共編著:教科書『倫理(新訂版)』(一橋出版、1998年)
共編著:比較史・比較歴史教育研究会編『黒船と日清戦争―歴史認識をめぐる対話―』(未来社、1996年)
共編著:比較史・比較歴史教育研究会編『アジアの「近代」と歴史教育〔続・自国史と世界史〕』(未来社、1991年)
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「人類史的展望に立った平和教育・社会科教育の模索」(『わだつみのこえ』110号、1999年8月)
「東アジアの平和をめざす社会科歴史教育」(山梨県歴史教育者協議会『山梨の歴史教育』第7号、1999年7月)
「書評 韓国国定小学校社会科教科書『わかりやすい韓国の歴史』(明石書店) 深まる民族主義史観と教育方法の多様化の矛盾」(『日韓教育フォーラム』第2号、1999年7月)
「座談会 あらためて平和教育の課題を考える―目良誠二郎・竹内久顕・糀谷陽子・堀尾輝久」(『季刊・人間と教育』22号、1999年)
「戦後日本の平和教育と歴史認識―被害と加害の重層性」(『第二回日韓平和教育シンポジュウム 東アジアの平和のための日韓平和教育の課題と展望』1999年、所収)
「小さな交流の大きな成果―第6回日韓歴史教師交流会に参加して―」(日韓教育実践研究会編『第6回日韓歴史教師交流会<韓国・晋州市>』1998年、所収)
「開かれたナショナル・アイデンティティの形成と社会科・歴史教育―加害の授業をどう反省するか―(歴史学研究会大会特別部会報告)」(『歴史学研究』1998年10月増刊号)
「書評/君島和彦著『教科書の思想』」(『歴史評論』1998年10月号)
「加害の授業の反省と歴史の選択肢―一五年戦争期の学習とも関わって― 」(東京学芸大学史学会『史海』第45号、1998年6月)
「隣国へのまなざしを育む―高一「総合社会」での紙上討論授業の試み」(『歴史地理教育』1998年6月号)
「伊藤博文」(『週刊金曜日』1998年2月13日号)
「在留保証人を引き受けてきた市民の立場から」(『留学交流』1998年1月号)
「日韓関係史を学ぶ意欲を育てる」(「第5回日韓歴史教師交流会 東京シンポジウム」1997年夏、での報告)」(日韓教育実践研究会編『第5回日韓歴史教師交流会』1998年、所収)
「加害学習と日本近代史の選択肢―帝国主義か植民地化か」(『戦争責任研究』16号、1997年6月)
「加害の歴史の授業の反省から―歴史の転換期と近現代史教育の課題―」(『教育』1997年5月号)
「日本型国民国家の軍隊と戦争」(梅田欽治・佐藤伸雄編『いま学びたい近現代史』教育史料出版会、1997年、所収)
「日清戦争をめぐる歴史の選択肢と歴史学・歴史教育―朝鮮の永世中立化策の現実性と関わって―」(前掲『黒船と日清戦争』未来社、1996年、所収)
「徴兵農民兵士の反乱―竹橋事件」(佐藤和彦・佐々木虔一・坂本昇―編『地図でたどる日本史』東京堂出版、1995年、所収)
「中沢正夫のシリーズ対談④本物のリベラリズムとは―中沢正夫+目良誠二郎」(『季刊・高校のひろば』1993年冬号)
「近代日本の在り方と倫理」(『一橋情報 公民科93』一橋出版、1993年)
「日中歴史教育セミナーに参加して」(『中国研究月報』1992年8月号)
「コラム 茅原華山とエミル・ライヒ―韓国併合批判の忘れられた先駆者―」(歴史教育者協議会編集『知っておきたい韓国・朝鮮』1992年、所収)
「日本近代の重大な欠点の自覚とその克服への意欲・展望を子どもたちとともに―日本の近現代史教育の一課題―(「日韓歴史教育セミナー」1991年7月末、ソウル大学、での報告)」(西川正雄編『自国史を越えた歴史教育』三省堂、1992年、所収)
「権力者の歴史抹殺と自らの歴史健忘症とのたたかい方のことなど」(『月刊・アジアの友』1991年10月号)
「第二回東アジア歴史教育シンポジウムはいかに準備され、そして行なわれたか」(前掲『アジアの「近代」と歴史教育〔続・自国史と世界史〕』未来社、1991年、所収)
「福沢諭吉の視点から柳宗悦の視点へ―日朝関係史のバクロ型授業を乗り越える試み」(『歴史地理教育』1990年12月号。後に、歴史教育者協議会編『歴史地理教育実践選集』第27巻、新興出版社、1992年・石山久男/渡辺賢二編『展望日本歴史二 歴史教育の現在』東京堂出版、2000年、に収録)
「年貢半減令撤回に関する岩倉父子の書翰をめぐって」(『海城中学・高等学校研究集録』第14集、1990年3月)
「竹橋事件研究の現在」(『歴史評論』1990年2月号)
「なにが問題なのか―戦後社会科(歴史)教育の正しい総括と結びつけた論争を(歴史学と歴史教育のあいだ-18-)」(『歴史学研究』1990年2月号。後に、歴史学研究会編『歴史学と歴史教育のあいだ』三省堂、1993年、に収録)
「近衛兵の反乱はどのような意味をもっていたのか」(歴史教育者協議会編『日本歴史と天皇』1989年、所収)
「アジアからの留学生とフジ三太郎の善意」(月刊『東京』1988年7月号)
「竹橋事件に関する官側史料の若干の整理(四)」(『海城中学・高等学校研究集録』第12集、1988年3月
「竹橋事件に関する官側史料の若干の整理(続々)」(『海城中学・高等学校研究集録』第11集、1987年3月
「新たな段階を迎えた竹橋事件研究―兵士の本籍大量発見を機に全国で掘り起こし運動を―」(『歴史地理教育』1987年9月号)
「本籍の判明した竹橋兵士たち」(『彷書月刊』1987年9月号)
「新たに本籍が判明した竹橋兵士④」(竹橋事件の真相を明らかにする会『竹橋通信』第40号、1987年5月)
「新たな一大掘り起こし運動を」(『竹橋通信』第40号、1987年5月)
「新たに本籍が判明した竹橋兵士③」(『竹橋通信』第39号、1987年2月)
「新たに本籍が判明した竹橋兵士②」(『竹橋通信』第38号、1986年12月)
「新たに本籍が判明した竹橋兵士①」(『竹橋通信』第37号、1986年9月)
「竹橋事件に関する官側史料の若干の整理(続)」(『海城中学・高等学校研究集録』第10集、1985年11月
「“竹橋暴動ノ余毒断然治療セズンバ能ハザルナリ”―官側史料で広がる竹橋事件像」(『竹橋通信』第33号、1985年9月)
「思案橋事件と竹橋事件の関係に関する新史料」(『竹橋通信』第31号、1985年4月)
「バクロ型の日本近現代史授業の反省」(比較史・比較歴史教育研究会編『共同討議/日本・中国・韓国〔自国史と世界史〕』ほるぷ出版、1985年、所収)
「竹橋事件に関する官側史料の若干の整理 」(『海城中学・高等学校研究集録』第9集、1984年8月)
「蜂起一ヶ月後の再挙の動きを示す新史料等」(『竹橋通信』第28号、1984年6月)
「未公刊史料を軸とした慶応三年十月期政治情況の再検討(上)」(『海城中学・高等学校研究集録』第8集、1983年6月)
「幕末維新政治史研究覚え書(2)慶応3年秋(下)―後藤象二郎・小松帯刀・辻将曹の動向を中心に―」(『海城中学・高等学校研究集録』第7集、1982年3月)
「幕末維新政治史研究覚え書(1)慶応3年秋(上)―後藤象二郎・小松帯刀・辻将曹の動向を中心に―」(『海城中学・高等学校研究集録』第6集、1980年10月)
(2010年11月1日現在)