夏木広介の日本語ワールド

駄目な日本語を斬る。いい加減な発言も斬る。文化、科学、芸能、政治、暮しと、目にした物は何でも。文句は過激なくらいがいい。

権力者側と庶民は住む世界が違う

2009年01月19日 | Weblog
 神奈川県が分煙・禁煙で手抜きとも言える修正案を発表した事を批判した。権力側が権力者にしか顔を向けていないと書いた。現在の政府しかり。野党の民主党だってどうだか。大企業の幹部がメディアの企業批判は不当だと言っている事も書いた。
 結局、変な言い方をすれば、いわゆる力を持っている人々と何の力も持たない庶民とは、住んでいる世界が違う。そうでしょう。力ある人の中には地下鉄なんか乗った事の無い人だって居る。そうそう、力ある人の「力」の中には権力だけではなく、金力も含むのである。
 我々はアメリカの庶民が何を感じて、何を考えているかなどは分からない。同じく中国人がどうか、も分からない。世界がまるで違うのである。基本的にしている事には変わりが無いが、その根本にある考え方まで同じとは言えない。いやいや、考え方が違うと言う現実を我々は様々な機会に体験しているではないか。
 それと同じ構図が日本の国内に厳然として存在している。強者と弱者、政治権力と庶民、金持と貧乏人、色々な言い方があるが、すべて「力を持つ者」と「力を持たない者」である。異なる世界を理解しようと努力する事はされている。しかしそれは理論的な理解なのであって、文字の上の、言葉の上の理解に過ぎない。心底からの、感覚的、感情的な理解とはほど遠い。
 早い話、毎日勤めに出ている人に、クビを切られ、しかも住む所まで失ってしまった派遣社員の生活振りが、困窮が、分かると言えるだろうか。確かにある程度は分かる。分かるがそれは身に染みてなどいないから、「ぬくぬくとした分かり方」なのである。そんなのが「分かった」とは言えないのは言うまでもない。
 誰だって、そうだ。私だってそうだ。自分の身は安全圏に置いて考えている。そこに真の理解があり得ようはずが無い。「分かった」と言うのは、その物と一体になった時に初めて感じるのだと思う。一体になれる道理がない場合には、だから「分かって」などいないのである。

 そんな事を言っていては、どうにもならないじゃないか。その通り。だからこそ、互いに分かり合おうと努力するのである。お互いの意見を採り入れて、自分の立場を譲歩する。民主主義ってそう言う物じゃありませんか? だから絶対多数で寄り切るなんてもってのほか。それでは各種の政党が存在する意味が無い。
 夫婦なんて性別も違えば、育った環境も違う。考え方や感じ方が違って当然である。だが、亭主関白では立ち行かない。たとえ表面的にはうまく行っているように見えても、それは奥さんが我慢をしているから成り立っているに過ぎない。その反対でも同じ。
 だから夫婦は互いに譲り合い、助け合って一家を支え運営している。その姿は子供に正確に受け取られ、移し(写し)取られてしまう。それで、子供を見れば親が分かる、のである。
 健全な夫婦の真似事でもすれば、この国は、企業は、そして様々な事がうまく行くはずである。時には盛大な夫婦げんかだって必要だ。でも互いを尊重し合うとの精神が消えていない限り、円満はすぐに戻る。
 配偶者がとんでもない精神異常者だったりすれば別だが、そう簡単に離婚してはいけないのである。努力もせずに、嫌だから嫌だ、で離婚する夫婦が増えているらしい。特に芸能関係ではごく当たり前のように報道されている。馬鹿な事をしているもんじゃない。互いに何の努力もせずに良い夫婦関係が成り立つはず無いじゃないか。
 それと国や社会の事は同じである。現在の政治を見ていれば、すぐに分かる。何の努力もしていない。単に既成の権力の座に安住しているだけだ。大企業は「企業の利益→株主の利益→企業の利益」と循環しているだけに過ぎない。確かに消費者の利益もあるにはあるが、それは本当に「おまけ」に過ぎない。
 前にも書いたが、消費者の利益と言うなら、それは企業の経営が順調に行っている事で釣り合いが取れている。消費者の利益に見合った利益を企業は求めれば良いのであって、それ以上の莫大な利潤に繋がる利益は無用なのである。それじゃあ経営している意味が無い、などと思うのはカネに目が眩んでいるからである。「消費者のため」と言うのはそうした事なのである。カネに目が眩んでいては「消費者のため」の製品は作れないし、売れないのである。