夏木広介の日本語ワールド

駄目な日本語を斬る。いい加減な発言も斬る。文化、科学、芸能、政治、暮しと、目にした物は何でも。文句は過激なくらいがいい。

パソコンの進化が速いのか、私の進歩が遅過ぎるのか

2012年07月16日 | 文化
 10年ほど前に買ったMacのG4をOSX10.4で使っている。仕事にも趣味にも問題は無い。ただ、Macに添付の「ことえり」と言う日本語変換システムがとても使い難い。OSを10.6にしたら、もっと改良された「ことえり」が使えるらしいので、OSのバージョンアップを考えた。
 ところが、私のG4では10.5までしか使えない事が分かった。そしてフリーソフトなどは、ほとんどが10.6以上、となっているのである。

 パソコンなんて、ソフト次第でどうにでもなる面が多分にあると思うのだが、肝腎のOSがどうにもならないのでは、どうにもならない。パソコンがどんどん進化するのは良いけれど、そんなに進化する必要があるのか、とも思う。パソコンでやっている作業なんて、多くの人がたかが知れているだろう。
 私なんかは、文章を書くのがメインだから、何も最先端のパソコンなんかでなくても、十分に用が足りる。パソコンの進化よりも、キーボードの事をもっと考えてくれ、と言いたくなる。私のキーボードは、親指シフトキーボードで、ローマ字と同じキーに仮名文字全部が割り当てられているから、高速入力が出来る。思考を妨げる事がないので、すこぶる快適である。
 ところが、Macはそんな事はまるで考えていない。パソコンがどんなに処理が速くなっても、入力が遅ければ何にもならない。

 唯一、キーボードを考えているのが、親指シフトキーボードの産みの親である富士通で、けれども、それだって、簡単には親指シフトのパソコンは手に入らない。
 一番大事な事が抜けているよ、と私は言いたい。

 自分のパソコンが時代遅れになりつつあるのを知って、持っているソフトを見回してみた。あるある、使っていないソフトが山のようにある。中にはフロッピーディスクの物まである。CDROM付きでも、ほとんどが古いOS対応だから、まずは要らない。で、その処理をした。それらのソフトをつくづくと眺めて、時代の進化の速さを改めて感じてしまった。
 マニュアルや参考資料を含めて、45リットルのゴミ袋が一杯になってしまった。それだけの無駄な物を大切に保管していたと言う訳だ。
 そしてもう一つおまけがあった。

 「漢ぺき君」と言う漢字変換が簡単に出来るソフトがある。私の環境で使えるようにバージョンアップしてあるのだが、なぜか使えない。ずっと諦めていたのだが、改めてインストールをして、やはり使えないと分かったのだが、その時に今までずっと使いにくいと思っていた「ことえり」を一部いじったら、何と、ずっと使い易くなったのである。Macに付いている仕様書ではそうした説明が無い。
 こうやって、色々と試していると、私のMacもまだまだ現役バリバリで使えそうだ。そうなると、ウインドウズの2台ともう一台のMacの出番は無さそうである。すべてデスクトップだから、その分、部屋が広く使えるだろうが、まあ、処分はもう少し様子を見てからにしよう。

ちょっとした事で、報道の真剣さが分かってしまう

2012年07月13日 | 文化
 詰まらない事だが、報道の真剣さを考えてしまう事柄がある。
 一つは、テレビでの新聞記事の引用の赤のアンダーラインの引き方で。たまたま今朝のフジテレビの「特ダネ」だが、「。」で区切られた二つの文章にアンダーラインが引かれている。その内の途中「。」の所だけ、アンダーラインが引かれていない。「、」の部分には引かれている。そして引用の最後の「。」は引かれている。
 つまり、アンダーラインを引いた人は、途中の「。」には何の意味も認めていない、と言う訳だ。でも、「、」や「。」は文字や言葉と同等に、いや、それ以上に重要だろう。たった一つの「、」や「。」で文意が簡単に違ってしまう事が多々ある。そしてこの場合は、むしろ「、」は引かないで、「。」は引くべきなのではないのか。

 このアンダーラインで、きのうのやはり同じ番組だったと思うが、途中から始まったアンダーラインの冒頭の部分が、ボールペンによく見られる最初の出の具合が悪くて、ぼてっと、なってしまっていて、とても汚い。テレビで拡大されているから、余計に目立つ。もっと良質のボールペンを使いなさい、と言いたいし、線を引く前にきちんとインクの出具合を確かめなさい、と言いたい。
 それにしても、安易に番組が作れるんだなあ、と感心してしまう。新聞記事のそのままの引用なのだから。

 もう一つは今朝の東京新聞の「中国 したたか分断戦略」の見出しの中国と日本を含む東南アジアの地図の事である。
 問題のある国と中国とが太い矢印で結ばれている。そしてその矢印線の途中に爆弾の炸裂した形が示されていて、そこに(尖閣諸島)(スカボロー礁)(西沙・南沙諸島)と書かれている。( )内が領有権で対立している問題の箇所である。
 しかし、この矢印がおかしな所を指している。実際の場所を指しているのではなく、国名表示の所を指しているのである。だから、「日本」を指している場合には日本列島と「日本」の国名が一致しているから、爆弾マークは別として、分かる。けれども「フィリピン」の国名表示は、何と、台湾の所にある。細い線でフィリピンと結ばれてはいるが。そしてその「フィリピン」の国名表示のすぐ上に小さな●が付いていて、「尖閣諸島」とあるのだ。そして爆弾マークは(スカボロー礁)である。

 非情に分かりにくいと言うよりも、非情に馬鹿な地図なのである。もっと分かり易くするのはいとも簡単だ。
 例えば「日本」の国名は、九州と台湾の真ん中辺りに表示してそのすぐ下に●と(尖閣諸島)を示せば良い。フィリピンに対しても、同じようにする事が出来る。
 これなら太い矢印と爆弾マークと( )の場所と国名表示及びその場所が一致する。
 何でそんな簡単な事が考えられないのだろうか。パソコン上であれこれと試してみれば、一目瞭然ではないか。

 結局、アンダーラインにしても、この地図にしても、基本的な事が抜けている。こうした事を、私は「仏作って魂入れず」と言うのだと思っている。

ブログの引っ越しを考えています。
 ただ、現在のこのgooのブログは引っ越しが出来ないので、新たに始める事になります。なぜ引っ越しを考えているかと言うと、新規投稿が簡単には出来なくなりました。前はすぐに自分のブログにアクセス出来たのに、今は一回に見る事の出来るブログを最後まで送って、そこで始めてアクセスが出来ます。非能率的で困ります。そのほかにもずっと以前から不具合があるのです。まず、送信する前にどんな体裁になっているのかを見る事が出来なくなりました。続いて、コメントの管理が不便になりました。見たコメントをクローズする事が出来ないのです。

 考え中ですが、近々の内に結論を出すつもりです。本当はタイトルも変えたいのですが、「日本語ワールド」だけは残したいとも思っています。

宇宙エレベーターの夢、もっと身近にならないか

2012年07月09日 | 文化
 上空10万キロと地球を繋ぐ宇宙エレベーターの構想がある。月と地球の距離の約4分の1だそうだ。その遠さは素晴らしいが、時速250キロで約1週間掛かる。それで完成目標は2050年。もちろん、私は生きていないが、現在40代の人でもなかなか難しいだろう。
 目標とする10万キロではなく、その4分の1の2万5千キロだって凄いではないか。まあ、技術的にそれほどは変わらないのだろうが、1週間も掛からなくて済む。いや、2万5千キロでなくて、1万キロだっていいじゃないか。それでもエベレストよりも高いのだ。
 そうした施設が世界各地にある事で、人間はもっと高邁な考え方が出来るようになるのではないだろうか。

 折しも、ヒッグス粒子の存在がほぼ確実になった。宇宙の成り立ちの解明にも繋がると言う。
 それに比べて、人間の考えの何とちっぽけな事。尖閣諸島の周辺に海底資源が豊富にあると分かった途端、中国と台湾が領土権を主張し始めた。そして今回の日本政府の動きを牽制しようとしている。また野田総理も馬鹿な事をするものだ。どうも人気取り政策らしい。東京都が莫大な民間からの寄付金を集めた今頃になって、のこのこと出て来て、一体何様のつもりなのだろう。

 こんな目先の事しか見えていない連中ばかりだから、宇宙エレベーターの計画が余計に素晴らしく見えて来る。

考える事の大切さをつくづく知った

2012年06月03日 | 文化
 毎日、考え続けている事がある。もちろん、考えるのはそれだけではないが、一番中心になっているのが、万葉集の幾つかの歌の解釈についてである。今まで、曖昧にしか解釈されて来なかった幾つかの歌を、私は根本から考え直し、従来の解釈とは全く違う解釈を導き出した。よくある噴飯物の解釈などではない。
 ところが、これが切りが無いのだ。考えても考えても、次から次へと新しい発見がある。あんたの考え方が足りなかったのに過ぎないのだよ、とは言われたくない。私の「足りない考え方」自体が、すでに一流研究者の考え方を遥かに上回っているとの自信がある。

 なぜ切りのない発見があるのかと言うと、万葉集歌の時代に関しては数多くの謎があるからなのだ。一つの謎を解決して、私自身、すこし成長した。その成長した考え方で再び考えるから、新たな発見がある。そしてこれは多分、終わりが無いだろう。
 そうして考えてみると、世間には、まるで考えていないと思われるような事がたくさんある。何の進歩もないじゃないか、と思えるような事が一杯存在している。
 その典型が原発の再稼働である。
 この所、私は毎朝、東京新聞のコラム「筆洗」を同感の思いで読んでいる。きのうのコラムは、あれほどまでに大飯原発の再稼働に反対していた関西の首長達の「豹変ぶり」を嘆いている。結局、このままだと15%の節電を強いられるという現実を突き付けられて、「再稼働認めず」の理想を引っ込めた、と書いている。

 確かに15%の節電は「現実」である。しかしその現実にどのように立ち向かうかを考えるべきではないのか。投書欄などを読むと、庶民のその立ち向かい方は既に出来ている。コラムも「解せないのは首相の無抵抗ぶり。現実と切り結びつつ、原発に依存しない社会という理想に向かう工程表を描くのが先決のはずではないか」と書いている。
 野田首相は何も考えてはいないのである。
 閣僚達が省エネルックで登場した写真と記事が載っていたが、彼等が考えている事って、そんな程度の事でしかないのである。

平仮名でいろは歌を書いた皿が出土した

2012年01月20日 | 文化
 三重県の斎宮跡から、「いろは歌」を書いた皿の破片が出土した。斉宮とは斉王の居た所。斉王は、天皇に代わって伊勢神宮に祀られている天照大神(あまてらすおおみかみ)に仕える独身の皇女である。良く知られているのが、天武天皇の皇女で、持統天皇によって謀反の罪を着せられて殺された大津皇子の姉である大伯皇女(おおくのひめみこ)である。皇女の弟の死に対する悲しみの歌は、万葉集に何首も載せられていて、読む者の涙を誘う。

 出土したのは「ぬるをわか」と「つねなら」の部分で、私には「つねなら」の方はそうとは読めないのだが。この「ぬるをわか」の文字だが、「を」は今とは形が違うし、「わ」も新聞のカラー写真ではそうとは読めないが、「ぬる」はとても良く分かるし、「か」も点の部分が欠けているが、分かる。
 記事には「斎王に従って都から来た女官は教養を持っており、皿のいろは歌は、地元で採用された下級の女官が文字を覚えるために書いた可能性が高い」と書かれている。
 この言い方は、地元の下級女官は教養が無く、それでいろは歌で文字を練習したのだ、と言っている。そうでなければ、何も「都から来た女官」と「地元で採用された下級女官」などの言い方をする必要は無い。

 しかし、私にはこれらの文字の形がとても素晴らしく見える。特に「ぬるを」は素晴らしいと思う。平安時代や鎌倉時代に書かれた平仮名の和歌集の書道の手本が何冊もあるが、そこに出て来る文字と遜色が無い、と私は思う。
 私は平仮名に特別の興味を持っている。現在使われているパソコンの文字でも、平仮名の形が悪くて使いたくないフォントが幾つもある。全部が悪いのではないが、いじけていて嫌だなあ、と思える文字が幾つもある。
 だから、自分で平仮名書体を作ってみようと、平仮名の手本とされている和歌集の写本の写真を色々と調べている。

 そしてこの文字が書かれている場所にも不審がある。皿の内面の外側に「ぬるをわか」が書かれていて、外面のやはり外側、内面の外側と同じ所に、「つねなら」が書かれている。初めから「いろはにほをへとちりぬるを」と書き始めたのなら、続く「わかよたれそ」があって、その次が「つねならむ」になる。外側に「わかよたれそ」まで書いたとしても、まだ皿には余白が十分ある。それなのに、すぐ次の「つねならむ」を外側に書く、と言うのが不自然に思える。
 写真をつくづくと眺め、歌の続き具合を考えるのだが、どうにも腑に落ちない。
 そして、上に述べた「地元で採用された下級女官が文字を覚えるために書いた」に大きな不信感がある。



小学生の野外活動に付き添って考えた

2011年10月24日 | 文化
 小学一年生が近くの公園に学習で「秋を見付けに行こう」とのテーマで出掛けるのに付き添った。元貯木場だった所を大きな芝生の広場にして、所々に樹木が植えられている自然公園である。テニスコートや花壇などもあり、大人から子供まで楽しめる。学校からのコースはほとんどが川沿いの遊歩道を通るので、自転車にさえ気を付ければ安全に通行が出来る。
 子供達は川が見たいのだから、川沿いに歩かせれば良いのに、時々コースを変更して川とは反対側を歩かせたりする。後ろの先生は、何でコースを変えるのか、と不審顔である。私も不審である。そして車道沿いの歩道では、自転車通行可であれば、自転車は車道側を通行する規則だから、子供達は車道とは反対側を歩かせるのが当然なのに、それすら先生は守らない。そうした認識が無いらしい。

 さて公園で何をするかと言うと、まずは赤や黄色のきれいな落ち葉を拾う。どんぐりなども拾う。そしてノートに書く。質問は、前に来た時とどのように様子が違っているか、である。
 ところが、子供達は前に来たのがいつなのか、忘れている。出発前に答えさせたら、7月、6月、5月と分かれた。そして肝心の先生が、先生も覚えていません、あとで調べて置きます、と言うのである。
 それなのに、前に来た時と現在の様子の違いを書け、と言う。子供達が迷っているので、先生がヒントを出す。歩いている人はどうかな? 長袖を着ているね。
 でも、前にいつ来たのか覚えていないのだから、前は歩いている人がどんな服装をしていたかなんて覚えている訳が無い。運動している人はどうかな? あまりいないね。前の時だっていなかったかも知れないではないか。
 あまりにもひどい質問なので私は呆れてしまった。それに周囲の様子だって、青々とした木々ばかりで、どこがどのように違うのかなんてさっぱり分からない。せいぜい、緑の色がそれぞれに違う事くらいしか分からない。先生は、文章ではなく、絵を描いてもいいよ、と言うが、書くとしても拾った落ち葉かどんぐりの絵である。

 そうやって、1時間半ほど、なにやかやとやって、帰る事になる。子供達はどのように秋を見付けたのだろうか。これで学習になったのだろうか、と私は思う。一人の子は水筒をどこかに置き忘れてしまった。一人の子はせっかく集めた落ち葉やどんぐりの入ったビニール袋をどこかに落としてしまった。で、全員でそれを探すのかと言うと、そうではない。私達付き添いの人間が後に残って探すのである。先生と子供達は先に行って、途中の公会堂の裏庭で待っているのである。他人の落とし物を探すのも学習ではないか。
 往復も含めて2時間ちょっとの野外活動だったが、果たしてどれほどの成果があったのだろうかと、疑問になる。行き帰りの列を作って歩くのも学習である。それなのに、何度注意しても間が空いて、しょっちゅう走ってばかりいる子供達がいる。先生はほとんど注意をしない。
 私は子供達に言った。犬だってもっと上手に歩いているよ、と。すると、だって犬はリードを付けてるもん、と言う。じゃあ、君達もリードを付けて歩こうか。

 小学一年生だから、まだまだ幼稚である。でもそれに応じた教育があるだろう。秋が見付けられなかったとしても、友達の落とし物や忘れ物を一緒になって探すのは良い経験だろう。道を歩く時にはどのように注意をするのかも大切な学習である。
 先生達を見ていて、私はこれで本当に良いのだろうか、とつくづく考えてしまった。
 

長崎の平和祈念式典で、忠実な実況中継をしない馬鹿なNHKに腹が立つ

2011年08月09日 | 文化
 男女二人の高校生の司会で式典は始まった。その挨拶をしている最中に、なぜ彼等が参加する事を決めたのか、と言う裏の事情をアナウンサーが延々としゃべる。だから高校生の挨拶が聞こえない。
 式典には副詞まで原発事故の結果非難しなければならなくなった高校生も招待されていて、その高校生の事情に話が移る。更には献花をしている最中に、市長の宣言文がどのようにして作られるかの話に切り替わってしまう。今年の式典が福島の原発事故を背負って、意義が更に深くなっているのは誰もが感じているし知っている。しかしそれと祈念式典とは別だ。祈念式典ではその間に重要な事はしていないのだ、と言うのなら、馬鹿な人々が集まっているんだと言っている事にもなるし、最初っから中継などする必要は無いだろう。もちろん、こうした実況中継のやり方は毎年の事ではあるのだが。

 途中に挟んでいる話題は何も式典の最中に流さなくても、幾らでも別番組で流せる。まるで、こうした方が祈念式典がより充実するのだ、と言っているみたいだ。そう、多分、NHKはそう考えているに相違ない。馬鹿な連中である。これがNHKの啓蒙の思想なのだろう。御為ごかしもいいとこだ。
 実況中継には実況中継にしか出来ない事がある。それを無視して何が実況中継か。これで国民から強制的に視聴料を収奪しているのだから恐れ入る。

 私はこの放送を見るために今日の午前中の予定を組んだのに、馬鹿らしくなって、途中で見るのを止めてしまった。それくらい、馬鹿馬鹿しくて腹が立つ。市長や被爆者代表、そして総理大臣の平和宣言を聞きたかったのに。新聞で要旨は読めるし、いくら原稿の読み上げであって、下手な挨拶であっても、直接にそれを聞きたかった。
 テレビで唯一式典の実況をしている局がこの有様だから、民放が式典の実況をするなどとは到底実現不可能な事だろう。全国民が全世界に対して訴える重要な祈念式典なのだから、この時間帯くらいはCM収入は要らない、と完全実況中継をやるテレビ局があったって、少しもおかしくはない。それくらいの覇気や意地が無くて、何が公共のメディアか。

テレビが見られなくなった。それも良い事だ

2011年08月08日 | 文化
 居間には大型のデジタルテレビがあるから、と安心していた。で、仕事場と息子の部屋のテレビは当座はチューナーで、と考えていた。ところが、行動を起こしたのが遅かった。チューナーは既にどこの店も品切れ。従来と同じ大きさのテレビはこれまた品切れ。だからと言って中型は要らない。息子は大掛かりな事を考えていて、机と一緒に買うから、すぐには選べないなどと言っていて、結局は見られなくなった。
 仕事場では原稿を書きながらついつい見てしまうから、いっその事、無い方が良いのである。それに私はごく一部の番組しか見ない。テレビはあまりにも騒がし過ぎる。
 なぜ騒がしいのかと言うと、テレビの取り柄である映像が上手くないので、映像に頼る事が出来ない。だからどうしたって音声で迫らなければならなくなる。だからうるさい。CMなどで、音声を消してみると、何の宣伝なのかさっぱり分からない事なんてしょっちゅうある。
 テレビが始まった頃はその映像はとても魅力があったはずである。しかし徐々に魅力を失った。その理由の一つは映像の有利さに安心し切ってしまったからだろう。努力をしなかった。二つにはCMである。CMが頻繁に番組を切ってしまうから、どうしたってじっくりと見させる映像を作る事が出来にくい。たまにNHKでドラマなどを見れば、それがよく分かる。
  
 テレビが騒がしいのはもう一つ理由がある。ラジオのようには音声を大切にしなかった。ラジオは音声こそ命だから、音声を大切にして来た。しかしテレビは映像こそ命だと思い込んでいるから、音声を大切にしなかった。だから何の努力も工夫も出来ない。だからただただうるさいだけになる。
 私はもう少し静かな生活を楽しみたいと思っている。

万葉集の歌の解釈のし直しをしています

2011年05月27日 | 文化
 20年ほど前に万葉集は朝鮮語で詠まれていると言って、奇想天外な内容の歌を披露した韓国の女性が居た。タイトルは「もう一つの万葉集」。何しろ誰もが読めない有名な難訓歌を朝鮮語で読み解いたのだから、その本の白眉でもあり、本の帯にもそう書かれている。けれどもこれはとても上手い仕掛けになっている。と言うのは、難訓歌は日本語ではどうやっても読めないのだから、それを朝鮮語で読み解いても不思議ではない。そうしてその解読を納得させて、ほかのすべての歌も朝鮮語だと言う事に読者を納得させてしまったのである。
 そうした解釈の仕方が全く筋の通らない事であるのは著名な学者も証明している。ただ、私は自分自身の手でそれをやりたかった。そこから万葉集に取り組んで、その魅力に取り付かれてしまった。別に私は万葉集の研究者でないし、研究者でさえない。単に日本語が大好きな素人に過ぎない。ただ、私のブログを御覧になっていれば分かるだろうが、性格がしつこい。その持ち前のしつこさで取り組んでいる。

 今回私がしているのは、文字の読み方に不審がある歌、歌の意味が今一つ分からないのにも拘らず、専門の解説書はそれで何とも思っていない不思議な歌を対象に、自分なりに辞典を総動員して調べ直す事である。その結果、従来の解釈とはまるで違う意外な意味が現れた。そして例の難訓歌も私なりに解読が出来た。それは例の韓国人のやった、天皇の宮に拝謁に来い、でもないし、裏の意味である男性のシンボルが立ったから何度も行き来しようなどと言うエロ小説まがいの歌でもない。あるいは日本人が読み解いた、皇極天皇の弟の孝徳天皇が亡くなって、私、額田王の背子である斉明天皇が即位した、と言う単なる史実を詠んだ歌でもない。後者は特に女性の斉明天皇に対して額田王が「わが背子」と呼び掛けている日本語では考えられない無法が平気でまかり通っている。
 私の解釈は意外ではあっても、決して奇想天外ではない。きちんと言葉の意味を調べ、言葉と言葉の繋がりも考えて、出した結論にも矛盾や齟齬が無い事を確かめた結果である。

 そうして出来上がった一つの成果を原稿にして、ある出版社に一部を読んでもらった。自信作だったのだが、ものの見事に否定されてしまった。第一に文章が長くて趣旨が掴みにくい。第二に想像だけで物を言っても説得力は無い。万葉研究には多くの著作がある。関心を持つ人の理解は深いのだ。つまり、よく訳の分からない単なる想像が書かれていると判断されてしまった。
 そこで反省して書き直しを始めた。そうしたら前には気付かなかった考えの浅さや追究のし足りなかった所が出て来た。それはしっかりと追究をし直した。しつこいから、一度書き上げても更に読み直しているから、またまた考えの足りない部分が出て来る。同じ所を毎日やっていても、その度にまた新しい発見がある。
 実はそれは当然なのだ。考え方が深くなって来ているから、ある所で述べた事と、別の所で述べた事とが関連が深い事が見抜けるようになっているのである。そうなると、大幅な書き直しにもなる。文章が長くて趣旨が掴めないと言われたのは、思考の過程が長い事を指している事も分かった。そうした事も直した。

 多くの人々によって万葉集の歌の研究がなされているのは知っている。私の出した意外な歌の内容ももしかしたら既にやっている人が居て、後塵を拝する事になっているかも知れない。けれども、考え方のほとんどが同じだと言う事はあり得ないだろう。とにかく、私はしつこいのである。しつこいからこそ出来る考え方に私は自信がある。
 万葉集の解説書はもちろんの事、歴史に関する解説書なども克明に読むと、執筆者がいい加減に考えている場面に何度も出くわす。何でこんないい加減な事で済ませるのか、と疑問に思うが、学者と言う権威には素人はかなわない。冤罪事件ではないが、まるででっち上げのような結論に我々は説得させられてしまっている。
 みなさん、本当に権威には弱いのである。けれども、今回の福島の原発事故で、「権威者」達の素性がものの見事に我々に分かってしまった。もう何を言っても誰も信用などしない。卑怯にも自分だけの保身を図った事がすべて裏目に出ている。
 私の万葉の歌の解釈のし直しにはいい加減な事も曖昧な事も無いけれど、更にふんどしを締め直して、最後の仕上げに取りかかるとしましょう。結果を本としてみなさんに御覧頂ける日が来る事を夢ではないようにと切に願っております。

動物の赤ちゃんはなぜ可愛いのか

2011年05月24日 | 文化
 今、動物園は赤ちゃんラッシュらしい。自然界に餌が豊富になる季節だからだ。そしてなぜ動物の赤ちゃんは可愛らしいのか、と今朝のテレビが取り上げていた。
 その結果は、目が大きくて顔の下から3分の2の所にあり、鼻と口が小さいのだと言う。赤ちゃんはまだ食べたり、活動したりがそんなに活発ではないから、口や鼻が小さくても大丈夫なのだと言う。確かにそうなっている。でもこれは考え方が逆なのではないのか。
 動物の赤ちゃんが可愛いのは生まれてすぐに動きだし、その動作がまことにあどけない。体も小さい。そうしたすべてが可愛らしいと感じる。これはもう理屈抜きである。その赤ちゃんの顔を分析してみたら、上記のような結果になっていた、と言うような話なのではないだろうか。確かにそれは可愛らしさの要素ではあるが、それ以前に赤ちゃんの本来の可愛らしさがあるはずなのだ。そこから分析のような事が可愛らしさの理由だと言う事にもなる、といった話なのではないか。
 だから、大人の動物で顔の造作を赤ちゃん風にしてみれば分かると思う。それで果たして可愛いと感じる事が出来るだろうか。

 何だか鶏が先か卵が先かみたいな話になっているが、これは重要な事だと思う。それが先に挙げた「考え方が逆なのではないか」である。
 逆の発想をそうとは思わずにしている事が意外にも多々ある。結果が先行していて、その結果だけを見ると駄目な事でもすべてが良しとなってしまう。そしてその結果はたまたまなのであって、良しとされた条件が機能しているのではなかったりする。それが政治的な事や経済的な事でやられてしまうと、我々には大きなダメージとなるような事がある。
 赤ちゃんの可愛らしさは具体的に追究出来るから、やってみる価値はあると思う。