夏木広介の日本語ワールド

駄目な日本語を斬る。いい加減な発言も斬る。文化、科学、芸能、政治、暮しと、目にした物は何でも。文句は過激なくらいがいい。

商店街での楽しみ。つまらない事の繰り返しに人生がある

2009年01月12日 | Weblog
 近所の商店街で、たくさんある八百屋の中で、小さいが新鮮で価格も的頃な店を見付けた。そこでしょっちゅう買いに行った。当然、店の人とも顔見知りになり、今日はこれ買いなよ、などと勧められたりもする。
 そして忙しさが続き、他の物も買うので、ついついスーパーで野菜も済ませていた。しばらくしてその店に行ったら、まるで見知らぬ人のような対応である。「しばらく見なかったねえ、元気だった?」くらいの挨拶が返って来てもおかしくはない、と私は思う。
 そうか、今まで顔見知りのように思われていると感じていたのは、私の錯覚だったのか。あれは店の商売っ気その物だったのだ。それっきり、その店にはほとんど行かなくなった。そうだろう。商売っ気なら、いつだって発揮すれば良い。客に不信感を抱かせるような売り方はするべきではない。と勝手に思っている。

 全く同じような事が前にもあった。
 事務所の近くにレストランがあった。言うならば洋食屋である。そこでよく昼食を食べた。残業する時には夕食も食べた。常連になると、夕食はメニューに無い物を出してくれる事もある。嬉しい事だった。
 私が制作に関わっている月刊誌のファンだと聞いたので、毎月、雑誌が出来るたびに差し上げていた。
 昼にプールに通い始めて、プール仲間と一緒に近くの店で昼食を取る事が多くなった。そこでいつもの店には御無沙汰となる。それがずっと続いて、何となく行きにくくもなっていた。
 ある日、近所のスーパーでその店の奥さんとばったりと出会った。奥さんは店に出ている。私は旧知に会ったつもりで、当然に挨拶をした。ところが、まるで見知らぬ人を見るような顔で、ちょっと頭を下げただけ。と言うか、怪訝な面持ちにさえ見えた。はて、誰だったかしら、と。
 場所は下町、それも学生街である。気さくな所が身上である。「あら、どこかに可愛い子の居る店でも見付けたのかと思ってたのよ」くらいの挨拶をしたって罰は当たるまいに。
 その店はそのずっと前、まだ先代の御夫婦が健在の時に一度ふらりと立ち寄った事があった。当時私は医者が処方した目薬を定期的に差す必要があった。それを見て、その奥さんは、「目を悪くしているの? お大事にね」と言った。初めての客である。まあ、そんな事を言われると、人の事だ、黙って見てろ、と思う人もいるだろう。だが、私は嬉しかった。商売用のおべんちゃらを言っている顔には見えなかった。本当に心配そうな顔だったのである。そして、その後、近くに行くたびに寄るようになった。

 私は結構、店の人に覚えられてしまう。妻は、変な人だからよ、と素っ気ない。多分、普通の人とはちょっと違った事を言ったりするからだろう。それが妻に言わせれば「軽い」のである。
 スーパーのレジでも、あまり寒くない時に足元にヒーターがあったりすると、「あっ、そこ寒いんだ」などと思わず言ってしまう。するとレジ嬢は「そうなの、とても冷えるのよ」と言葉を返してくる。「いらっしゃいませ。はい、1525円です。2025円お預かりします。はい、500円のお返しです。有難うございました」だけを一日何度も何度も繰り返しているだけなんて、つまらないではないか。
 だから私は顔を覚えられる。レジに立つと、彼女はにっこりとほほえんでくれる。外で会っても挨拶をしてくれる。我々の毎日はこうした何気ない、つまらない事の積み重ねで成り立っている。ならば、その一つ一つに真剣に立ち向かわなければ本当につまらない。もちろん、そうした事をしているから、仕事にも真剣に向かえるのである。
 マニュアルにあるような事しか言えない店員なんて、やっていて張り合いが無いじゃないか。店員は、スーパーでさえ、この肉とこの肉、どこがどう違うの? と聞いたら、それこそ得意そうに説明してくれる。もらろん、人を見てそれをやる。単に商品を並べているだけのように見える店員に聞いたって無駄だ。
 でも、並べるのがとても上手い店員もいる。そうした時、私は思わず見とれていたりする。そしてついつい、口が滑る。「ホント、手際いいねえ」と。
 だから私は「軽い」のである。下手をすると馬鹿にされるのである。でも、相手がどう出ようと、私は変わるはずが無い。自分を偽って飾って生きたってつまらない。