夏木広介の日本語ワールド

駄目な日本語を斬る。いい加減な発言も斬る。文化、科学、芸能、政治、暮しと、目にした物は何でも。文句は過激なくらいがいい。

経済記事は難しいのか/東京新聞を読んで

2009年01月31日 | Weblog
 今日の第1面は「日立 7000億円赤字」の大きな見出しで始まっている。サブ見出しは「半導体悪化、円高響く 3月期予想」だ。以下に記事を必要な部分のみ掲出する。話が分からなくなるような省略はしていない。

(リード)
 日立製作所が2009年3月期連結決算で純損益ベースで7千億円という巨額赤字を出す見込みとなった。
(本文)
 日立製作所は30日、2009年3月期の連結最終損益が7千億円の赤字になる見込みと発表した。従来の予想は150億円の黒字だった。金融危機による半導体関連の損失や株式の評価損、円高による為替差損などで、総額7500億円程度の損失を計上することが響いた。
 営業利益は400億円の黒字を確保するものの、従来予想の4100億円からは大きく後退する。売上高は予想より8800億円減少し、10兆200億円の見通し。

 私の頭の悪さ、理解の乏しさを白状するような事だから恥ずかしいのだが、何が分からないのかと言うと、「7千億円の赤字」と「営業利益は400億円の黒字」がどうにも理解出来ない。
 と、今このように書いて、ちょっとばかり分かったような気になった事がある。
 「総額7500億円程度の損失」から「営業利益は400億円の黒字」を差し引くと約「7千億円の赤字」になる。100億円ほど計算が合わないが。
 売上高は関係ないとして、上記の記事には5つの数字がある。
 1 純損益ベースで7千億円の赤字
 2 連結最終損益が7千億円の赤字
 3 総額7500億円程度の損失
 4 営業利益は400億円の黒字
 5 従来予想の営業利益は4100億円

 1と2は多分同じだ。リードと本文とで言い方を変えたのだろう。しかし私には「赤字」と「損失」の違いが分からない。普通には「売上-経費」で計算して、答がマイナスになれば「赤字」でプラスになれば「黒字」である。上記ではその答はプラス400億円。だがマイナス7千億円の答もある。一体どっちなんだ?
 多分、「総額7500億円程度の損失を計上」が鍵なのだろう。
 「売上-経費=400億円」なのだが、経費以外の様々な損失を計算すると総額7500億円程度になる。これらの損失は計算してみなければ分からないのだろう。私はちっぽけな有限会社を持って仕事をしているから、決算で経験しているが、あれっ? 今期は利益が出てたんだ、とか、こんなにもマイナスだったんだ、などとその都度驚いている。ゴミのような会社でさえそうなんだから、日立のような巨大な企業ともなれば、実態と会計が大きくずれるのは当然だろう。

 このように考えてみても、100億円のずれは解消しない。それに「損失の計上」がそんなにも分かり易いとは思えない。会計を30年もやっていても、上記のように記事を抜き書きしてみて初めて、もしかしたらこうなのでは? と思えたのである。
 この記事で少しも疑問を持たず、すらすらと理解出来た人が居たなら、ホント、私は脱帽するしか無い。そして私の推定通りなら、東京新聞さん、どうかもっと分かり易く書いて下さいな。
 「連結決算」は仕方無いとしても、「純損益ベース」「最終損益」「損失」などが簡単に分かるとは思えない。「7000億円の赤字」が分かればそれで良いのだ、と言うのなら、上に述べたような疑問の出ないようなもっと単純明快な記事にしてもらう必要がある。
 なぜこんな事を言うのか。実は他の記事にも分かりにくいのがあるのだ。「東京と愛知 転出超過に」の記事だ。ずっと転入超過が続いて来たが、それが転出超過になった、との記事である。ただし、それは12月に限っての事である。
 「東京都は9年ぶりに転出超過(73人減)となったことが分かった。愛知県も5年2カ月ぶりの転出超過だった」
と書いている。
 そして記事はその原因に言及したり、転出超過の県と人数、転入超過の都県と人数などに言及して、最後、本当に記事の最後に「愛知は12月に限れば(転入超過数が)49人減となっている」と書いている。それでも転出超過の人数には触れず仕舞いである。
 見出しは「東京と愛知 転出超過に」である。ならば、愛知の転出超過数を「5年2カ月ぶりに」の所で明示すべきである。

 つまり、記事が整理されていない。分かり易く、との思いがまるで感じられない。これまた見出しで分かるじゃないか、と言うのなら、こまごまとした本文は要らない。一体、何が伝えたいのか。もしも、12月の転出超過が以後も続くのだろう、との予測ならば、年間の人数だけではなく、11月はどうだったのか、10月はどうだったのか、そしてそれは景気後退の流れとどのように関係があるのか、と言う話になるのではないのか。
 私の頭が悪いのだろうか。


「僕」は大人が使えば相手を見下げている事になる/テレビ人の言葉遣い

2009年01月30日 | Weblog
 前にも書いたが、「僕」について。テレビでは自分の事を指して「ぼく」と言う人が圧倒的に多い。「わたし」などはあまり聞かない。ニュースショーの司会者はもちろんの事、出演者もすべて「ぼく」で通している。たまに「わたし」と言う人が居ても、じきに「ぼく」になってしまう。以下「僕」「私」と表記する。

 私はこの事にとても興味があって、国語辞典で色々と調べた。たいていが「同等または同等以下の相手に対して」とは言うが、「私」よりも砕けた言い方などとあほな事を言っている。「砕けた言い方」と「同等または同等以下に対する言い方」とは同じではない。そうだろう。「わたくし」の砕けた言い方が「わたし」にはなるが、それは決して同等または同等以下に対しての言い方ではない。
 いや、そうではなく、「同等または同等以下に対する言い方」あるいは「砕けた言い方」だ、と言うのかも知れない。つまり、もう面倒だから「同等」と省略するが、「同等」のつもりで「僕」と言う人間と、「私」の「砕けた言い方」のつもりで「僕」と言う人間が居るのだ、と言うのかも知れない。
 しかし、こうした使い方は危険である。自分は「砕けた」つもりでも、相手は「同等」と見るかも知れない。まあ、大体が、「同等」でないのに「砕ける」のがおかしいのだが。

 こうした事から分かるのは、「僕」が「同等」とは思っていない人間が多数居るのだろう、である。ただし、我々の周囲には居ない。居るのは、テレビ界とか特殊な世界だけである。
 はっきり言えば、「僕」は子供言葉であり、「私」は社会人としての言葉なのである。子供言葉だから仲間同士では使えるのだ。だが、会社などで上司に向かって「僕」などとは絶対に言えない。言っている会社もあるのかも知れないが、それは特殊な会社だろう。
 「僕」が子供言葉である明確な証拠は、幼児に対して「ぼく、お名前は?」などと聞く事が出来る事である。「幼児=ぼく」だからそれが成立している。違うと言うのなら、成人に対して「ぼく、お名前は?」と聞いてみたらいい。下手したら殴られる。私は責任は取らないけどね。

 「僕」の発祥は維新の思いに燃えた青年達の自称だった。お国訛り丸出しの青年達が明治維新を目指して集まった。その共通語として新しい「僕」と言う言葉が採用されたのである。
 その「僕」が次第に子供が使う自称になった。そしてその代わりに「私」が使われるようになった。この間の経緯は私の生まれる遙か以前の事なので知らない。しかし周囲をきちんと見渡してみれば、「僕」と「私」は明確に使い分けられている事が判明する。分からないのは馬鹿だからである。
 そうでしょう。会社勤めのあなた。上司に向かって「僕は」などと言った事がありますか。

 「僕=同等」なのだから、社会で周囲から尊敬されるような立場になった人が使うのは、認められるのだろう。私は「何様だと思ってるんだ」と反感を覚えるだけだが。「実るほどこうべを垂れる稲穂かな」である。でもそうした人って、ホント、少ないよねえ。
 故河内広範氏がテレビで見る限りは、「俺は」としか言わなかったのは、それはそれで彼の生き方なのである。「僕」のもっと砕けた乱暴な言い方が「俺」なのである。彼はその事で自分の立場を明確に示していたのだと思う。

 「私」は「禾」と「ム」の組み合わせから成る。「禾」は稲などの穀物で、「ム」は耕作の「耜=すき」である。耜を使って耕作する人を「私」と言い、一家に従属する「隷農」を言う、と『常用字解』は説明している。「公」に対する「私」で、支配・被支配の関係で「公私」と言う。
 だからこそ、辞書は言わないが、「私」にはへりくだった意識があるのだ。従って、「私は」と言うのは相手を敬っている言い方になる。きちんと社会の仕組みを意識して使っている言い方になる。その点で、仲間同士の言葉である「僕」とはまるで違うのだ。友達同士で「私」などと言わないのは当然なのだ。

 「僕」は「私」の砕けた言い方などではない。「僕」と「私」の間には断絶があるのだ。社会と仲間内と言う明確な区別がある。
 テレビを始めとして、多くの大人達が、それもいかにも学識・経験豊かそうな人々が喜々として「僕は」などとのたまっているのは、仲間意識があるからだろう。もちろん、中には自分が最高だと思い上がっている人も居るが。
 だが、テレビでの出演者は仲間意識で居ては困るのである。最終的には視聴者を相手にしているのである。先日も書いたが、CMの料金を最終的に負担している視聴者が相手なのである。言うならば、視聴者は「神様」なのである。神様に向かって「僕は」は無いでしょう。別に「わたしめは」とか「わたくしめは」などと言えと言うのではない。でも少なくとも「わたしは」と言うべきだと思う。はっきり言う。テレビ人は思い上がっている。
 そして困るのは、テレビに影響される人間が絶対的に多いから、次第に「僕」が「私」と同等の地位に上がって来てしまうのではないか、と言う事である。まあね、大人の幼児化現象だと思えば、気の毒に、としか思わないけどね。

文化審議会の常用漢字案に疑義あり

2009年01月29日 | Weblog
 常用漢字表に191字追加される事になった。増えるのは大いに喜ばしい。特に「私」に「わたし」の読みを加えたのなどは、遅過ぎるくらいである。1点しんにゅうと2点しんにゅうの事は前に述べた(1月10日)。
 常用漢字とはあくまでも一般的に使う「目安」である。地名や人名などの固有名詞が対象になっていないのは当然の事である。それなのに、今回「茨城」「埼玉」「大阪」「岡山」「近畿」「韓国」などが「公共性が高い」として、それぞれの文字が入った。
 ふーん、「岡」は「岡山」が公共性が高いのか。「山岡」さんは別に公共性が高いとは言えないのは分かる。「大阪」と「阪本」さんの関係も同じ。でも都道府県名だから公共性が高いなどと一律に考えるから、「栃」などの「栃木県」以外には滅多にお目に掛かれない文字までもが常用漢字の仲間入りをしてしまう。「栃」は決して公共性が高いとは言えないだろう。

 地名などの固有名詞は人名と同じく特殊な使い方だ。一つだけの地名でしか使われない漢字があったって少しもおかしくはない。なにもそれを常用漢字にしなければならない事は無い。確かに「岡」や「阪」は公共性が高いとは言える。だが「埼」はどうか。「犬吠埼」などの場合は「さき」である。「さい」だけ認めてもあまり意味が無いのではなかろうか。
 大体、地名や人名などの固有名詞はとても勝手なんだから、常用漢字かどうかなど関係が無い。「栃」だって、漢字としてはおかしな文字だと読んだ事がある。人名にしても勝手に変な字を使って、お陰で印刷に関わる人間が大きな迷惑を蒙っているケースもある。

 「創る」「混む」などを認めた事から、東京新聞は、「作」「込」などとの使い分けの幅が広がりそうだ、などとのんきな事を言っている。「使い分けの幅が広がる」だって? 冗談じゃない。今だって様々な漢字で使い分けが混乱している。幅が広いのではなく、いい加減で曖昧なのである。私は漢字の使い分けについてはここ10年以上も追究している。様々な国語辞典を徹底的に調べ、「慣用」に引きずられない一つの案を作り出している。どこか意欲的な出版社に原稿を売り込もうと思っているが、意欲的でなければ出版出来ないくらい、それは画期的な案だと自負している。
 それくらい画期的な事を考えないと、現行の漢字の使い分けは収拾が付かないのである。お疑いの向きがあれば、二冊以上の表記辞典を使って、「創」「作」「造」の使い分けを調べれば、たちどころに分かるはずである。ただし、『朝日新聞の用語の手引き』と『毎日新聞用語集』などの同じ分野での表記辞典ではだめだ。これらは瓜二つと言って良いくらいに同じなのだ。だから新聞社系と出版社系のように、分野の異なる辞典を使う必要がある。

 「混む」だが、現在は「込む」しか認められていない。多くの人が「混む」だと思っているのは、「混雑」の言葉に引かれてだろう。だが「混」に「こむ」の意味は無い。白川静著『常用字解』には「まじる・まざる」としか無い。「昆」は昆虫の形で、「比」はその足の形だと言う。昆虫は小さな虫で、群れ集まって混雑している(いりまじっている)事が多いから、「混」は「まじる」の意味となる。以上、同書の説明である。
 いくら「混雑」だから「混む」だと思っても、それは「混乱」の結果なのだから、誤用は誤用である。何も、そのような事に引きずられる必要は無い。現在の漢字の書き分けが曖昧なのは、慣用に引きずられているからなのだ。そうした愚を繰り返すのは愚かである。

 「桃栗三年柿八年」では「桃」だけが常用漢字だ。「栗」も「柿」も見直されてなどいない。そして、「熊」や「虎」は認められ、「雀」は認められていない。身近な動物ならば、虎などよりも雀の方がずっと身近である。
 まあね、「目安」なんだから、と思えば目くじらを立てる事も無いのだが、どうしたって、出版物はその「目安」に引きずられてしまう。新聞などはその最たる物だから、我々にも大きな影響を与えてしまう。我々もそれに引きずられている。
 現行の常用漢字にしても新案にしても決して合理的とは言えないのだから、本当にあくまでも「目安」として、ほんの参考までにしておいてくれれば良いのである。新聞などが良識を発揮してくれれば、と思う。
 漢字はいくら中国語の文字だったとは言っても、今では、正真正銘、日本語の文字になっている。訓読みを与え、音読みにしても日本独自の読み方なのだから、日本語の文字なのである。それを忘れてはいけない。「あたたかい」「かたい」のように、日本語では一つの言葉しか無いのなら、それを漢字を書き分けて表そうなどと考えるのは邪道なのである。そうしたしっかりとした考えが無いから、常用漢字案にしても、変な結果になるのである。

保育園の環境整備が少子化対策だと勝間和代氏は言うのだが

2009年01月28日 | Weblog
 久しぶりにテレビ朝日の「TVタックル」を見た。森永卓郎氏と勝間和代氏の激論との触れ込みだったからだ。そのごく一部だが、勝間氏は保育園の環境整備をすれば、女性が子供をもっと産んで、もっと働けると言う。女性の能力は非常に高いのだと言うのが根拠になっている。
 でもそうだろうか。少子化対策は必要だ。しかしそれは保育園を整備すれば済むと言う問題ではないだろう。母親が安心して子育てが出来る事が重要なのだ。子供を産まないのは、将来が案じられると言う事もあるだろう。だが、それにも増して、母親が働かなければならない、と言う事情が大きな足枷になっているのではないか。
 家計が苦しいのは様々な理由があるが、大きな理由の一つが、今までよりも家計にカネが掛かる事だ。子供を塾に通わせる費用はもちろんの事、親自身もカネが掛かる。贅沢はしたいし、携帯電話など、あれば便利だが、絶対に必要とは思えない物が無くてはならない物に仕立て上げられていたりする事にもカネが掛かる。夫の給料が上がらない事もある。
 それやこれやで家計が苦しいのは分かる。しかし家庭はカネだけで動くのではない。家族が健康でにこやかに暮らせる事が一番大事なのではないのか。父親が外で働き、母親が家庭を守る。そうした仕組みの中で、子供達は安心して育つ事が出来る。
 夕方、それもかなり暗くなって、買い物から帰る途中、私は数多くの学童保育から帰って行く子供達を見ている。えっ? こんな遅くまで、何で子供は家に帰らないのか。帰らないのではない。帰れないのだ。なぜなら、家に帰っても母親が居ない。

 前に私は自分の愛犬の事を書いた。生まれて一カ月も経たない内にペットショップに売られ、母親から満足に育てられる事の無かった子犬が完全な育ち方をしていない、と書いた。動物でさえそうなのだ。人間ならもっと悲惨な事になるはずだ。
 小学校のテストでは、家庭内での会話が多い家庭ほど、子供の学力が高いとの結果が出ている。子供を育てるのは学校でも塾でもない。ましてや学童保育などではない。家庭なのだ。その家庭を見放して、何が女性の社会進出か。何が保育園の環境整備か。
 私は途中でがっかりして、「TVタックル」を消してしまった。大体、がやがやと騒ぎ過ぎる。司会者達がせっかく良い事を言って方向転換を図っているのに、出演者達がぶちこわす。様々な考えの、色々な性格の人達を出演者にしているから面白いのだろうが、激論をすれば良いと言うものではない。実の無い激論なら何の意味も無い。

 株主への配当を一時的にも無くせ、と言う森永氏の意見に対して、何を馬鹿な、それじゃあ株を買ってくれる人間がいなくなる、と言って怒っていた評論家が居た。前にも書いたが、株主が大企業が飽くなき利益追求をする事を要求している。現在の雇われ経営者は株主の顔色を窺うしか無い。株主に拒否されれば職を失う。
 大体、他人様からの借金で金儲けをしようとの仕組みがおかしい。きれい事だと言われるかも知れないが、企業は世のため人のために立ち上げたのではないのか。松下幸之助氏の伝記では、昔、電灯のソケットからアイロンの電気を取るために、アイロンをかけている間は本が読めないと文句を言っている男の子の声を聞いて、彼は二股ソケットを発明したと言う。それが松下電器のそもそもである。まさに世のため人のためだ。
 それがだんだんと大きくなるにつれ、世のため人のためもあるが、もっと大切なのは自社の利益のため、株主の利益のため、と変わって来た。どの企業も多かれ少なかれ、同じような情況だろう。だから、不況のこの今、一時的にも本来の「世のため人のため」を取り戻し、株主にも同じ気持になってもらおう、と言うのは私は正論だと思う。

 経済評論家にはカネの事だけに目が行って、人間の事を忘れている人が居る。誰とは言わないが、26日の「TVタックル」を見て、つくづくとそう思った。そして私は途中で消してしまったが、こうした番組は出演者の思わぬ本音が見えるから面白く、ためになる。一見もっともらしい、カッコいい論理に騙されてはいけない。何がそうであるかは、見る人の心や学んで来た事、育って来た環境などによって違うから、何とも言えないが、まあ、私はこの頃、少しはそれが分かって来たと思っている。

ガザ支援運動で東京新聞の分からない報道

2009年01月27日 | Weblog
 パレスチナ自治区ガザへの支援金要請運動と言うのがある。イギリスの13の慈善団体が共同で計画した。そのニュースを英BBC放送が報道機関の中立性を楯にニュース番組などで取り上げない方針を決めた。それに対して批判が集中し、市民による抗議デモのほか、現職閣僚が再考を促す異例の事態になっていると、26日の東京新聞夕刊が伝えている。他紙も同じだろう。
 BBCの言い分は、「イスラエルとパレスチナの二つの当事者がある中、パレスチナ側だけを取り上げれば、報道機関として中立性が損なわれるので放映しない」である。更には「戦争と自然災害による被害は違う」と正当性を主張しているとも言う。
 これに対する批判は、「人道支援と政治問題を履き違えている」と言うもの。国際開発相がBBCトップに見直しを求め、テレビ各局も放映を決めた、と言う。
 記事の終わりは次のようだ。

 イギリスの各紙はサンデー・テレグラフが「ガザの子どもたちにはわれわれの支援が必要だ」、オブザーバーが「もし今後放映を決めれば政治圧力に屈したとみなされる」と批判を強めている。

 さて、この最後の記事が私には分からない。サンデー・テレグラフの批判は分かる。しかしオブザーバーの批判が分からない。大臣がBBCに見直しを求めたと言う。それは言うならば、政治圧力になる。それに屈して放映を決めて何が悪いのか。今は放映をしないと決めている。だから放映すると決めるのは「今後」に決まっている。それが政治圧力に屈したのだと言われてしまうと、放映しないを貫き通すしか無い。
 何とも分からない。「圧力」とは悪い事を言う。普通には単に物理的な事柄だが、こうした場合に使われるなら、「自由な精神活動や恣意的な行動を抑えつけようとする、強い力による働きかけ」(新明解国語辞典)である。
 この記事のタイトルから言っても「BBCの“無視”市民らが非難」である。非難、批判は決して「圧力」ではない。記事は批判する側が正しいと見ているのである。大臣も批判する側に立っている。それが「圧力」になるはずが無い。

 東京新聞に聞いてみようかな、とは思ったが、過去、二度、そうした事で嫌な思いをしている。毎日新聞では、電話に出た読者相談の窓口氏は「そう言えば分からない記事ですね。担当に伝えておきます」とだけしか言わなかった。どうすれば分かるような記事になるのかは、皆目分からないままだ。読売新聞では、「そうした事にはお答え出来ない事になっております」だった。私の聞き方が悪かったのか。

 もしかしたら、オブザーバーの話は、「政治圧力に屈するのではなく、今すぐに自発的に放映を決めろ」と言っているのかとも考えてみた。それでも「圧力に屈する」の言葉はおかしいし、こんな分かりにくい言い方をする事も納得が行かない。それに先述したように、「今すぐ」だって「今後」と同じになるではないか。いったん決めた事を覆すのはすべて「今後の事」になるはずだ。
 この記事が分かった人がいたら、どうか教えて頂きたい。

国産がどんどん無くなって行く

2009年01月26日 | Weblog
 ある初めてのスーパーで、あまりの安さに、商品を並べている店員に思わず「お宅安いねえ」と言ってしまった。すると彼女は値札の見方を教えてくれた。これは周囲の他店よりも安い物、これは期間限定の安い物、これは生産が中止になる物、と言うような表示がある。その生産中止になる商品の中に紅生姜があった。
 何で生産中止になるかと言うと、中国産の安さに負けたのだと言う。国産は45グラムで約150円。中国産は85円ほど。確かに中国産の方が安い。その差は65円。しかし紅生姜45グラムはかなりの量である。差額の65円が使う場合にどれほどに響くと言うのか。そんなわずかな値段の差よりも、安全かどうかの方がずっと大切ではないか。
 もちろん、中国産がすべて危ないなどとは言わない。しかしながら、農薬に対する理解度とかを考えれば安全だなどと安心しては居られない。中国の農家の人の話などをテレビで見る限りは、とても怖い。
 わずかなカネを惜しんで、結局は国産品を消滅に追い込んで行く。その結果、身の回りには外国産ばかりしか無いような情況になるのは目に見えている。何か、考え方が根本から違っているとしか思えない。
 確かに安い方がいい。でも安全とはかりに掛ける訳には行かない。安全性ばかりの問題ではない。外国産が、もしも生産国の事情で輸出がストップしたらどうなるか。品質の安全性だけではなく、供給の安全性までも脅かされて、それでも安心していられると言うのだろうか。

 日本の食糧の自給率は40%を割っていると言う。アメリカやフランスは100%を越えている。そこへ持って来て、農薬をふんだんに使った外国製品が登場して、我々は目が覚めたと思っているのに、結局は、すぐ目の前しか見ていない。私だって、明日はどうやって暮らそうか、と言うのが大袈裟ではない境遇に置かれている。それでも歯を食いしばっても、安いからと言って安易に外国産に頼る事はしていない。
 自分の身は自分で守るしか無い。

 今日は一日外で働いて来たので、時間が無く、短い物しか書けない。深く追究しようとすると、色々と調べたりして、そう簡単には行かない。私はあまり頭がよろしくないので、いつもの分量だと2時間ほどは掛かってしまう。ひどい時にはそれでもまだ時間が足りず、追究を中途で終わらせている場合もある。もちろん、それは結論が出ていないので、発信出来ない。
 本当はこれくらいの分量で、きちんと確かな事が言えないといけないのだろうとは思うのですが。

中国製品の恐ろしさが分かった

2009年01月25日 | Weblog
 結論の出ていなかった中国製冷凍ギョーザ。結論が出ていないのに、冷凍食品に対する警戒感がまるで無い事を、先日批判した。その結論が図らずも出てしまった。
 問題はメタミドホスがどこで混入したか、である。その結論が出ていなかった。ところが、破棄したはずの製品を政府の指示で横流しをした。メタミドホスは日本で混入したのだと早合点したのが原因らしい。そして被害が出た。

 結局、中国が物事をいい加減にしか考えていない事が明確になった。.食品に対してでさえこの情況である。政府の役人がこの程度だから、庶民の程度は推して知るべし。
 しかし、これは単に中国人だけの問題ではない。そうした中国を相手に、しかもそこで生産した物を日本人に売ると言う商売を考えた人々の問題である。相手の事を知らずして、取引が出来るか。互いに信頼し合って、初めて取引が成立する。
 相手が外国人だから、簡単には信頼出来ない事も有るかも知れない。ならば余計慎重になるべきである。民族の違いは当然に考え方の違いにもなる。そんな事は百も承知の上だから、そうした事は何の言い訳にもならない。
 意思の疎通が難しいと思えば、慎重にも慎重を期すのが取引の常道ではないのか。

 中国政府は何のかんのと言って、中国で混入した事を認めようとはしていない。日本での事故だと主張したいようだ。本当に残念でしたね。お粗末な役人のお陰で、真実が分かってしまって。
 あれっ? これらの回収されたギョーザは調べなかったのか? まるで人体実験で結果を出したようなものじゃないか。中国もお粗末なら、日本もお粗末ではないか。
 私は勘ぐっているのだが、日本は政府も業者も、中国を徹底的に叩くのは得策ではない、と踏んだのではないか。今後も日本にとって有利な取引を続けるために。
 中国製の安い製品を日本人に安く売るためだけが目的ではないはずだ。安い製品を、日本製よりは安いが、原価よりは相当高く売っているのではなかろうか。それで上手い金儲けが出来る。安全を犠牲にして金儲けを企んでいると見られたっておかしくはない。
 冷凍ギョーザの結論が延び延びになっている。そして中国の国内に保存されていた製品からもメタミドホスが出ている。これほど明確な事実は無いだろう。

 日本の業者が、安全には万全を期しています、と言うのならそれでもいい。しかし私は買わない。今だってスーパーには中国製の冷凍食品が並んでいる。たとえ冷凍ギョーザではなく、冷凍ロールきゃべつだとしても、中国製の冷凍食品である事は同じである。製品が違うから安全だ、とどのようにして言えるのか。
 冷凍ギョーザだって、中国では念には念を入れて作り、保管し、売ったはずである。だから、見境も無く、別の冷凍食品を輸入している業者にも、それを売っている業者にも私は大きな不信感を持つ。多分、彼等は自分ではそれらを買ったり食べたりはしていないのだろう。
 それで儲けているなら、何も危ない中国製の安い商品を買わなくても、安全な国産を買う事が出来るのである。もっとも昨今は国産だって信用ならないが。うかつに信用してはならない事を誰もが身に染みて感じているはずである。信用ならない行為をするのは、それで大きな得が出来るからに決まっている。
 あれを疑い、これを疑いしていると、買い物はどんどん制約されてしまう。それでも十分な物が日本にはあふれている。だからちっとも困りはしない。それに人間、食べられる物、使える物の量は限られている。そんなに欲深くなる必要も無い。
 見ず知らずの他人同士で、誰が自分の得にもならない事を喜々としてやるか。やるからには何らかの利益がからんでいる。その利益の性質を、注意深く、あるいは意地悪く、疑り深く、見詰めてみましょうよ、と私は言っているつもりである。

CMは役立っているのだろうか

2009年01月24日 | Weblog
 テレビなどのCMに触発されて、その商品を買った事がどれほどあるのか、との疑問である。
 例えば何とかホームと言う一戸建ての家。別にCMの家を売っているのではない。CMは単なる商品例であって、何とかホームの素晴らしさを伝えたいのである。家を建てたいと思っている人は、そうか何とかホームと言うのがあるのか。ではショールームに見に行ってみようか、などとは考える。だが、それで「決め」とはならない。同じようにして、別のメーカーのショールームに行くだろう。そして比較検討する。
 テレビにしても、現在、液晶では有力3社が争っている。CMで、絶対にあれだ、と決めている人が居るのだろうか。これだって、そうと決めていても、実際に店に行けば、他の製品にも目が行く。そして結局は比較検討する事になるはずだ。店にだって、売りたい商品がある。
 車。これは多分、あの車が欲しい、と言う強い願望があるはずだ。とても、比較して検討するような商品ではないと思う。私自身、ずっと昔の事だが、最初に買ったスバル1000と言う車は当時としては画期的な前輪駆動車であって、もうそれ以外には選択肢は持っていなかった。

 商品には、これしか無い、と言う個性的な物と、似たような製品が色々ある物とがある。個性的な商品なら、広告をしようがしまいが、関係は無い。CMが力を持って来るのは、似たような製品のある商品だ。選択肢の一つとして登場して来る訳だ。
 そして、CMがその選択肢にどれほどの力を与えているかである。潜在意識としてはCMの商品が植え付けられているだろう。だが、現実には別の様々な商品も目にして、あるいは触っていて、比較検討している。実際に店に行けば、CMではとうてい伝えられない色々な情報が手に入る。そうした情報抜きにしては商品は選べない。
 つまり、CMは「敵に塩を贈る」事にもなる。前にも書いたと思うが、その絶好の例がある。ベータとVHSが争っていた時、ベータにはソニー以外にも数社が参加していた。A社がベータのCMを打って、消費者が店に行く。で、売れたのはそのA社の製品ではなく、ソニーだった。ソニー以外の他社がベータのCMを打てば打つほど、ソニーが売れる。結局、他社は嫌気が差して、ベータから離れてしまった、と言う話。

 CMで○○味噌の宣伝をする。そうだ、味噌を買わなきゃ、と思って店に行った人の一体何割くらいが、その○○味噌を買うか、である。味噌ではありきたり過ぎると言うなら、ちょっと変わったドレッシングにしようか。おっ、何か変わったドレッシングがあるぞ。店に行った時、見てみよう。そう思って買い物に行って、果たしてそのドレッシングを買う人がどれほど居るのか、である。
 店に行ったら、様々なドレッシングが並んでいて、CMの物もあるが、ほかにも知らなかった物があり、それもまたなかなか魅力的だったり、更には価格もずっと安かったりした場合、どうなるか。
 私は、CMでこれと決めて買いに行って、まさしくその物を買って来たのは一度くらいしか無い。結局は売り場で勉強する事になり、たいていは、目的とは違った物を買っている。目的通りの買った物とは風呂の洗剤である。こすらずに落ちるとの触れ込みに負けた。そして意気揚々と買って来て、使ってみたが、一向に落ちない。
 息子にその話をしたら、「馬鹿だなあ。CM通りできれいになる訳ないじゃないか」と馬鹿にされた。以来、CMは信用していない。以後は「○○になります」と聞けば、「○○になればいいなあ、と思っております」と言っているのだと解釈している。

 と言う訳で、私はCMはあまり役には立っていないだろうと思っている。ではなぜCMを打つのか。高いCM代は商品に転嫁出来るからだ。従って、転嫁出来ないメーカーはCMは打たない。そして打たなくても自社の製品が売れると考えている。
 もしも各社がCMを大幅に自粛したらどうなるか。多分民放は駄目になる。もっとも莫大な利益は無くても、放送その物はやって行けるだろうが、それではせっかくの金儲けをしようとの思いが遂げられない。
 つまり大企業とテレビ局がしめし合わせてCMで成り立っている民放と言うシステムを作り上げているのではないのか。こうした方式では大企業はテレビ局ほどの大儲けは出来ないが、知名度はぐんと上がる。それは絶対に役に立つ。優秀な社員が集まるだろうし、株だって売れるだろう。
 結果的には両者共に万々歳。そうやって、庶民のなけなしのカネはどんどん吸い上げられて行く。以上は私の邪推かも知れないが、テレビ局がうまく行っているのは、庶民のお陰だと私は思っている。

東京新聞が、それも校閲がそんな考えじゃ困るんだけど

2009年01月23日 | Weblog
 「全然大丈夫」とか「全然オーケー」などの会話がテレビでも街中でもよく聞かれるが、個人的には違和感がある、と東京新聞の校閲部の人が書いている。
 私は会話としてなら、それこそ「全然オーケー」である。わざと決まりから外れた言い方をしているのだと思っている。この場合は「全然」と言う否定を伴う言い方をわざと肯定的に使っているから、「全然」が強く、効果を挙げている。もちろん、それはその場の雰囲気に合った言い方になっているはずだ。いくら会話だからと言ったって、社会的な立場のある人の交わす会話ではなかろう。それにそんな言葉で効果を狙うのは、あまりにも低級な行為である。
 関西地区で、紙面や放送で、こうした言い方を使っているかとアンケートを採ったところ、回答した16社中、2社が過去も現在も使っている、1社が過去は使っていなかったが、今は使っていると答えたそうだ。
 東京新聞は使わないが、やがて市民権を得るのでしょうか? と記事を結んでいる。

 過去も現在も使っている、過去は使っていなかったが今は使っている、と答えた3社のような行き方が、多分言葉を変化させて行く要因になるのだろう。記事中にもあるが、昔は「とても」は否定を伴う言い方だった。それが現在では肯定に使われて、全くおかしくは感じられない。それと同じと見ているように思われる。
 否定だった「とても」が肯定に使われるようになった経緯は知らない。これは「とてもかくても」が本来の言い方だったと辞書にはある。「どのようにしてもこのようにしても」が原意だった。従って、否定の言い方が続くことが予定されている言い方になる。
 「とてもかくても」の形が確保されていれば、「とてもかくても大丈夫」の言い方は多分、生まれなかったのではないか。日本人の正常な言語感覚からはそうとしか思えない。それが「とてもかくても」ではなく「とても」に省略された時から、その意味が失われて行った。そうでしょう。中途半端な言い方なんだから、元の意味をその言い方に求めるのは無理だ。
 「とても」は「とてもかくても」とは全然別の言葉と考えるべきではないのか。どちらかと言えば意味不明の言葉で、しかし「とても素晴らしい」などと使われているから、「非常に」と同じ意味だと考えるのは自然である。

 しかし「全然」は違うのだ。下に否定の言い方を伴う「全然」と全く同じなのだから、肯定に使える道理が無い。岩波国語辞典は「全然平気だ」は「全然気にしない」「全然構わない」との混交か、と説明している。否定と肯定の言い方の意味が同じなので、肯定でも使えると思われたのだろうか、と言っているのである。
 「全然平気だ」には一理あるが、それを認めないのが我々の日本語としての良識なのである。「混交」つまりは勘違いによる同一視なのだから。
 「全然」の否定の気持をそれこそ否定されたら、許し難い。それは我々の大切な日本語を破壊する事に繋がる。言葉だけではない。我々の感情や感覚をも破壊している。断じて許してはいけないのである。あくまでも「俗な言い方」として許しているだけである。
 上記の「今も使っている」「今は使っている」などと馬鹿な事を言っている新聞、放送を許してはならないのである。

 水は低きに流れる、と言う。何事も羽目を外せば切りが無くなる。知らないで使っている場合も、知っていてわざと変な使い方をしている場合も、せっかく先人が努力を重ねて磨き上げて来た言葉を、傷付け汚くしているだけである。そんな事を許して良いものか。使っているあなた自身を汚くし、価値を貶めているのと全く同じなのである。
 自由な世の中なのだから、本人がそれで構わないと言うのなら、いいでしょう。その代わり、私達はあなたを相手にはしませんよ、と明確に言うべきである。
 東京新聞は「全然大丈夫」がやがて市民権を得るのでしょうか? などと無責任に自信無さげに言うべきではない。「全然大丈夫」は絶対に市民権を得てはいけないのだ、と強く主張すべきなのである。それが言葉を大切にする新聞人の正常な感覚だと私は思う。

人間は万物の霊長か。心を磨く事を忘れた「お猿さん」

2009年01月22日 | Weblog
 20日の東京新聞夕刊に「人間は万物の霊長か」と題して、板橋興宗と言う僧侶が書いている。
 人間の「考える」能力の素晴らしさを讃え、「しかし、文化生活の進歩に比例して人類はしあわせになったか」と問い掛ける。その同じ紙面には「名古屋の拉致殺害 3被告に死刑求刑」の大きな見出しがあり、小さいながらも「刺殺事件公判 元陸自少年に無期懲役求刑」の見出しがあり、「国有地入札 大前議員が不透明取引 7000万円安く入手」の見出しもある。
 名古屋の事件では、3人は携帯電話サイト「闇の職業安定所」で知り合ったと言う。それこそ、「考える能力」が最悪の面に向かって開花してしまっている。
 「便利さ」と言う魅力的な言葉に惹かれて、人類は次々と不可能を可能にして来た。そうした技術を磨く割には心を磨いて来なかった。と言うよりも、科学技術と人間の心の乖離は非常に大きい。
 どうでも良い事だろうが、やはり同じ紙面に、ジェルネイルと言う爪の装飾にはまっていると言う東京大学工学部特任教員の女性のコラムがある。美容業界は科学技術と柔軟に融合していると書かれている。単なるマニキュアではなく、「重合反応」と言う化学変化を利用しているのだそうな。私は以前からけったいな事してるなあ、と感心しているのだが、爪を磨くより、心を磨いて欲しいと思っている。

 一日前の夕刊のコラムには、大学での講義における学生との約束事と称する事が書かれている。
1 遅刻は欠席とみなす。
2 携帯電話は使用禁止。
3 私語をつつしむ。
4 帽子をかぶらない。
5 飲食の禁止。
6 前列から着席。

 「当たり前すぎて恥ずかしい限りだが」と執筆者は言うが、ホント恥ずかしいねえ。これって小学生に言う注意じゃないの? と思ってしまう。それなのに、「無気力、無目的に見えた彼らの態度がこの約束事だけで一変した」とも言う。コラムのタイトルは「コーチング論」であり、スポーツ界のコーチングに言及する、その枕になっている。
 コーチングの最終目的は、自分の特性に気づかせ、自発的な行動を引き出すことだ、とある。その技術の一つがこの六つの約束事のように、「いろんな現場での約束事の取り決めである。机上論だけでは務まらないのが現代のリーダーだ」と締め括っている。
 主旨は分かる。分かるが、これが「現場での約束事」だと言われると、本当に「技術と心の乖離」は絶望的に大きいのだと思えてしまう。コーチングって、ずいぶんと程度の低い事から始めなきゃならないんだなあ、と同情してしまう。でも、それでいいんだろうか。
 板橋師は、10人あまりの修行仲間と猫たちに囲まれ楽しく暮らしている、と紹介されている。そう、我々は犬や猫から学ぶべき事がたくさんある。数日前、パリには野良犬しか居なかった、との話を読んだ。尾道などの町と同じように、犬が気ままに町の中を歩き回り、人間と共存しているらしい。そうした犬の姿から人間は何かを学べるはずだ。
 だが、日本のように、野良犬を廃絶し、犬はすべて鎖に繋いで家で飼う事しか出来ないと、何も学べないのではないのか。野良犬は危険だ、との考えは人間の独善的な考えだと思う。犬をそこに追い込んでいるのは人間なのである。
 同師は、人類とお猿さんを分けたのは、人間が「考える」能力を持った事で、「万物の霊長を誇った人類の衰亡を、樹上のお猿さんたちに笑われないような英知を私たちは持てるでしょうか」と問い掛けている。
 私は今現在で、もう既にお猿さんに笑われていると思っている。