼田圃の野草を独力で35年間研究してこられた山田貞ニ郎先生と、5年前から山田先生について勉強してきたH田久美子さんの仲間に、なぜか僕が加えていただいたのである。
実は、H田さんは僕が駒場時代に学生運動を通じて知り合った友人で医師のH田泰君(父親が、内部被曝に先駆的に取り組んできた彼のH田舜太郎医師)のつれあいである。そのH田さんを山田先生に紹介したのは、やはり駒場時代の友人で緑区三室に住んでいるK部勝秀君だ。K部君は法学部を出た後、埼玉共同病院の設立と運営の中心的役割を果たし、60歳で定年退職した後は、自宅近くの芝川沿いで300坪の無農薬野菜農園(時おりもらう野菜の味は絶品である)を独力で営みながら、多様な地域活動を展開している。
僕は大学院を中退して海城の社会科教師になってからは、駒場、本郷を問わず東大時代の友人とは、ごく一部を除いてほとんどつき合いを断ってきた。
わずかに時おり連絡のあった一人は、大月書店と柏書房で長く編集者を務めたS保勲君である。そのS保君が定年退職後、2007年の夏に家族と一緒に登った八ヶ岳の硫黄岳で心臓発作に襲われ、結局、9月に亡くなってしまった。
そのS保君の死をいわばきっかけとして、駒場時代の友人たちとのつき合いが復活したのである。
2008年の夏に、S保君の追悼登山ということで、10人ほどの仲間と一緒に僕も硫黄岳に登った。その帰りの電車で偶然2人だけになったのが、K部君だった。40年近い空白を埋めるために、色々な話を互いにし合った。その一つが、K部君が長年住んでいるという見沼のことだったのだ。
僕は海城中学高校で創設した社会科総合学習の教材づくりのために情報収集をしている過程で、見沼田圃の存在に注目したことがあった。いつか足を踏み入れたいと思いながらも、果たせていなかったのである。そこにK部君が住んでいるというのだ。ぜひ訪ねたいと言うと、それなら地域の自治会で<見沼を歩く会>というのを毎月やっているから来ないかと言う。願ったり叶ったりだった。
8月の会に参加させてもらい、以後、何回か見沼を歩いているうちに知り合ったのが、野草の講師役として参加されていた山田貞ニ郎先生だったのだ。
K部君が前回の国勢調査の際、調査員として山田先生宅を訪問し、先生が独力で見沼の野草を研究調査してこられたのを知り、<見沼を歩く会>の講師に頼み込んだのだという。
思いがけないことに、その山田先生から毎週木曜日に見沼を歩いているので来ないかとお誘いを受けたのである。なぜど素人の僕などに声をかけてくださったのかは、今もってナゾである。
そして、定年退職した2009年4月からはほぼ毎週木曜日の午後、山田先生、H田さんと一緒に見沼田圃を歩いてきたのだ。当初、ホトケノザとヒメオドリコソウの区別さえつかなかった僕でも、今は家族や友人たちにさも100年前から知っていたような顔をして教えてあげられるようにはなった。もちろん、山田先生やH田さんと較べれば僕は落ちこぼれ寸前の覚えの悪い初心者にすぎない。
ところで、70代後半で健康問題も抱えられている山田先生は、35年間独力で研究調査した成果の集大成を急がれ、先ごろついに『見沼田圃の野草 実態調査の記録 1975~2010』(上・中・下)という大部の写真図鑑を完成し、自費出版された。前人未到の貴重な研究調査の記録である。

その出版を受けて、K部君から大田先生宅で開かれている「見沼フィールドミュージアム勉強会」で山田先生に「見沼の野草と自然」というテーマで報告して欲しいとの依頼があり、H田さんと僕にも声がかかった。
法学部出身のK部君が大田先生と知り合ったのは、大学時代ではなく見沼での地域活動を通じてのことだったという。特に、10年近く前に大田先生が奥様を亡くされた後、ある夏にそれこそ「熱中症」のような危機に陥ってしまった大田先生を、埼玉共同病院に担ぎ込んで救助したのがK部君だった。
健康を回復された大田先生は、都留文科大学の学長時代に構想・実現した<フィールドミュージアム>を、見沼に残された貴重で広大な緑地でも実現したいという夢を抱かれるようになり、K部君もそれに協力するようになったのだ。
大田先生は多額の私財を埼玉大学に寄付され、それを基に昨年度から環境学科の安藤聡彦教授の下で「見沼学」という講座が設けられた。この安藤教授を中心に、見沼の自然・歴史・文化・行政に関わるさまざまな活動をしている人たちが、定期的に大田先生宅で開いているのが「見沼フィールドミュージアム勉強会」である。
山田先生の報告と資料として回覧された『見沼田圃の野草 実態調査の記録 1975~2010』は、大田先生をはじめとする参加者に大きな感動を与えた。大田先生からは翌日わざわざ僕に電話があり、改めて山田先生の研究調査に対する感銘・敬服の念と僕がそれに協力していることへの過分の評価が伝えられた。

その勉強会の席上で配られた資料の中に、映画「かすかな光へ」のチラシがあった。3.11の地震直後に先生から届いた『かすかな光へと歩む 生きることと学ぶこと』のなかに、『朝日新聞』の2008年元旦号に載ったという谷川俊太郎の詩「かすかな光へ」が全文引かれていた。映画も本も、その題名はこの詩から取られていたのだ。
僕は20代の半ばから谷川俊太郎の詩を読み始めた。今でも僕が詩人の中で最も敬愛するのは、男では谷川俊太郎である(女では茨木のり子)。
最近、谷川俊太郎と岩波の元編集者で谷川の友人でもある山田馨が対談して、谷川の詩の真実に迫った実に興味深い本を読んだ(『ぼくはこうやって詩を書いてきた 谷川俊太郎、詩と人生を語る』ナナロク社、2010年)。それには、この詩はとり上げられていないが、関連する詩はいくつかとり上げられて分析されている。
谷川はやはり端倪すべからざる天才であった。その多様な詩を通じて、誰よりも鋭く、また豊かに人間の本質に迫ってきたのだと改めて感嘆した。「かすかな光へ」もまた、まちがいなくそうした詩の一つである。であればこそ、大田先生がこの詩を人間の生涯にわたる学びの本質に迫るものとして感動し、著書に続いて映画の題名にも選ばれたのであろう。
映画では、谷川俊太郎自身がこの詩を朗読するという。ナレーションはこれまた僕が敬愛する山根基世だ。林光の音楽も楽しみである。
16日の試写会には、森康行監督と大田先生のトークもある。大田先生とは会場でまたお会いしますと、電話で伝えた。

最後に、谷川俊太郎の詩「かすかな光へ」の全文を載せておきたい。

                              *

 かすかな光へ     谷川俊太郎


あかんぼは歯のない口でなめる
やわらかいちいさな手でさわる
なめることさわることのうちに
すでに学びがひそんでいて
あかんぼは嬉しそうに笑っている

 言葉より先に 文字よりも前に
 波立つ心にささやかな何故? が芽ばえる
 何故どうしての木は枝葉を茂らせ
 花を咲かせ四方八方に根をはって
 決して枯れずに実りを待つ

子どもは意味なく駆け出して
つまずきころび泣きわめく
にじむ血に誰のせいにもできぬ痛みに
すでに学びがかくれていて
子どもはけろりと泣きやんでいる

 私たちは知りたがる動物だ
 たとえ理由は何ひとつなくても
 何の役に立たなくても知りたがり
 どこまでも闇を手探りし問いつづけ
 かすかな光へと歩む道の疲れを喜びに変える

老人は五感のもたらす喜怒哀楽に学んできた
際限のない言葉の列に学んできた
変幻する万象に学んできた
そしていま自分の無知に学んでいる
世界とおのが心の限りない広さ深さを


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髭彦閑話50「ふるさと福島の原発危機」⑫

2011-05-30 00:01:28 | 髭彦閑話

5月11日(水)

(18:23)
ふるさとの核の荒野になり果てしなす術もなきこのふた月よ

(18:43)
F姉へ。
無事を祈ります。
花巻はともかく、大船渡、陸前高田はまだ大変な状況でしょう。
帰ったら、状況を教えてください。
僕も、石巻で被災した親戚のいる<旅の友>Nさんとでも、行けるものなら行ってみたいと思い始めていたところでした。

(18:49)
F姉へ。
あちら(オバマ)もまた政権浮揚のためでしょうが、こちらのハマオカ運転停止と較べればはるかな蛮行・愚行です。
弁舌はこちらより百倍も千倍もさわやかですが。

5月12日(木)

(11:25)
S子へ。
アーサー・ビナードはえらい!
「原発は塀の上の卵―アーサー・ビナード講演」

(13:44)
芙蓉さん、こんにちは。
<もう、二か月。やっと二か月>。
本当にそうですね。
東北の大地震、特に大津波の傷痕もまだ癒えるまでには程遠い状況ですが、フクシマはそれに加えての原発=核被災。
7万から10万の人々のふるさととそこでの生活を根こそぎ奪い、未だに終息の見通しは実際にはまるで立っていません。
隠されて来たチェルノブイリを超える放射能汚染の深刻さは、日々明らかになっています。
それを考えると、<まだ二か月>なのかもしれません。
関東以西にもじわじわと放射能汚染は広がってきています。
浜岡原発が停止になったのが唯一のいいニュースでしょうか。
原発の危険性をある程度知りながら何もしてこなかったことを悔やみ、せいぜい次の世代のために僕にでもできる範囲で微力を尽くしたいと思う毎日なので、3.11以前のようにジョギングや写真を楽しむ心の余裕もまだありませんし、短歌もほぼ原発危機についてしか歌うことができません。
<まだ二か月>なんですね、やっぱり。

(23:09)
忽然と神隠しのごと十万の民消え去りぬ核に追はれて


5月13日(金)

(18:03)
爆発のなきぞ奇跡よ原子炉のすでに起こしきメルトダウンを

(22:50)
F姉へ。
無事でなによりでした。
テレビの映像で見るのと、自分の目で直接見るのとでは、大違いでしょうね。
トシですからボランティア活動はできないにしても、現地を自分の目で見ることだけでもできれば、何かが開けるような気がします。
考えて見ます。

(23:09)
F姉へ。
放射性物質が3月15日以前の水素爆発などによって大量にばらまかれ、東京以西にも降り注いでいたのですね。
しかも、それ以後も流失は続いている訳ですから。
東電・政府による極めて悪質な情報隠蔽が次々に露呈し始めています。
今後、どんな形でこの結果が表れて来るのか、恐ろしいかぎりです。
僕たちの足柄茶事件は、恐らくその始まりの一つなのでしょう。


5月14日(土)

(12:41)
N田さん。
メール拝見。
そうか、石巻に行ってたんだ。
実は、芭蕉本の出来具合も素晴らしかったし、芭蕉の旅の関係で被災した地域を訪ねがてら、石巻などを訪ねてはどうかと思い、相談しようと思っていたところでした。
フクシマには近づけないにしても、僕もこの目で被災地の惨状を見ておかないことには、どうにも心の整理がつかないように思うのです。
秩父にはいつまでいますか?
月曜まで晴れマークですね。
いずれにしても、石巻の話を近々聞かせてください。
5日は、N田さんの出版を祝う会だった筈なのにワリカンにしてしまったので、改めて僕がご馳走したいとも思うので。

(19:55)
世代越えいのち蝕む魔物をば解き放ちたり吾ら愚かに

(22:24)
F姉へ。
石巻で被災した親戚のいる<旅の友>Nさんは、所沢のNさんのところに1週間ほど来ていた親戚を送りがてら、すでに石巻に行って帰ってきたばかりでした。
彼と相談して、近いうちに東北被災地を訪ねる旅を計画したいと思います。


5月15日(日)

(12:24)
F姉へ。
フクシマの子どもたち、若者たちは、東電・政府の許しがたい情報隠蔽によってすでに事故当初の爆発で飛散した高濃度のヨウ素で被曝し、今もセシウムによる高い放射能で被曝し続けています。
さらに、被曝はフクシマから北へ南へと確実に広がっています。
最近の調査研究によれば、チェルノブイリ事故による発ガン死者は100万単位に上っているそうです。
この「魔物」を、海に囲まれたこの狭い列島で解き放ってしまった結果は、僕たちのふるさとを壊滅させただけでなく、将来にわたって恐るべき災厄を日本と世界に与えることになるでしょう。
本当に取り返しのつかないことになってしまいました。

(12:49)
じわじわといのち喰らはむ列島でこの先長く核の魔物は
母眠るいわきの墓所の安否さへ知らで迎へぬけふ命日を


5月16日(月)

(17:26)
setuさん。
若松丈太郎さんという詩人を、ご存知ですか?
南相馬の詩人で、長く地元の高校で国語を教えられ、何と今は小高の「埴谷島尾記念文学資料館」の調査員をしていられる方です。
僕は『東京新聞』5/8朝刊「こちら特報部」の紹介記事で、その衝撃的な詩と共に初めてその存在を知りました。
さっそく『福島原発難民 南相馬市・一詩人の警告(1971年~2011年)』(コールサック社)
を買い求めて読みましたが、その詩も文章も、現在のフクシマの惨状を予言するかのような鋭い内容に満ちていて、圧倒されました。
Amazonでは買えませんが、出版社からインターネットで買えます。
http://www.coal-sack.com/02/Copy%20of%20index_shinkan3.html
http://www.coal-sack.com/01/index.html
西には小出先生のような方々、東京には高木仁三郎さんが、そして福島にはこの若松丈太郎さんのような方が、心底からの警告を発し続けていたというのに、それに応えるような何事も為して来なかったわが身を恥じざるを得ません。
せめてこれから少しでもこの方々の跡を辿れればと、思っています。

(22:27)
この星のいのちの未来左右せむフクシマ襲ふ核の試練は


5月17日(火)

(21:39)
旅人さん。
僕も見ました。
この一昨夜のNHK・ETV特集「ネットワークでつくる放射能汚染地図」もそうでしたが、昨日の『毎日新聞』山田孝男編集委員のコラム「風知草:原発に頼らぬ幸福」も、瀕死の日本ジャーナリズムに再生の兆しを感じさせる鋭い内容で、共に感動的でした。
暗澹たる現実ですが、それに立ち向かうための情報として貴重です。
心からのエールを送りたいと思いました。

(21:54)
Aくん。
メールありがとう。
(シカゴ大博士課程への進学は)とてもいいニュースです。
Aくんには、やっぱりカジノ資本主義の企業人としてではなく、それを克服すべき研究者として歩んでもらいたいと思っていましたから。
いつ日本を発ちますか?
発つ前に、ぜひ会いたいと思います。
できたらご家族にも。
日程を教えてください。

(22:08)
Kさん。
(教職員写真展の)ご連絡ありがとうございました。
学校もいろいろと大変なようですね。
実は、僕が6歳まで生まれ育ったふるさとは福島第1原発から7キロの富岡町夜ノ森というところなので、3.11以降、写真もほとんど撮っていません。
今回は直前に撮ったダイサギの写真1枚だけで参加します。
20日(金)のお昼ごろに持ってゆこうかなと思っていますので、よろしくお願いします。

(22:26)
直ちには何あらざれど遠き日に正体見せむ核の魔物は


5月18日(水)

(14:09)
N田さん。
では、(20日)10時半では?
被災地の写真、タイムリーですね。
「被災地の現状」の講演つき昼飯も楽しみです。

(15:11)
チッソをばはるかに超えて東電のいのち奪はむ核もてあそび


5月19日(木)

(17:50)
パニックを避けるためとて核汚染隠せる者ら悪むべしにくむべし
発電も兵器もなにも無差別にいのち奪はむ核にしあれば
あと一つ事故を起こさば列島のすべて終らむ知るも知らぬも

(22:04)
F姉へ。
もはや、これだけの放射能を撒き散らしてしまった以上、十年、数十年先に「魔物」がその恐るべき正体を現わさないわけはないでしょう。
まさか僕たちのふるさとがその震源地になるなどと、それこそ亡父には想像すらできなかったことです。

(22:24)
setuさん、こんばんは。
(小高の)「埴谷島尾記念文化会館」が無事だったのは、せめてものことでしたね。
『福島原発難民』を書かれた若松丈太郎さんには、何とかお会いしてお話をうかがいたいような気持ちです。
すごい人です。
『夜の森』という、僕のふるさとを題名にした第一詩集を収録していると思われる詩集などもAmazonで注文し、届くのを心待ちにしています。

(22:53)
Kさん。
明日は研究日だそうなのでお会いできませんね。
N田さんと待ち合わせ、準備をしておきます。
いつもながらお手数をかけますが、キャプションの方、よろしくお願いします。
<狩りを為す白鷺のほかこの世から何も失せけり暗き水辺で>
     ―原発大震災の3日前、六義園にて―


5月20日(金)

(23:09)
晶子哭け馨断ぜり核事故を事もあらうに神の仕業と
被曝死のいづれ数多に顕れむわれら亡き後若き世代に


5月21日(土)

(21:40)
緩慢なジェノサイドをば列島にもたらす責めを誰ぞ負ひうる

(22:15)
F姉へ。
(『週刊現代』の)佐野真一のルポは僕も読みました。
「旧陸前浜街道の国道六号線とほぼ並行して走るJR常磐線に、夜ノ森という駅(富岡町)がある。/私が「浜通り」を歩いてみたいと思ったのは、一つには、夜ノ森という駅名にひどく心ひかれたからである。/海岸線のすぐ近くにある同じ富岡町の富岡駅は、津波で駅舎それ自体が流され、富岡駅前の商店街も瓦礫で足の踏み場もないないほど壊滅していた。流された富岡駅の向こうには静かな太平洋が見えた。/だが、それより一つ北に行った夜ノ森駅は、少し高台にあるせいか、奇跡のように無事だった。駅に向かう無人の街路には桜並木がつづき、満開の桜が誰にも見られることなく咲いていた。」
その後に、佐野は梶井基次郎の有名な「桜の樹の下には屍体が埋まっている!」のフレーズを引いて、こう続けていましたね。
「このフレーズに込められた梶井基次郎の寓意は、原発事故で住民全員が逃げ出し、将来彼らが帰る見込みがないかもしれない、この美しい夜ノ森の街を象徴していないだろうか。/ちらほらと葉桜になりかけた枝には、飼い主を失って野犬化したペットが餓死するのを待って、その肉をついばもうとするカラスが群れをなしてとまっていた。」
これが僕たちの生まれ故郷、夜ノ森の現状です。
なんと言うことでしょう!

(22:25)
F姉へ。
Eおばさんは(与謝野)馨の叔母さんに当たる訳ですね。
お茶の行商をやられていて、時々わが家にもいらしてましたね。
頼まれて、外大に行ったお嬢さんが高3の時、短期間でしたが家庭教師をしたことを思い出しました。
Eおばさんがご存命ならば、さぞかし憤慨されたことでしょう。


髭彦閑話49「ふるさと福島の原発危機」⑪


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髭彦閑話49「ふるさと福島の原発危機」⑪

2011-05-22 17:15:30 | 髭彦閑話

5月2日(月)

(0:13)
Yoonさん。
メール、ありがとうございます。
こちらこそすっかりご無沙汰してしまいました。
僕は生まれ故郷が福島第1原発から7キロの<核植民地>なので、3.11以来、原発危機の深刻さに心を奪われています。

> 5月18日(水)の夕方に新宿あたりで、K原さん、Iさんとお会いしようと思っているのですが、目良さんもご一緒しませんか。

それまでに、福島第1原発で水素爆発とか水蒸気爆発とかの破局的事態が起きないかぎり、よろこんでご一緒させてください。
K原さんとYoonさんと一緒に会えるなんて、考えたこともありませんでした。
ぜひよろしくお願いします。
明日、明後日は笠間に出かけます。
よろしければ、その内おつれあいとわが家にお出かけください。


5月3日(火)

(23:50)
人絶えしふるさとなれど阿武隈の山は笑はむ核の五月に

(23:59)
F姉へ。
曽祖父の壮大な夢が跡に、ふるさとはなってしまいました。
どうしてそうなってしまったのか、僕たちはそれをこれから深く考えてゆかなければならないのでしょう。


5月4日(水)

(0:24)
旅人さん、こんばんは。
3号機の爆発が単なる水素爆発ではなく、それと連動した「即発臨界」による「核爆発」ではないかという、このアメリカの専門家の解説報道は知りませんでした。
見るかぎり、極めて説得力のあるものですね。この仮説の当否は、いずれ明らかになることでしょう。
もしそれが事実ならば、日本政府と東電の情報隠蔽は文字通り犯罪的です。
僕も原発を止めさせるための具体的な行動を何もして来なかったことを、今さらながら深く後悔しています。
これだけ明々白々な真実を知った以上、お互いにできる範囲でこれ以上の惨害を防ぐために、微力を尽くしましょう。
今後も有益な情報がありましたら、どうぞお教えください。
ありがとうございました。

(22:13)
山笑ふ笠間に遊びフクシマの訪ふことできぬ故郷思ふ


5月5日(木)

(12:37)
丸腰のビンラディンをば撃ち殺す無法犯せりオバマ愚かに


5月6日(金)

(17:52)
F姉へ。
太平洋を隔てた両国の<民主党>政権は、共に人々の期待を次々に裏切って来ました。
僕がオバマを歌ったのはこれで4回目ですが、(ビンラディンを暗殺して)残念ながらオバマはとうとうルビコンを渡ってしまいました。

浅黒き肌持つ人をリーダーに選びしときのアメリカに来ぬ
米国のトップに立つ日リンカーンの言葉引く人その言ふやよし
オバマ言ふ武力や富にアメリカの真の強さをわれら求めずと
ルールなきグローバリズムと投機をば果たして<change>オバマのなすや
アフガンに増派をなすと言ふ人の知るや知らずや躓きの石を
(081106日々歌ふ)

核のなき世界めざすとオバマ言ふ ならば来たれよけふヒロシマに
(090806日々歌ふ)

三万の増派をなして愚かにもオバマ歩まむ滅びの道を
(091203日々歌ふ)

(23:04)
喜ばむ動機ともあれハマオカを止むる決断首相為せるを


5月7日(土)

(12:34)
F姉へ。
<動機ともあれ>と僕が歌ったように(喜ばむ動機ともあれハマオカを止むる決断首相為せるを)、浜岡原発全停止の決断の最大の動機は不人気の政権浮揚=自己保身でしょう。
その不純さが、せっかくの歴史的英断になりうる発表内容にそぐわない会見の冴えない表情・しゃべり方に表れてしまったのだと思います。
それにしても、浜岡原発全停止が政権浮揚=自己保身になると菅が判断するほど、国民、特に若い世代の中で「脱原発」の世論が急速に広がっている訳です。
菅の自己保身の思惑などを超えて、浜岡原発全停止がすべての原発を止めさせる第一歩になるよう、お互いに微力を尽くしたいものです。

(15:33)
Y太くん、ありがとう。
> 昨日言ってた音楽家さんの動きです
> http://www.japanimprov.com/yotomo/yotomoj/essays/fukushima.html
さっそく読んで、感動しました。
すばらしい感性と思考、行動力ですね。
フクシマ人としてものすごく共感しました。
大友良英さんたちのこれからに注目したいと思います。
断片的にしか読んでこなかった和合亮一さんの詩も、改めて読み直してみます。

(22:51)
Y田くん。
メール、ありがとう。
週23科目はすごいですね。
ま、あんまり下らないと思うのは適当にハブいて、頑張ってください。
もうレポートが!
でも、海城で鍛えてあるから大丈夫ですね。
飲み会では、あの世につながるイッキ飲みだけは絶対にしないように。
天井が回るぐらいなら、まあ経験のうちでしょうが。
僕もかつて何回も経験しましたし。
僕の方は、故郷のフクシマ原発危機が依然として終息していないので、ジョギングや写真、旅行などを心置きなく楽しむまでには至っていませんが、元気です。
また会いましょう。

(23:03)
旅人さん、情報ありがとうございます。
欧州放射能危機委員会(ECRP)の科学担当幹事クリス・バズビー教授が、3.11直後から厳しい警告をしていたのは知っていましたが、ごく最近のこの映像は知りませんでした。
京大の小出さんよりもさらにシビアな分析と警告ですね。
おそらく、正しい指摘だろうと思います。
暗澹たる気持ちになりますが、ここが僕たちの<ロードス島>です。ここで<跳ぶ>しかありません。


5月8日(日)

(16:54)
なみへいさんの挙げられた数字は、『朝日』の「天声人語」(4/26)が引いた世論調査だと思いますが、それによると確かに「原発をやめる」11%、「減らす」30%に対して、「増やす」5%、「現状程度」51%でした。
しかし、不信に思った(株)船井本社の会長船井幸雄氏が『朝日』に直接質したところ、この調査は肝心の被災地である「宮城、福島、岩手の一部を除く」「全国3352世帯」に電話して、答えたのが「約2000人」(60%)の結果だそうです。
電話に出た担当者も、「実は・・私も個人的に・・ですが、個人としてはこれはきちんとした調査となっていないかと思います。なぜなら、西日本の方や地震の被害に合われていない方たちにとっては、こういうことは人ごとと感じているからです」と言っていたとか。
http://www.funaiyukio.com/funa_ima/
原発に関する世論調査では、多分この『朝日』の数字が一番保守的な数字でしたし、「脱原発」に舵を切った『東京』『毎日』に対して『朝日』は依然として煮えきりません。
そのなかで、こうしたいい加減とも思える数字を発表するのは「世論誘導」だという批判があります。
現在、TV、新聞だけで見ている人々の間では原発危機は安定・終息にむかっているかのような幻想・錯覚が起きているようですが、TwitterをはじめとするIT情報網を駆使している若い世代の中では、まったく逆です。
菅首相が民主党の中でも不人気なことは周知の事実ですし、側近でさえハマオカの件が「政権浮揚」策だということを認めたという報道もありました。
一番危険なハマオカの一時停止で、こういう若い世代の支持を取り込もうとしたのではないのでしょうか。
今日の報道によると、ハマオカ以外は停止させるつもりがないと明言したそうです。
アメリカ政府からの強い「要請」(圧力)もあったということですが、もしかしたらそれもあったのかもしれませんが。


5月9日(月)

(23:02)
気がつけば核実験をそこここで行ひ来る被爆ニホンは


5月10日(火)

(0:05)
F姉へ。
ハマオカが最も差し迫った危険ですが、危険なのはもちろんハマオカだけではありません。
早々にハマオカだけに限った発言をするような首相を「監視」するには、ハマオカに関する発言の<動機>を<穿鑿>することも必要ではないでしょうか。

(18:13)
すでにしてチェルノブイリを超えゆきし汚染の中に児らも残さる

(19:00)
F姉へ。
日米共同作成だというフクシマ80キロ圏内「地表汚染マップ」(地表面のセシウム134と137の蓄積量)を見れば、飯舘村は南3分の1が300万~3000万ベクレル/㎡、残り全域が100万~300万ベクレル/㎡です。
チェルノブイリの強制移住地域は、半減期30年のセシウム137が55.5万ベクレル/㎡以上ということですから、今回の数値は半減期2年のセシウム134との合算ですが、ほぼ間違いなく飯舘村の全域がチェルノブイリの強制移住地域よりも汚染されている筈です。
家畜も哀れですが、文科省(政府)がこの「地表汚染マップ」をようやく公表しながら、これほどの高濃度汚染地域に未だに幼い子どもたちも残されている状況を放置しているのはさらに許しがたいことです。
http://p.tl/3Q93
http://p.tl/cUcs


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髭彦閑話48「ふるさと福島の原発危機」⑩

2011-05-04 23:07:38 | 髭彦閑話

4月27日(水)

(14:32)
「ほあんいんぜんいんあほ」と子どもらも嘲る役所なにゆゑあるや

(16:43)
F姉へ。
衆院予算委員会中継は見ていませんでしたが、23日にネットに載った吉井議員のインタビューは見ました。
「福島第1原発事故は二重の人災だった
日本共産党・吉井英勝衆院議員に聞く(上)」

これによると、3月11日の20~21時には原子力<危険>委員会の<出鱈>目委員長が1号機の危機的状況を官邸に伝えていたので、22時には政府が東電にベント命令を出すべきだったと、吉井議員は言っています。
しかし、調べてみると、実際にベント命令が出されたのは翌12日6:50。
実行されたのは、1回目が9:04で、2回目の成功が14時すぎ。
この間に、菅は<出鱈>目と一緒に第1原発を視察(7:01~8:04)していました。
帰りのヘリの中で<出鱈>目が水素爆発は絶対に起きないと菅に保障したそうですが、その日のうちに1号機で水素爆発(15:36)。
東電(東京の本部と現地)と官邸、原子力<危険>委員会、<不安>院などの状況認識と判断、行動、それと菅の現地視察との関係など、未だに真実が明らかにされているとは言えないようです。
いずれにしても、事故直後の判断の決定的な誤りが危機をさらに決定的なものにしたことだけは、まちがいありません。


4月28日(木)

(1:43)
F姉へ。
『コモンセンス』で、イギリス出身のトーマス・ペインは「イギリスには憲法がない」と書きました。
僕たちは学校でイギリスには「不文憲法」があると習いましたが、いわゆる「名誉革命」以来、イギリスでは王権をなしくずし的に掘り崩してきたので、明文的な憲法を作れなかった訳でしょう。
それに較べ、イギリスから独立したアメリカでは、王権を明確に否定し、民主共和制の憲法を作りました。
その根本的な精神は、『独立宣言』を起草し、後に第3代の大統領になったトーマス・ジェファーソンの次の言葉に、表されています。
「信頼はいつも専制の親である。自由な政府は、信頼ではなく、猜疑にもとづいて建設せられる。」
戦後の日本国憲法は、象徴天皇制と民主共和制の折衷的要素を持つ点では、イギリス的要素が色濃くありますし、その分だけジェファーソンのような民主共和制憲法の精神を人々が理解しにくくなっています。
ですから、「国難」がやってくると政府への「信頼」と「挙国一致」「がんばれ、ニッポン」を説く言説が、容易に人々の心に入りやすいのだと思います。
今や本家本元のアメリカでもジェファーソンの精神は揺らいでいますが、僕はペインやジェファーソンの精神をどこまでも受け継ぎたいと思っています。

(11:48)
F姉へ。
「ほあんいんぜんいんあほ」自体は大人が作った回文ですが、Twitterを通じてそれが子どもたちの間にも急速に広がったということのようです。

(17:44)
名にし負ふ浜通りとはなりにけり吾がふるさとの核にまみれて


4月29日(金)

(11:17)
N田さん。
芭蕉本の完成、まずはおめでとうございます。
よかったですね。
拝見できるのを楽しみにしています。
イギリス行きは下旬のつもりだったのですが、震災以後の諸々で中止にしました。
連休中は、2日・3日に友人夫婦が住んでいる笠間を別の友人たちと訪ねます。
笠間も益子も登り窯は全壊し、作品もずいぶん壊れてしまったようですが、恒例の陶器市はやるというので、それを見るのが主な目的です。
ですから、秩父には残念ですが行けません。
Oさんと2人で、アルプスの風景を楽しんできてください。
5日は予定はありません。
「吹奏楽団定期演奏会」はもう知っている生徒もいないし、下手ではないけど特別うまいともいえない吹奏楽を聴かされるのは、ちょっとシンドイので、終ったあとにどこかで合流しましょうか。
Iさん、いつか信州のおいしい蕎麦を食べられるのを楽しみにしています。

(11:27)
F姉へ。
信頼すべき政府というものは存在しません。
民主主義、国民(people)主権の下では、国民(people)にとって信頼すべき政府というものは本来ありえないのです。
政府とは、信頼すべきものではなく、国民(people)の信託を裏切らないように常に猜疑の心を持って批判・監視すべきもの。
政府が国民(people)に信頼を求め、国民(people)も政府を信頼してしまうところには、必ず多かれ少なかれ専制的で腐敗した政府が生まれます。
したがって、信頼すべき政府というものは存在しないのです。
存在するのは、疑うにも値しない政府と、疑うに値する政府との2種類だけです。
戦後民主主義の下で日本人の<コモンセンス>に未だになりえないでいる、アメリカン・デモクラシーの最良の精神ですね。

(17:49)
―<「京都大学原子炉実験所・小出裕章助教に聞く(有太マン)」を読みて>
正造に勇気をもらひ原発の危険究めぬ小出助教の


4月30日(土)

(11:06)
F姉へ。
現下の「福島県富岡町夜の森」の瀕死の歴史と、僕たちの個人史を重ね合わせて見ると、意外に大きなものが見えてくるかもしれません。
曽祖父半谷清寿に関しても、これまでの高橋富雄さんなどによる<東北開発論の先駆者>という評価を超えた再評価が必要だと思います。
いずれにしても、祖父母や母などからの<オーラル・ヒストリー>をぜひ詳細に記録して置いてください。


5月1日(日)

(13:05)
―<森まゆみ「だれもが「フクシマ人」」(『東京新聞』5/1朝刊1面トップ)を読みて>
生まれでも生まれでなくもわれら皆フクシマ人となりしを思ふ

(15:36)
F姉へ。
曽祖父が夢見ていたのは、関東、西日本の植民地的な東北を脱するために、いわば<地場産業>としての自立的な工業を東北に興すことだったのだと思います。
原発をはじめとする現在の東北の工業の多くは、残念ながらそうした<地場産業>ではなく、安い土地と水、労働力、そして危険回避などを求めた、外来巨大資本と国策によるいわば<植民地的な工業>だったのではないでしょうか。
南相馬市長はよく頑張っていますが、その彼も「<脱>でも<アンチ>でもなく、原発<克服>の産業」をなどと、意味不明で危うい発言をしています。
東北にどのような未来がありえるのかは、それこそ原発危機が収束し、放射能汚染が安全水準にまで戻らない限り、つまり原発推進派に抗して(アンチ)、「脱」原発をしない限り、少なくとも福島県については考えられないでしょう。
もし、その日が来れば、工業だけでなく、農業、漁業、商業、観光業すべてを含めて、より自立的で自然との共存をめざす産業を興さなければいけないと思います。
今回の悲劇が、結局は僕たちの故郷の浜通りが首都圏の<エネルギー植民地>であったがゆえだったとすれば、僕たちが曽祖父から受け継ぐべきはなによりも東北の自立です。
その日が来ることを祈ります。

(22:09)
Iさん。
信州の満開の桜の写真、ありがとうございました。
今年は、故郷を襲った原発大震災で花見を楽しむ余裕がなかったことを改めて思わされました。
5日に池袋でディープな中華料理を共にできればいいですね。
と、明日の勤務のない立場の老人からの無責任な誘惑です。
ははは。
N田さん、Oさん。
待ち合わせ時間、場所は、笠間から帰ってから改めて。
よろしく。


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髭彦閑話47「ふるさと福島の原発危機」⑨

2011-05-01 23:29:26 | 髭彦閑話

4月20日(水)

(7:33)
ふるさとの核にまみれし春思ひ一(ひと)日秩父に花を求めむ

(7:41)
F姉へ。
浪江も小高も、津波に加え、第1原発事故の核汚染で遺体捜索すらままならぬ事態に。
これから、久しぶりに旅友の誘いで彼の秩父にある山荘に1泊で出かけます。


4月21日(木)

(23:41)
阿武隈の山の笑ふ日近からむ人なき里の悲しみよそに


4月22日(金)

(10:33)
N田さん。
お蔭さまで、久々に秩父の旅を楽しむことができました。
いつもながら、至れり尽くせりの<N田観光>のサービスに感謝、感謝です。
見沼には11時半には着いてしまったので、東浦和駅近辺の通船堀沿いをしばらく散策してから、現地に向いました。
いただいたシイタケはさっそく夕食に、豚肉と一緒の洋風煮込み料理にしておいしく食べました。
そちらの農作業は無事済みましたか?
費用の計算も早いうちに済ましておいてくださいね。
よろしく。
5月にまた旅ができるといいですね。
では。

(18:36)
花見なば思ひ起こせよフクシマの見る人もなく咲き散る花を


4月23日(土)

(11:05)
N田さん。
夜来の放射能雨が降り続いています。
疲れは治りましたか。
費用の件、了解しました。
忘れなければ(ははは!)、次回金2500円也を支払わせていただきます。
奈良以来の写真はまだPCにも取り込んでいないので、少し時間をください。
(「2人展」用の写真は)多分、15枚はいくと思います。

(16:05)
F姉へ。
内橋克人さんの(東京新聞のコラム)はいつも読んでいるのですが、これ(「までいライフ」)は見落としてしまったようです。
「まてい」という祖母のことばは、知りませんでした。
飯舘村は小高の隣り!?
祖父の話も聴いたことがありません。
川俣は、曽祖父が養蚕を学びに行ったところではないかと思います。

(17:28)
しつとりとさみどり濡らす雨なれどいのち蝕む見えざる核の


4月24日(日)

(15:24)
F姉へ。
曽祖父は、三春の師範学校を出て、2年の義務年限だけ二本松で小学校教員をしてから、さっさと小高に戻って実業家の道を歩み始めたということですが、地図で見ると二本松から小高に帰る道筋に川俣や飯舘があったのですね。

(15:34)
F姉へ。
毀誉褒貶はあるでしょうが、南相馬市長がネット情報を駆使して現地の窮状を訴え続けたことが、マスコミと政府を一定程度動かしたことは事実でしょう。
ただし、それを現場で支えているのは姉の後輩のような職員たちの奮闘であり、その職員たちや市民から見ると市長の視線がマスコミや政府にばかり向いていて、エエカッコシーに見えているのかもしれませんね。

(15:52)
旅人さん、ごぶさたしています。
浪江町の海辺は津波で壊滅し、そこに原発事故による核汚染が追い討ちをかけたわけですから、いまだに800人以上の行方不明者がいるようですね。
親戚の方々はご無事だったのでしょうか。
浜通り一帯の僕の親戚で唯一安否が分からないのは、浪江の親戚です。
これだけの原発大震災を引き起こしてなお、官・産・学・報の<核ムラ=マフィア>が「今後も揺らぐことなく続いていく」ことだけは食い止めたいものです。
mixi、Facebook、Twitterなどのソーシャルネットワークを駆使した、被災者を含めた若い世代の覚醒に希望を託したいと思っています。

(16:55)
空は晴れ木々は芽吹けど列島に立ちこめ去らぬ核の恐怖の


4月25日(月)

(12:44)
setuさん、(「今日の東京新聞に河野太郎氏の話」)僕も読みました。
『週刊金曜日』の編集委員になった「保守リベラル」を自認する気鋭の論客中島岳志さんが、「いまの日本には、石橋湛山のような気骨のある保守政治家が必要」だと言っていますが、「脱原発」を正面から掲げる保守リベラルの政治家も出て来ておかしくない状況です。
河野太郎にはそれだけの政治哲学があるように見えないのが残念です。
にも拘わらず、原発批判をすると「原子力=核マフィア」から脅されるというわけですね。

(13:25)
―<世田谷区長選で保坂展人当選の報に>

寿がむ脱原発を正面に説き選ばるる区長の出でて


4月26日(火)

(12:27)
Atsukoさん。
メール、ありがとうございました。
昨晩は、司会役をうまく果たせず、Atsukoさんの貴重な行動と体験を十分に活かすチャンスにできなかったことを、お詫びします。
この後、Atsukoさんの期待にどれほど応えることができるかはわかりませんが、N沢さんと協力して僕も微力を尽くしたいと思いますので、これからもよろしくお願いします。

追伸
僕がTwitterで知り合い、Facebookでも「友達」になったハーバートのHosodaさんはAtsukoさんのことをご存知のようですが、AtsukoさんはHosodaさんをご存知なんですか?
医療社会学の専門家で、故・多田富雄さんとも関係の深いなかなかの学究のようですね。

(15:52)
F姉へ。
時おり夜ノ森の桜並木を裸馬に乗って駆ける人の姿を見た記憶があります。
相馬野馬追祭りも、やっぱりムリだったようですね。
厩舎につながれたままの馬たちは、生き残ったものも半ば飢え死にしかけていたとか。
「処分」などされる謂れのまったくない、その馬たちの「殺処分」。
「琉球処分」と同じ語法。
無残で許しがたい話です。
僕は昨日は、ボストン在住の中高時代の友人女性で、東北支援のファンド(Japanese Disaster Relief Fund - Boston)をボストンで立ち上げ、その支援のために娘さんとわざわざ来日し、1週間ほど東北の被災地を実見してきたAtsuko・Fishさんの話を、同窓生8人が集まって聴いてきました。

(16:07)
なみへいさん。
「死もまた社会奉仕なり」と、藩閥政治の最悪の黒幕・山県有朋の死に際して、石橋湛山は『東洋経済新報』紙上で喝破しました。
さしずめ、原発危機にも関わって、中曽根某とならび石原某などが、この湛山の厳しい言葉に値することになるでしょう。

(16:45)
過ぎゆけど四半世紀の時重くチェルノブイリの悪夢覚めざる

馬駆くる蹄の音のこだませし桜並木も核に閉ざさる


コメント
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髭彦閑話46「ふるさと福島の原発危機」⑧

2011-04-24 22:35:21 | 髭彦閑話

4月14日(木)

(0:01)
相馬野馬追は、会場が避難指示区域にも入っているし、到底ムリだと思っていました。
原発危機の進行状況にもよるでしょうが、開催できればうれしいですね。
祖母のも含めて、姉が聞いた<オーラルヒストリー>はぜひ記録して置いてください。

(0:06)
setuさん。
埴谷島尾記念文学資料館は流されてしまったのですか。
残念です。
長く小高郵便局だった祖母の実家の土蔵も、地震で崩壊してしまったそうです。

(10:48)
元原子力学会会長らのきわめて重要な「建言」(3/30)の全文と、それが出された背景

(19:33)
フクシマの核にまみれしふるさとに今を盛りと花の咲くらむ

フクシマが世界に記憶さるる日の来るぞ悲しきわが故郷よ

                 *

ウワサの斉藤和義「ずっと嘘だった」をやっと聴いて、感動した。
これはホンモノだと思う。
日本の若者よ、斉藤和義に続いてほしい。


4月15日(金)

(15:52)
晶子泣け馨の言ふを聞きて泣け原発推進謝らざると

直ちには顕るるなき災厄も時経るごとに核もたらさむ

(16:45)
今朝の日テレ「スッキリ」という番組で、一昨日の夜ノ森の満開の桜を映していたそうです。
見たかったような、見たくなかったような、複雑な思いです。
菅は「20キロ以内は10年か20年かは人が住めない」という発言をあわてて否定していますが、政府や東電の認識はそうなのでしょう。
それほど、事故と放射能汚染は深刻だということです。
しかも、事故はまだ進行形のまま。
避難している故郷の人たちは、むろん故郷に帰りたいわけですが、もうムリだろうという声も広がっているそうです。

(23:51)
「城南信用金庫が脱原発宣言〜理事長メッセージ」
巨大企業トップ孫正義に続き、中小企業東京<城南信用金庫>トップの感動的な<脱原発>宣言。10日の高円寺15000人の若者中心の<脱原発>デモ。明らかに地殻変動の兆し。

4月16日(土)

(11:25)
原発事故以前の責任もさることながら、事故が起きた直後にあなたがしたさらに愚かで傲慢な言動を反省し、責任を取るというのであれば、当面の道はたった一つしかありません。
もはや、あなたに原発問題を偉そうに発言をする資格などはまったくないのです。
本当に責任を感じて反省しているのであれば、いさぎよく評論活動をすべてやめるか、せめて専門外の原発問題での発言をいっさいやめることしかありません。
あの事故直後にあれだけ傲慢で愚かな発言をしたその舌の根が乾きもしないうちに、「原発事故に関する宣伝責任へのお詫び」だけならともかくも、「脱原発」にもならない「東京電力及び国への公開提案」などを、どうやったら偉そうに「開示」できるのですか。
その傲慢さと愚かさに、ホトホトあきれ果てます。
勝間和代「原発事故に関する宣伝責任へのお詫びと、東京電力及び国への公開提案の開示」(real-japan.org)への投稿>

(16:35)
そう言えば、僕もかつて『世界』1988年5月号の小出裕章論文を読んだのでした。
鋭い警告だとは思いましたが、どこかでまさかそこまで現実に起きるのだろうかという気持ちがあったように思います。
僕も高校時代、物理は苦手中の苦手でしたから。
小出さんたちのようなまじめな専門家・研究者の警告の声が、僕たちのような無知な国民の心に届くには、『世界』のような雑誌だけでなく、一般の新聞・TV・ラジオ・週刊誌などにそうした批判的な警告が常に載っていなければいけなかったのです。
それゆえに、官産学の<原子力ムラ><原子力マフィア>は権力と金で、そうした声が国民に届かぬよう、ありとあらゆる手段を系統的に使って排除し、「安全神話」で国民を洗脳してきたのでしょう。
今回、インターネットがあったからこそ、初めて小出さんたちの批判的分析が僕たちにダイレクトに届き、彼らの警告が悲劇的な現実の前では誇張でもなんでもなかったことが、ようやく広く国民の中に浸透し始めたのです。
政府からは未だに小出さんたちには何の相談もないそうですし、マスコミもNHKやサンケイなどは依然として小出さんたちの批判的分析を報道せず、原発推進派のエセ学者・専門家の分析を垂れ流し続けています。
したがって、高齢者の多くは「直ちに危険はありません」式の報道をまだ真に受けているかもしれませんが、若者たちの間ではそうは行きません。
ネット情報にも極端なものがゴマンとありますが、どういう専門家の分析が信用できるかという、情報リテラシーが若者たちの中に次第に育って来ていると思います。
そこに期待するしかありません。

(16:48)
setuさん。
遅すぎましたが、今こそ「脱原発」の声をためらうことなく、至るところで挙げましょう。
それ以外に、これ以上の取り返しのつかない悲劇が起こるのを防ぐ道はありません。
今回の悲劇を防ぐために何の役割を果たすこともできなかった一国民として、僕はそう思います。

(19:19)
文字とほり小鮒釣りしふるさとのひと絶え果てぬ核に追はれて


4月17日(日)

(22:57)
“nuke”をば「核」「原子力」と訳し分け洗ひ来りぬ吾らが脳を

(23:18)
“nuclear”を「核」(=軍事利用)と「原子力」(=平和利用)とに訳し分け、僕たちを洗脳してきた者たちがいるのですね。
その連中が国内で「原子力(核)村・マフィア」を形成してきたのでしょうが、その「村・マフィア」の背後にはアメリカをはじめとする国際的な「原子力(核)村・マフィア」もあるはずです。
<チェルノブイリ>に続く<フクシマ>の悲劇は、そうした国内外の「原子力(核)村・マフィア」に対する人類史的な抗議とオルタナティブ選択への、決定的な契機になりうるし、またならなければならないのだと思います。

(23:38)
佐平次さん。
故郷の「夜ノ森」「ヨノモリ」という響きがこれほど切なく響く日が現実に来るとは、正直なところ思っていませんでした。
親戚をはじめとする今現在そこに暮らしてきて、突然故郷の生活すべてを奪われた何千、何万の人々の不安、絶望、怒りなどを思うと、「安全神話」をふりまいてこの事態を招いた政官財学の「原子力村・マフィア」の犯罪を、絶対に許せないという思いの募る日々です。


4月18日(月)

(12:58)
現在、欧米では、日本で言う「核兵器」「核武装」「核テロ」などの「核」と「原発」の「原子力」は、ほぼ“nuclerar”“nuke”に統一されているようです。
日本ではこれが意図的に訳し分けられて来たと、どこかで指摘されていました。
その可能性、大だと思います。
<公式>には最近「東日本大震災」に呼称が統一されましたが、僕は「東日本原発大震災」と呼ぶべきだと思っています。
地震学者の石橋克彦さん(『大地動乱の時代―地震学者は警告する』岩波新書、1994)が「原発震災」という概念をいち早く提唱し、警告を発していたのを受けたものです。

(15:33)
setuさん。
今度こそ、人智を超えた核エネルギーの一切の利用を廃絶しない限りもはや人類の将来はありえないことを、決して忘れないようにしましょう。
ネット情報を通じて若い人たちの中に、そうした覚醒が急速に広がっているように見えます。
マスコミも『毎日』がやっと、「脱原発」と「浜岡原発運転中止」の路線を明確にし始めました。
地震だけでなく、日本社会の深いところでも地殻変動が起こり始めたような気がしています。
唯一の希望をそこに求めたいと思います。
であればこそ、菅首相も自己保身を考え、ようやく原発推進路線の白紙化を言い出したのでしょう。
こういう輩の思惑を超えて、歴史が進んでいくことを願うばかりです。

(15:46)
なみへいさん。
僕も同罪です。
原発推進に賛成したことも共感したことも一度もありませんが、かといってそれを脱するための行動は、社会科の授業で生徒たちに問題提起をして考えるきっかけを多少提供した以外には、何もせず、日常生活においては福島の原発から送られてくる電気で生活をエンジョイしてきたのです。
時に故・高木仁三郎さんの本を読めば、そうだその通りだとは思いつつ、どこかでまさか現実にはなるまいと、やっぱり「安全神話」に洗脳されてしまっていた自分がいました。
遅すぎましたが、もう二度と騙されません。
自分のできる範囲で、『脱核エネルギー』の実現のために努力をし続けたいと思っています。
ありがとうございました。

(15:52)
心から愉しまぬもの胸奥に抱へ訪ひけり古都の春をば


4月19日(火)

(12:31)
をさな児と若き人らの育ちゆくいのちに核の日々に降りつむ

(16:47)
「東電は3月30日、福島第一原発の7、8号機の新設を保安院に申請。保安院に聞くと、11日の事故を考慮していないので、作り直せと指示し、受理しなかったとのこと。事故があってもそのまま書類を出す東電も東電。保安院は作り直せではなく、作るなと言うべき」(社民党福島みずほのtwitter4/15)。
正論でしょう。
東電は度し難いし、保安院も「不」安院と言われるだけの相も変わらぬ応対振りです。

(21:52)
地方を犠牲にした日本の経済発展の最も大きな歪の耕造が、原発立地・行政にあったということですね。
交付金が打ち切られ、固定資産税も激減し、作ったハコモノの維持費で赤字に転落し、そこにつけ込まれて計画されたのが、7・8号機の新設だったはずです。
「大野の病院」と「オフサイトセンター」、「双葉病院」との関係は、ぜひ記録して置いてください。

(22:01)
おおまつさん、こんばんは。
“nuke it.”ですか。
日本だけの問題ではありませんね。
おおまつさんも好きなアーサー・ビナードさんの詩集やエッセイを最近ずいぶん読んでいましたが、ぜひ彼に今度の原発大震災がらみで書いてもらいたいような表現ですね。


コメント (2)
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