夏木広介の日本語ワールド

駄目な日本語を斬る。いい加減な発言も斬る。文化、科学、芸能、政治、暮しと、目にした物は何でも。文句は過激なくらいがいい。

畠山被告に高裁で無期懲役の判決が下った

2009年03月31日 | Weblog
 死刑ではなく無期の理由は、極刑に処するだけの理由が無い、である。冗談じゃない、と私は怒り狂ってしまった。被告は自分の娘だけではなく、2軒隣の男の子まで殺害した。殺害の理由は、地域の子供を狙った犯行と思わせるためだったと言う。被告と男の子には殺人に関わる関係は何も無いのだから、自分の犯行を騙せると考えたらしい。
 そんな事を考える人間が、初犯である、計画性が無い、などのつまらない理由で死刑を免れる。つまり、立ち直る事が出来ると判決は言っている。犯行は一時の気の迷いだった、と言っている事になる。無期懲役は改悛の情ありと認められれば、十四五年経てば、たいてい出所出来ると聞いている。一審では「将来の仮釈放の判断は十分留意するように」と異例の言及をしたと言うが、そのような判決以外の事項が果たして将来において拘束力を持ち得るのか。
 厭がる娘を橋の欄干に乗せ、それを突き落とす。そんな無慈悲な事が、たとえその瞬間は錯乱状態にあったとしても、出来る。そうした錯乱状態が長く続くはずが無い。続くなら、とうてい普通の人間とは言えない。被告は錯乱状態だったとして、そこから戻り、赤の他人の犯行と見せ掛ける事を考えた。この時点で、全く錯乱とは関係が無い。冷静に計画をしている。それでも計画性が無かったと言えるのか。

 これでは、殺された方はたまらない。つまらない事で殺され、そのつまらない事が正当化されてしまう。つまり、極端に言えば、殺された事が正当と認められてしまうのである。ねえ、判事さんよ。何であんたはそんな無責任な事が出来るんだ?
 前にも書いたと思うが、この卑劣な人間が二度とこのような犯罪を犯さないと断言出来るのか。責任を持てるのか。こんな事を言うと、人間の善意を信じろと言うのかも知れない。もちろん、私は善意を信じたい。だが、この被告のような人間を目の前にして、この被告の善意を信じる事の出来る人は、はっきり言って馬鹿である。自分が殺されてみれば、それが分かるだろう。
 ねえ、これも前に言ったと思うけど、殺す側はいいよねえ。一人や二人じゃ死ななくても済むんだ。自分自身は生きて居られるんだ。でも、殺された側は二度と生き返らないんだよ。こんな不公平があるもんか。
 金銭関係の犯罪では、金を盗んだ奴が盗み得になるだろうか。人身事故を起こした運転手が損害賠償を支払うのは当たり前じゃないか。たとえ保険で賄われるとしたって、被害者に賠償金が支払われる。
 それなのに、殺された被害者は何の保障も受けられない。遺族が金を受け取ったって駄目だ。賠償するなら、命を返さなくちゃいけないじゃないか。それは現代の科学技術では出来ない。仕方が無いから、自分の命で購うのではないのか?

 殺した人間が命を捧げたって、失われた命は戻らない。そんな事は百も承知。それでも、そうでもしなければ、あまりにも不公平ではないか。せめて残った命だけでも全うさせたい、と思うのは分かる。殺した人間を殺したって何の利益も生まれない。だが、そうした考えは根本的に間違っていると私は思う。
 人間として生きると言うのは自分の責任を果たす事だ。他人の命を尊び、自分の命もまた大切にする。それが人間の生き方である。それが出来ない以上、それは人間とは呼べない。人間の皮を被った単なる生物に過ぎない。人間を殺して、単なる生物を生かす。そんな事が当たり前のように通っている。戦慄すべき事だと思う。

千葉県知事選で森田健作氏圧勝

2009年03月30日 | Weblog
 先日、政党は要らないと書いた。この千葉県知事選で、千葉県民は政党は不要だと考えた。いや、そうではない。政党は無い方がいい、と考えたのだ。そうだろう。無所属の圧勝なのだから。民主党を始めとして四党相乗りで応援した候補に36万票もの差を付けた。この差は大きい。何しろ、テレビにも出演し顔も売れている白石氏、当初自民、民主、公明の三党相乗りで擁立を模索された白石氏の得票数を上回る程の差なのである。
 投票締め切り直後に報道機関が当確を打ち出したのも当然と思える。

 でも考えてみると、前の知事の堂本氏は8年前に「無党派派旋風」で初当選した。特に知事選では政党は邪魔だ、はもっと前からの流れだったのだろう。党利党略の世界である国政と地方自治は違う。人々の生活が直接かかっている。本当は国政だって国民の生活と直に関わっている。それなのに、政治家は自分達が特殊な上等な人間だと馬鹿な思い込みをして、自由気ままにやっている。「僕達みたいに偉くなると」とうっかりと口を滑らせた国会議員が居た。彼は正直だっただけだ。
 それだけではない。国政は複雑怪奇だから、利権を利用して金儲けが出来る。だからますます国民と離れてしまう。
 こうした風潮は絶対に国政選挙の流れを変えるはずだ。とは言っても、国会議員の場合、この森田氏のような無所属で全面的に信頼を置ける人が居ない。望むらくは、菅直人氏のような人々が政党を離脱して、無所属になる事だ。先には自民党を離脱した渡辺氏のような人も居る。
 「○○党」などと名乗るとどうしたって、新党は小さくなってしまう。それに比べて「無所属」の何と大きな事か。何でも取り込める器の大きさがある。「党」と言う存在が最初にある訳ではない。一人一人の議員が「党」を作るのである。そんな事、誰だって知っている。
 だが、「党」を作ると、なぜか議員達一人一人の考え方とはどんどん離れて行ってしまう。それもまた当たり前なのだ。人はみんな一人ずつ違う。考え方もやり方も感覚もみんな違う。だから無理をしておかしな党是としての基本方針を作り上げる。それはどうしたって象徴的にならざるを得ない。具体的にそれぞれに異なる主義主張を統一するなんて出来るはずが無い。
 共通しているのはただ一つ。国民のための政治をする、と言う覚悟だけである。それだけで「党」は成り立つ。いや、そうじゃない。それだけしか無いのだから、「党」なんて要らないのだ。

 森田氏は前回の選挙で95万票をもらった、その支援に応えたいと考えたと言う。で、国会議員としての再出馬の誘いを断り続けたそうだ。そうした思いが見事に実った。国の立場で県民を守るのではなく、県の立場で県民を守る。その真っ当な考えが県民の支持を得た。森田氏も偉いが、選んだ県民も偉い。
 私は自分のすぐ隣の県だと言うのに、千葉県の事をあまり知らないし、関心もあまり持っていなかった。息子が成田空港に勤めていると言うのに。窓の外に毎晩、千葉県浦安市の「東京ディズニーランド」の花火を眺めていると言うのに。いつも乗っている地下鉄の東の終着駅は千葉県市川市にあると言うのに。しかもその駅はわずかに6駅先だと言うのに。
 自分が東京に職を得ているから、目の前の事しか見ていなかった。何しろ、新しい職を得るのは並大抵の事ではないのだ。でもこれからはもっと大きな目で見なければ。

卒業式もテレビショー化している?

2009年03月29日 | Weblog
 小学校の卒業式に参列した。自分の時の事はもちろん、息子の卒業式も記憶が無い。息子の場合は、平日だったので、妻が出たのかも知れない。いずれにしても、私には初体験に近い。そして、見事にショー化されているのに感心した。多分、卒業生の人数が少ないのも理由だろう。今回は全員で30名である。ここは特に生徒数が少ないのだが、東京の都心から電車でわずか15分足らずの所、中央区のすぐ隣の区で、この生徒数である。
 まずは、送る側が全員揃った所で、卒業生が一人一人、適当な間隔を開けて入場して来る。四、五年生がリコーダーの「歓喜の歌」の演奏で迎える。その間、参列者は拍手をしている。ゆっくりと演出効果を考えて入って来るから、時間の掛かる事。だからこちらは手が痛くなって来る。全員席に着いたらいよいよ式の始まりだ。
 壇上で一人一人が校長先生から卒業証書を受け取る。昔は「以下同文」で代表一人だけが証書を授与されたが、今は違う。あいうえお順で、最初の一人が全文を読まれるが,後は名前だけで、けれどもちゃんと一人一人校長から証書を受け取る。そして先生と職員の前で挨拶のお辞儀をして席に戻る。これまた相当な時間を要する。もっとも、これが式のメインだからそれで良い。
 卒業生がお礼の言葉を述べるのも全員参加型である。長い文章を短く区切って、それを一人ずつ、うまく繋げて大きな声で話す。重要な部分は全員だ。こうした事は何度も練習をしないと出来ない。つまり、入念にリハーサルが行われている。私の時はどうだっただろう。どうも式の練習をした覚えが無い。
 送る側も同じである。これまた一糸乱れず、である。そう言えば、立つのも座るのも本当に「一斉に」である。今の子供は器用なんだなあ、と感心してしまった。
 在校生が合唱で送ると、卒業生も合唱でそれに応える。歌も見事である。きれいにハモっている。だが、それらの歌は私に取っては初めてで、全く分からない。「蛍の光」も「仰げば尊し」も歌われない。唯一私の知っていた歌は、式の始めに歌われた国歌「君が代」だけだった。その「君が代」では誰一人歌うのを拒否するような人は居なかった。当然である。ついでながら、来賓の挨拶では、全員が壇上に飾られた国旗「日の丸」に一礼する。
 実は「仰げば尊し」で泣き出す子が居るのでは、と私は密かに楽しみにしていたのだ。目を拭っていたのは、全員でのお礼の言葉を口にしている時だった。演出とは言え、やはり心が籠っている。
 最後に、始めと同じようにして,一人一人退出する。それもまた拍手で送り出す。ホント、ずっと手を叩きっぱなしだよ。でも、あっ、こんな子もいたんだ、あれっ? まだ四年生か五年生だと思っていたのに、そうか六年生だったのか、などと思う子も居る。一人一人をじっくりと見送れるのも無駄ではない。

 そうそう、挨拶と言えば、全員が原稿の朗読である。読むのが下手な人は「申し上げます」を「申し」「上げます」と切って読んでしまう。多分、事前に目を通していなかったんだね。そんな下手な朗読で感動する訳が無い。その点、校長先生の挨拶は見事だった。きちんとご自分の言葉で心を込めた挨拶になっている。PTA会長のお母さんの挨拶も素晴らしかった。原稿は用意してあったが、ほとんどがちゃんと話になっている。
 思うに、日頃接している子供への愛情が現れる訳だ。だから来賓の挨拶は通り一遍の形だけの物になってしまう。間違えたって、つっかえたっていいじゃないか。自分の言葉で自分の心で話そうよ。そんなに長い挨拶でもないのだから。そうか、そんな簡単な事でさえ彼等は出来ないのか。それが来賓なのである。原稿を読み上げる事で、私はあなた方に何の愛情も持っていませんよ、と正直に白状してしまっている。呼ばれたから、型通りの挨拶文を作って、読んでるんですよ、と言っている。

 形は必要だ。特にこうした卒業式などでは格式高く、が求められている。それにはある程度の演出は必要だ。だが、それは式を効果的に運ぶためであって、感動を盛り上げる役割はあるが、感動を抑えるためではない。多くの場合に、形を守る事で、感動を薄くし、つまらない物にしてしまっている事に、主催者は気が付くべきである。来賓の挨拶は「ご自分のお言葉で」とお願いするべきである。上手い下手は関係無い。心が有るか無いかが重要なのだ。今、圧倒的に多いのが、下手で心の無い挨拶である。

北朝鮮のミサイルは成功すれば安全なのか

2009年03月28日 | Weblog
 北朝鮮が人工衛星と称しているのはどうもミサイルのようだ。そのミサイルの発射が失敗して、弾頭とかブースターとかが日本の領海や領土に落下したら危険で、それを撃ち落とそうとしている。その事で、28日の東京新聞のコラムは、日本の防備の手の内を明かす事になるから、つまり迎撃に失敗する事もあり得るから、業腹だが、打ち上げの成功を望むしか無い事になる、と書いている。
 えっ? と思って、何度も関連記事を読み直した。だが、どうも分からない。ミサイルとは言うまでもなく兵器である。目標に到達するように作られている。それが成功したら、太平洋上のどこかを目指しているのだろうが、そこが危険になる。公海上だから、安全だ、と言うのではあるまい。そこには航行中の船舶だってあるだろう。あるいは飛行中の航空機もある。だから、危険区域を発表しているのだ、とはならない。国連安保理決議の「ミサイル開発に関連するすべての活動停止」に反するから、中止せよと世界が言っているはずである。それなのに、発射に成功して、落下しなければ安全だと言って済ませるのだろうか。中止しないのだから、たとえ、それが成功したって、撃ち落として何が悪いか。

 東京新聞は社説で冷静な対応が望ましいと書いているが、何が冷静な対応なのか、よく分からない。私は「冷静に」撃ち落とすのが正しいのでは、と思っている。発射への反対を北朝鮮は「敵対行為」だと言い、「六カ国協議は無くなる」と脅している。そうした横暴な事を許さないために世界は一体何が出来るのか。隣国である中国やロシアはどちらかと言えば北朝鮮びいきである。アメリカだって、自国から遠く離れているから、心配などしていないだろう。「中国、ロシアなどにも協力を呼び掛け、国際社会の意向を北朝鮮に伝える必要がある」と社説は言うのだが、どうにも空念仏に聞こえてしまう。北朝鮮に伝えるって言ったって、聞く耳持たない相手にどうやって伝える事が出来るのか。そうした相手に伝えるには実力行使しか無いのではないか。

 迎撃に失敗して手の内を見せてしまったって良いではないか。それが実力ならどうしようもない。迎撃出来るかどうか分からずに居たら、我々は心配でたまらない。失敗したら、こうした野蛮国が存在している限りは、絶対に迎撃出来るような技術に達するしか無いではないか。
 私は分かっているつもりで、このニュースを読んだり見たりしていた。でも、よくよく考えると、このようにどうにもよく分からない。多分、最初から自分の頭で考えずに、ニュースをそのまま受け入れていたツケが回って来たのだと思う。ずっと受け流し続けていたんだから、急に自分で考えようたって、そうは問屋が卸さない。

政治と義について、東京新聞は語る

2009年03月27日 | Weblog
 政治と義について26日の東京新聞のコラム「筆洗」が書いている。
 「自分の分身の秘書が政治資金をめぐり逮捕、起訴されたら、責任をとって職を辞す。これが政治指導者に共通する本来の義だろう。だが民主党の小沢一郎代表は違った。政権交代の実現という義を掲げ、続投を表明した」
 ここに「政治指導者に共通する本来の義」と「政権交代の実現という義」の二つが登場している。このコラムは冒頭で『広辞苑』の説明を引き、「義とは人間の行うべきすじみち」と書いている。つまり前者は「本来の」とあるから、この「人間の行うべき筋道」であり、後者はそうではない、と言っている事になる。「人間の行うべき筋道ではない義」とは何か。そんな「義」なんて存在しない。そうでしょう。
『広辞苑』を本質的に私は信用していないから、その説明を引くのは嫌なのだが,「義」については別に間違った事を言っているとは思えないので、引用する。
1 道理。条理。物事の理にかなったこと。人間の行うべきすじみち。「義務・正義」
2 利害をすてて条理にしたがい、人道・公共のためにつくすこと。「義士・義挙・義捐金」
 この説明の「条理」がちょっと分かりにくいので、「条理にしたがい」と言われてもピンと来ない。そこで別の辞書の「条理」を見る。「話や行動の上に一本通っていなければならない筋道」。この辞書は「義」について「人間の行為のうちで、万人によってよいとされる所のもの」と簡潔に説明している。この説明を借りれば、先の「政権交代の実現という義」は「政権交代の実現という、人間の行為のうちで、万人によってよいとされる所のもの」となる。
 このような事をしなくても、政権交代が万人によって良いとされるもの、であるはずが無い。現在の政権が申し分なく良い物であれば、何も交代などしなくたって良いのである。今の政権が腐り切っているから、新鮮な正しい政権を、と交代を願うのである。
 コラムが引いた「人間の行うべきすじみち」だけでは分からない。人間の行うべき筋道なんて、考え方によっては幾通りもあり得る。コラム自身、「各様の義に戸惑うこともあろうが、最後は己の義を信じるしかあるまい」と言っている。そんな事を考えるから、「政権交代の実現」が簡単に「義」になってしまうのだ。つまり、コラムの言う「各様の義」には本来の義以外も含んでしまう事になる。で、「最後は己の義を信じる」になる。
 これって、絶対におかしいと思う。「己の義」だって、果たしてそれはどんな物なのか。これが「義=万人によって良いとされる筋道」なら話は分かる。繰り返しになるが、政権交代がそうではないし、分身の悪事に目をつぶる事がそもそもは外れている。『広辞苑』だって言ってるじゃないか。「利害をすてて条理にしたがい、人道・公共のためにつくすこと」と。
 もっとも、現在は「公共」までもが怪しくなってしまっている。電気料金を払えず送電停止になってろうそくで生活していた人がそのろうそくの火が原因で火事になり、焼死した。「公共」を標榜する電力会社は、それに対して、自治体に援助を頼み、それで料金を支払え、としか言わない。それが「公共」である。同じく公共の鉄道会社が赤字となりそうな路線をどんどん廃止してしまう。それが「公共」なのである。結局、欲を捨てなければ、「義」は成り立たないのである。

 こうやって考えてみて、先の『広辞苑』の「義」の二つの意味はおかしいと思う。「別に間違ってはいない」と早合点したのは明確に間違いだった。1と2の二つがあるのではなく、この二つは一つなのだ。「利害を捨てて条理に従い、人道・公共のために尽くすと言う人間の行うべき筋道」とするのが正しいのである。二つに分けてしまうから、「人間の行うべき筋道」と「人道・公共のために尽くす事」が別々の事と捉えられてしまうのである。そして、しつこいだろうが、「人道・公共のために尽くすのではない人間の行うべき筋道」などが登場してしまうのである。
 このコラムは、小沢代表の行動を「義」と捉えてしまった事によって、結局は曖昧な物言いになってしまった。政治資金規正法に違反していない以上、正しいのだ、と言う図々しい言い訳が通らない事は世間のみんなが知っている。今日27日の東京新聞の第一面には、小沢代表の辞任を要求する世論が66・6%に上った、と書かれている。それなのに、このコラムはその言い訳を「義」だと言っている事になる。私の読み方、間違っているだろうか。今日は旧3月1日。もっと春らしい事を書きたかったのに。

新聞の記事広告とテレビの情報番組

2009年03月26日 | Weblog
 先日、新聞の信頼度とテレビの信頼度について考えた。タイトルの新聞の記事広告とはご存じ、ほとんど一面が広告になっている記事の事である。これを普通の記事と思って読む人は居ないだろう。なぜなら、一番上の欄外に「広告」と明記してある。いや、それだけではない。全体が記事とは思えない構成になっている。広告の物欲しさがありありと見えている。広告なんだから、どうしたってそうなる。それを恥じる事はない。読む方だって物欲しさなのである。だからこそ、「広告」と銘打っているのだし、広告の役目を果たせている。
 だが、テレビは違う。私がよく見ているテレビ朝日の午前10時過ぎ。「ちい散歩」と言う街の紹介番組が15分ばかりあって、そのまま情報番組になる。出演者の一人が同じだからごく自然である。もっとも、「ちい散歩」の始まる前に、続いてどのような情報を伝えるかを知らせている。しかしそれを広告だとは一言も言っていない。まるで番組の続きのような顔をしている。
 まあ、すっかり知っているとは言えない情報だから、役に立たないとは言わない。広告の言う内容を全部知っているはずも無いのだから、役に立ちそうに思うのは当然なのだ。知らない事を知った、と謙虚に構えるなら役に立つ情報とは言えるが、買って欲しいと言うだけの広告に謙虚に応じたって意味は無い。
 
 先に記事広告は物欲しさがありありと見える、と言った。これは非難しているのではない。広告はそうであって当然である。広告が広告らしくなくて何の役に立つか。だからこそ、番組の振りをしている情報番組が汚いと言うのである。広告らしさを拭い、しかも十分に広告の役目を果たしている。
 同じような人間があちこちに居る。善人の振りをして、裏で巨額の不正な金を蓄えている。ね、あの人もそうだし、この人もそうだ。
 
 ただテレビの場合、この情報番組がごく自然に見えるのは実は別の理由がある。テレビの本来の番組自体が我々にとって本当に役に立つ情報を伝えているとは言えないからだ。この情報番組と大同小異になっている。面白おかしくしようとの魂胆が裏目に出て、番組の品位を落としている。結局は、面白おかしくして視聴者の心を掴み、それがCMに反映する。
 なんだなんだ、こうやって考えてみると、番組自体がCMが目的である事が明白に分かってしまうではないか。それはもちろん分かっていた事だが、こうありありとそうなんですよ、と言われてしまうと、むしろ興ざめしてしまうではないか。もう少し我々視聴者を巧妙に騙す事は出来ないのか。同じ騙すなら、気持よく騙してくれよ。
 ホントに騙すのが下手なんだから。そう、下手だから番組もまた下手くそなのだ。
 
 こう言うのは、何も悪口を言ってテレビに憎まれたいのではない。その反対なのだ。こんな事ばかりしていたら、それこそじり貧になりますよ、と言いたいのである。出版界がそうではないか。簡単に売れる物ばかりを狙って、心底良い物、ためになる物を売れるようにする努力を怠って来たから、今、出版界は不況だ、と言われているのだ。もちろん良心的な出版社は幾らでもある。だが、ベストセラーを作って耳目を集めるのが有名な大出版社だったりするから、どうしたって市場はそうした動向に引きずられる。
 数売れなくたって、それで採算が合えばいいではないか。最初はとんとんで、その内少しずつ利益になって行く。そうした長い目で見る商売がどうして出来ないのだろうか。
 それは当たり前なのだ。天下の大企業がそうなんだから。民営化した元国営企業がそうなんだから、そのように天下に模範を示しているのだから、仕方が無い。そして我々も長い目で見ると言う習慣を身に付けてはいない。熱し易く冷め易い。だから御し易いのである。
 
 テレビの話に戻るが、しゃべっているときにBGMのように流すあの音楽は何だ。センスは無いし、単にうるさいだけだ。大体、人がしゃべっているときにそれを邪魔するような音楽を流すなど、言語道断である。多分、関係者はそれがセンスの良さだと勘違いしているのだろう。新聞で記事の下にうっすらと色刷りで花の写真とか風景写真とかが印刷されていたら、読者はどう反応するだろうか。ああ美しい、と言って喜ぶだろうか。あるいは、全く邪魔にならずに記事が読めるのだろうか。
 朝番組のある司会者は言葉の半ばを飲み込んでしまう。口だけは動いているのだが、何を言っているのか、肝心な事がさっぱり分からない。隣に居る女性はきちんとしっかりと話すから、言語明晰。それなのに、誰も何も言わない。誰も真剣には見ていないからだ。つまりはテレビ番組とはそんな程度の物なのである。
 そうそう、例の情報番組だが、CM料金は一体どのくらいになるのだろうか。何秒かの広告でさえ莫大な金額になるはずだ。それを一つの商品で延々20分近くもやるんだから、とても払い切れない金額になる。だがそんな事は無いだろうから、多分、これはしっかりと広告を離れて一つの番組になっているはずである。繰り返しになるが、やはりテレビの番組とはこのような程度の物なのである。

寝台列車「創生計画」、出発進行?

2009年03月25日 | Weblog
 次々に姿を消して行く寝台列車を、自分達の手で新しく作り出そうと言う計画がある。とは言っても、現実にそれがJRの線路の上を走る、と言うのではない。走るか走らないかはJRの考え一つ。それは承知の上で、楽しい夢を乗せたブルートレインの具体的な姿を描こうと言うのである。
 「1年後には列車のコンセプト、運用計画も完成。あと存在しないのは、現実の寝台列車だけ―。こんな状況になっているはず。多くの人が夢を共有できれば、きっと夢は実現するはず。どしどし参加してほしい」と言う。
 「コンセプト」などとカタカナ語を使って分かりにくいのは嫌だが、こうした考え方は大いに歓迎したい。ただ、「きっと夢は実現するはず」と言っているその「夢」が「具体的な姿を描く」事なのか、一歩進んで、「どこかの路線を走る」事なのか、が上記の言い方でははっきりとは分からない。もちろん、私は後者だと思いたい。
 
 考えてもみよう。JRは今でこそJR東日本だとか西日本だとか、東海だとか言っているが、元は我々国民の財産だった。我々の税金で造った線路は今もなお健在である。JR側が勝手に取り外してしまった路線はあるが、本来は我々の物である。我々国民は怠惰な国鉄職員の働きぶりを改善して欲しい、無愛想でお役所的な対応を改めて欲しい、とは願ったが、我々の手から取り上げて欲しいなどと、これっぽっちも考えた事は無かった。
 だから、我々が新しい寝台列車の姿を描き、是非ともどこどこの線路を走らせて欲しいとお願いするのは決しておかしい事ではない。むしろ、「お願いする」のではなく、「要求する」のが正しいと私は思う。
 この記事で、提唱者の川井聡さんは次のように言っている。
 「改装しない、食堂車もない、そんな夢を売ろうとしない中で、よくぞ四割もの乗車率を維持してきたもの。そっちの方が驚きだよね」
 そう、四割もの乗車率があったからこそ、改装しない、食堂車もない、夢を売ろうとしない、商法が成り立って来たのである。そしてJRになって、所詮は、速さでは飛行機や新幹線に、安さなら夜行バスに太刀打ち出来ない以上、お荷物になるしか無い。何しろ、各社は儲けを得る事だけを第一に考えているのである。

 川井さんが寝台列車の創生計画を考え始めたのは四、五年前だと言う。海外の長距離列車のように、普通の人達が列車の旅を楽しめるような列車を実現させたい。確かにテレビで見る海外の列車は本当に楽しそうだ。日本では各会社で路線を分断し、鈍行の長距離列車はもとより、特急などもどんどん廃止して行った。残るのはブルートレインのみだった。
 そうして出した結論が実に素晴らしい。現実的であり、しかも夢がある。それは次のような物だ。
 「ごくシンプルに、寝台列車が好きだから、こんなのに乗ってみたい、こんな設備があればもっと楽しい、こんな風に使って旅をしたい、といった事から自由に発想すればいい。新しい具体像を示し、どうすれば実現出来るかを考えて行けばいい」
 こうしたアイデアを動かす原動力になるのが、次のような考え方なのだ。
 「車体の安全基準がどう、鉄道会社のやる気がどう、資金がどう。そんな現実の制約だらけの中で考えていたって、楽しいものなんて出来ない」

 現実にはJR各社はこうした制約を自らに課している。もちろん安全基準は大事だが、それが先行するのではなく、夢を描く事が先決なのだ。その夢をどうしたら安全基準に合わせられるか。資金なんて幾らでもある。毎日のように莫大な利益を挙げているのである。記事はこうした事を「まさに逆転の発想」と言うが、本当は、逆転の発想が必要なのは我々ではなく、JRなのである。「利益優先から利用者優先へ」の逆転の発想が必要なのだ。もちろん、損してまでやれ、とは言わない。そこそこに、鉄道を発展させる余力があるくらいの儲けで抑えておくべきなのである。公共の施設とはそうした物である。
 川井さんのホームベージは次の通り。
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「ターゲット」と言う言葉が嫌だ

2009年03月24日 | Weblog
 商売で客を「ターゲット」と呼ぶ。ある外食チェーンが160円のハンバーガーを復活販売すると新聞が伝えているが、その中見出しが「中高生らターゲット」である。既存の220円の肉量を約25%減らすのだそうだ。220円の75パーセントは165円。何の事は無い。値下げではなく、単に質を落としただけに過ぎない。全体に小さくすれば貧弱になるから、そうとは見えないように、中身だけ貧弱にする訳だ。もしかしたら、量が少ないようには見えないように、別の材料で水増しでもするのかも知れない。とにかく、記事には肉の量の事しか無いのである。販売は7月初旬からと言う。
 それを東京新聞は3月6日の紙面で、「肉量を抑えた低価格ハンバーガーや、四百円台の高価格ハンバーガーを順次投入すると発表した。メニューや価格の幅を広げ、新たな顧客獲得を目指す狙いだ」と書いている。

 「肉量を抑えた」とはまた巧妙な言い方もあるもんだ。「抑える」には「食い止める」とのニュアンスが強くある。従って、抑えられる側は、増えては困るような、増えるのが望ましくないような物になるのが、普通である。だから、ともすれば肉の多さで勝負しようとするが、それは肥満の原因にもなり、健康面から肉の量を「抑えるのだ」と言ったっておかしくはない。
 もちろん、記事では「肉量を減らし、コストを抑えた」と書いている。つまり、「抑えた」はこのように「コスト」に対して使うべきで、「肉量」に対してではないはずだ。
 つまらない言いがかりだと思うかも知れない。しかし記事を読んで行くと、そうではない事が分かる。

 「肉を二枚使った」ハンバーガーを340―470円で展開する。同社の既存商品は三百円前後が中心で、品質や味を重視する20―30歳代の女性が主要顧客層だった。新たに価格帯を広げることで、中高生から成人男性まで幅広い客層の取り込みを狙う。

 つまり、品質や味を重視する20―30歳代の女性顧客層よりも更に上を狙うのが、四百円台の高価格商品になる。それが成人男性層になる。そうだとすると、中高生らの立場は一体どうなるんだ? 彼等は「品質や味を重視しないので、一段落とした低価格商品」の顧客層だと言っている事にならないか。
 まさに中高生は「ターゲット」なのである。
 「ターゲット」とは、国語辞典は「あらゆるニーズに対応し、商品の販売活動で主たる購入層と考えられるもの」と説明する。だが、それは派生した意味である。元々は「目標・まと・標的」である。「目標」は別として、「まと・標的」には明確に武器による狙いの対象との意味がある。だから、「取材などのターゲットになる」などの用例が挙げられているのである。この場合の「取材のターゲット」は取材される側が喜んで、それこそ揉み手をして、と言うような情況ではない。嫌々ながらである。だからこそ、取材側は「突撃」し、それが「取材のターゲット」の表現になるのである。

 英和辞典では、
1 銃、弓などの的、標的
2 非難、嘲笑などの的
3 努力の目標、目的物
とあって、「目標」は意味の最後に出て来る。辞書が言葉の意味を重要な物から挙げている事は誰もが知っている。「ターゲット」と聞いて、的や標的の意味が思い浮かばない人は、言葉にひどく鈍感な人間である。ある種の商売人がそう知っていて使うには何も文句は言えない。どうせ彼等は人を人とは思っていないのだろうから。彼等には人は見えず、その持っている金だけしか見えないのである。
 だから、新聞やテレビがこぞって「ターゲット」などと我々を指して言う事が私はひどく嫌なのである。大体、簡単な言葉をカタカナ語にして使う人を私は信用していない。カタカナ語にして、日本語の持っているニュアンスをごまかすのに使われているからだ。
 この記事の最後、「○○社長は、あらゆるニーズに対応し、来客数を増やしたい、とした」
 辞書も同じだが,何で「ニーズ」などと言わなきゃならないんだ? 「要望」とか「要求」で十分に事足りるではないか。思うに、「ニーズ」には「必要」の意味が強い。それは「要望」や「要求」とは明らかに違う。不要でも、要望や要求は出来る。
 お分かりですね。「ニーズに応える」などと言うと、「必要な要望に応える」のニュアンスが生まれる。だから「必要なんですよ」と言いたい時にはマスコミも商売人もこぞって「ニーズ」などと言うのである。
 ついでですが、この「とした」も嫌ですねえ。何を「した」んだ? 「話をした」んですよね。あるいは「結論にした」んですよね。もちろん、「説明した」でもいい。小さな囲み記事だが、嫌な事が一杯詰まっている。

成田空港での事故でテレビの対応

2009年03月23日 | Weblog
 今朝成田空港で貨物機が着陸に失敗して炎上した。テレビ各局が報道していたが、その報道に大きな食い違いがある。民放各局の映像は火を吹く直前からの物だが、NHKのは違う。私はその時NHKのニュースを見ていた。そこでの定点カメラの映像は最初に滑走路に着いた時からの物で、三度ほどバウンドを繰り返している。その後に大きく左に横転して火が出ている。何度も繰り返して流していて、何度見ても私にはそう見えた。
 だが、民放は炎上直前が着陸だ、と言っているし、その映像しか無い。TBSでみのもんた氏が「もっと左側(進行方向に向かって、画面の左側)の映像は無いの? と聞くと、ええ、これは定点カメラの映像ですからありません、と答えている。
 えっ? それじゃあ、NHKの映像は定点カメラの物じゃないのか? そんな事は無いだろう。どちらもほとんど同じ場所からの視点に見える。
 まあ、その真偽はともかくとして、テレビは本当に限られた情報しか手に入れていないのだ、と分かる。そしてそのわずかばかりの映像を基にして、コメンテーターがそれぞれに勝手な事を言っている。見ているこちらはあーあ、かわいそうにと思ってしまう。
 この時点では、我々視聴者の方がずっと有利な場に置かれている事になる。もっとも、それはNHKも民放もどちらも見ている場合での話になるが。
 ある局のアナウンサーは、飛行機は滑走路を逸脱して、と言っておきながら、滑走路上で炎上している、などと馬鹿な事を言っている。
 別の局の司会者は、今、操縦士のコメントが入っています、などと素っ頓狂な事を口走り、隣の司会者に、元操縦士のコメントです、と訂正されている。誰もが機体が逆さまになって、ほとんど全体が真っ黒に焼け焦げ、わずかに機首の部分のみが残っている姿を見ている。そこから無事生還してコメントを述べる事など想像も付かない。
 事故は現に目の前で起こっている。放送に筋書きなどあるはずも無い。気が動転しているだろう事も想像が付く。だが、司会者はそれが仕事である。咄嗟の事に対応出来なくて、何が司会者か。この女性は、以前、東京の高速道路で空の観光バスが暴走して、壁にぶつかって止まった事故が起きた時、被害者が一人も居なかったのが幸いです、と言い、歩行者にもけが人が居なかった、と言った。
 馬鹿言っちゃ困る。高速道路に歩行者が居るか? その番組では、空からの映像を流していた。それが高架の高速道路である事は誰の目にも明らかである。バスが転落して、地上の歩行者に危険が及ぶ、と言う事故ではなかった。歩行者の全く居ない高架の高速道路で、しかも単独事故。それで歩行者がどうのこうの、と言うその考え方が分からない。
 多分、この時も実況中継で気が動転していたのだろう。それにしても、お粗末な司会者である。

 みなさん、もっと謙虚であるべきだと私は思う。そう言う私だって、限られた映像しか見ていない。だが、その映像は飛行機が降りて来て、地上に着いた瞬間からの物で、それで判断したって間違いとは言えないだろう。
 それに対して、民放各局の映像はそれしか無いのかも知れないが、火を吹く直前からの映像しか無いのである。と言うか、それしか見せてくれないのである。そんなわずかな映像で、よくも色々な事が言えるもんだ、と感心してしまう。我々は勝手な妄言を聞きたいのではない。本当に進入角度はどうだったのかとか、スピードは、とか様々な疑問があるはずだ。そうした疑問を全く無しに、限られた映像だけで想像するその魂胆の何と勇ましい事か。

新規まき直しも時には必要だ

2009年03月21日 | Weblog
 私は現在2台のマックを使っている。どちらもデスクトップ型だが、一つはSCASI接続の古い機種、もう一つはUSB接続の新しい機種。それぞれに接続する外部機器が違う。今まではキーボードの関係で、古い機種しか使って来なかった。インターネットで複雑な検索をする時などに古い機種では遅くて駄目なので、新しい機種を使う、ぐらいの使い方だった。だから困る事は無かった。データの使い回しはそれぞれにMOがあるから大丈夫だ。
 しかし嬉しい事に、新しい機種で親指シフトキーボードが使えるようになった。この事は前に書いた。そうなると、何も古い機種を遅い、重いと思いながら使う必要は無い。それこそ、サクサクと新しい機種で作業が出来る。
 そこで、古い機種のデータを全部新型に移し、古い機種を処分しようと考えた。そうすれば、2台のマックを2つのキーボードで操る面倒は無くなる。机の上もすっきりする。図体のでかい旧機種も処分出来る。ただ、万一、故障した場合が困る。この所、ほとんどマックでの仕事は無いし、自分の原稿書きくらいしか無いから、予備機の必要は無いだろうが、やはりちょっと不安もある。そうそう、もう1台の古い機種の予備機も処分出来る。周辺機器も整理出来る。これは大きなメリットだ。ただ、けちな私はあの4万5千円もしたキーボードが不要になるのが惜しい。使い慣れ、愛着のあるキーボードなのである。それにプロセッサーのアップグレードカードだって高かったぞ。
 
 大体、仕様がどんどん変わるなんて不都合極まりない。私は物持ちが良いから、言い換えればけちだから、古い物をたくさん持っている。それらがどんどん過去の物になってしまう。オーディオ・ビデオがそうだ。オーディオではLPレコードが200枚くらいあり、レコードプレーヤーも2台ある。オープンリールデッキもある。ほとんど使っていないが、捨てられない。憧れの機器だったからだ。ダブルのカセットデッキもある。これもエアチェックしたテープがたくさんある。二度と聞けない演奏もある。これなどはCDにダビングする機器は持っていないから、DVDにでも焼くしか無い。ただ、それも時間が掛かる。
 ビデオではベータ機が2台もある。VHSは2台とも、とっくに壊れて捨てた。だからVHSテープの再生が出来ない。ベータのテープはほとんどをDVDに移した。
 ビデオカメラはアナログとデジタルの2台あるが、既にデジタルでさえ過去の物になりつつある。デジタルと言ってもテープを使う物だから、現在の物とは格段に見劣りがするし、形も大きい。
 
 何でこんなに進化が速いんだ、と文句を言っても、今の若者にはそれで当然なのだ。いつまでも古い物にこだわっているのが悪い。ただ、今までにさんざん金を掛けて来ただけに簡単に処分は出来ない。このけちけち根性が諸悪の根元なのかもしれない。ちょうど、施工途中の施設が不要になったが、今までに掛けて来た金額を考えると工事の中止が出来ない、と言うのと同じだ。工事の不合理を考えれば、自分の不合理が分かる。
 
 テレビで狭小住宅の改築前と改築後を放送していた。発想を転換する事によって、同じ面積の室内が嘘みたいに広くなる。私の仕事場は、収納をすべて継ぎ足し継ぎ足しでほとんど費用を掛けずにやって来たから、ちぐはぐだし、決して有効な利用が出来ているとは言えない。これを一度全面的にやり直せば、収納は今の倍くらいにはなる。図面を書いて、計算して、室内を合理的に設計したら、それが可能だと分かった。
 今全面的にやり直すのは無理だが、仕事も減っている事だし、引っ越しを機会に新しくしたい。合理的に使えば、4部屋必要だったのが3部屋で済む事も考えられる。そうであれば、移転先の選択肢も増えると言う訳だ。
 
 何よりも発想の転換が必要なのだが、転換が必要なのは私一人ではない。日本人全体が発想の転換を必要としている。