雪の朝ぼくは突然歌いたくなった

2005年1月26日。雪の朝、突然歌いたくなった。「題詠マラソン」に参加。3月6日に完走。六十路の未知の旅が始まった…。

唐辛子とミニトマト(写真)

2006-08-22 22:28:46 | カトマンドゥへの旅
ネパールにはマオイストはともかく、強烈な陽射しの下、女性のサリーと花や野菜の強烈な<赤>がとても似合います。


     

                  パタンの小さな寺院の境内でおばあさんが干していた唐辛子


     

                     パタンの旧市街の通りで少年が売っていたミニトマト
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

蕎麦、チベット・ヒンドゥー寺院(写真)

2006-08-21 14:13:40 | カトマンドゥへの旅
     

                 <―カトマンドゥ市内のサンセットビュー・ホテルで天ざる大盛りを食みつつ>

                 昼餉食むカトマンドゥなる高台に街より子らの声の谺す




          

                 <―カトマンドゥ西郊外のスワヤンブナートで>

                 遥かなる太古の湖の山となり仏陀は四方に眼凝らしぬ
                 (湖=うみ、四方=よも)



      


         


         


         ">

                 <―カトマンドゥ東郊外のボダナートで>

                 巨大なるBoudhanathの文字通り仏陀の寺を謂ふを知らざり

                 ストゥーパの四方を鋭く見渡せる眼の吾を射抜かむごとく



      


           

            <―聖なるバグマティ川沿いのヒンドゥー最大の寺院パシュパティナートで>

            ヒンドゥーのをみなら川辺を緋の色にサリーで染めしパシュパティナート

            川べりに死者の置かれし傍らを聖水掬ふ生者の絶えざる
            (生者=ひと)
                        
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

パタン草の根セミナー(写真)

2006-08-21 00:45:15 | カトマンドゥへの旅
   


             


             

           
                          


                わが義兄のイニシアティブでネパールの草の根の民パタンに集ふ

                生活に根ざせる民の協同に貧しき国の未来を託し

                国王の非道を倒す変革も自ずと暮らし楽にせざれば
 
                自らの暮らしを共に創りつつ民よ求めよ政治に政府に
コメント (8)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

古都バクタプル(写真)

2006-08-20 00:30:51 | カトマンドゥへの旅
  

              

         

               

               

          
                   煉瓦路の旧き趣ゆるゆると徒歩で味はふ古都バクタプル
                   (徒歩=かち)

                   煉瓦路の荒みの故の静けさか車バイクの古都に少なく





         ">

                義兄の友ドイツの教授のネパールに四半の世紀住めるを訪ぬ

               五階建て民家の居間にチベットやネパール家具にピアノの混じり



  



  

          

  

                     誘はれ古都の街出でネパールの田園歩くドイツの友と

                     古都襲ふ乱開発のひたひたと迫るを覆ひ夕陽の美しく
                     (美しく=はしく)


                  

                     黄昏るる広場にいつか人集ひ老若男女さざめき笑ふ
コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

スラムに生きる(文と写真)

2006-08-19 10:48:30 | カトマンドゥへの旅
農業協同組合の教育・組織の専門家である義兄は、2年前ネパールに赴任して以来、すぐさま精力的にカトマンドゥ盆地のあらゆる協同組合を探し求め、訪ね歩いて来たと言います。
本来ならば、カトマンドゥ盆地以外の農村地域にこそ活動の場を求めたかったのでしょうが、折からの国王独裁体制樹立の時期で、農村地区はマオイストの勢力が伸張し、外国人が入ることは不可能になっていたのでした。
カトマンドゥ盆地にも農村はありますが、カトマンドゥ・パタン・バクタプルの都市部が圧倒的です。
そのため、協同組合も貯蓄・信用協同組合や医療協同組合などが多いようです。

ちょうど8月12日に、義兄がプロモート役となって、カトマンドゥ盆地中の協同組合の若手(次世代)リーダーを結集し、互いの経験交流と協同組合のヴィジョンを議論するためのセミナーが予定されていました。
義兄を中心に20人ほどのリーダーたちは、この1か月ほどをセミナーの準備に全力を注いできたのです。
インターネットもファックスも整備されていない中、電話と車での往復以外に連絡さえままならない中での準備。
印刷物もネパール語と英語版が必要ですが、その校正・印刷ひとつが日本でのようにはとてもいかないのです。
やっと印刷物が出来上がり、プログラムと案内状を持って義兄が各組合を訪ねるのに同行しました。

最初に訪問したのは、パタンの旧市街でいちばんにぎやかな通りの一角の民家の一部屋にある、医療協同組合でした。
眼科と婦人科・外科の診療・治療に取り組むこの組合のリーダーが、どうやら義兄の最大のパートナーなのでした。
いかにもエネルギッシュでユーモアたっぷりの男性でした。

次に、パタンとカトマンドゥを隔てるバグマティ川(ガンジスの支流)を渡り、カトマンドゥ側の河川敷にあるスラムを訪ねました。
スラムが近づくと、川にむかって傾斜する道路は粗末な舗装さえもない、土のままのでこぼこ道です。
何軒かの商店があり、その一軒の飲食店に入って義兄が店番の少女となにやら話しています。
粗末なテーブルに座って待っていると、Tシャツ、Gパン姿の青年が戻ってきました。
ヒラさん、22歳。
河川敷にある105全世帯のスラム住民約400人を組織する貯蓄・信用協同組合の青年部のリーダーです。
組合は、3年前にヒラさんの両親が中心になって組織されたもの。
英語での受け答えは実に明晰で、落ち着いています。

JICA関係者も、義兄の赴任まではこのスラムに立ち入ったこともなければ、ましてそこにすばらしい協同組合活動が組織されていることも、まるで知らなかったといいます。
義兄はある協同組合関係の集まりでヒラさんの母親に出会ったことから、ネパール人ですら立ち入るのを恐れているこのスラムを訪ね、ヒラさんに出会ったのです。
ヒラさんは今や、義兄の有能なパートナーです。
一緒に、スラムの子どもたちのための映画会を定期化するところまでこぎつけました。
ちなみにこれまで上映された映画は、宮崎作品の「魔女の宅急便」「ラピュタ」などで、子どもたちにも大人たちにも大好評だったといいます。
ネパールで宮崎作品を観た数少ない観客が、このスラムの子どもたちなのです。

ヒラさんが、店を出て河川敷のスラムを案内してくれました。
広い河川敷の真ん中に、間口1間半ほどの粗末な小屋が長屋風に続いています。
その105世帯全戸が組合に組織されていると、ヒラさんは誇らしげでした。
子どもたちが元気に遊び、女性たちが家の中で働いています。
鶏が家の内外を走り回っています。
右手の草原には鶏のほかにアヒル、山羊、犬などが思い思いに餌を求めて歩き回っていました。
ヒラさんは次々に出会う人と挨拶を交わしています。

一軒の家に案内されました。
ダンス教室が開かれているというのです。
驚いたことに、中に入ると奥にさらにグリーンの壁の部屋があり、練習中の少女たちが恥ずかしそうに出迎えてくれました。
これも組合活動の一環だといいます。
ヒラさんたちは近々、子どもたちの補習塾を開くとも言っていました。

カトマンドゥでは、このような河川敷のスラムがこの数年で急増しているといわれます。
農村の貧困とマオ派との摩擦を逃れてたくさんの農民が、流れ込んでいるのです。
ヒラさんやご両親たちは、自分たちの経験に基づいて他のこうしたスラムにも協同組合を広げようとしており、すでにいくつかのスラムで組合が組織されたといます。
義兄はそれを積極的にサポートしているのです。

ヒラさんたちは今、河川敷をいわば<不法占拠>しているスラムが合法的な自治体として認められるよう、運動しているとも聞きました。
そういえば、このスラムは文字どおり草の根の住民自治組織そのものではありませんか。
その成功を祈ります。

ヒラさんは現代日本ではほぼ出会うことのできないタイプの、すばらしい若者でした。
貧困の中で人々の生活の安定と幸せを求め、屈することなく粘り強く行動できる、知性豊かな、目に強い光と輝きを持った青年でした。
このような若者と出会えた奇跡を喜びます。
それを可能にしてくれた義兄の2年間の活動に、改めて感動します。

ネパールの未来がヒラさんのような若者に担われて豊かに切り開かれることを、心から願って止みません。

                  

    
                        
            

             川べりに鶏とアヒルと山羊、犬と共に暮らせるスラムを訪ひぬ



    

      

         

           最貧の暮らしに抗し組合をスラムの民のつくりてあれば

         ネパールの民も怖るるスラムにはひとの暮らしが豊かにありぬ



               

                わが義兄に紹介されし若者の瞳輝きスラムにありて
                (義兄=あに)
コメント (10)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

神々と守り手たち(写真)

2006-08-18 18:22:54 | カトマンドゥへの旅
    





    





     





               





     





    





    





    





    





    





    





             





    





    
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ガイジャトラ<牛祭り>

2006-08-18 17:51:06 | カトマンドゥへの旅
うねうねと牛を祭りてネワールの民人あふる古都の市街に

朝食の後、娘とパタンの旧市街をダルバール(王宮前)広場まで散策しました。
ところが、この日はちょうどガイジャトラ(牛祭り)の当日。
うねうねと続く狭い街路は、牛を引いた行列が次々に現れ、両側に立ち並ぶ4、5階建てのレンガ造りの店舗と住宅を兼ねた建物の前や窓には、見物人がぎっしり。
そこにバイクが容赦なく入り込み、大変な混雑で容易に前に進めません。
牝牛がヒンドゥーのシヴァ神の乗り物だったというので牛を聖なる存在とみなす、ヒンドゥー教を国教とするネパールならではの代表的な祭りの一つだといいます。
しかし、とくにカトマンドゥ盆地ではヒンドゥー教と仏教の混淆が著しく、ネワール仏教としてヒンドゥー教、チベット仏教と区別されています。
確かに、至るところに見かけたどの寺院も祠も、チベット寺院を除けばまさに<神仏混淆>状態でした。
という意味では、カトマンドゥ盆地の先住民ネワール族が熱心に行うガイジャトラは、少なくてもカトマンドゥ盆地ではネワール仏教の祭りと言ったほうがいいのかもしれません。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ガネシュ・ヒマール

2006-08-18 14:16:10 | カトマンドゥへの旅
カーテンを開ければ浮かぶ遥かなるヒマラヤの嶺 雨季明けざるに

旅の疲れで朝寝坊し、8時にやっと目覚めてホテル・ヒマラヤの居室のカーテンを開けました。
すると、カトマンドゥ方向の低山脈の切れ目に雪を白く被ったヒマラヤの嶺が二つ浮かんでいたのです!
少し霞んでいますが、まちがいなくヒマラヤではありませんか。
雨季の今頃はほとんど見ることはできないはずです。
娘は去年の今頃にたまたま一度だけ見ることができて、ネパールの人たちからもラッキーだと言われたと言っていました。
それが旅の最初の朝に見えたのです。
食堂で朝食を取りながら、娘と窓の外を時おり眺めていました。
ウェイターに「ヒマラヤが見えて、ラッキーだ」と言うと、「ガネシュ、ガネシュ!」とくりかえします。
部屋に帰って『地球の歩き方』の地図を調べると、それはエベレストのはるか西方に位置するガネシュ・ヒマール(7429m)のことでした。
支度を終えて窓の外を見ると、いつの間にか雲で覆われ、ヒマラヤの姿は消えていました。
翌朝も一時雲が切れて微かに見えましたが、それ以後は一度もヒマラヤの嶺を仰ぐことはできませんでした。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

マオ派のアジ演説

2006-08-18 13:00:31 | カトマンドゥへの旅
延々と女性闘士の叫ぶ声パタンの夜に響き渡りぬ

義兄が取ってくれたヒマラヤ・ホテルは、カトマンドゥの隣の古都パタンの外れにありました。
義兄の住まいは、ホテルの前の大通りの車とバイクの喧騒から離れ、でこぼこだらけの暗い道を歩いて10分足らずのところでした。
そこからまた、10分ほど歩くとパタンの旧市街に入るゲートがあります。
その入り口にある、落ち着いた小さなレストランで夕食を取りました。
頼めばネパール風のものも出てきましたが、メニューは西洋風の料理だけです。
残念ながら、ベトナムやタイのように、現地メニューで旅行者が入れるような店は、ネパールにはほとんどないようです。
それはともかく、道々、旧市街の方から女性の甲高い声がかなりの音量で暗い夜空にこだましていました。
レストランに席を取ると、その声はすぐ近くの旧市街から聞こえてきます。
お祭りの何かだと思っていたのですが、どうもその声が絶叫調のアジ演説風なのです。
ハタと思いつき、義兄に聞くとやはりそれはパタンでは初めてのマオ(毛)派の街頭政治集会だったのでした。
何を訴えているのか言葉はまるでわかりませんが、耳に甦ってきたのは40年近くも昔に大学構内に流れていた、<ゲバルト・ローザ>云々の異名で知られていた全共闘の女性闘士のアジ演説でした。
無内容なイデオロギー用語の順列組み合わせを、これでもかこれでもかと独特の語尾伸ばしと節回しで叫び続け、自己と同調者を陶酔・興奮に導くあれです。
もちろん、ネパールの貧しい農村を舞台に一大政治勢力として登場してきたネパールのマオ派を、かつての日本の全共闘の学生たちと単純に同一視することはできません。
しかし、全共闘の学生たちの多くも毛沢東の<造反有理>を叫ぶマオ派でした。
執拗に続くマオ派女性闘士の脅すような泣くような演説を、パタンの市民たちはどんな思いで聞いていたのでしょうか。
4月に国王独裁体制を覆した故の自由が、都市部にマオ派が公然と進出することを可能にしたわけです。
都市の住民にとっては、物珍しく、場合によっては新鮮に聞こえたのかもしれません。
しかし、貧しい農民の立場に立つというその主張と実践はともかく、<文化大革命>と称するあの非道な内乱と虐殺・抑圧を主導したマオの晩年の思想と行動を、カンボジアのポルポト派のさらなる非道と没落の後に未だに信奉して止まないネパールのマオ派が、旧体制の破壊を超えて真の民主主義ネパールの建設にどんな具体的貢献ができるのでしょうか。
女性闘士のいつまでも終わらないアジ演説を耳に、観光客用の優雅なレストランでビールを飲みながら高価な夕食を食べつつ、そんなとりとめもない思いが去来してネパール最初の夜がふけていきました。

                  
           
               翌朝、このレストランで娘と朝食をとりました。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

子どもたちはネパールの未来を(写真)

2006-08-17 20:31:26 | カトマンドゥへの旅
ロイヤルと名乗りし旧き飛行機のネパールめがけ轟々と飛びゆく

シャンガイでどつと乗り込む中国と韓国の民ネパールめざし
(シャンガイ=上海)

                *

東アジア、東南アジアを経て初めての南アジア、という感じのネパール旅行でしたが、義兄の存在のお蔭で予想以上の充実した旅を味わうことができ、元気で帰ってきました。
初めてのデジカメがおもしろくて、短歌よりも写真に熱中してしまった感の無きにしも非ず、です。
短歌は追々にして、moraisanさんや波平さん、sakuraさんたちの遥かな後塵を拝し、今日は写真をアップしてみました。
世界の三大最貧国といわれるネパールですが、子どもたちの生き生きとした姿にこの国の未来の確かさを見た思いです。
まずは子どもたちの写真をご覧ください。














                       





            

























































            
コメント (11)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする