夏木広介の日本語ワールド

駄目な日本語を斬る。いい加減な発言も斬る。文化、科学、芸能、政治、暮しと、目にした物は何でも。文句は過激なくらいがいい。

契約書と営業部員に騙されるな

2010年02月27日 | 暮らし
 借りている家の更新時期が迫って来た。例によって2年更新だが、私は本当はすぐにも今の所を出たい。と言うのは家賃が高過ぎるからだ。私の周囲に言わせれば、自分の倍じゃないか、とほとんどの人が言う。中には自分の3倍も払っているよ、と言う人さえ居る。今までは何とか貯金を下ろして支払って来たが、それも底を突いた。だから一刻も早く引っ越したい。だが、一緒に住んでいる息子の都合もある。そこで最大限6ヶ月だけ延長して欲しいと頼んだ。
 その頼みは聞き入れられ、更新料も6ヶ月分になった。ところが、契約書は2年のままである。それに6ヶ月後に契約解除をするとの解除申込書を添えて出すのだと言う。そうなると、強制的に掛けさせられている保険も2年契約の2万4千円になる。これはおかしい。
 だから、そう言った。だが、更新事務を担当している女性は保険は別会社だからそうはならない、と言う。そんなはずは無い。保険会社も同じ三井リハウスが代理店になっているのだ。
 実は賃貸借を担当していた部署から契約更新や解約の事務が別の専門の部署に近年になって移った。私はその知らせを受け取った時、いやーな予感があった。直接に交渉をしたその相手ではなく、全く無関係の部署が担当するのだ。多分、杓子定規の事務的な扱いになるんだろうなあ、と思った。そうした無慈悲な事をするためにも、無関係の部署の方がずっとやり易い事は目に見えている。
 そして保険を担当する女性から電話が入った。彼女は途中解約なら、解約返戻金が出ます、といとも簡単に言う。しかし保険の申込書には「途中解約の場合には未経過期間に応じて解約返戻金が出る場合もあります」と明確に書かれている。これは「返戻金が出ます」との意思表示にはならない。「出る場合もある」は「出ない場合の方が多い」と言う事である。それは常識だ。
 しかし彼女はそうではない、と言い張る。それなら、その旨、きちんと契約書に一筆書いてくれますか、と言うと、文章に書いてあるのだから必要が無い,と言う。あなた、日本語分かってますか、と私は言った。彼女は文章をきちんと読み取る能力が無い。それなのに、堂々と契約者に不利になる事をさもそんな事は無いかのように言う。
 結局は更新事務の部署から保険の部署に私が6ヶ月後に退去すると言う正しい情報が何も伝わっていなかった事が判明した。それにしても、6ヶ月の契約を結ぶ人間に平気で2年間の契約書を書かせ、2年分の保険料を支払わせるそのいい加減な魂胆にはあきれ果ててしまう。
 そうか、これで不動産も保険業者もやって行けるんだ。一体、陰でどれほどの人間が悔しい思いをして涙を流しているのだろうか。

フィギュアスケートを見るのが怖い

2010年02月26日 | スポーツ
 このブログは本当は25日に発信するはずだった。なのにそれを忘れてしまった。だからタイトルは「フィギュアスケートを見るのが怖かった」と言うのが正しい。
 今や冬季オリンピックでテレビは盛り上がっている。そのニュースもう見たよ、と別のチャンネルに回すと、そこでも同じシーンを放映している。変えても変えても同じシーンが追っ掛けて来る。すると、いつもは馬鹿にして見ないバラエティー番組が何と、新鮮に見える。
 私は肝っ玉がちっちゃいのだろう。興味のある種目で、日本人が出場するシーンは不安で見るのが苦痛になる。何も勝たなくても良いではないか、とは思う。何しろ、オリンピックは当初から「参加する事に意義が有る」なんだから。そこで精一杯自分の力を発揮すれば良いではないか、とは思う。でもでも、力が発揮出来ない場合がある。プレッシャーは相当なものだろうし、平常心を持ち続けるだけでも大変だと思う。だから出場出来るだけでも良いではないか、とは思うものの、やはり勝って欲しい。勝たせてあげたい。言うならば、自分勝手なのだ。
 だから白状するが、強い相手だと、失敗した時、あっ、残念、とは思うが、反面、心の隅では結構ほっとしている。そんな自分の心が許せない。
 フィギュアスケートなんかになったら、もうそれこそハラハラドキドキのしっぱなし。だから出来るだけ見たくない。でも見なかった種目で、見事に成功したと知ったなら、ああ、見ておけば良かったのに、と絶対に後悔する。だから、見事だった種目はビデオでいいから、実況と同じように全場面を見せて欲しい、などと勝手な事を考えている。
 でもみんな実に見事だし、世界一になった選手など、どうしたらあんな技を身に付ける事が出来るのかとほとほと感心してしまう。努力もあるが、天賦の才能なんだろうなあ。
 でも果敢に4回転ジャンプに挑戦した彼等に負けずに、私も仕事に挑戦しなければ。島田洋七さんは「佐賀のがばいばあちゃん」の原稿を持って、数十社も回ったとか。でも、私には数十社もの当てが無い。それに闇雲に回ってもねえ。
 それにしても、どこも認めなかった原稿を、徳間書店だけが認めた。そして現在の盛況に至っている。認めなかった理由は何か,認めた理由は何か。それが知りたい。

人は「出会う」のに「出合い頭」とは

2010年02月24日 | 言葉
 「であい・であう」の言い方がある。人と人、人と物あるいは動物、物と物。この内,「物と物」は「川の出合い」くらいしか思い付かない。あとはすべて人が主人公になる。だから「出会う」となると思うと、動物や物とのであいは「出合い」になると表記辞典は言う。それなら「であいがしら」は「出会い頭」になるかと言うと、ほとんどが「出合い頭」の用例を挙げている。たとえ車と車が「であいがしら」にぶつかったとしても、運転しているのは人間ではないか。いや、車が主人公なんだ、と言っても、それなら自転車と車の場合はどうなのか。自転車ならどうしたって人間が主人公ではないのか。
 更に表記辞典は面白い事を言う。物とのであいでも特別な感情があれば「出会い」になると。それなら「山で熊に出合ってしまったよ」と書くと、何の感情も湧かなかった事になる。怖かったのなら「熊に出会ってしまったよ」になるのだから。

 それとは別に私は「あう」に「会う」は似つかわしくない、と思っている。人々の集まりを「会合」と言うし、「会食・散会・密会」など「会」を使う言葉もあるが、どうしても「会社」の「会」との思いがある。
 理屈を言えば、「会」の旧字は「會」で、蓋のある鍋の形だと言う。文字としては「蓋+煮炊きの鍋+台座」の形である。色々な食料を集めてごった煮のような物を作るので「あつめる。あつまる。あう」の意味となるのだそうだ。
 理屈はともかくとして、私には「逢う」の方がずっとふさわしく思える。有名な古典的な映画もかつてのヒットソングも「また逢う日まで」である。これまた古いが、園まりの歌った「逢いたくて逢いたくて」が大ヒットした。「忍び逢い」は「忍び会い」ではなんとも素っ気ない。まるで仕事でこっそりと、みたいではないか。

 私の持論は「漢字は表語文字である」だ。表意に囚われ過ぎてはいけない。しかし、だからと言って表意をおろそかにして良いのだ、とは考えていない。「逢」は元々は不思議な物にあう事を言い、霊木のある山を「峰」と言うのだそうな。人が「あう」のに「不思議」は言い過ぎの感もあるが、人との出会いは不思議な縁の結果である。会社だって本当は不思議な縁による出会いなのだが、そこまでは言わない。会社は営利事業を目的とする事で、「会」の即物的な意味合いがふさわしいのだ。
 別に特別な感情なんか無くたって、私は「人に逢う」と書きたい。「人に会う」ではなんか、実利を目的としているような気がしてしまう。

22・2・22の日で企業は大もうけ

2010年02月22日 | 趣味
 先日から今日は平成22年2月22日で、2並びと喧伝されている。まあ、確かに珍しい事ではある。ある人はテレビでこの機会を逃したらあと11年先になる、と言っていたが、33年3月3日はあるだろうが、33日は無い。でもそんな事を言えば、1年2月3日にしても、2年3月4日にしても珍しいし、11年12月13日も珍しかった。これ以降は出来ないけど。
 そしてテレビでは東急電鉄が記念入場券を発売して10枚セット900円で3千セット限定が瞬く間に売り切れたと報道している。これはどこでもやっているに違いない。900円×3000=270万円。使いもしないだろう紙切れがあっと言う間に270万円。印刷費は掛かるし、紙代も要る。だが「濡れ手で粟」は間違いない。

 私も以前、開通記念入場券などを買った事がある。だが、それは引き出しの中で永眠している。今取り出してみても、ああ、そんな事もあったなあ、で終わり。先日、「何でも鑑定団」で明治時代の鉄道の乗車券を集めたのが何百万円だったかの値が付いていた。それは実際に乗った乗車券であり、中には高い一等乗車券もあったから、縦型の入場券もあったし、しかも普通は回収されて乗客の手元には残らないから貴重な資料だった。
 3千セットもある記念入場券に希少価値は無い。たかが900円で楽しめれば安いもんだが、そうやって人々を釣る商売が私には納得が行かない。今日が2並びの特別の日なら、明日はその翌日の特別の日になる。あさってはそのまた翌日の特別の日になる。そう、毎日が自分にとっては特別の日なのである。
 物を集めると言うのは一種独特の気持になる事なのではあるが、鉄道側がそんなセットを売り出さなければ、乗客は自分が取っておける何らかの乗車券で、裏に22-2-22の日付が入った物を手に入れるだけの事である。普通の切符では回収されてしまうから、一日乗車券などにすれば利用した上に手元に残る。

 まあ、平和で豊かな事の証なのだろうが、私は何と無駄な事かと思う。今私は身の回りの物を徹底的に捨てている最中だから余計にそう思う。録りためたカセットテーブ、撮りためたHi8のテーブ、DVテーブ、VHテープ、βテーブ、どんどん捨てている。中には封を切っていないテーブもあるが、今やDVDの時代だ。あまりにも進歩が速過ぎるから、使い切れない内に賞味期限が切れてしまう。そう言えば、フロッピーも大量に捨てた。今、使っていないCDディスクとMOディスクが大量に残っている。これからは買い置きはすまい。
 入場券のセットなど場所を取らないと思うが、そうした物が集まると馬鹿にならない場所取りになる。「塵も積もれば山となる」のことわざを今更ながらに身にしみて感じている。

病や信仰が「あつい」の意味は

2010年02月20日 | 言葉
 「あつい」には「熱い」系統と「厚い」系統がある。「熱い」は「暑い」と親戚関係にあり、「厚い」は「篤い」と親戚関係にある。「信仰」は「厚い」と「篤い」の両方の表記があるが、病は「厚い」の表記は無く,「篤い」だけになる。それにはきちんとした理由がある。
 「篤」は古くから「てあつい」の意味に使われ、「篤学=学業につとめる」「篤行=誠実に行う」「篤実=誠実で親切」のような熟語がある。文字の形は「竹」と「馬」の組み合わせだが、「竹」は恐らくは「竺(じく)」の省略形だろうと『常用字解』は説明する。「竺」には毒の意味があり、「馬+竹→馬+竺」で馬が苦しむ意味になると言う。そこから、「てあつい」の意味だったのが、「篤疾=重病」や「危篤=重病で死にそうな状態」のようにも使われるようになり、そちらの意味の方が強くなったようだ。
 だから「信仰が篤い」とは書きにくいのかも知れない。それなら「信仰が厚い」と書けば良いだろうと思うのだが、なぜかそうはならない。多分、「厚い」の意味をよく知らないのだろう。物体のあつみ(二つの表面の間の隔たりが大きい)意味にばかり気を取られ、もう一つの意味を忘れているに違いない。
 「厚」は「厂+日+子」から成り、「厂」は霊廟の屋根の形、「日+子」はお供えを意味している。つまり「厚」は手厚く祖先の霊を祀る意味を表し、相手に対しての思いやりが「手厚い・丁寧」の意味にも使われていた。それが物体の厚みにも使われるようになった。
 言うならば、「厚み」は「手厚い」よりずっと新参者なのだ。その新参者の方ばかりに気を取られているから、「手厚い」の意味がすっかり遠のいてしまった。だから「厚意」と言う言葉があるにも拘らず、「信仰が厚い」とは書けないのだ。これが「信仰があつい」との仮名書きになる。
 一方、「病が篤い」は「篤い」が常用漢字ではないので、やはり仮名書きになる。
 そこで、病と信仰は仲良く手をつないで「あつい」と言う事になる。
 もっとも、私はある種の宗教は「信仰が熱い」と書く方がずっと実体に合っていると思っているけれど。

自分さえ良けりゃそれでいいのか。沖縄の基地問題

2010年02月19日 | 社会問題
 沖縄の米軍基地は日本を守るために存在すると言うのが建前である。それなら、日本人全体で基地を考えるのが当然だ。それなのに、自分の所には基地は御免だ、でも沖縄でしっかりと日本を守ってもらいたい、と言う。言わないまでもすっかりその気になっている。それ以外のどんな選択肢も無いのだ。そんな勝手な事が何で許されているのか。
 多分、基地はずっと沖縄にある。だから既成事実として受け入れれば良いではないか,と考えているに違いない。既成事実がいかにおかしな事だらけだったかを考えて頂きたい。公共工事がそうだったではないか。
 日本を守るためだもの、みんなが痛みを感じて当然ではないか。痛い思いをするのは沖縄の人々でたくさん。私は嫌だよ,は許されない。
 でもみんな、薄々とは感じている。米軍基地は日本を守るためなんかじゃない事を。だからこそ、自分の住んでいる所をその犠牲にしたくはないのである。日本を守るための沖縄の立地条件とは何だろう。中国に一番近いからか。では北朝鮮に対してはどうなのか。今一番危険なのは北朝鮮ではないのか。それに弾道ミサイルの時代だ。グアムの基地からだって、日本は守れるのではないのか。
 
 私は米軍基地はアメリカの軍需産業を支えるために存在しているのだと思っている。東南アジアや中東での米軍の活動はそのためだったと思っている。ロシアが表面的には米国の敵ではなくなったように見える現在、下手をするとアメリカの軍需産業はどんどん縮小せざるを得ない。それだけはしたくない、との思いが余計に日本に集中するのではないのか。だから簡単に沖縄から引き揚げるはずが無い。
 長い事、騙され続けて来たから、その騙しがすっかり真実だと思い込んでいる。
 それに日本は国その物が自分勝手だ。憲法では戦争放棄をうたいながら、アメリカの戦争に加担している。憲法9条を褒め讃える人々に聞きたい。言う事とやる事があまりにも違い過ぎてやいませんか、と。平和とは頭で考える物ではない。この自分の肉体で感じ取る物である。ただ、この私は自分のこの体で戦争を感じた訳ではないから、あまり説得力は無いと思うけど。

「夜が明ける」と「年が明ける」の「明ける」は同じなのか違うのか

2010年02月18日 | 言葉
 「あく・あける」には「開・空・明」の三つの表記がある。言葉としては一つしか無いのに、表記が三つもある。それは言葉として意味が違う、と言う事になる。確かに「開=ひらく」「空=から」「明=あかるい」と漢字その物の意味は違う。だが、「あく・あける」の日本語にしてみれば、そのような明確な違いがあるとはとても思えない。だから「一位と二位の間があく」などでは、「開く」と書く人も居れば、「空く」と書く人も居る。私の考えでは「開く」が正しい。
 「開く」は徐々に「間」が大きくなるのだが、「空く」には最初から「間」が存在していた感じがある。「席が空く」などを考えればよく分かる。

 こうした「開く」と「空く」の微妙な違いに対して、「明く」は文字通り「明らかに」もっと大きな違いがある。「赤」と「明るい」は同語源、同じく「黒」と「暗い」は同語源。人工の明かりを持てなかった古代には、人々は夜が明るくなるのを祈る思いで待った。だから「夜が明るくなる=夜が明ける」。
 これに対して「年が明ける」は「年が明るくなる」のではない。年が改まる、だ。この「改まる」にしても元は「新た」から出来た言葉である。つまり「年が新しくなる」。そこで「明るくなる」とは大いに違う事になる。でも、夜も「新しくなる」と考えられないか。そう、夜は新しくなって朝に生まれ変わる。同じように年も新しい年に生まれ変わる。
 古代の人々は明るい朝に神の訪れを痛切に感じたに違いない。「よがあける」との言い方には神が密接に関わっている。それは新しい年にも共通する。「歳神」との言い方がある。「歳徳神」とも言うが、その年一年の福徳をもたらす神だが、『新選国語辞典』(小学館)の「五穀を守る神」が原初の形だろう。日本は農業国だったのだから。
 「夜が明ける」と「年が明ける」には神の加護を祈る共通の強い思いがある。だから「あける」の言い方になり、表記は「明ける」になる、そう私は考えている。「明けまして」だから希望が見える。

 ついでながら、「明」は「日+月」ではないらしい。「日」の本来の形は「冏(けい)」で、「窓」だと言う。漢字発生の地である中国北部は気候が厳しい。家は半地下式で窓は天窓がただ一つ。そこに月明かりが射すのを人々は神の訪れと見たのだと言う。それが「冏+月」の文字になり、「明」に変化した。
 「神明」は、だから「神+神」でもあり、「天地神明に誓う」などと言うと天地の様々な神々に誓うと言っているのだから、もしも誓いを破ればそれこそ恐ろしい事になりそうだ。みんな神様を心から信じてはいないから、平気で「天地神明に誓って」などと口走る。鳩山さんも確か口にしていたっけ。



少しでも安く、は正しいのか

2010年02月17日 | 経済問題
 生産コストを少しでも切り下げようと、海外での生産が盛んに行われている。その代表がユニクロなどの衣料品メーカーだ。聞く所によると、中国ではもう限界で、次はタイトかベトナムとかだそうだ。ユニクロの製品は確かに安い。しかし安さにも限度がある。物には見合ったコストがあるはずだ。例えば、農産物は育てた人の労働と言うコストがかかっている。更には肥料とか、光熱費とかもある。一番大きいのが労働の対価であるのは言うまでも無い。人一人が生きて行くためだから、そのコストは値切れない。
 では、中国産の野菜などは何であんなに安価なのか。そう、中国人の労働力が安く買われているからだ。でも、日本人だって中国人だって生きて行くのに必要な物は同じはずだ。いや、中国は全体のコストが安いから、生産農家のコストだって低く出来るのだ。
 でも何で? 何で全体のコストが安い国と高い国があるのか。安い国はそれなりに国内では安定しているのだろうし、高い国もそれなりに安定しているのだろう。限られた物を巡ってカネのやりとりがされている訳だから、その経済圏内でそれがうまく回っている限りにおいては、それで良い。

 つまり、コストが高い国は無駄な事をしている事になる。だってそうでしょう。買う物が高いから、自分の労働力も高く売る必要がある。そこに外国から安い物が入って来る。そうすると、その分だけカネが浮く。そのカネはどうなるか。浮いた分でまた別の物を買う。本来なら買う必要の無かった物でも買う。それは本当は無駄な 物である。カネが浮かなければ買わなかっただろうし、買わずに済んでいたはずなのだ。
 結局は、安いコストで循環をしている国を上手く利用しているに過ぎない。それは一種の搾取ではないのか。そして国外で安く作った物をそのままの安い値段で国内で売るのならまだ良いが、かなり上乗せをして売るとなると、まさに搾取以外の何物でもなくなる。
 同じように生きて働いているのに、ごく少数の人だけが金儲けを出来る訳が無い。土地が、いや資金が働いているのだ、とは言えない。何もせずに土地がカネを稼ぎ出す訳が無いし、同じく何もせずにカネがカネを稼ぎ出すはずも無い。だから、土地やカネを上手に運用しているんですよ、と言うのかも知れないが、それはやはり搾取が形を変えているに過ぎないのではないのか。

 少しでも物を安く作って、それだけ売上が増えれば、利潤も増える。そのために生産の拠点を国外に移す。しかしその結果、国内の労働力が余ってしまう。働き口を失った働き手が物を買える道理が無い。そこでせっかく作った安い物も売れなくなる。当面はそれははっきりとは目には見えないかも知れないが、その内に絶対に見えるようになる。
 一つの経済圏は価値観が同じだから成り立っているはずだ。そこにまるで別の価値観の経済圏から物が入って来れば、どうしたってバランスが崩れてしまう。極端に安い物なら、売る側の儲けになる。そんなに安くしなくても多く売れるから、儲けになる。高い物なら、買う側の損になる。ただそれだけの話だ。
 別に鎖国をせよなどと言うのではない。国際交流大いに結構。しかしそれは余っている物、足りない物の物々交換が本来の形だろう。少しでも良い物をと付加価値を加える努力は買う。だが、その付加価値はそれを作り出した人の労働の賜物なのだから、その人に帰するのは当然。何の努力も労働も無しに付加価値が高まるとしたら、そこには何らかのペテンがあるに違いない。付加価値に必要以上の価格を付ける事が出来るのも、そうしたペテンあっての事に違いない。我々はそのペテンの仕組みを見抜く必要がある。

「温かい家」と「暖かい家」は、どう違う

2010年02月16日 | 言葉
 一般的には「温かい家」は家族の心があたたかい。「暖かい家」は温度などがあたたかい。
 でも、何でそんな事をするんだ? そうすれば、一目瞭然だから。馬鹿を言ってはいけない。わずか一言ですべてを分からせる必要など全く無い。一言で分かる必要のあるのは、「有り難う」とか「御免なさい」である。そうした言葉を分からせる事をまるで考えてもいないくせに、何で「あたたかい」では分からせようと思うのか。何を言っているのかと言うと,「有り難う」は「ありがとう」と書けと言い、「御免なさい」は「ごめんなさい」と書けと言う。これらは「有り」「難い」だからその意味が分かるし、「御免」「なさい」だからその意味が分かる。
 日本語の基本的な言葉は単語としての性格が弱いから、「有り難い」は「有る」のが「難しい」だと言う事が分からない。例えば英語のサンキュー。発音はそうであっても「サンク」「ユー」とはっきり分かる。日頃からそれを見慣れているから、「サンキュー」と言われても、意味が分かる。
 しかし日本語は「有り」「難う」ではなく、「ありがとう」になってしまっている。そうなるように、仕向け られている。日頃からそれしか見ていなければ、それが「有り」「難い」だとはとても思えない。

 漢字を粗末に扱って、言葉の意味を不明瞭にしているくせに、「あたたかい」では漢字で書き分けよ、と言う。それは明確に意味あっての事なのではない。「温かい」と「暖かい」の表記があるからやっているに過ぎない。我々は「あたたかい」と言う言葉だけで、つまりは、何があたたかいのか、でその意味を明確に知る事が出来る。「人の心があたたかい」を心臓の温度が高いのだ、などと考える馬鹿は居ない。同様に「部屋があたたかい」なら、部屋の温度があたたかいのだと分かる。「あの家はあたたかい」ではそれは無理だが、それは言葉が足りないからだ。
 考えれば、そんな事はすぐに分かる。「あたたかい」一つで分かるからこそ、「あたたかい」の言い方しか無いのである。我々の先人はそうやって生きて来た。「あたたかい」一つで用が足りるから、別の言い方を作り出さなかったのだ。「あたたかい」には「ぬくい」と言う似た言葉がある。しかし、それとても「あたたかい」とは別の意味を表そうとして出来た言葉ではないはずだ。
 暖かい=物理的なあたたかさ。
 温かい=精神的なあたたかさ。
のように分ける事は出来る。だが、そうなると、「あたたいもてなしを受けた」を「暖かいもてなしを受けた」と書くと、寒い季節に部屋をあたためてもてなしてくれた、の意味になってしまう。書いた本人は「心のあたたかなもてなし」のつもりかも知れない。
 こうした事を決めるのなら、「心が暖かい」は絶対に間違いだ、と言うような事を徹底的に学習させる必要がある。そんな馬鹿な事は、やめましょうよ。「あたたかい」と言う言葉の力をもっと信じましょうよ。「あたたかい」はどのような表記をされようとも、何があたたかいのか、でその真意は分かるのだ。
 先日の「納める」と「収める」は言うならば、取るか取られるか、の大きな問題だから、その意味が違って来るのは当然だ。たとえ「おさめる」の一つの言葉しか無くても、その「おさめる」の言い方の中には人々の思いが込められている。それに比べて「あたたかい」はそのような真剣さは無い。「暖かい」にしても「温かい」に
しても、心がほんわかとする言葉なんだから、特別に意味の違いを言い立てる必要はさらさらないのである。

 こうした易しい言葉の書き分けの問題を、これからしばらく続けます。

夢の中で万葉集の言葉について考えた

2010年02月14日 | 言葉
 万葉集の歌の解釈を考え直している。幾つもの相聞歌や挽歌の中に政治的なメッセージが込められている。20年程前に韓国の女性が万葉集は朝鮮語だ、などと言って、数々の歌を朝鮮語で読み解いた。万葉仮名が朝鮮語の吏読だと言うのである。しかしながら、その読み解きは言葉の繋がりとしても珍妙で、もちろん歌にはなっていない。どうにかこうにか言葉にした、程度の代物だった。
 何よりも、彼女が吏読と称しているのが常識ではおかしい。万葉仮名は徹底的に研究されて、一覧になっている。そこで私は彼女の全4冊の著書から吏読を拾い出して一覧にした。幾つかの歌で共通して使われている吏読もあるにはあるが、多くがその歌一首のみの特別な吏読になっている。しかも我々日本人にはとうてい納得出来ない難しい用字になっている。つまり万葉集を朝鮮語で読もうとするためだけの変則的な吏読なのだ。
 落語に漢字を覚えたての男が借りた羽織を返しに来たが、留守だったので、書き置きを残した話がある。
 書き置きは「かりたはおりを七におくよ」
 借りた物を質に置くとはとんでもねえ野郎だ。
 いいや、そうじゃない。あれは「かりたはおりをたなにおくよ」と書いたんだ。
 何だと?
 そうじゃあないか。あれは「たなばた」の「たな」だ。

 こんな笑い話のような吏読が続々と登場するのだ。そして決定的な事がある。彼女の吏読を使っている韓国の研究者など一人も居ないのである。万葉集にだけ使われている吏読があるなんてある訳が無い。こうした考えは我々日本人と日本文化を侮辱する以外の何者でもない。
 しかしこの日本を貶めるような本を超一流の出版社が出して大いに売りまくった。今なおそれを信じている人も居るだろう。私もこのペテンに気が付くまで数年間も信じていた。

 私が読み直した万葉集の歌はそんな物ではない。解釈は従来通りの物が多いが、多くの人が疑問には思いながら、答を保留している歌をきちんと解釈した。その解釈では正統的に日本語と漢字を考えている。そして一冊分の原稿を仕上げた。
 先日の晩、なんだかとても疲れていて、早めに床に就いた。寝床で自分の原稿を読んで寝た。そうしたら、夢の中に原稿が出て来て、その一部に考えが足りない部分があるのに気が付いた。すぐに目が覚めたので、その夢をしっかりと覚えていた。で、床の中で考え直してみた。
 確かに、考えが足りなかった。前の考えはそのままに、その延長線上にもっと良い解釈が出来る。物事が醗酵するとはこうした事なのか。そうか、脳は常に考えているのだ。意識せずとも、脳が働いているのは知っているが、こうした作業もしているのか。雑念が無いから、純粋に考える事が出来るのだろう。

 この夢の続きがある。現在の原稿は万葉集を編んだ一人が「詠み人知らず」として真実を暴露しているのだが、それは同時に私自身でもあるのだが、その私が夢の中でオリエント急行に乗っている。何でこんな列車に乗っているんだ? と思った瞬間、夢の中でひらめいた。そうか、今度はアガサ・クリスティーの謎解きなのか。万葉集を編んだ人間ではなく、探偵が登場して謎解きをする方がもっと面白くなるのではないか。何しろ、もっと自由な推理が可能になる。
 謎を隠した人の発言なら、その謎から飛び離れた推理をするのは難しくなる。それでは無責任になってしまうからだ。実はそこに私はある種の限界を感じていた。それが限界ではなくなるかも知れない。

 夢だから筋が通る訳ではないし、目覚めた時には忘れている事が多い。けれどもこの二つの夢は夜中に目が覚めて、その夢をたどり、確認する事が出来ている。馬鹿馬鹿しい話ではあるが、私にとっては重要なヒントになっている。ただ、そのヒントを生かせるかどうかはまた別の問題だが。