夏木広介の日本語ワールド

駄目な日本語を斬る。いい加減な発言も斬る。文化、科学、芸能、政治、暮しと、目にした物は何でも。文句は過激なくらいがいい。

オリンピック招致に無関心、冷淡な理由が分かった

2009年06月30日 | 社会問題
 東京都のオリンピック招致に政府は非常に冷淡である。政治が介入する事ではない、と言っている。へーえ、そうなのか。昭和39年の東京オリンピックは国を挙げての盛事だったはず。それに合わせて新幹線を開通させたし、高速道路も建設した。お陰で、東京は道は広くなったが、日本橋には蓋をされて無惨な光景とあいなった。
 そうした事はすべて東京都だけの事業だったと言うのか。
 世論調査の結果も支持はとても低い。特にIOCの調査結果は無惨である。ねえ、本当にオリンピックって無駄なの? と私は聞きたくなった。もしもそれに税金が使われるとして、その金額は果たしてどれくらいなのか。一人当たり50万円ほども掛かるのであって、オリンピックを開かなければ都民一人に50万ずつくれるとでも言うのなら、私はお金の方が欲しい。
 でも、そんな事があるはずが無い。掛かる費用だって、そんなに多くはないはずだし、それにたとえオリンピックに使わないとしても、そのお金はほかの事に使われてしまうはずである。無駄に分からない所に使われてしまうくらいなら、オリンピックの方が遥かに素晴らしい。

 オリンピックを招致しない事でこれだけの利益があり、招致する事でこれほどの損失になる、と言う収支の計算を教えて欲しい。でもみんな温度低いよねえ。もう、何もかも嫌になりました、何に対しても関心がありません、って感じがするけど。いや、自分にだけは関心はある。自分を嫌になってなどいない。単に自分本位なのではないだろうか。
 確かに世の中、景気が悪い。でも悪いからと落ち込んでばかりいては駄目だろうに。そうした時こそ、何くそっ、て言う力が必要なのではないだろうか。東京オリンピックはそのばねに必ずなると思う。もしならないのなら、それこそ、日本沈没だね。もう救いようが無い。

 と、これを書いてしばらく暖めていた。そうして色々な人と世間話をしていて東京の某区政に関わる金権体質についての知識を得た。区議会議員と直接の関わりを持っている人から聞いた話である。そして気付いた事がある。今度のオリンピック招致では最もカネの掛からない運営が出来そうな事が評価されている。つまり、既存の施設を利用出来る。何も新しく建設する必要が無い。
 そう、だから政府は冷淡なのである。公共事業が何も出来ない。それでは何の旨味も無い。建設族の族議員も手の出しようが無い。どこにも金儲けの種が無い。そしてもう一つ分かった事がある。庶民も結局はカネが動かないと動かないのである。昭和39年の東京オリンピックではそれこそ建設で莫大なカネが動いた。しょせんは我々庶民も関心はカネなのである。カネが動かないから心も動かないのである。
 一体、いつの頃からこんな卑しい根性に成り下がったんだろう。一つだけ分かる事がある。あらゆる媒体がやれ便利な品を買え、やれ旨い物を食え、やれいい所に旅をせよ、やれ良い住まいを手に入れろ、とさんざんに我々を突き動かして来たのが大きな原因になっている。
 精神ではなく物質で喜ぶ体質を作り上げてしまった。物質でなければ喜べない体質を作ってしまった。オリンピックに冷淡、無関心なのはここに大いなる理由がある。

考えがちょっと浅いのでは。でもお陰で面白い事に気が付いた

2009年06月29日 | 言葉
 テレビの雑学クイズの事だ。昨日の日曜日、たまたまつけたテレビでやっていた。面白そうな問題だったので見た。こうした雑学はその時は面白いと思うのだが、たいていは翌日になると忘れてしまう。単なる受け身の知識だからだ。この問題でも、その晩まで覚えていたのはわずかに三つ。一つはやっと思い出した。それは空港などで不法入国が分かった場合、その送還の費用は誰が負担するか、だった。正解は乗って来た航空会社が負担する、だった。入国後に不法がばれた場合、どうだったかはどうしても思い出せない。

 二つ目は「砂漠」には水が無いのになぜ「漠」には「さんずい」が付くのか。これは私は答がすぐに分かった。「莫」が「無し」の意味なので、「漠=水が無い」なのだと気が付いた。ただ、今までそんな事考えた事も無かった。そしてクイズではこの「莫」の文字についての説明があった。これは「くさ+日+大」で、「大」も「草」を表している。つまり草と草の間に日が沈む形だと言う。そうか、日が無くなる訳だ。
 そして後になって、あれ、「莫」だけで「暮れる」と言う意味になるのに、「暮」には更に日があるじゃないか、と気が付いた。でもクイズではそんな説明は無かった。そこで調べた。
 「莫」は「暮れる」の元の字である。それが「なし」などの意味に使われるようになったので、更に日を加えたのである。それは分かったが、何でそれが「暮らす」にも使われるのだろうか、とまたまた疑問が出て来た。そこで古語辞典で調べた。
 答はいとも簡単だった。「暮らす」とは「日暮れになるまで時を過ごす」なのである。そこから「生活する」の意味も生まれているはずだ。
 「砂漠」からこれだけの収穫が得られるのである。でも、この雑学クイズではそこまでは要求されていない。どうしてだろう。「莫」と「暮」の関係、「暮れる」と「暮らす」の関係、そうした事は日本人として有益な知識である。「砂漠」に「漠」の文字が使われているのと同じく重要な事柄である。だが、まるで考えていない。つまり、そこまで考えが回らないのだろう。これは決して失礼な考え方ではない。分かっていてそこまでしないのだ、と考える方がずっと失礼になる。考えが回らないのはその担当者の程度の問題だから、それはそれで仕方が無い。だが、知っていてやらないのなら、誠意を疑う事になる。

 三つ目は国道の上越トンネルでは走行車線と追い越し車線とでは照明に違いがある。どのような違いか、である。
 私の考えた答は「電源の系統が違う」である。系統が異なれば、両方一遍に停電する事は無いだろう。クイズの正解は電力会社が違う、であった。私の答より更に規模が大きいのだ。なるほどと思ったが、これは直後から疑問が湧いた。
 よく停電のニュースがあるが、そんなに広範囲に停電する訳でもない。電源の系統が異なれば、周辺全域が真っ暗になる事は無いだろう。何も電力会社が違わなくても良いのではないか。
 上越トンネルの場合、東京電力と東北電力で、それは両社の境界付近にトンネルがあるから出来た事ではないのか。例えば東京電力の範囲のど真ん中なら、そこに東北電力から電源を引いて来るのは可能だろうか。
 同トンネルは全長11キロと長いが、同じように長いトンネルで二つの会社から電力の供給を受けているトンネルはほかにもあるのか。それはどこなのか。そして、会社の違いではなく、一つの会社の電源系統の違いでは解決が出来ないのか。
 これは言葉や文字の問題ではないので、私には調べるすべが無い。多分、このまま疑問として私の頭の中に残るに違いない。そしてどこかで、答に出会う時があるはずだ。
 この三つ目の問題は言葉や文字の問題ではない。我々の実際の暮らしにも関わって来る問題である。だからより一層、いい加減な答で済ます事は出来ないはずだ。まさか、電力会社の問題だとか、国土交通省の問題だ、などと言うのではあるまい。

 せっかくの問題なのだから、きちんと考える事をしたらどうなのか。多分、私の疑問とした事はあまり面白くはないからやらないのだろうと思う。面白さが何よりも優先するのである。啓蒙番組だとは誰も思ってはいないだろうが、あまりにも面白さだけを追究し過ぎている。考えないで答だけを受け入れるから、果たしてどこまでそれを覚えているか。そしてその知識が役に立つのか。
 そんな事はいいんだよ。一過性であって少しも困らないんだよ、とテレビ局は言うのかも知れない。考えずに済む番組をテレビは作っている。面白がって笑ってそれで終わり。複雑な社会問題がある場合にも、すべて局が用意した答で解決を付けている。かくかくしかじかであるから、視聴者の皆様、これで納得出来ますよね、との姿勢である。そうやって我々を引きずり回している。
 でも、こうして考えていたら、別の電力会社である理由を思い付いた。もちろん、確信は無い。このトンネルは群馬県と新潟県の県境にある。そこで自分の領域だと、電力会社の争いがあったのではないか。両方の顔を立てるために両社に参入させた。停電への配慮も出来る。
 このように考えれば、私が疑問に思った一つの会社での電源の系統を変える事で解決が付くのではないか、の答も自ずと出て来る。スポンサー大事のテレビ局はそうした事をあからさまには出来ない。
 只で見ているテレビだから文句を付けるのもおかしいのだろう。嫌なら見なければ良い。ただ、何で無料で視聴出来るのか、と考えれば、それは決して無料放送ではない事に気が付く。
 さて、今度は私が問題を出します。
 無料の民放テレビの経費や利益はどこから出ているのでしょうか。実質的には誰が負担しているのでしょうか。

我ながら未練がましいとは思うけど

2009年06月28日 | 文化
 パソコンで文章を書く人間にとって、キーボードは命である。頭に浮かんだ言葉を即、文字にする必要がある。ちょっとでも遅れると、私は頭の出来が良くないからだろうが、せっかく浮かんだ言葉が無惨にも消えてしまう。だから、漢字変換が出来ていなくても、取り敢えず入力してしまう。そこはあとからゆっくりと訂正が出来る。とにもかくにも入力なのである。
 だからキーが自由に操れなくてはならない。キーボードなんか見なくても、きちんと入力が出来なければならない。
 前にも書いたが、私は二十年以上も前から親指シフトキーボードを使って来た。そもそもはワープロが親指シフトだった。NECのいわゆる98も親指シフトが使えた。マックを始めたのはウインドウズが出来る前で、そのマックもまた親指シフトが使えた。
 だから一度もローマ字入力をした事が無かった。普段ローマ字でなんか考えていないのにローマ字を使う事には無理がある。努力で無理は小さく出来るが、皆無にはならない。皆無にするためには、普段からローマ字生活をするしか無い。
 ずっと以前、私はしょっちゅう英文タイプライターを使わなければならない仕事に就いていた。その時、英文タイプを独習したのだが、英語の文章を入力しようとすると、きちんと指はそのキーを打つ事が出来るようになった。それは今でも出来る。だが、ローマ字になると、途端に分からなくなる。英語でthe beautiful morningと打つ事は簡単に出来る。しかし日本語でtiとかbaとか打とうとすると、少なからず考えてしまうのである。

 その親指シフトキーボードが、マックでは新しいパソコンでは使えなくなった。キーボードは元のままなのに、パソコンの方が変化して、接続方式が変わってしまったからだ。だから私はずっと長い間、新しいパソコンは宝の持ち腐れになっていた。
 そしてその新しいパソンコがもう古いパソコンになりつつある今になって、親指シフトキーボードが使える事を発見したのである。この事については以前に報告しているが、使えるようになったキーボードは十何年も前の古い製品なのである。新しいパソコンにも使えますよ、とメーカーが推薦した新しいキーボードはまるで使えないのである。
 古いキーボードはキーの一部が使えない。しかし普通の入力をしている限りでは支障が無い。ただ、時々、完全に全部のキーが使えればなあ、と思う。だから完全にキーの使える古いパソコンもいまだに持っている。たまに、もしやと思って新しいパソコンに繋いでみるのだが、やはり駄目だ。だから未練がましいのである。

 パソコンを使っている人は非常に多い。その内、データ処理をしている人よりも文章を作っている人の方が絶対に多いはずである。それなのに、キーボードは旧態依然としてローマ字入力なのである。asaなどの打ちにくさ、母音のiuoが並んでいる打ちにくさ、そうした事は少しも考慮されていない。英語を打つのにふさわしいキー配列が何で日本語入力にふさわしいと言えるか。その英語にしても、高速に打てるための配列ではない。高速に打てないような配列をわざわざ考えたのである。初期のタイプライターの宿命に従ったまでの事。
 それが改善されて高速入力が可能になっても、長年親しまれて来たキー配列は変える事が出来ないのだろう。それはそれで良いが、日本語にはそれはまるで関係が無い事である。日本語には日本語の合理的はキー配列がある。それを一顧だにしない。
 そこに私は日本人の、基本を見ずに枝葉の事だけを見てしまう性格を感じる。アルファベットの配列を日本語にふさわしいように変える事がなぜ出来ないのか。変えると英語を入力する時に困る、と言うのであろう。本末転倒している。

 昔、パソコンは英語のコマンド(命令文)を打ち込む事で操作していた。だから英文配列が使われていた。親指シフトキーボードの本家本元の富士通がパソコンに親指シフトキーボードを標準として装備していない事に私は疑問を持ち、メーカーに聞いた。答は、「だって、パソコンですから」だった。
 そのパソコンは劇的に変わった。今はマウスの時代である。URLにしても半分は日本語である。英語にしたって、それは略語である。何でいつまでも英文配列にこだわっているのだろうか。
 変化が嫌いなんだろうね。それは日本人の基本的な性格だから、どうしようも無い。

 以上の事を私はマックで考えて来た。だが、ウインドウズならもう少し情況が違う。いまだに親指シフトキーボードは作られている。ソフトもある。私もウインドウズで親指シフトキーボードを使っている。だが、ウインドウズの親指シフトキーボードの使い方はマックとは少し違う。マックのような使い易さが無い。マックのように自由自在ではない。なぜなのか。本家は富士通であり、富士通はウインドウズ陣営なのだから、当然にウインドウズで使い易い親指シフトキーボードの規格が出来ていて当然なのである。
 パソコンでテレビが見られるなんて言うつまらない事に血道を上げていないで、もっと本質的な事を考える事は出来ないのだろうか。そうか、技術者は日本語入力にはあまり興味が無いのか。多分、日本語では考えていないんでしょうね。

不正者の名前を覚えよう

2009年06月27日 | 社会問題
 族議員の顔と名前を覚えておこう、と提案した。不正を行った議員の顔と名前も覚えておこう。不正を働いた企業の名前もしっかりと覚えておこう。
 先日、日本水産がズワイガニ表示で格安の紅ズワイガニを使っていた事が判明したばかりなのに、今度は同じズワイガニの不当表示で日本製粉が843万個、日本ハムが13万個の不正を働いていた事が判明した。
 両社共に日本水産の事件で社内調査を実施して判明したと言っているが、そうしたきっかけが無かったら、ずっとそのまま不正が続いていたと言う訳だ。食品製造業者として絶対に許せない事である。ズワイガニと紅ズワイガニが値段が格段に違う事は食品製造に関わる人間にとっては常識中の常識である。基本的な知識を持たない職員が製造責任者になっている事自体が許される事ではない。
 こうしたインチキ不正利得業者の名前は絶対に忘れてはならない。

 是非、不正者のリストを作る事をお勧めする。多分、またたく間に一杯になってしまうだろう。中には別件で同じ企業や個人の名前が挙がる事もあるはずだ。不正には「仏の顔も三度」は通用しない。過去にも廃業せざるを得なかった企業がある。だが、一流大企業は絶対にそうはならないだろう。だからこそ、余計に用心が必要になる。
 単なる出来心などではない。きちんと計画性がある。「二度ある事は三度ある」と言うが、いえいえ、「一度ある事は二度ある」なのである。

 リストを作って排除していたら、買える物がなくなってしまうかも知れない。それほどに現在の業界は魔窟になっている。しかし良心的な業者は絶対に存在するはずだ。そしてそうした業者は大規模な宣伝などしていない。高価なテレビCMが打てるのはそれだけ利益が大きいからであり、それだけ売れていないからでもある。私の周辺では、頻繁なCMを見ると、ああ、売れてないんだなと思う、と言っている。
 いい俳優だなあ、と思っていたら、うさん臭い事で評判の生命保険のCMに登場した。嫌だなあ、これからあんたの出るドラマ、見たく無くなってしまうじゃないか。こうして色々と制限がかかって来るとそれだけ選択肢も減って来る。だが、日本には掃いて捨てるだけの企業も人も居る。目を肥やして、本当に良心的な「一流企業」や「一流の人」を見付けましょう。
 どんどん振るい落として行く訳だから、何か、試験官になった気分でもある。さあてと、これからが楽しみだ。いえいえ、不正を奨励している訳ではありません。不正が判明するのが楽しみだと言っているつもりです。多分「ブルータス、お前もか」と何度も思う事でしょう。

猿軍団の猿だって「反省」が出来るのに、司法は反省が出来ない

2009年06月26日 | 社会問題
 冤罪だった菅家さんの再審が決定したのに、誤審の検証はされない。再審で検察が無罪論告をする事で、実質的な審理は行われないらしい。どんな論告がされるのか見物である。多分、当時のDNA鑑定の不確かさのせいにするのだろう。だが、DNAには何の責任も無い。能力不足のDNAを無条件に崇め奉ったやからが悪いに決まっている。科学の名を借りて、自分達のいい加減な論理の証拠としたのである。
 誤審の検証をしない理由は分かり過ぎるくらい分かっている。誤審をした人々に責任を負わせたくないからである。自分達と同じ仲間なんだからかばうのである。いやいや、そうではない。仲間をかばうんじゃない。自分自身をかばうのである。同じ体質をそっくり受け継いでいる自分自身をよく知っているからかばうのである。

 頭の良い人達って本当にやる事がうまいよねえ。大岡越前守のお裁きだったか、石の地蔵の責任にして、地蔵をしばって牢に入れ、庶民を救った、との話がある。だが、それとこれとは天地雲泥の違いがある。この裁きの話には罪の責任を負う者が居ない。だから地蔵を罪人に仕立てた。しかし今回の事件では現実に目に見える形で責任を負うべき人々が存在している。それなのに、それをDNAに押し付けようと言うのである。
 でも、どんなに頭が良くても、現代にはきちんと記録と言う物が残っている。面倒をいとわなければ、菅家さんを罪人に仕立て上げた検察と裁判官の名前は明らかに出来る。多分、誰かがやってくれる。それがはっきりすれば、こそこそと逃げ隠れしただけに、一層、その不名誉は確たる物になる。
 頭の良さはかえって墓穴を掘る。昔から言うでしょう。「頭隠して尻隠さず」と。こうした人達はこのような格言さえお分かりではないようだが、悪事や欠点は隠そうとしても肝心な所が見え見えになる、と言う事。馬鹿だねえ、と言うお話。
 英語では「愚かなダチョウは頭を砂に突っ込んで、誰にも見られていないと思い込む」と言うそうだ。
 フランス語なら、こうしたやり方を「ダチョウの方策を採る」と言うそうだ。
 中国語はとても分かり易い。「火を紙で包む事は出来ない」。この場合の「火」は検察や裁判官がやった愚かな事を指すが、これを我々庶民の怒りを指すとも考えられる。我々の怒りはいい加減な幕引きでは包み隠せないんだよ、と言う事である。もちろん菅家さんの怒りは油紙で何重に包んでも隠せない。
 前にも書いたが、その火を包める唯一の紙は、それぞれに菅家さんと同じ実刑を科す事である。火を包む紙とはそうした物なのである。

族議員を退治する方法

2009年06月25日 | 政治問題
 我々の暮らしを邪魔している最悪の存在が族議員。何らかの利権があるから企業に群がる。与謝野や渡辺が迂回献金と知らずに受け取ったと言っている献金の出所は先物取り引きの企業だった。先物取り引きがどんなにうさん臭い物か、知らないとでも言うつもりなのだろうか。どこの世界に一銭の得にもならない事に大金をはたく人間が居るか。しかも企業である。企業は世のため人のため、を口にはしているが、一番大事なのは「利益のため」である。これは資本主義の大前提のはずだ。
 ただ一口に「族議員」と言ってもその正体は様々だ。例えば郵政民営化についても、賛成する族議員も居れば、反対する族議員も居る。反対する族議員は特定郵便局の集票システムを利用していたり、あるいは郵貯・簡保の資金で既得権益を持っていたりするからだ。だが、賛成する族議員はと言うと、やはり民営化した後の資金で権益を受けられる立場にあったりする。
 いずれにしても、族議員に大きな顔をされていては迷惑至極。
 誰がどのような事の族議員になっているかはなかなか難しい問題だが、新聞やテレビの報道で明らかにされる度に、その名前と顔をしっかりと覚えておく事から一歩が始まる。

 その議員はどこかの選挙区で選ばれて国会に出て来た訳だから、そうした議員を選んだ選挙民にその責任がある。その選挙民がその議員のやっている事に反対なら、次からは当選しないはずだ。だから次も当選するなら、族議員と選んだ選挙民は一体だ、と言う事になる。
 それで、その選挙民に対しては、心の底でしっかりと敵意を燃やすのである。
 へっへっへ。何と陰険な事よ。
 次にその敵意を機会があるごとに実際に発揮する。例えば、その選挙区の製品は絶対に買わないとか。その選挙区が観光地であっても、絶対に行かないとか。それは、選挙区のその議員を選ばなかった人にも及んでしまうが、仕方が無い。そうでもしなければ、族議員を退治する事は出来ないだろう。
 でも、特に産物も無ければ、名所も無い、と言う選挙区もある。その場合にどうするか。その選挙区の人とは付き合わないとか? もしかしたら、そうした選挙区が多いから、議員もどうしても選挙区には関係の無い利権に頼ってしまうのかも知れない。そしてどこからも怒りの鉄拳が飛んで来ないからいい気になっているのかも。となると、私の陰険なたくらみも水の泡と消えるか。

 でもね、陰険と言われようが、きちんと痛い目に遭わさないと、人は目が覚めない。自分達は都合が良いから、で日本中が馬鹿な目に遭わされるのは公平ではない。利権の多寡ではない。利権の汚さを考えるべきである。小沢の献金疑惑でも、自民党の二階堂らは金額が少ないから目こぼしを受けたのだろうが、金額の大小に目がくらむと、こうなってしまう。金持は巨額は見慣れているから、金額はどんどんエスカレートするだろう。鉄は熱い内に打て、と言うが、悪は小さい内に潰せ、である。

日本語をそんなに簡単に説明されては困ります

2009年06月24日 | 言葉
 前にもご紹介したが、東京新聞の「コトバ 言葉 知っている? 知りたい」に6月20日「容体・容態」が採り上げられた。
 二つの語は同じ意味だが、表記の揺れがあるので、新聞では「容体」に統一していると説明する。それはいい。だが「体」や「態」は一語では「たい」と読み、「だい」とは読まないのに、なぜ「ようたい」ではなく「ようだい」になるのかの説明をしており、それが非常に簡単である。以下にその説明を引く。

 理由は、二語が複合して一つの語を作る時に、下の清音が濁音に変わる連濁が生ずるからです。容体と同じように「勘所」「円建て」「三日月」「地引き」も「かんどころ」「えんだて」「みかづき」「じびき」と、下の清音が濁ります。こうした連濁は、日本固有の言葉の和語に多く見られます。

 「三日月=みかづき」ではあるが、「半月=はんつき」では連濁にはならない。「はんつき」は日本固有の言葉の和語ではない、と言われればそれまで。だが、この「日本固有の言葉の和語」がまた難しい。どれが該当するか、すぐに言える人が居るだろうか。「みかづき」は確かに和語だが、「はんつき」は漢語ではなさそうだし。「半漢半和語」とでも言うか。
 完全に漢語と分かる「両国」は、「日米両国」では「りょうこく」となり、東京の地名の「両国」では「りょうごく」となる。
 漢語では、カ行、サ行、タ行、ハ行の音に「ん」「む」「う」などが先行するとカ行、サ行、タ行、ハ行の音が濁音になるとの原則があるが、それは崩れて来ている。
 和語の場合はどうなのか。
 「山川」は「山」と「川」なら「やまかわ」だが、「山の川」なら「やまがわ」になる。「やまがわに風のかけたるしがらみは」と言う百人一首の歌もある。言葉として熟しているかどうかが一つの目安にはなるが、習慣もあるだろう。「容体・容態=ようだい」は「様態=ようたい」と区別する意味もあるのではないのか。
 京都の「上京」は「かみぎょう」だが、「左京」は「さきょう」だ。東京は「とうきょう」である。東京の「秋葉原」は「あきばはら」とはならない。熟している言葉が連濁になると言うなら、「あきば」の方が「あきは」よりずっと熟している。何しろ「秋葉=あきば」は古くからの「秋葉神社」の事なのだ。従って、熟している言葉が連濁になる訳でもない。
 連濁になる言葉のみを挙げて、連濁です、とは本当に簡単な説明だと思う。本当は「簡単」ではなく「いい加減」と言いたい。このコラムは本当に何を言いたいのか。何を説明したいのか。これで日本語に対する理解が深まるなどと思われては本当に困るのである。
 「容体・容態」が「ようたい」ではなく「ようだい」と読むのだ、との説明なら、余計な事は言わない事だ。余計な事を言うから、話が分からなくなっている。いいえ、これで私はよく分かります、と思われては困るのである。言うまでもなく、私は「連濁」がどうのこうの、と言っているのではない。ある事柄の説明をいい加減で済ます事に疑問を投げ掛けている。これで万事解決です、との安易な態度が問題だろうと言っている。

 「容体・容態」を「ようだい」と読むのは連濁現象である、とこのコラムは言うのだが、たとえそうだとしても、それならなぜこの言葉だけが連濁になるのかの説明が必要になる。ちょっと考えても、「…体・…態」で「…だい」と読む言葉を思い付かないのだ。つまり、ほかにも同じような現象があって初めて、これは連濁ですよ、との説明が出来る。もしもこれしか連濁現象が無いのなら、話は全く変わって来る。「三日月」などを出したって駄目だ。
 連濁で同じようになる「…体」を「だい」と読む言葉と「…態」を「だい」と読む言葉を大型国語辞典で検索した。CD-ROMだから完璧を期せる。結果、この条件に当てはまる言葉は「容体・容態」しか無い事が分かった。この辞典では「様態」も「ようだい」と読むとあるが、現代語の用例は無い。あるのは古典での用例だけである。だから簡単には信用出来ない。別の大型国語辞典では「様態」は「ようたい」しか無い。
 つまり「容体・容態=ようだい」は単なる連濁ではなく、特殊な読み方になる。「…体」「…態」になる言葉は数多くあるのだから、それらの一部が連濁になっても一向におかしくはないし、連濁になるのが自然である。それが全く無いのだから、「容体・容態=ようだい」は例外としか思えない。そうした事に対する思慮はこのコラムには皆無なのである。だから、これで万事解決とは行かないのである。でもホントいい加減だよねえ。

今日は旧暦の5月1日。で、暦の話をしたい

2009年06月23日 | 言葉
 今日6月23日は旧の5月1日。つまり「皐月(さつき)」である。本州中央辺りでは梅雨明けより少し先までになるが。だから「さつき晴れ」が5月の晴天ではない事は一目瞭然。「さつき晴れ」とは梅雨の晴れ間を言うのが正しい。それが「年の5番目の月=五月=皐月」となってしまったから、どうにも具合が悪い。
 だから「五月晴れ」なら本当は「ごがつばれ」と読むしか無いのである。大体、月の名前を1とか2とかで呼ぶ無粋な国は日本のほかには、韓国語や中国語、それにヒンディー語やマライ語くらいしか無いようだ。
 欧米では古代ローマに始まった「ロムルス暦」が基になっているから、そこには数字の意識は5月から10月までしか無く、1月から4月はローマ神話の神の名であった。この暦では一年は10ヶ月しか無かった。これを改めたのが「ヌマ暦」で、11月と12月を加えて一年を12ヶ月とした。この二つも神の名である。
 神の名が六ヶ月、数字が六ヶ月。それでも5月=5番目、以下10月まで続く。それが11月と12月が年の頭に回された結果、7月=5番目、8月=6番目、9月=7番目、10月=8番目、11月=9番目、12月=10番目となってしまった。
 どうですか? これでも月の名前には数字の意識があると思いますか?

 だから、月の名前には数字の意識は無くなった。あるとすれば、非常に複雑な事が出来る事になる。9番目の月だと思いながら、7番目だと認識出来る訳だ。だからそんなはずが無い。
 更には、カエサルが7月に自分の名前を付け、アウグストゥスも8月に自分の名前を付けたので、残るのは9月=7から12月=10までだけになった。
 数字の意識が無い証拠には、欧米各国での数の呼び方はかなり変化しているのに、これらの月の名前はほとんど変化していない。

 何番目の月か、は、「ああもう半年過ぎたのか」などと考える場合には役に立つ。しかしそれ以外にはあまり役に立ってはいない。日本語での数字の月名にしても、今では「ごがつ」の語感に「5番目」は無いと思える。それよりも、「爽やかな季節」の語感の方が遥かに強いはずだ。
 だから、「ろくがつ」なら「梅雨の月」のイメージになる。それを「水無月」などとは呼べない。でも世間は平気で「6月の異名は水無月だ」と言う。これは「旧6月の異名は水無月」なのであって、現在の1月、2月などの呼び方と睦月、如月などの呼び方とは一線を画すべきである。
 ただ、これだと師走が困る。師走は年末に決まっている。考えてみれば、年の始めと終わりは人の営みを月名にしている。2月から11月は季節感を月名にしている。これがネックになる。元々、旧暦の異名なんだから、それでちっとも困りはしないのだが。欧米では9月が7で平気なんだから、1月が師走であっても良いと、私は思うのだが。
 この話、きっと難しいと思う。なぜなら、「欧米では9月が7で平気」が決して正しい言い方ではないからだ。「9」は出て来るチャンスが無いのだ。これは「英語やドイツ語ならセプテンバーが、フランス語ならセプタンブルが、イタリア語ならセッテンブレが7で平気」と言うのが正しい。そして英語ではそうはならないが、フランス語では「7=セット」で、その綴りはセプタンブルの「セプト」なのだ。イタリア語ではもう少し分かり易く、「7=セッテ」になる。だから数詞の意識があるのなら、「9の月=7」となると言うお話である。

セブンイレブンの汚い商売

2009年06月23日 | 社会問題
 新聞ではとっくに報道していたが、今日フジテレビでニュースにしていたので、改めて考えた。
 売れ残りの弁当を値引きして販売する事はまかりならん、とセブン本社側は言う。しかし売れ残りは廃棄処分にするしか無いし、それは全額店側の負担になる。その金額は1店舗当たり年間530万円にも達するのだと言う。一ヶ月当たり40万円もの自己負担を強いられて、よく経営が出来るもんだと感心してしまう。そうか、それ以上に利益が挙がっているのか。

 消費期限の切れそうな商品を大量に廃棄している光景は前にもテレビで見ている。世界中には飢えて死ぬ人も居ると言うのに、あるいは今この日本でも食べられない人々が居ると言うのに、惜しげもなく食べ物が廃棄されている。利益とか何とか考える前に、このもったいない事態を改善すべきだ。食べられる物を廃棄するなんて、食べ物に対する冒涜だ。
 それを救うのが値引き販売になる。当然である。だがセブン本社側が忌避するのは、同じ商業圏にある店同士の競争になってしまうからだ、との自分達だけの都合である。
 でもさあ、同じ商業圏に何店もの出店をさせているのはあんた達じゃないか。一人の客の行動範囲は大体決まっている。ほかの店が少しくらい安いからと言って、はるばると普段は行かない店にまで足を運ぶか? それにそうした情報はどうやって仕入れるのか。
 大体が安い値段の弁当で、値引きの違いだってそんなに大きくはないだろう。それに一つの商業圏に一つの店なら、そんな心配も要らないはずだ。そもそもはセブン本社側が店に競争意識を持たせているのではないのか。それなのに、値引きとなると、今度は逆に競争意識を排除しようとする。何とも勝手である。

 昔のセブンのCMは「セブンイレブン、いい気分」だった。いい気分なのはセブン本社側だけじゃないか。自分達は絶対に損をしない商売。こんないい商売があるもんか。安売りはブランドに傷が付くなどとおっしゃるが、コンビニのブランドなんてどれほどのものなんだ? それこそ「開いてて良かった」の世界じゃないか。

 私はけちだから、コンビニで物など買わない。それに切羽詰まった買い物などしないから、24時間開いていなくて結構。私がいつも使うのは目の前のファミリーマートで、それも宅急便と口座引き落としが出来なかった料金の支払いだけだ。とても旨い国産の赤ワインが安い値段で置いてあって、ああ、商売熱心でしかも商売上手だなあ、と感心するが、もっとずっと安い店があるので、そこで買う。
 コンビニを私が嫌いなのは、どうも寡占情況にあるようだからだ。特にセブンイレブンはイトーヨーカ堂を傘下に収めている。小さなコンビニの方が大きいスーパーの親分なのだ。理屈では言えないのだが、何かそこに不自然なものを感じてしまう。

 好きでよく行くあるスーパーは、ある醤油メーカーの製品を置いていない。取引が無いと言う。そのメーカーは業界のリーダーとも言える存在だから、多分、安売りなどには敵意を持っているのだろう、と私は勝手に判断している。そのメーカーは、これは単なる噂話に過ぎないが、社長は自社の醤油を絶対に使わない、と聞いた時から使うのをやめているから、少しも困りはしない。ほかに旨い醤油は幾らでもある。それにしても誰が考えたのか、残酷だが何かなるほどと思わせてしまうような話ではある。

 大企業の考えを私は本当に疑ってしまう。こうした問題が表面化した場合、世間は絶対にその企業に好意を持たない。それなのに、いけしゃあしゃあと自分達だけが有利な理屈を述べている。それが通ると思っている。
 つまり、庶民を相手に商売をしているにも拘らず、庶民など見てはいない。見ているのは傘下の店から挙がって来る利益だけなのだ。こうした商法が成り立って、しかも年々利益が増えているらしい事に絶望的になる。あまりにも我々庶民の物を見る力が無い事に。悔しさを簡単に忘れてしまう事に。目先の事だけに追われている事に。

「ミッドサマー」は「真夏」ではないと言うのだが

2009年06月22日 | 文化
 きのう、6月21日は夏至だった。東京新聞の「こちら編集委員室」と言うコラムに、シェークスピアの「真夏の夜の夢」は現在では「夏の夜の夢」と言うとあって、改めて、ああ、そうだったと思い知らされた。
 と言うのは私は戯曲では知らないが、メンデルスゾーンの「真夏の夜の夢」は好きで知っているから、その題名が「夏の夜の夢」になっている事は知っていた。ただこれには後述のような理由がある。
 「真夏→夏」への変更の理由が次のように書かれている。

 実は、ミッドサマーは日本でいう真夏ではなく、夏至を意味する。ならば「夏至の夜の夢」となりそうだが、散文的すぎるのか、福田恆存や小田島雄志、松岡和子らの邦訳題名は「夏の夜の夢」である。

 だが、私の持っている二冊の英和辞典では「夏至のころ、真夏」である。ミッドは「中央」の意味である。ミッドサマーは英語である。だから英国の事情を考える必要がある。そして夏至と夏は概念が違う。
 夏至は地球の運行によって決まる。だから夏至は北半球では世界中どこでも同じく6月21日ころになる。春分、秋分、冬至も同じ。だが、春夏秋冬はそれぞれの国によって異なる。もちろん、冬が夏になったり、春になったりはしないが、季節感は所によって違う。
 だから、日本では夏至と真夏は大きく異なるが、イギリスでは果たしてどうなのか。夏至は二十四節気の一つで中国から伝わったが、真夏ではない。真夏は多分、「大暑」だと言うのだろう。こうした事とイギリスを同一に考える事は出来ないはずだ。イギリスでは夏至の頃は過ごし易い季節だと、このコラムにも書いてあるが、だから「真夏」ではない、とはならない。イギリスの真夏が過ごし易い季節であって、一向におかしくはない。
 と考えたのだが、どっこい、実は戯曲の舞台はアテネ郊外の森なのだ。ではギリシアの事情を知らなくてはならないか。そんな事は無い。イギリス人達は舞台がアテネだとは思っても、それを自分達の国に置き換えて読んでいるはずだ。普通はそうだ。日本人だってそうだ。だからこそ、夏至は真夏にあらず、となったはずである。
 
 夏至は一番昼の長い日であり、当然ながら日照時間は一番長い。それが真夏と解されてもおかしくはない。ミッドサマーナイトとは、夏至の頃に行われる聖ヨハネ祭の前夜の事だと言う。この夜には色々と怪奇が起こると言い伝えられていて、この戯曲は妖精達の活躍と二組の恋人達の恋の駆け引きが絡んだ幻想的で機知に富んだ進行である。
 イギリスの事情を知らなくても、一向に構わない。イギリスの文豪がミッドサマーナイトと書いたのである。それが夏至の頃である事も彼は十分承知の上である。ミッドサマーの語感もきちんと認識している。ミッドサマーにはそれだけの理由があるはずだ。英英辞典には「夏の真ん中」「夏の一番長い日」とある。たまたまそれが夏至に当たるとは考えられないのか。
 それを夏至は真夏ではない、と一刀両断にしてしまう日本の翻訳家達の考え方が私にはまるで分からない。外国文学はきちんと外国の事情を理解して初めて分かるのではないか。時々、外国語の文体を無視して、日本語訳をしている翻訳家が居るが、疑問だ。意味だけが重要なのではないのだ。
 大学で英文学を教わったのは高村勝治氏だった。彼はヘミングウェイのあの簡潔な文体をそのまま日本語に訳して我々学生に示した。そして彼のヘミングウェイ訳はそうだった。「真夏の夜の夢」と言われて、日本では夏至の頃なんだがなあ、と疑問に思う人が果たしてどれほど居るだろうか。舞台はアテネだが、作家も読者もイギリス人なのである。そうか、イギリスでは真夏なんだ、と思って対処すれば良いだけの話ではないか。
 ただ、複雑な事にはこれを音楽にしたメンデルスゾーンはドイツ語で「夏の夜の夢」としたらしい。持っているCDはイギリスのレコード会社の手になるから、タイトルは英語である。残念ながらドイツ製の物は持っていない。ほれ見ろ、ドイツ人だって真夏とは言ってないじゃないか、とは言えない。それはメンデルスゾーンの勝手で、そこまで斟酌する必要は無い。ここでのテーマはシェークスピアの戯曲なのである。

 翻訳家の感覚も疑問だが、このコラムの編集委員の考えもまた疑問である。簡単に既成事実に迎合してしまう。「夏至」では散文的過ぎるのか、と言っているが、なに、「夏」だって十分に散文的過ぎますよ。日本語としては「真夏の夜の夢」だから幻想的な話が納得出来るのである。「夏の夜の夢」なら、単なる夏の夜に過ぎない。これは感覚的な事だから強制は出来ないが。