夏木広介の日本語ワールド

駄目な日本語を斬る。いい加減な発言も斬る。文化、科学、芸能、政治、暮しと、目にした物は何でも。文句は過激なくらいがいい。

駅のホームの拡声器は誰のためにあるのか

2010年08月27日 | 社会問題
 一昨日の仕事の帰り、またも電車がベタ遅れになっていた。けれどもそのようなアナウンスは何も無い。私がホームに到着してからも10分以上は居たと言うのに、まるで無言なのである。しかし駅員同士の連絡は頻繁にあり、それがホームにある拡声器を通して行われている。もっとも、内容は分からない。専門用語もあるし、第一明確な発音がされていない。それはいつだって同じである。乗客のための大切なお知らせであるはずなのに、言葉は極めて不明瞭なのである。多分、話す事の訓練が出来ていないのだろう。まあ、声には個性があるから仕方が無いが、聞きにくい声でがなり立てられたって分かりゃしない。
 そうしたホームでのアナウンスにそもそもは大きな欠陥があるのだが、今回はもっと重大な問題があると私は思う。ホームの拡声器は本来は乗客のためにある。駅員の仲間同士の連絡手段ではないだろう。駅員同士の連絡なら、例えば携帯電話だって良い。病院では医者や看護士、あるいは事務の人も、医療機器に影響を及ぼさないからと、一昔前のPHSを使っていると聞いている。
 当日のホームで聞こえて来たのは後続がどこどこの駅、と言う言葉である。それこそ乗客が一番知りたい事ではないか。それを乗客にはまるで知らせず、自分達の内輪だけの会話にして連絡をし合っている。根本が間違っている。

 よほど、駅長室にまで行って、何で説明してくれないのか、と聞こうと思ったのだが、そんな事をしていては家に帰るのが遅くなる。一刻も早く家に帰りたい。
 翌日に聞こうかな、とは思ったが、やはり時間の無駄だからとやめた。聞いてどうにかなる事ではない。済んだ事だからではない。改善される見込みなど無いからである。
 駅員としては列車の安全運行が一番の仕事だろう。しかしそれだって、乗客が居るからこその話である。その一番大切な乗客の事をすっかり忘れている。多分、普段からそうなので、いつもの習慣が出ただけの事に過ぎないのだろう。
 私もそうだが、自分の仕事に夢中になると、その仕事にばかり気を取られてしまう事が少なくない。何のためにその仕事をしているのか、その仕事の向こうにはどんな顔がその仕事を待っているのか、をすっかり忘れてしまう。
 だからこそ、どの職場にも責任者が居て、そうした情況にきちんと対処出来るような指示をするはずである。それが出来ていない。つまり、職場の長も単なる仕事人の一人に成り下がってしまっているのかも知れない。そうそう、ある駅では、人手が足りないもんで、と言って、駅長が車いすの世話に掛かり切りになっていた。要らない所には人手が余っていると言うのにね。
 

『日本語練習帳』を再読した

2010年08月25日 | 言葉
 以前、話題になりよく売れた『日本語練習帳』(大野晋)を読み返している。「単語に敏感になろう」と言う章では、例えば「思う」と「考える」の違いを取り上げる。すべてが納得とは言えなくても、分かり易い。次のハとガの違いの章もよく分かる。特にこのハとガは日本語の最も特徴的な使い方で、これが分かれば日本語が分かると言える。だから、学校では変な文法など教えずに、こうした事を教える方がずっと役に立つ、と言う。納得なのだが、あまりにも問題が易しい。その中に、ある例文を出して、文章の構造を解明出来るような問題がある。
 とても易しい問題である。だが、「この問題に取り組んだ方は、何回も何回もこの一つのセンテンスを読んだに違いありません」と言う文章を読んで、えっ? と思った。こんなの一読してすぐに分かるじゃないか。で、著者の「この問題に……」の文章をそれこそ、何回も読んでしまった。出て来る問題はどれもこれもとても簡単で、何でこんな問題を出さなくてはならないのだろうと、不思議になるくらいなのだ。

 ところが、「文章の骨格」と言う章になると、突然に難しい内容になる。例えば、新聞の1400字の社説を400字に「縮約」せよ、と言う問題が出る。しかも20字20行にびたりと納めなければならない。
 これは非常に難しい。至難とさえ言える。でも著書はそうは思わない。
 当然に模範解答がある。しかしなぜそうなるのかの分かり易い説明は無い。それがどんなに難しいかは、次のような例を挙げれば分かってもらえるだろう。
 その社説の中に次のような二つの文章がある。
A 職責の重さを胸に刻み、自らの言動を律する。この当たり前の姿勢を徹底させることが何よりも大切である。
B 政治権力からの不当な干渉をはねのける力量を持ち続ける。そのためにも、念には念を入れて足元を固めてもらいたい。

 著者は次のように説明する。
 AとBが述べている趣旨はほぼ同じです。Aが前にあると、それは終結部Bの結論を先取りしているわけで、むしろBの力を減殺している。Bは繰り返しという印象になる。

 私にはこれがほぼ同じ趣旨だとはとても思えない。これだけを取り出したから分からないのではない。文章全体を読んだって、分からない。Aはある検事が「自らの職名を使って、親族の税務調査に圧力をかけるような行動をした」事に対しての批判である。Bはと言うと、Bの前にそれらしき事柄は無い。ほぼ同じ趣旨だ、と言うからには、Aと同じような事柄が書いてあるはずだと思う。でも何度読んでも無い。
 そこで改めて最初から読み直す。そしてそれはあった。社説の半分より少し前に「一部の政治家らがいう『検察ファッショではないか』といった批判は、感情的で、的を射た指摘とはいいがたい」が多分、相当すると思われる。それしか私には見付ける事が出来ない。
 そして次には「400字でまとめた前問のあなたの文章を、半分の200字に要約せよ」との問題が出される。
 答の一例は確かに前問で示された400字に縮約した文章の要約になっている。しかし、誰もがそうした400字の縮約が出来る訳ではない。それはとても難しいと私は思う。
 だから、その400字を200字に要約した結果を見せられたって、一向に納得は出来ない。でも著者はまるで意に介してはいない。
 
 こうした所に、学者が書いた本の難しさがあるのだ、と私は思う。超一流の日本語学者である著者を私は尊敬申し上げている。色々な本も読んでいる。ただ、日本語の源流がインドのドラヴィダ語だったかにある、との説には納得はしていないが。そして著者が本書にも書いているが、岩波古語辞典に編者として取り組んだその熱意は買うが、動詞を終止形ではなく、連用形で見出しにしているなどは私には使いにくい。言葉の説明も全く納得、とは言えない。曖昧な説明があったり、他の二冊の古語辞典にはある、とても重要な意味がそっくり抜けているなどもあって、手放しで尊敬する訳にも行かない。

 この『日本語練習帳』にしても、『岩波古語辞典』にしても、そうそうたる人が校閲を担当しているに違いない。そうした人には、私が不満に思っているような事は思いもよらなかったのだろう。つまり、学者と学者のような人々(あるいは、学者を頭っから信じ切っている人々)が集まって本を作ると、とても難しい本が出来上がる。そしてそれが難しいとは思えない。難しいとは分からないと言うその事がどうしようも無い欠陥になるのである。
 私が校閲の立場だったら、ハとガの説明を半分に切り詰めて、文章を縮約する説明をもっと易しく展開する。こことここが重複していると具体的に示し、これは言わなくても分かる、と削り、そうした具体的な作業を通して説明する。それしかこうした作業の説明はあり得ない。
 『日本語練習帳』では学者の書いた、長くて分かりにくい文章を例を挙げて批判している。しかしそれは著者の身には及ばないのである。

 この本は1998年の刊行だ。発売と同時に買った記憶がある。で、読んだはずである。それなのに、以上に述べたような事柄の記憶がまるで無い。と言う事は、私自身、本の読み方がひどく雑だったと言う訳だ。確かに、以前は私は本を理解しながら読んではいなかった。文字を読んだだけだったのだ。だから、まるで詐欺師が書いたかのような内容の本でも納得してしまっていた。そして10年以上経って、読み返してみたら、そのあまりのひどさに驚いたのだ。
 そうした文字づらだけを読む読者は多分、圧倒的に多く居るはずだ。なぜなら、とんでもないひどい本が相変わらずベストセラーになっている。詐欺師が書いたなどとは言わないが、国内100万部突破、と帯に書いてある『7つの習慣』と言う本が、ある部署からきれいな状態でゴミとして出ていた。で、もらって読んだ。なるほどと、思える事も書いてある。特に考え方が重要だ、との点は私はどちらかと言うと消極的で否定的な考え方をしてしまいがちなので、納得出来る。
 そしてそれを具体的に展開して行くのだが,何も500ページ近くにもなる内容で展開する必要は無いのではないか、と思ってしまう。具体的と言うよりも、私にとってはどんどん分かりにくくなる感じなのである。頻繁に出て来る図表は、一見分かり易いが,私にはよく理解が出来ない。そしてやはり頻繁に現れるパラダイムと言うカタカナ語がさっぱり分からない。初出に戻って理解しても、じきに分からなくなってしまう。
 全世界では1500万部以上が売れたと言うのだから、誰もが納得したはずである。私は相当に頭が悪いらしい。そして半分ほど読んで、今は捨てる本の中に入っている。

 何だ、あんたの本の読み方ってそんなもんなのか、と言われても、私は動じない。私には何よりも具体的で分かり易い事が第一の重要事項なのである。そして言葉に騙されない。言葉が立派でも、その具体的な姿が想像出来なければ何にもならない。世間にはよく空虚な事を平気で言う人が居る。言葉に寄りかかって、その意味を考えようとはしていない。
 理屈はもちろん大切だが、その前に、感覚と言うか、感情を大切にしたいと思っている。それは私自身の人格から生まれている。だから、それがどんなに変であっても、人から批判されるような情況であっても、私にはそれしか無いのである。理屈は頭で考えられるが、感覚はそうではない。本や新聞・雑誌の記事はもっと感覚で読むべきだ、と私は思っている。もちろん、感覚を磨く事は重要で、それは理論を磨く事にもなるし、人格を磨く事にもなる、と信じている。
 

たかがキーボード,されどキーボード

2010年08月21日 | 文化
 私がブログの事をよく知らない事が分かった、と書いた。コメントを下さった方の名前をクリックするとその方のサイトに行けるなんて知らなかった。恥ずかしい。
 そしてそのサイトを拝読した。うーん、私にはとても難しい。親指シフトキーボードに関しては、私は富士通がOASYS100と言う、今から考えるととんでもないような高額の製品を売り出した時からの愛用者だから、年季が入っているのは確かである。ワーブロで3台、NECのパソコンで1台、マックで3台、ウインドウズで1台、全部で8台の親指シフトキーボードを使って来ている。それはすっかり私の指に成りきって,いや、頭に成りきってしまっているから、今更ローマ字入力は出来ない。
 で、そうした人々が決して少なくはない事を知って嬉しいのだが、彼等の頭の良さには本当にただただ感服するのみ。文筆業を生業にしているのに、技術面にも優れているとは、なんて素晴らしい能力の持ち主だろう、と羨ましくなる。私は単にキーボードのキータッチに熟達しているだけに過ぎない。理論も知識も無い。関連するブログをすべて保存してあるから、暇を見付けて挑戦したいと思っている。ただ、片仮名用語が難解で……。

 本心を言えば、キーボードなんか理屈は要らないのである。鉛筆の持ち方を初めは教わるが、一度覚えてしまえば、あとはどうと言う事は無い。HBがBになればどうの、とか、赤鉛筆はこうして使う、なんて話がある訳が無い。しかしキーボードの世界ではそうした馬鹿げた事が実在している。
 なんで無心になってキータッチだけに専念させてくれないのだろうか。ローマ字入力に慣れ切った人は、何も考えずにそのまますらすらと打てると言う。だが、私は疑っている。本人はすらすらだと思っているだろうが、脳の中では、日本語をローマ字に変換する作業をしているのではないかと。
 なぜなら、我々は日常的にはすべて漢字仮名混じりで考えている。人によって漢字が少ない人と多い人が居るくらいの違いでしかない。平仮名を打って漢字に変換するのが不自然と言えば言えるが,それだって、普段、最初から頭の中に漢字だけが出て来るとは限らないのだ。確かに易しい漢字であれば、例えば「小さい」などは「ちいさい」と考えて次に「小さい」になるのではなく、最初から「小さい」で考えている。しかし少し難しい漢字になれば、そうは行かない。「ついきゅう」なんて、平仮名で考えてから、ではこの場合はどの漢字にしたら良いのだろうか、と考えるのである。
 そうではあっても、広い意味ではすべて平仮名で考えていると言っても間違いとは言えない。決してローマ字で考えているのではない。

 そうした事を誰もが考えようとはしていない。既成の事から抜け出るのはそんなにも大変な事なのだろうか。そうではない。単に商売にはならないからやらないだけの話である。でも常用漢字を増やすなんて言う事は、商売とは関係なくやられている。だから国の仕事としてやられている。
 キーボードの事だって同じなのだ。商売抜きでしかるべき機関が考えるべき事なのである。それは絶対に日本語文化に貢献するはずである。貢献しないと思っているのは、単にローマ字入力から抜け出せない、惰性の文化で満足しているからである。
 話は違うが、私は今となっては時代遅れの速記に再び挑戦している。昔、高校生の時に通信教育を受けた。専門家になるだけの技術は習得していないが、日常的に速く書く必要がある場合にとても重宝している。本当に瞬時に書けるのである。あれっ、これはどんな文字だったか、なんて絶対に思わない。指が即座に動くのである。頭の中の考えはどんどん進んで、と言う事は、ちょっと前の事はすぐに忘れてしまう事にもなる。だから出来るだけ速やかに文字にしなければならない。それが速記なら出来る。もちろん、親指シフトキーボドでも出来る。
 これは慣れの問題ではない。もちろん、慣れは必要だが、最も大事なのは文化の問題だ、と言う点にある。

教えて下さって有り難うございます。

2010年08月19日 | 社会問題
 杉田伸樹(ぎっちょん)さん、差し出がましくなんて全然ありません。私はブログについて不勉強である事を反省しています。それでもこうやって色々な方からご親切に教えて頂けるなんて、本当にブログとはいいもんですね。まあ、非難も受けますけれどね。
 ここの所、自分の事にかまけていて、ブログが書けていません。と言うのは、ある出版社が自社の文庫シリーズで原稿募集しているのです。出版目録を見ると、どうもハウツウ本が主体のような感もあって、私の書いているのとは傾向が違うようでもあるのですが、まあ、その出版社としても、今後を見据えての原稿募集であろうし、「原稿募集」であって、こちらから頼んで原稿を読んで頂くのではないので、応募しようと決意をしました。
 ただ、応募には規定があります。40字詰め40行にして50枚以上100枚以下との条件があります。ですから、原稿をそれに合わせないといけません。私の原稿はすべてすぐにも本に出来るような体裁で作っているので、全面的に体裁を変える必要があります。
 そうしてやってみると、ほとんどが100枚を越えてしまいます。つまり16万字以上になっている訳です。それをなんとか100枚に納めなければなりません。それで四苦八苦してブログには手が回りません。勝手ながら、お許しを頂きたいと思っています。

 けさ、NHKで御巣鷹山の事を特集していました。私は事故原因はボーイング社の修理ミスと決定したと思っていたのですが、違っていました。らしい、との話は出ていても、そうだと結論が出ているのではないのだそうです。事故責任の問題にもなるので、はっきりと言う人がいないのだそうです。だから責任とは関係なく、事故の原因を追及する事が必要だ,と出演者は言っています。
 原因の究明なくしては、安全は守れないのは火を見るよりも明らかです。誰だって、安全だと思うから電車に乗り、飛行機に乗り、車に乗り,エレベーターに乗るのです。それぞれを運行している会社、あるいは開発している会社は安全だとの確信があるからこそ、その事業に乗り出して来たはずです。その安全が守られなかった事に対して、なぜなんだ、と思うのが当然です。
 だから、たとえ事故の責任が自社に及んだって、逃げてはならないはずなのです。誰かがボーイング社をかばっている。それは一体どいつなんだ。
 500人以上の残酷な犠牲者の事を思い、残された家族の事を思ったら、原因究明に全力を尽くし、二度とこうした事故は起こすまいと決意を固めるのが、そうした事業を営む者の最低の責任のはず。最低の事が出来ないような会社が、今も堂々と金儲けをしている。それは絶対に許せない。そして、それをいいままに放任しているやつらも絶対に許してはならない。

マックでの親指シフトキーボードについて

2010年08月14日 | 文化
 私が09年3月8日に書いた「親指シフトキーボード始末記」と題するブログに、先崎さんと言う方がコメントを下さった(8月12日)。
 マック専用の親指シフトキーボードは現在は製造されていない。古いのを使い続けるしか無い。だが、ウインドウズの世界なら富士通製の親指シフトキーボードが健在である。それをマックでしかも最新のOS10.6で使う方法があると言う。「上記サイトに詳細があります」と書かれているのだが、それが見当たらない。富士通のそれらしきサイトを見ても、それらしき物が無い。
 私は現在マック用の親指シフトキーボードを2台持っていて、その内の1台しか使っていないから、多分、これだけで足りるだろうとは思っているが、万一と言う事もある。
 なお、2台ある内で、古い方が格段にキータッチが良い。と言うのは、新しい方はリュウドと言う会社が開発したキーボードなのだが、古い方はデジタルウェーブと言う会社が開発したのをそのままリュウドが名前だけ変えて踏襲しているからだ。キータッチはキーボードの命である。
 と、余計な事を書いたが、先崎さん、もしもこのブログをご覧になっていたら、どうか「上記サイト」について教えて下さい。

 でも何度も言うけれど、本当にキーボードの事って誰も真剣に考えてなどいないのである。秋葉原のある店では40台か50台のキーボードを並べているが、すべて「たていすかんなに」と「QWER」のキーボードである。パソコンに詳しい人に話しても、えっ? 何? その親指何とかって、と言う答しか返って来ない。本当に情けない話だと思う。
 パソコンにしても、ウインドウズが90何パーセントかの占有率を占めている。言わば寡占情況にある。そんな事でより良い文化が発展出来るだろうか。
 私は幸いに、マックとウインドウズの両方の環境を使う事が出来ている。と言ってもウインドウズを使う事はあまり無いのだが、二つのパソコン文化に接する事が出来ている。二つ知っているからこそ、両方のメリットとデメリットがよく分かるのである。キーボードにしても同じ事が言える。ローマ字入力も親指での仮名入力もどちらも出来るから、やはり善し悪しが分かる。
 現在はどこへ行ってもウインドウズでしかもローマ字入力しか無いような情況になっている。これはどうしたって、偏り過ぎである。航空業界ならJALしか無い、鉄道業界ならJRしか無い、銀行なら○○銀行しか無い、政界には自民党しか無い、と言うのと同じである。
 そんな事言っても今更どうにもならないだろうけど。マックの産みの親であるアップルは、どうも端末の事しか考えていないようだし。まあ、世界的にはリナックスと言う手もあるから、真っ暗闇ではないけれど。

値段で買った本は結局は読まない

2010年08月11日 | 暮らし
 私には安いとつい本を買ってしまう癖がある。元々の値段が安いのではなく、元は2000円以上とかの本が500円以下だと買いたくなる。特に105円とか210円などの値段が付いていると理性を失ってしまう。たいていは新聞などで一度広告や批評を読んで、面白そうだな、と思った本である。あるいは著者の名前に引かれて良さそうだ、と店頭でざっと見て買う。
 ところが、それらの本は実際に読んでみると、難しかったり、易しいのだが、内容がいかにも安直だったりする事が多い。真面目に取り組んでいるな、と思ったが、きちんと読んでみると、意外と考え方の底が浅かったりする、論理が杜撰だったりする。
 それでちょっと読んだだけで放り出してしまう。しかしだからでもあるのだが、内容に対するそうした記憶がしっかりと残らない。そこでいつまでも本棚に鎮座まします事になる。あっ、この本はまだ読んでいなかったっけ、と。

 そろそろ引っ越しを控えているので、そうした本を整理した。50冊ほどは簡単に出る。近くには区立の図書館が3館もあるから、たいていの本はそこで読める。一度に20冊まで借りられるし、2週間は借りていられる。持っているシリーズ本、例えば日本の歴史とか、日本語とかも、そこにある。だからしょっちゅう調べる巻以外は持っていなくても事足りる。なにしろ、私の著書でさえあるのだから、定評のある本が無い訳が無い。
 こうして考えると、きちんと定価で買った本でさえ処分の対象になる。そうした本を入れれば、あと30冊くらいは処分が出来る。そうそう、百科事典もCD-ROMのを持っているから、書籍になっているのは処分してもいい。まあ、簡単に調べられるのは利点だが、何しろ場所を取る。

 こうした事で何が問題かと言うと、単に物理的な場所の問題ではない。頭の中での場所が問題になる。目に付くからいつかは読まなければ、と思うくせに、一向に読もうとはしない。それが負担になっている。決断力の無さがこうした結果を招いているのだが、これは何ぶんにも持って生まれた性分だから、なかなか直らない。あるいは物の無い時代に育った環境のせいもあるかも知れない。

 そう言えば、前にも何かを大量に捨てた事があったっけ。でもいつの間にか、今度はほかの物が増えてしまっている。まあ、それだけ暮らしが複雑化しているのだろうが、流されているのもまた確かな事なのだ。


昨日、長崎の平和記念式典の中継を見た

2010年08月10日 | 文化
 中継はNHKしかしない。強制的に受信料を徴収し、公共放送だと言うからにはそれで当然ではある。民放はこれまたテレビ放送は公共的である、と言いながら、まるで関心を持たない。特にフジテレビなどは、あのライブドアが参入しようとした時、テレビの放送は公共的なものであって、素人には出来ないと言って、その参入を拒否した経緯がある。そうであるからには、率先して中継をすべきではないのか。
 こうした地味だが重要な式典の中継をしないのなら、何も大言壮語を吐く必要は無い。ライブドアが参入したって、何の差し障りも無い。

 NHKの中継は10時30分から始まった。その前の30分は被爆者を中心とした話である。だが、式典が始まっても、その途中でまたもや被爆者が登場する。式典のアナウンスが何かを語っているのに、まるで別の話をしているから、全く聞き取れないし、画面も中継ではなくなっている。
 これじゃあ中継じゃないじゃないか、と私は無性に腹が立った。多分、大事ではないから、とカットしたのだろうが、冗談じゃない。大事か大事ではないかは視聴者が決める。式典の中継なんだから、きちんと初めから終わりまで忠実に中継すべきではないのか。中継とはそうしたもののはずだ。

 被爆者の話は確かに重要だ。具体的に悲惨な被害を語る事が出来るから、これ以上強力なメッセージは無い。しかしそれは別の番組で出来るし、当然、それはやるべきだ。平和式典の前後にほんのわずか付け加えただけでは足りないのだ。
 だから式典の中継に全力を注ぐべきだと、私は思う。勝手にカットすると言う事は、つまりは重要ではない、との判断だろうから、それは式典に参加している人々を愚弄するものだ。花輪を捧げる時だって、総理大臣だけを映して、あとは知らん顔。衆議院議長が、参議院議長が、と言っているにも拘らず、その姿はまるで見せない。誰が献花をしたって同じようなものだが、そんな事を言ったら式典は成り立たない。
 大相撲なんかはずいぶんと下の方の取り組みからきちんと中継しているではないか。それも大金を支払って。
 NHKは黙っていても大金が入って来るから、それで安心しきって努力を怠っていると思う。スポンサーの顔色を伺って、役にも立たない単に面白おかしいだけの番組を放送しているのよりはずっとましだが、本当はスポンサーである視聴者の顔色を伺わなくてはいけないのである。民放のスポンサーは巨大企業で数は少ない。だからわがままが通る。しかしNHKのスポンサーは一人一人の庶民だから圧倒的に数が多いのにも拘らず、その声は小さく、しかも何も言えない。
 NHKも民放も、ホント、うまい商売をしているよねえ。
 

再び、「○○が発売」について

2010年08月07日 | 言葉
 「週刊○○が発売」と言う言い方を私はおかしいと思っていて、以前、このブログにも書いた。ただ、「週刊○○、発売中」あるいは「週刊○○発売中」ならおかしくは感じない。と言うのは、文字ならば「、」があれば際立つのだが、音声で「、」が無くても「○○」と「発売中」の間にわずかの空白のあるのが分かる。それは「○○を」と言っているのだ。それが暗黙の了解となっていると私は思っている。
 けれどもそれが「が」になってしまうと、その暗黙の了解はまるで違ってしまう。「が」は明確に主語である事を表すからだ。だから「週刊○○が発売」なら、一体、何を発売しているのか、と言う訳である。

 ただ、この「が」は必ずしも主語を表さない。それが私のブログに寄せられたある人の意見になる。
以下は、その引用。

・僕は、君のこと「が」好きだ。
・君は、人「を」好きになったことがあるのかい?

前者の他の例としては、"私は山よりも海が好きだ" があります。海を好きだ、とは言わないと思います。そして後者ですが、"人が好きになったことがあるのかい?" ですと、なんだかおかしな言い方になります。
(引用終わり)

 君は人「が」好きになったことがあるのかい?
との言い方を私はおかしいとはあまり思わない。「を」の方が自然だけど、「が」でもおかしくはない。「を」ではなく「が」にしているのは、「人」を強調している言い方ではないのか。例えば「私は自転車が買いたい」は「自転車を買いたい」の意味なのだが、「が」にする事で「自転車」が強調されていると思う。
 この言い方と「○○が発売」とは明確に違う。「買いたい」とか「好きだ」との言い方は目的語を前提にしている。それこそ、日本語としての暗黙の了解である。その上に立って、平気で「が」が使える。しかし「が発売」は上の意見を寄せてくれた人も言っているが、「発売される」の省略形なのだ。だから「を発売」なら「発売する」の省略形になる。
 こうした漢語は中国語である。中国語では「される」なら前に「被」などの文字を使う必要があるはずだ。そうやってきちんと使い分けている。それを無視して、いい加減に「同じ形」で表現する事は日本語の破壊になる。
 ただでさえ、「が」は難しい。様々なニュアンスを持てる。それなのに、そこにおかしな言い方を取り込んでしまえば、日本語は収拾が付かなくなる。

 以前、「○○が砲撃を受けて撃沈する」との新聞のコラムの表現を批判した。「撃沈される」の間違いではないか、と。そうしたら、「撃沈」さんと名乗る人から、撃沈が完敗を意味する用語ともなっているから、「砲撃を受けて撃沈する」は許容範囲かと思う、との意見を頂いた。
 もしかして、「轟沈」と混同しているのではないだろうか。

・轟沈=艦船が砲撃を受けて、あっという間に沈む(ようにする)こと。(旧日本軍では、1分間以内に沈めることを指した)(新明解国語辞典)
・轟沈=砲撃・爆撃・雷撃などにより艦船を一分間以内に沈めること。自動詞にも使う。(岩波国語辞典)

 上記のように、「新明解」は「沈む」と「沈むようにする」の両方を挙げている。つまり、自動詞と他動詞とがある、との意味である。「岩波」は明確に「自動詞にも使う」と言っている。因みに同書の「撃沈」にはそうした説明は無い。あるのは他動詞だけである。

 このように受け身の表現には曖昧さがつきまとっている。だからこそ、巧妙な使い方もしている。例えばある大事故を起こした鉄道会社が、ある期間、宣伝を自粛した。すると、別の親族会社とも言える会社が代わりに宣伝を始めた。それをある新聞は「事故でPR自粛に追い込まれたために、○○が変わってPRに乗り出した」と書いたのである。
 分かりますよね。「追い込まれた」とする事で、まるで被害者になったように見えてしまう。とんでもない。その鉄道会社が事故を起こしたのである。大勢の犠牲者が出てしまったような大事故だった。
 こんな風に、受け身であってはならない表現にまで受け身がしゃしゃり出て来る。そうした感じ方が「○○が発売」にも現れているのだ、と私は思っている。

 ついでながら、先の6月14日のブログで私は次のように書いた。

 「○○本日発売」の表現がある。「○○」と「本日」の間にわずかな切れ目があって、「○○」が発売する対象物である事が分かる表現である。「誰が」を明確に言わないのは、言う必要が無いからである。
 そうした微妙な表現を乱暴にも「が」と言う明確に主語を表す場合の多い助詞を使ってしてしまうから、話がおかしくなるのである。

 この事について「撃沈」さんは、主格の「が」は古くから一般的な用法ではないか、と言われた。それでは、「君が代」は古歌が国歌になっているのだが、この「が」は主格だろうか。これは「君の代」なのだ。「古くから」と言うが、古くは「が」は「の」だった。万葉集にも主格の「が」などは出て来ない。そこにある「が」は「小松が下」とか「浜松が枝」「わが代」など、「の」の意味で使われている。
 有名な額田王の「あかねさす」の歌に「野守は見ずや君が袖振る」の言葉があるが、私はこれは「君の袖振る」だと理解している。主格なら「君袖振る」などとなる。日本語は本来「主格」を明瞭に表す事は少なかった。
 そして、こうした「が」は親しい相手とか見下した相手にしか使われなかった。それはきちんと古語辞典に説明がある。
 だから国歌「君が代」の「君」は天皇にはならないのである。この「君」に我々は親しい人の事を思えば良いのである。

駅のエスカレーターで現在の日本を見る

2010年08月04日 | 社会問題
 電車を降りてホームのエスカレーターに乗る時、たいてい私は右側を歩いて上る。なぜなら、左側はずらっと人が並んでいて、なかなか乗れないからだ。階段はちょっと辛いので、エスカレーターに乗りたい。でもあまり待つのは嫌だ、と言う自分勝手な思いが原因である。
 しかし、そもそもは二人並んで乗れるエスカレーターに一人しか乗っておらず、しかも前の人とは1段置いて乗る、と言う習慣が原因なのだ。だからホームにずらっと列が出来てしまう。どちらも理由は分からなくはない。東京では右側を、大阪では左側を空けて乗るのは、急ぐ人が歩けるように、との配慮らしい。でも馬鹿な事を考えるものだ。急ぐなら階段を使えば良いのである。だが、階段は嫌だ、でも急ぎたい、と言う勝手が横行する。
 一人分空けて乗るのは、他人と接触するのが嫌だからだ。それは分からなくはない。だが、それが当たり前なら、エスカレーターを製造する会社は一段空けずとも他人と接触しないだけの段の奥行きがある物を作るべきではないか。
 乗る側が悪いのか、作る側が悪いのか。
 電車の座席もそうだ。7人座れる所に6人しか座らない。隣の人と少しでも間を空けたい。だから電車を作る側は一人分の尻がすっぽりとはまるような窪みを持ったシートを作った。しかしそんなのは平気で無視する。仕方が無いから、座席を仕切ったり、今は座席の外側にポールを立てて仕切っている方が多いが、強制的に、ここは4人座るんですよ、ここは3人ですよ、と教えなければならない。まるで幼稚園である。
 4人席に3人はあまり空きが目立たないが、3人席に二人は目立つから、きちんと座れる。それでも守れない奴が居る。別に肥満でもないのに、と言うよりもやせ形なのに、どっかと平気で1・5人分を占領している。みんな遠慮をして、詰めて下さいとは言わない。馬鹿な事である。

 多くの人が他人の事を何とも思わない。自分さえ良ければそれで良し。だから自分が困る立場になっても仕方ないか、とあきらめるのだろう。いや、そうではない。他人の事を思う習慣が無いから、他人によって困らされているとは気が付かないのだろう。そこに居るのは常に自分一人だけなのである。
 だから周りを見てごらんなさい。スーパーのレジでは小銭を出すのにたっぷりと時間を掛けている人が居る。レジも後ろの人もいらいらして待っていると言うのに。それが見えない。通路のど真ん中にカートを置いて商品を物色している人が居る。買い物客は自分一人だけなのだ。
 他人の置いた自転車が出せないような位置に平気で自転車を置く人。改札口を出たとたん、あるいは電車を降りたとたん、その場で止まってしまう人。降りないのにドアの前に突っ立っている人。ケイタイに夢中になって、一人しか通れない狭い通路をのんびりと歩いている人。雨の日、すれ違いでまったく傘を傾けない人。
 もう、言い出したら切りが無い。昔はそうした事はみんな親が教えた。しかし今は教える親がそれを知らない。日常の事でもこんな状態だから、政治とか公務の事になると、それに輪をかけたような情況になる。一つ一つの基本が出来ていなくて、大きな事が出来るはずが無い。
 日本は初めて人口が減少した、と言うニュースを読んだ。もしかしたら、それで良いのかも知れない。このまま自分勝手な人間が増殖するよりもその方が日本のためになるのかも知れない。

花火大会が二日続いた

2010年08月02日 | 社会問題
 一つは隅田川の花火大会。江戸時代からの伝統行事である。我が家から北西に当たり、高層マンションに遮られて見えない。テレビで見るしか無い。ただ、音は聞こえる。もう一つは地元の花火大会。それは完全に見える。
 花火はやはり直接見るに限る。最近は凝った花火が多くなった。コンテストもあるから、余計に拍車がかかる。けれども、私にはそれは面白くも美しくもない。私は花火にストーリーは不要だと思っている。豪華に派手にドカーンと上がってくれればそれで良い。きれいな大輪が夜空にきらめき、色が変化し、消えて行く。その一瞬の輝きこそが美しい。
 一つずつ楽しむのも良いが、数え切れないほどの乱発もまた楽しい。一発いくらかかるんだ、なんてさもしい事は考えずに、どうせ他人の金なんだから、豪勢に楽しめばそれで良い。

 でも東京はどんどん高層ビルが増えて、花火が見えなくなりつつある。旧盆に上がる東京湾の大花火大会も、以前は5階から全部見えたのに、今では12階からでも半分ほどしか見えない。
 高層ビル街を歩くとビル風がひどくて、安心して歩けない。以前、日本電気だったか、本社ビルをビル風を防ぐためにビルの中程に風穴を開けて建てて、話題になった。しかし今では、そのような事を考えているビルなど皆無のようだ。
 誰も彼もが自分の事しか考えていない。高層ビルを建てても、どうせそこに居住するのは他人なのである。自分はもっと住み心地の良い所でのうのうと暮らせば良いのである。

 都会の良さを味わいながら、都会の不都合さをぼやくなど、勝手と言えば勝手である。でも今の東京を見ていると、計画性が無いと言うか、勝手気ままと言うか、土地は俺のもんなんだもんねえ、と言う態度が見え見えなのである。
 土地は、元はと言えば、国民全員の物なのである。開墾、あるいは干拓した人の努力と苦労は認めるが、だからと言って、その土地全部がその人の物になる訳ではないはずだ。石油にしても限りある資源だから大切に使おうと世界中が考えている。土地も同じだと思う。