夏木広介の日本語ワールド

駄目な日本語を斬る。いい加減な発言も斬る。文化、科学、芸能、政治、暮しと、目にした物は何でも。文句は過激なくらいがいい。

カネを出せ、でも口は出すな、と東電は言う

2012年03月30日 | 社会問題
 東電への援助で政府は東電の「議決権比率」の75%を占める事になるそうだ。つまり、事実上の国営になる。しかし東電はそうはさせじと、議決魂の無い特別な株を組み合わせると言う。そんな巧妙なやり方があるとは知らなかったが、その東電のやり口を知って、みすみす我々の税金を渡す訳には行かない。
 東電の真実の姿を表現出来る言葉が見付からない。

・ぬすっと(盗人)たけだけしい=悪事や不義理などで良くない事をしていながら、かえって居直ったり、他を責めたりして極端にずうずうしい。
・盗人に追い銭=損の上の損のたとえ。
・居直り強盗=空き巣やこそ泥が、家人に見付けられて急にすごんで強盗になる。

 支援総額は3兆5千億円にも膨らむと言うから、とても上のような喩えでは東電の真実の姿の足元にも及ばない。
 テレビに堂々と顔をさらし、寝言のような「たわけ」をしゃべっているあの西沢社長と言うのは、一体人間なのか、と思ってしまう。いくら「背に腹は代えられぬ」とは言っても、社員は恥ずかしいだろうし、家族はさぞかし肩身が狭かろう。
 社員達を恥ずかしい目に遭わせても、社長自らも恥ずかしい姿を晒しても、それでも旨みのある「商売」はやめられない。
 もっとも、真人間に戻ろうとしても、そうはさせじとする黒幕達が居る。黒幕だから陰に隠れて旨い汁が吸える。黒幕がどう言う連中かはメディアは分かっているはずだ。

 新会長のなり手が居ないのを、経営者の一人が次のように言っているそうだ。

 飛ぶかどうか分からない飛行機に乗って、飛ばしてみろと言われているのと同じ。誰もが尻込みする。

 私なら、次のように言う。

 東電の陰で旨い汁を吸っている人間を退治せずに、会長になれ、と言われているのも同じ。誰もが尻込みする。

東電の大口契約者はなぜ契約を重く見ないのか

2012年03月29日 | 社会問題
 東電が自分勝手な料金値上げに卑怯な方法を採っている事は、もはや知らない人は居なくなってしまった。だからすぐにも破綻させて、国家権力が介入すべきだと考えるのは当然の事である。長い間、「料金の値上げは企業の義務であり、権利である」と考えて来た企業に、心の底から正しい事を分からせるにはそれしか無い。

 東電がまだ契約期間の残っている大口契約者に、4月1日からは値上げ料金に従わなければならないような態度を取っているのは大問題で、しかも、東京都などには、公にしないでくれ、と頼み込んだと言うのである。とんでもない会社だ。
 ただ、契約者はもっと真剣に自分の契約条件の事を考えるべきではないのか。猪瀬副知事は、中小企業は契約の事に気が回らない事もある、と言うが、そうだろうか。コストにはねかえる電気料金を、しかも一年契約で更新して来たと言うその事実を簡単に忘れて良いのだろうか。
 私は高額の賃貸家賃を払っているから、その契約期間と契約更新時の一ヶ月分の支払いを片時も忘れた事は無い。私の場合、家賃は直接に生活費に響く。だから死活問題になる。けれども多くの企業は電気料金が上がっても、逃げ道があるのではないのか。商品あるいはサービスの値上げである。もちろん、それはこの不況下に簡単には出来るはずが無い。無いけれども、その手はあり得る。だから真剣に考えないのではないか。

 契約期間が長ければ、例えば10年契約などであれば、契約の事は念頭か去っても仕方がない。しかし一年契約なのである。企業は様々な契約を抱えて商売をしているだろう。だから、電気料金だから契約の事を忘れてしまった、とはならないと思う。

 ついでに、テレビで東電を「とおでん」と「と」にアクセントを付けて発音する人々が居る。私は確かテレビ朝日で聞いている。日本テレビ(読売テレビ)でも聞いている。ただ、フジテレビなどでは聞いた記憶が無い。
 周囲の人達に聞くと、みんな「当然」と同じような平坦なアクセントだと言う。だから関西が本拠と思われる二つのテレビ局では関西風のアクセントになるのだろうか。私は気になって仕方が無い。

東京新聞の「こちら特報部」が面白い

2012年03月28日 | 社会問題
 昨日の朝刊、見開きで、まず中央に「無謀な原発再稼働」とある。その隣はもちろん野田総理の写真。そして四角く囲んだ形で大きな見出しが並んでいる。右回りに、
・倫理の崩壊か
・代弁が「政治判断」の意味か
・本来なら刑務所に入るべき
・除染、賠償…被害者救済が先だ
・広域での反対の声、無視できない
・与野党上層部に「電力利権」議員
 これだけでほぼ内容は分かる。もちろん、それぞれの見出しのすぐそばに解説の本文記事がある。
 そして「デスクメモ」と称する「まとめ」は次のように言う。

 なぜ、野田政権が乱暴に再稼働を急ぐのかを考えた。いま決めないと、準備期間もあるので、夏に再稼働できない。となると「原発ゼロ」状態で夏を乗り切られかねない。そうすると「やっぱりいらない」世論が高まる。脱原発へ一直線だ。この流れを恐れているのだろう。逆に言えば、いまが正念場だ。

 そう、「本来なら刑務所に入るべき」は野田政権を指している。京大原子炉実験所の小出裕章助教授が次のように言っている。

 もともと想定内の事柄に対して、安全だと言っているだけで、まったく意味がない。彼らは全員〝犯罪者〟。本来なら刑務所に入れないといけない。再稼働だけでなく、原子力発電のすべてをやめるべき状況なのに、どうしてこんなことが許されるのか私にはさっぱり分からない」

 分からないのはあなただけではないのですよ。我々庶民はみんな分からない。もちろん、野田総理だって分からない。でも自分の保身を考えれば、こうするしか無い。
 この記事のすぐ左に「本音のコラム」がある。鎌田慧氏が書いている。

 国民の八割が嫌だというのに、先頭で向かってくるのは独裁者のやることです。若き日のように、駅頭に立って民の声を聞いてみたらいかがですか。

 もう民主党なんて、誰も信じちゃいない。あーあ、総選挙が楽しみだ。

全原発の停止が視野に入った

2012年03月26日 | 社会問題
 現在稼働中の北海道の1基も5月には点検に入って停止になると言う。
 やっとここまで漕ぎ着けたか、と我々は思う。だが、政府は性急に再稼働に動いているらしい。そして東京新聞は「原発依存 住民に動揺」の大きな見出しを付けている。この見出しは誤解を招く。「原発への依存が住民に動揺を与える」と思えてしまう。だが、本当は「原発に依存している住民に動揺を与える」である。

 詰まらない事が気になってしまったが、地元住民の心は複雑だ。新聞の言う通り、原発への不安と、運転停止が長引いた場合の雇用や地域経済への懸念が交錯している。原発がもたらして来た恩恵は強い依存心も植え付けており、多くの住民が現状を受け止め切れないでいる、と言うのも事実である。
 しかし、これは原発の安全神話があってこその話である。国は安全神話を作り上げ、我々を騙し続けて来た。それが分かったのだから、考え方を完全に切り替える必要がある。安全とは言い切れない原発に恩恵を受けたり、依存したりする事は、自らの死と引き換えにしても良い、くらいの覚悟が要るはずだ。

 ところが、そうはならない。
 第一には、安全とは言い切れないのと同時に、危険だとも言い切れない、との思いがある。
 第二には、たとえ危険性の方が絶対に大であると思っても、自分の地元がそうなるとは限らない、との思いがある。あるいは、自分が生きている間は大丈夫だろう、との思いがある。
 これは本当に自分勝手な考え方である。自分さえ良ければ、他の何万人もの人々が苦しんでも、構わない、と言う事になる。現に福島の多くの人々が苦しんでいると言うのに、まだ目が覚めない。

 これは単なる経済的な問題なのではない。我々の生き方の問題なのである。そうは言っても、我々が生きて行くためには、経済的な裏付けが必須である。それで、短絡的な思考が働いてしまう。私個人の事を言えば、現在、必死になって二つのアルバイトをしてどうにか食べている情況にある。私のアルバイトは人のためにはなっても、人に害を与える事は絶対に無いからやって行けるのだが、これが少しでも人に危害を与える恐れがあれば、いくら、自分が生きて行けないと思っても、何とかして別の仕事を見付ける努力を私はする。しなければ人の道にもとる。

 しかし、原発への依存はそうではない。現に福島の人々の苦難のほんの一部ではあるが、テレビで見て、新聞で読んで知っているにも拘らず、自分が加害者になる恐れがあるのを認識しようとはしない。
 では、こう考えてみてはどうだろうか。
 現在、原発で利益を受けている人々や自治体は、原発の被害が出たら、その被害者の全部の損害を補償する必要がある、とするのである。原発への依存とは、そうした事だと思う。

小学校の卒業式に出席した

2012年03月24日 | 社会問題
 毎回スタイルは同じだが、あまりにも見事に演出されているのに驚いてしまう。きちんと台本が出来ていて、表紙には「台本」と書いてある。それに従って、生徒達は何度も何度も練習をしたのだろう。会場への入って来る歩き方も、出て行くその歩き方も堂々として危なげが無い。とても小学六年生には思えないほどである。立つのも座るのも見事だし、体の向きを変えるのも本当に「一斉に」である。
 在校生に語り掛けるのも、それぞれに台詞が割り振られていて、重要な言葉は全員で繰り返す。それもまた、小さな声で聞き取りにくい子供も居るが、乱れる事が無い。

 見ていて、とても良く訓練されているのは感心するが、何となく肌寒い感じがしないでもない。北朝鮮の色々な儀式とそっくりなのである。
 卒業生全員で50人しか居ないから、一人一人に卒業証書が渡せるし、それはそれで子供の自立心に繋がるから悪い事ではない。ただ、あまりにも儀式になり過ぎている観がしなくもない。そして、この先、子供の数が増えて来たら、どうなるのだろうか、との思いもある。
 テレビを見慣れているから、誰もが演技をする事に違和感が無いのだろう。そして「仰げば尊し」も無ければ、「蛍の光」も無い。あるのは、我々年配者の知らない歌である。
 私は「仰げば尊し」で感極まって泣いてしまった、昔の卒業式が懐かしい。

嘘をつく人は勝手な思い込みをする人らしい

2012年03月21日 | 暮らし
 『平気で嘘をつく人々』(草思社)と言う本を以前に読んだ。確か、ブックオフで安かったし、草思社の本なので買った。でも私にはあまり感銘の深い内容とは思えなかったので、途中で投げ出してしまった。その中に、平気で嘘をつく人は、自らの勝手な思い込みに入り込んでしまう人だと書いてあったらしい。
 思い込みが激しくて、それに心も頭も奪われてしまっているから、現実とは違った事でも信じ込んでしまうのだ、と言う。納得が行く。
 と言うのは、私の周囲にそうした人が少なくとも四人は居るからだ。男女それぞれ二人ずつ居る。

 彼等は自分が不利だった事に関しては、非常に執念深いと言う共通性がある。二年も前の事でもしっかりと覚えている。それは当然に彼等の記憶であって、現実とは大きく違っているのだが、そうとは思っていない。だから、私には彼等が嘘をついているとしか思えない。
 私は他人とのやりとりはかなり良く覚えている方だと自分では思っている。なぜ覚えているのかと言うと、その時にきちんと論理で考えて、筋が通る、通らないで、判断をしているからだ。決して感性では判断はしない。感性ではなく論理だから、あまりぶれる事も無い。そして論理の筋を思い出せるから、自分のした事、言った事をかなり正確に思い出す事が出来る。

 ところが、彼等は違う。ほとんどの事を感性で判断しているから、前に言った事と違う事を平気で言う。そして私のした事、言った事に対して、間違った記憶をそのまま持ち続けている。四人もの男女からそうした被害を受けているから、最初はおかしな人達だなあとしか思えなかったが、そうか、勝手な思い込みの世界に入り込んでしまっているのだ、と分かれば、理解は出来る。出来るが、大きな迷惑ではある。

 そして今では自衛手段を取っている。何かと言うと、そうした人達とは大事な話はしない、である。軽い世間話だけにして置く。そして出来るだけ話に乗らない。いい加減に返事をしていれば、相手もつまらなくなって、話し掛けなくなるだろう。
 ただ、私は人と話す事が好きな性分だ。だから本を書いている。私にとって、書くのは話すのと同じなのである。沈黙を守るのはかなり辛い。私の一つの仕事は、待機時間が結構ある。そして常に三人で組んでいるから、小さな部屋で面と向かって黙っているのは不自然でもある。だから、最近は難しい本を持ち込んでいる。例えば『日本書紀』とか、である。相手はちょっと覗き込んで、ああ、これは自分の世界じゃないな、と分かるから、引っ込む。でも、日本書紀って、追究する目的がある場合には面白いが、そうではない時には非常につまらない本でもある。

原子力ムラの学者が駄目なのは、学者の体質ではないか

2012年03月20日 | 歴史
 どうも学者が体制側にくっついているのは、昔からの事で、それは生きて行く上での必須の知恵だったのではないか、とこの頃考えている。今でこそ、反体制側に居ても報酬は得られるだろうが、昔はそうではなかったと思う。
 何でこんな事を考えているかと言うと、今私が追究している万葉集と日本書紀の解釈に関係があるからだ。

 全文が漢文で書かれている日本書紀はそのままではとても難しいから、我々に易しく理解の出来るように現代語訳が出ている。その中に天智天皇の病気に関して、不審な現代語訳がある。
 「疾病弥留」を「病が重くなって」と訳している。「弥」は「弥生」のように使うが、旧暦3月の「弥生」は「いよいよ生える」が語源らしいが、「弥=久しい。いよいよ」が基本的な意味である。「留」は「とどまる。残る」の意味である。従って「弥留」は、ある状態がそのまま続いている、との意味である。「弥=いよいよ」の意味を採っても、「いよいよ残る」くらいにしかなり得ない。「いよいよ重くなる」とはならない。「弥留=重態」とはならない。

 何でこんなおかしな現代語訳になるのかと言うと、この場合の「疾病弥留」を昔から「やまいあつしれて」と読み下しているからなのだ。「あつしれて」は「熱さに痴(し)れる」で、「痴れる」は「この痴れ者め」などと言うように、「心が馬鹿になる」。つまり「あつしれて=熱でおかしくなる」。そこから「あつしる=病が重くなる」の意味として使われている。
 けれども「弥留」を「あつしる」と読む事は絶対に出来ない。「久しきに渡る」としか読めない。それなのに、漢和辞典までもが同調して「弥留=重態」だと説明している。我々は漢和辞典がそう言うなら、それは正しいと思ってしまう。そしてこの漢和辞典の説明が、実はとんでもない「食わせ物」なのであって、それを私はきちんと証明出来ているが、話が複雑になるので、ここでは割愛する。

 日本書紀の原文である漢文では天智天皇について「疾病弥留」としか言っていない。それを「重態」とするのは、実は皇后が天皇は山科で殺害された、と歌に詠んでいるからなのだ。これは万葉集に載っている。しかし日本書紀を始めとする歴史書にそんな事は全く書かれてはいない。私は、重態だとするのは、天皇は病死したのだ、と説明するためだと思っていた。それなら皇后の歌を否定出来る。皇后の歌は忠実に解釈しなくても何とかなる。実際、ほとんどの解説書が曖昧な意味の良く分からない解釈しかしていない。私は「解釈していない」のではなく、「解釈出来ない」のだと思っていた。
 しかし、そうではない事が判明した。恣意的にわざときちんと解釈していないのである。それには重大な理由が存在していた。

 実は皇后の詠んだ歌と同じような記述が歴史書である『扶桑略記』にあるのだ。私はその記述をまだ読む事が出来ていない(史料が簡単には手に入らない)が、平成2年に伊沢元彦氏が『隠された帝・天智天皇暗殺事件』(祥伝社)と言う推理小説に引用している。その記述の現代語訳は次の通り。

「天皇は馬で山科に出掛けて帰って来なかった。山林に入って亡くなった所を知らない」

 この記述の信頼性はかなり高いらしい。それはもちろん、『扶桑略記』の信頼性が高いからだろう。皇后の歌のように曖昧に解釈して済ますと言う訳には行かない。だからと言って、歴史書の記述を抹殺する訳にも行かない。しかし抹殺するのではなく、その記述を否定する事が出来る。どうするのかと言うと、天皇を重態にして置けば良いのである。重態の天皇が馬に乗って山科に行く事は不可能だ。その時の天皇の宮は山科から直線距離にして約5キロほど離れた近江の大津である。
 だから、学者は「天智天皇の病が長引いている」との記述を「天皇は重態になった」などとして、我々を騙すのである。それは日本書紀の記述だけが正しいのだ、と言う「信念」があるからだ。

 こうした「騙し」はあちこちにある。もちろん日本書紀の解釈にも万葉集の解釈にもある。一つの嘘が更に次の嘘に繋がり、結局、破綻してしまっているのだが、それでもなお足掻いている。だから無惨この上ないのだが、どうも学者達は無惨だとは思っていないらしい。辞書には、ねえ、よくそれで漢和辞典だと言えますねえ、とか、よくそれで古語辞典として通ると思えますねえ、と言いたくなるような実態がある。
 そうした事は私は以前、『こんな国語辞典は使えない』(洋泉社)で書いた。そしてその後も国語辞典について調べているし、二冊の本にもまとめているが、今の所、出してくれる出版社は無い。日本語の表記についても駄目な表記が日本語を破壊している事について本を書き、その対策も本にしてあるが、やはり出してくれる所は無い。

 原子力ムラなら、真相が公表されれば、我々にもその真実が理解出来るが、日本書紀や万葉集、そして辞典類の事になると、真相が分かったからと言って、我々が簡単に真実を理解出来るとは限らない。だから、いい加減な考え方がはびこるのである。それに多くの人が「金権がらみ」以外にはあまり興味を持ってくれない。日本文化の危機ですよ、と言っても、文化ではカネにはならない。
 「長い物には巻かれろ」の体制側に付く学者の体質が、実は日本の歴史の真実を隠し、文化を破壊してしまう結果になるのである。そうした学者の体質が原子力ムラの学者にも「正しく」伝わっているに過ぎないのである。

「脱原発」支持8割の真実

2012年03月18日 | 社会問題
 新聞の第一面の「脱原発」支持8割、を見て、そうか、分かって来たのだな、と思った。ところが、円グラフを見ると、賛成43・7%、どちらかといえば賛成35・9%なのである。賛成は半分にも満たない。
 「どちらかと言えば賛成」に私は大きな不信感を持っている。特に「脱原発」などについては、賛成・反対ははっきりと分かれると思う。脱原発なら、当面、エネルギーの不足の問題があるだろう。それは我々の暮らしに直接に跳ね返って来るだろう。原発依存なら、その心配は無いが、その代わり、いつ事故が起きるか分からないと言う不安がある。
 これは生き方として大きな問題だから、エネルギーの問題なら脱原発反対で、事故の問題なら脱原発賛成だ、などと言う考え方が出来る道理が無い。

 だから、「どちらかと言えば」には、「ねえ、どうなの? 本当にどうなの?」としつこく聞かれて、「まあ、強いて言えば」と渋々と答えている、とのニュアンスが感じられてしまう。そんな「賛成」に信頼が置ける訳が無い。そんな賛成なら、簡単に反対にもなってしまうだろう。
 「どちらかと言えば」は、普段は何も考えていない、との証でもあると思う。きちんと考えていれば、そんな曖昧な態度にはなり得ない。
 そしてそんな中途半端な考え方を入れて「支持8割」と歌い上げる事には大きな不信感が拭えない。

 そして現在停止中の原発については、「電力需給に応じて必要分だけ再稼働を認める」が54%にもなる。そんな日和見的とも言える意見があっての、脱原発賛成「43・7%」なのでもある。
 「電力需給に応じて必要分だけ」との考え方が分からない。必要と思えば必要になるし、必要ではない、と決心すれば、容易に必要ではなくなるはずである。要するに生き方の問題である。「必要分だけ」との考え方はずるずると流れに流される考え方である。どこかで、きっちりと決断しなければならないのが、今の日本の生き方ではないのか。

日本語の水準を考える

2012年03月13日 | 言葉
 何で日本語の水準なんて考えるのかと言うと、次のような情況があるからだ。

 東京新聞が兵庫県にある竹田城跡の「雲海に浮かぶ幽玄な写真」を載せて、その記事で「但馬の支配を目指した豊臣秀吉が一五八〇年に落城。」と書いたからだ。読者から、表現に違和感がある、との意見が寄せられた。

 その事について言葉の解説をしているコラムが次のように言っている。

 ご指摘の通り、文末を名詞で終わらせる体言止めを使った悪例です。辞書によると、「落城」は敵に城を攻め取られることを意味します。秀吉が落城では、どうなったのか分かりにくくなります。ここは体言止めは避け「落城させた」としなければなりませんでした。

 当然と言えば当然の事を言っている。だから私は疑問に思ったのだ。これは新聞の記事としては「基本中の基本」とも言える事だ。何よりも明確な記事を書くべき新聞がこんな馬鹿馬鹿しい失策をしている。そしてそれを堂々と謝罪している。本来なら、こんな恥ずかしい事は、他の大新聞なら多分、隠すだろう。
 何で恥ずかしいかと言うと、記事を書いた記者はともかくも、校閲は一体何をしていたのか、と言う事になるからだ。「豊臣秀吉が一五八〇年に落城。」との記事を、何らかの事情があって、校閲は見ていなかったとしか考えられない。でも、そんな事が実際にあり得るのだろうか。
 
 しかし上のような事が堂々と書かれているからには、この程度が現在の日本語の水準なのか、と考えざるを得なくなる。ただ、このコラムの文末はちょっと面白い。

 繰り返しにはなりますが、新聞では、可能な限り体言止めは避けるようにしています。今回の記事のように文章が曖昧になるためです。写真は神秘的でもいいのですが、記事が不明瞭ではどうしようもありません。

 まあ、お粗末さの言い訳にはならないけれど。それに、この記事で体言止めでも十分に用が足りる。「但馬の支配を目指した豊臣秀吉により一五八〇年に落城。」とすれば良い。
 A 但馬の支配を目指した豊臣秀吉が一五八〇年に落城させた。
 B 但馬の支配を目指した豊臣秀吉により一五八〇年に落城。

 この二つの表現で、単純に記事としてなら、Aの方がより明確だろうが、写真を説明する文章としては、私はBの方が好ましいと思う。Aは豊臣秀吉が強調され、Bは竹田城が強調される結果になるからだ。もちろん、「落城した」とすれば完璧になる。

またまた御無沙汰してしまいました

2012年03月11日 | 趣味
 今回もまたアルバイトが忙しいのと、原稿書きでブログを書く時間が取れなかった。原稿募集をしているある出版社に企画書を送ったらすぐに返事が来た。しかし、売れる自信がないので、210万円の負担を私がすれば本は出せる、と言う返事だった。出版社が売る自信がない物なら、私個人が売れる自信を持てる訳が無い。210万円ものお金があるなら、何も好き好んでアルバイトなどしたりはしない。
 前に私の本を出してくれた出版社は「本は著者が売るものです」と言う。無名の著者に本を売る事が出来る訳が無い。

 出版社は黙っていても売れる本を売りたいらしい。だから、無名の新人なんかに目もくれない。ある著名な出版社の社長がテレビに出ると言うので楽しみにして見た。だが、何の事は無い。単に売れている作家に目新しい物を書かせるだけが、その社長の狙いだった。皆さん、楽をして儲ける事しか考えていないらしい。
 こちらは寝る間も惜しんで原稿を書いていると言うのに。もっとも、それはこちらの出来が悪いだけの話であって、書ける人は楽々と書いているのだろう。

 小学館がノンフィクションのコンテストをする。4月末日が締め切りで、そこには「歴史の定説を覆す新史料などに基づく独自の考察」も対象になっている。私のは「新史料」ではないが、万葉集の歌と日本書紀を原文に忠実に解釈した「独自の考察」である。
 「だめもと」で、先の原稿を応募しようと考え直し、規定の枚数に納まるように書き直している。だから時間が幾らあっても足りない。
 そんな訳で、私の拙いブログを読んで下さっている方には申し訳ありませんが、なかなかブログが書けません。お詫び申し上げます。