夏木広介の日本語ワールド

駄目な日本語を斬る。いい加減な発言も斬る。文化、科学、芸能、政治、暮しと、目にした物は何でも。文句は過激なくらいがいい。

不景気風の原因は

2009年12月29日 | 社会問題
 世の中、不景気だ不景気だと騒いでいる。その中で年間何億円もの贈与をもらっている凄い人も居る。ただ、我々普通に暮らしている人間には何で急に不景気になったのか、全く分からない。
 多分、虚業が潰れて、そこからカネが回っていた、これまた虚業が駄目になり、タクシーにも乗らなくなったり、交際接待費が極度に削られて、実業にも影響が出たのだと思っている。
 もう一つ、ユニクロなどを始めとする、何でもかんでも安い物が一番良いのだとの商売が元凶になっていると思う。国産で3千円だった物を、中国で千円で作れば売れる。しかし生産拠点が中国になってしまったから、国内での働き場所が無くなる。仕事を失った人々は千円の物でさえ買えなくなる。
 でも、何でそんな簡単な事が分からないのだろうか。我々は自分の労働で自然の恵みを取り入れ、それを物々交換して生きているのだと私は思っている。自然の恵みがあるからこそ、我々は生きられる。電化製品とか工業製品だけで、どうやって生きられるのか。
 自然の恵みには限度がある。それを何とか融通し合って我々は生きている。
 それを崩す連中が居る。世界中の富の量は決まっている。誰かが余分に取れば、取り分が減る人が出るに決まっている。
 日本の景気は健全な景気ではなかった。バブルが消えてもなおまだバブルで潤っていた人々が居る。いくらバブルにしがみついたって、しょせんは泡に過ぎない。そうしたバブルの中の一つに官庁などの仕事がある。公共事業がある。
 新聞にコラムなどを書く人の中には、何も知らない素人の仕分け人が、と口汚く罵る人が居る。素人で何が悪いか。バブルの中に居る人間にはそのバブルが極上の物、それだけしか頼れる物が無い。だからバブルの本質が見えないのである。
 これって、アンデルセンの「裸の王様」と同じじゃないか。無心な子供の目には見えるけど、曇り、濁り切った大人の目には見えない。

あんたがたどこさ

2009年12月26日 | 言葉
 夜中、寝ている時にふとこのわらべ歌が頭に浮かんだ。
 「あんたがたどこさ」 
 「肥後さ」
 「肥後どこさ」
 「熊本さ」
 「熊本どこさ」
 「せんばさ」
 この展開が何かおかしい。
 「せんば」は熊本のどこかの地名だ。だからこの問い掛けは場所を小さく絞り込んでいる聞き方だと思う。
 しかし始めが違う。肥後と熊本は同じだ。この歌では、「肥後ってどこの事なんだよ」と聞いている。肥後が広くて、その中の一部が熊本なら、と考えて、なあーんだ、「熊本」とは「熊本市」の事だったんだ、と気が付いた。となると、この問答をしている人々の頭には「熊本県」は無くて、その代わりに「肥後」があったと言う訳だ。
 これって、東京人の私としては分からない。東京は武蔵の一部だとの事情もあるが、東京=武蔵だとは誰も思わないと思う。
 インターネットで調べたら、この歌の最後「それを木の葉で」以下が大きく分けて3種類あると言う。東京では「ちょいとおっかーぶせ」だとあるのだが、私の覚えているのは「ちょっとおっかぶせ」である。「ー」はどうでもいいが、「ちょいと」と「ちょっと」は違う。
 国語辞典では「ちょっと」が正式で、「ちょいと」はくだけた言い方とある。歌の全国調査では「ちょいと」が多数派で、「ちょっと」は山梨県と熊本県と場所不明しか無い。そしてそこでは東京は「ちょいと」になっている。
 私の記憶では子供の時にまりつきで、「ちょっと」としか言っていなかったと思う。記憶の中に「ちょいと」は全く存在していないのだ。子供だから、「ちょいと」などと言えば、あれ、それ違うよ、と気になると思う。まあ、思い違いと言う事もあるだろうが、こうした口ずさみのような事ではそれは少ないのではないかと思う。
 それにしても、何で真夜中に思い浮かんだのだろう。
 

天皇誕生日とA級戦犯の処刑

2009年12月24日 | 政治問題
 12月23日の天皇誕生日がA級戦犯の処刑日だったとは知らなかった。知人がラジオで聞いたと言う。皇太子殿下の誕生日が来るたびにA級戦犯を思い出せようと言う魂胆だったらしい。皇太子はいずれ天皇になる。そこまで考えていたのだろう。何とも恐ろしいGHQのやり方だ。偶然だとすれば、何でこんな押し詰まった時に処刑をしたのかと疑問に思う。
 日本国民は天皇の誕生日を祝うたびに、A級戦犯の事を思わなければならず、それはひいては昭和天皇の戦争責任を問わせる事に繋がる、と普通は思う。
 ただ、昭和天皇の戦争責任に関しては両論がある。
 一つは,昭和天皇は戦争責任を逃れるために、戦犯にその罪をなすり付けた。
 一つは、昭和天皇は戦争の責任はすべて自分にあり、国民に罪は無い、とマッカーサーに訴えた。
 私は後者だと信じている。おめでたいと言われようが、何と言われようが、それが日本人としての誇りだと信じているからだ。
 ただ、A級戦犯に関しては複雑な事になっている。アメリカを主体としたあの裁判の正当性についての問題と、戦争を遂行した政治家達の日本国民に対する責任問題と、この二つがごっちゃになっている。そこに靖国神社で合祀する問題が絡んでいる。

 こうした事を一つ一つ切り離して、きちんと考えるべきだと思う。
 ノーベル平和賞をもらった佐藤栄作が、核持ち込み禁止にしておきながら、いざと言う時には沖縄のそれも明確に基地を指定して、持ち込みを許可する文書を裏で交換していたと言う裏切り行為がある。多分、裏では本当に日本国民を裏切る行為が幾つも、しかも今もなお行われているに違いない。
 我々は本当に善良過ぎると思う。日常生活においては、相互信頼は絶対に必要だ。だが、事、政治に関しては下手な信頼は自分を窮地に追い込む事にしかならない。鳩山首相のぐだぐだした言い訳を聞かされてなおの事、そう思った。

建設中のマンションが違法建築だった

2009年12月22日 | 社会問題
 東京の新宿区で建設中のマンションが違法建築として差し止めとなった。最高裁での判断だ。高層マンションではない。と言うより、今時珍しいくらいの低層マンションである。それなのに違法になった。
 8メートルの道路幅が必要なのに4メートルしか無かった。だが、申請を受けた区は中庭があるからよろしかろうと、許可をした。敷地は「たぬきの森」と呼ばれている緑地で、写真で見た限りではとても「森」とは言えず,せいぜい「林」なのだが、都心の貴重な緑地である事は間違い無い。
 結局は建築中の建物は撤去される事になるが、さて、その費用を誰が負担するのか。建設業者は当然に区側に賠償を求める。その賠償金は区民の税金である。

 専門家が揃いも揃って、何といい加減な判断をしたのかと、私は呆れている。区の考え方も杜撰だが、業者の考えもまた杜撰としか言いようが無い。いやしくも建築の専門家ではないか。建築基準法がどのように規定しているかは百も承知のはず。
 それを何とか通してもらおうと、業者はあの手この手を使ったに違いない。駄目な物は駄目。そんな常識が無い。そう、カネさえあれば、この世は何とかなるのだ。
 そうした事から、もしかしたら、区側に、その誘いに乗ったのではと疑わせる余地が十分ある。マンションには余地は無かったのに、なんとも皮肉な事だ。

 私がいつも通る所に3棟のマンションが建っている。ところが、真ん中のマンションだけ道路から3メートルほど引っ込んで建てられている。そこの管理人とは挨拶を交わす仲だから、ある日私は聞いた。どうして引っ込ませてあるのかと。
 建築基準法に従ったから、との答が返って来た。両側のマンションは横にも二車線の道路がある。それに対して真ん中は前にしか道路が無い。管理人はごく当たり前のような顔をしていた。
 建築基準法とは多分、とても分かり易く出来ているのだろう。例えば、3階に屋根裏部屋を作って、階段を設ければ3階建てになるが、はしごなら2階建てになると言う。その屋根裏も立って歩ければ部屋だが、そうでなければ部屋とは認められないと言う。いずれも固定資産税に関わって来る重大な問題だ。

 新宿区の場合、初めから周辺住民の反対があった。そうした中で判断を下した訳だが、そこに私は「お上の決めた事に逆らうな」と言う傲慢な思いを見てしまう。同区は私の本籍地なので、悪いイメージは持ちたくないのだが。

読売テレビの「愛犬と45年ぶりの再会」を見て

2009年12月20日 | ペット
 志村けんの動物番組。「飼い犬との45年振りの再会」のタイトルに負けて見た。でもまさか45歳も長生きする訳ないしなあ、と思いながら。
 主人公は茨城県で幼稚園に電車で通う女の子。家のある玉造町駅から幼稚園のある石岡駅まで15・8キロを毎日電車で通う。飼い犬のコロが毎朝8時半に女の子を玉造駅まで送る。一度は電車の車内に入るが、発車間際に降りて家に帰る。3時半(4時半だったかな)になると再び玉造駅まで出迎えに行く。当時は犬がひとりで出歩く事は普通だった。
 ところがある日、電車に乗ったまま石岡まで行ってしまった。気付いた車掌が誰の犬だ、と怒鳴った。女の子は怖くなって,自分の犬だとは言えなかった。コロは追い出され、どこかに消えた。
 女の子も父親も探したが、見付からない。そして時が経った。45年後、彼女は新聞で石岡の駅近くの小学校の愛犬になっていた犬が居た事を知った。それはあのコロだった。コロは可愛がられて17年間生きた。長生きである。
 そのコロの日課があった。8時半と3時半になると決まって石岡駅まで行き、飼い主が現れるのを待ったのである。最後の日、起き上がる気力も無かったコロがチャイムを聞いて、起き上がろうとした。校長先生が、もういいよ、と優しくなだめて、コロは旅立った。

 番組の出演者はみな泣いた。妻も涙だし、私も涙。お陰で、夕食を半分残してしまった。どうにも箸が進まない。夕食時には全くふさわしくない、と怒っても、決して嫌な涙ではない。感動の涙なのだが、出来れば、このような感動はしたくない。あまりにも犬がかわいそうである。
 でも、と私は思う。犬とはぐれたのは石岡駅だった。どうして彼女も父親もその周辺を探さなかったのか,と。駅から遠くはない小学校で、犬は17年間も暮らしていたのである。見付からないはずが無い。
 もしかしたら、私の勘違いなのか。それとも番組の進行に手違いがあるのか。番組は作られた部分がある。何しろ実話とは言っても再現ドラマである。だが、肝心要の事は間違えたりはしないはずだ。私の見間違いや思い違いではないとするなら、私は飼い主の愛情を疑ってしまう。何で誠意が無いのかと。
 45年ぶりに再会を果たした彼女は、本当にこの番組で納得しているのか。私は真剣になって見たつもりだから、どうにも腑に落ちないのである。

惰性になった年賀状

2009年12月19日 | 暮らし
 12月に入っての周囲の関心は、年賀状書かなきゃ、だった。今年はどんなデザインと内容にしようかなあ、ではない。「書かなきゃ」と言う義務観念が真っ先に来ている。義務で書いた年賀状に果たして気持が込められているか、などと言い出すとどうしようもなくなるが、ああ、めんどくさい、と思いながら書くなんて。
 宛名まで印刷の年賀状なんて、私は嫌だなあ、と言うと、賛成する人の方が多い。本当は肝心の年賀の方も手書きに越した事はないのだが、これには版画などが一番ポピュラーだろうし、そもそもが「印刷」に向いている。
 そこでせめて、表書きくらいは、一人一人、相手の事を思い浮かべながら手書きにする、と言うのが王道だろう。

 ところが、これが結構面倒である。私が一番面倒だと思っているのが郵便番号。本来は市区町村名などを省けるシステムなのだが、そうなると、一文字違っても届かなくなる危険性がある。それに市区町村名を省いてみると、なんだかとても間が抜けているように思えてしまう。やはり、○○県とか、せめて○○市ぐらいから書きたい。
 そうした場合にパソコンを使う方式は非常に便利だ。入っているデータから出したい人を選べば、もうそれで半分は仕事が済んだ事になる。
 表も裏も全部印刷なんて年賀状、私は嫌だねえ、と言うと、だから文面に添え書きをしている、と言う。でも全部の人にそれぞれ違った添え書きをすると言うのも大変だろう。すると、「今年もよろしく」などを手書きにすればいい、と言うのだが、それなら宛名を手書きにするのとそう変わりはない。それに決まり文句なら、それこそ書く方は事務的になってしまう。

 私は毎年、ああでもない、こうでもない、と試行錯誤を繰り返し、出来上がるのはいつも25日の締め切りぎりぎり。去年はさて出来上がった、と印刷にかかろうとしたら、何と、カラープリンターが故障している。何でチェックしておかなかったかと悔やんでももう遅い。普段はモノクロプリンターで用が足りているし、その方がずっと効率が良いので、カラーの方は年賀状くらいにしか使っていなかった。
 仕方なく、カラーの絵を入れる予定の所を簡単な手書きにして、文章の配置を急遽変えて文面だけ印刷した。版画や手書きならそんな馬鹿な事は絶対に無いし、機械頼みはやはり一抹の不安がある。
 何でもかんでも便利便利と機械頼み、人頼みにする事が増えている。テレビだって消し忘れを防ぐためにかどうかは知らないが、自動的に消えるシステムを入れている。そのせいで、そうした回路の部分が壊れて、私はテレビを買い替える羽目になった。地デジは時の流れだが、まだもう少しアナログで良いと思っていたのに。テレビなんて必須じゃないからね。
 このカラープリンターも、直すと法外の値段になる。それならもっと効率の良い機械がちょっと上乗せした金額で変える。テレビもそう。修理費用が高過ぎる。部品はわずかに数千円だったりするのに。

 年賀状だが、毎年、儀礼的な賀状が減っていると言う。年賀状は素敵な年中行事だと思う反面、うまく郵政省に長年乗せられて来たなあ、とも思う。出したい人だけが出せば良いのに、何か強制的に出させられている。周りがみんな出すから、自分も出さなきゃ義理を欠く。
 考えてみれば年中行事なんてそんな物かも知れない。ただ、年賀状は相手が居るだけにそんな簡単には済ませられない。

亀井さん、態度が大きいのでは?

2009年12月16日 | 政治問題
 衆参両院合わせて2%にも満たない国民新党が、民主党と連立を組んだからと言って民主党と同等の態度を取る事に私は大きな不満がある。自民党だって50%に近い支持率がありながら、小選挙区制のために議員を出せない選挙区があって、負けたのだ。そうした大幅な支持率を持った政党が黙っているのに、わずか2%ほどの政党が大きな顔をしている。
 これは選挙制度のおかしさだ。一票の差を問題にする人々もいるが、それよりももっと大きな差別がある。確かに50万人に選ばれた議員と20万人に選ばれた議員とが同等では、30万人の人の意思が無になると考えられる。しかし小選挙区制では50万人もの人の意思が無視される場合も少なくない。

 全国の選挙区をならして、頭から順番に当選を決める。そうなると、多分に選挙民の多い選挙区の候補者が有利になるだろう。しかし、だから一票の差は無くなる。ただし、それだと人口の少ない地域の意思が反映されなくなる恐れがある。地域の特殊性と人口の多寡は関係が無い。
 さて、これを何とか整合性を持たせる工夫をするのが議員達の役目ではないのか。誰もが既成の体制にのほほんとして乗って、単にその時々の勢力争いに夢中になっている。確かに選挙制度を抜本的に改革するのは難しいだろう。だが、その難しい事をするのが議員の仕事である。誰もが出来る事だけをしているのでは、誰だって議員になれる。現在の議員達は世襲だったり、看板があったり、地位があったり、それが、それだけがとは言わないが、それが議員の資格になっている。
 だから目新しい事は何も出来ない。今度の民主党政権の各省庁の仕事の仕切は、我々の待ち望んでいた目新しい仕事の一つだと思う。初めての事なんだから、失敗など恐れていてはいけない。思慮が足りないとか何とかかんとか言う人々が居るが、それは無責任な雑音と考えるべきだと思う。何事も最初から完全に出来るはずが無い。

●世界一のスーパーコンピューターが必要な理由
 スーパーコンピュータへの予算削減で、ノーベル賞受賞者の野依氏がアメリカや中国に遅れて後世に恥をかいた、その責任を誰が取るのかと言っている。そしてスパコンに対する予算の削減は見直された。
 でもさあ、世界一のスパコンでなければ駄目だと言うその理由は何なんだ?
 世界第二位だったら、第一位のスパコンのような研究が出来ないとでも言うのか。一位とか二位などと言うのは単なる比較の問題だ。たとえ世界一位だとしても、その質がとても威張れた情況ではない事だってあり得る。
 要は、スパコンを使っている人の素質次第になるのではないのか。
 「世界一」の言葉に騙されてはいけない。我々はともかく、ノーベル賞受賞者が騙されていては駄目だろう。いや、そうじゃない。彼は騙されてなどいないだろう。「世界一」の言葉で我々を騙しに掛かっているに違いない。そうでもなければ、あまりにも考え方が幼稚だと私は思う。
 世界一のスパコンで、一体学者達は我々のどのような幸福を保障しようと言うのだろうか。私は、学者としての満足感以外の何物でもないのでは? と疑っている。

第三のビールが旨い

2009年12月15日 | 暮らし
 「リキュール」と書かれた第三のビールを馬鹿にしていた。その時は発泡酒が旨いと思っていた。本物のビールと比べて値段の割に旨いと思っていた。アメリカ産のフルーツの味がちょっとするビールが旨いと思い、韓国産の国産よりも安いビールが旨いと思った。息子は安いから旨いと思うんじゃないの? と憎たらしい事を言うが、気にしない気にしない。
 味覚なんて、意外にもろいもんだと思う。以前は夫婦共にずっとヱビスがお気に入りだった。ハイネケンの生ビールを飲んだ時も、心から旨いと思った。ただ、ヱビスはずっと飲み続けているとだんだん旨さを感じなくなった。何でもそうだろう。で、黒ラベルに切り替えた。私らはサッポロのファンなのである。

 懐具合とも相談して発泡酒になり、そして第三のビールを飲んでみた。するとこれが旨かった。田村正和に騙された訳ではないが、麦とホップ。発泡酒よりもずっと旨いと思った。日本酒でもそうだが、純米酒よりも醸造用アルコールを混ぜた物の方が旨いと感じる事がある。多分、味を操作しているのだろう。ただ、どんなに舌を騙しても、それは作った味だ。それに醸造用アルコールなどと言っているが、あれは工業用アルコールだ、と読んだ。工業用では売れないので、名前を変えたに過ぎない。で、よほどの事が無いと、そうした日本酒は飲まない。少々味が弱いな、と思っても純米酒を飲む。
 第三のビールはまさにこうして味を作ったビールだと思うが、こちらは日本酒のようなこだわりをなぜか私は持っていない。大体が、ビールはそんなに旨い物だとは思っていない。旨いビールを飲んだ事がないからだよ、と言われても、日本ではそう簡単には旨いビールは飲めない。聞く所によると店でグラス一杯千円もするヨーロッパのビールは本当にコクがあって旨いそうだ。

 サントリーの金麦を飲んでみた。麦とホップとは違って甘い味がするが、これまた旨い。両方を変えて飲んでみると、どうも麦とホップに前ほどの旨さを感じなくなっている。慣れなんだろうか、ちょっとした味覚の変化なのか。そして今度はサントリーが旨いと思った。
 そうそう、私が本物のビールを敬遠しているのは50%もの税金が掛かっているからでもある。取り易い所から取る、そうした役人根性が汚くて嫌だから、飲むたびにそうした思いに駆られるのは不愉快なのだ。そうでしょう。誰だか知らないが、汚い顔してにやにやした役人が頭に浮かんで、それでビールを飲むなんて、胸くそが悪い。

 テレビでビールが大好きな犬を見た。だが我が家の愛犬はビールはダイッ嫌いだ。そのほかの酒は日本酒でもワインでも喜んで舐めるのに、ビールは顔をそむける。多分、臭いが嫌なんだろう。まさか酒を注いで飲ませる訳には行かないが、指に付けて、はい、駆け付け三杯ね、と言って舐めさせている。
 この犬が酒が好きだと分かったのは床に置いた日本酒の瓶の口をぺろぺろと舐め回していたからだ。ワインも同じ。そしてある時、私は床に寝転がってワインを飲みながらテレビを見ていた。ふと、ぴちゃぴちゃと音がするのに気が付いた。見ると犬がワインのグラスに鼻を突っ込んで舐めているではないか。それも渋い赤ワインを。
 酒が好きだと言う点でも、犬と私は大の仲良しなのである。

人慣れしていない犬に困っています

2009年12月12日 | ペット
 買い物に行かなくてはならないし、犬の散歩もさせてやりたい。ああ、時間が無い。そこで犬を連れて買い物をする事にした。だからスーパーなどには入れない。すべて外だけで用が済む店を選んだ。と言ったって肉屋と八百屋だからどうって事は無い。夕飯の買い物は前の日に済んでいる。足りない物だけを買えば良い。
 肉屋では無事に買い物が済んだ。ところが八百屋で、店の奥さんがいらっしゃーい、と大きな声で呼び掛けた途端、犬がワワワンと吠えた。奥さんはびっくりして店の奥に逃げ込んでしまった。私は犬を叱るのに大変。奥さんは大きな声を出してごめんね、と言うが、どういたしまして、こちらこそ済みませんね、と謝った。奥さんが言う。いつも人慣れした犬ばかりなもんで。そう、みんな大人しい犬ばかりだ。確かに私の犬は人慣れしていない。それに買い物にはほとんど連れて行かないから、犬も人混みで興奮したのかも知れない。いつもはほとんど人が通らない所ばかり歩いているのだから。
 目的はみかんだったのだが、申し訳ないから、いちごも買った。新鮮だったし、50円負けるよーと言っていたから、まっ、いいか。

 私は犬をあまり散歩に連れて行かない。ほとんどの人が外で用を足させるために連れて行くのだと言う。だが、私の犬は外では絶対に用を足さない。その点では飼い主としては安心なのだが、犬の生理としてはどうなのだろうか。ほかの犬がマーキングした所をくんくんと嗅ぐのだが、マーキングをしようとはしない。多分、マーキングを知らないのだろう。これって、本当は良くない事じゃないのか。でも、だからと言ってどうにもならない。だから外に連れ出さなくても困りはしない。ただ、犬は外に出たい。散歩に行くと分かると、もう手の付けられないようなはしゃぎようである。
 たいていは決まったコースで、家の近くまで来ると一目散に家に入りたがる。よく、もっと外に居たいよう、と抵抗している犬がいる。飼い主も、いい加減に家に帰ろうよ、となだめているが、聞く耳を持たない。私の犬はその点、楽と言えば楽だが、なんでそんなに家がいいんだよ、と思ってしまう。それまでは私の顔を見い見いだったりするくせに、ぐんぐん私を引っ張るように先に立つ。そして家に入った途端、自分のトイレに駆け込んだりする。
 そんな犬でもベランダの植木鉢とゴミ箱には決まって小便を引っ掛ける。用足しなのかマーキングなのかは分からないが。
 犬一匹、飼い主が利口にならなければ育てられない。私は案外、犬に教えられているのかも知れない。

しもねたネギ下さい

2009年12月11日 | 言葉
 ホント、笑ってしまった。今日のちびまる子ちゃんの四コマ漫画。八百屋で客のおばさんが「しもねたネギ下さい」。言った瞬間、あっ、間違った。八百屋のおじさんも、聞いた瞬間、あっ、間違ってる。
 だが、私は一瞬、分からなかった。あれっ? しもねたネギじゃなかったっけ。私は全国の地名は良く知っている方だと自負している。昔、全国版のガイドブックの編集をしていたから。ただ、現在の平成の大合併で出来たおかしな名前の市は知らない。現在の事情はもちろん、知らなければならないが、昔の事も忘れないようにと、古い地図もちゃんと取ってある。
 秋は泥付きネギが出回っていたが、初冬に入って下仁田ネギに代わった。普通に「しもにたネギ」と言っていて、私は「しもねたネギ」などはまるで頭に浮かばなかった。私は常に駄洒落を連発していて妻に呆れられているのに、「しもねたネギ」だけは思い付かなかった。

 で、よくよく考えた。咄嗟に出る言葉は普段から口にしているとか、頭にあるとかしている言葉である。普段、思いもしない言葉が瞬間的に飛び出すはずが無い。つまり、私は普段、「しもねた」などの言葉とはまるで無関係なのである。と言って、品行方正などと言っているのではありません。単に、普段は全く別の事ばかり考えているから、「しもねた」には御無沙汰しているだけの話。
 今考えているのは日本の古代史と万葉集。歴史のあの件はどうもおかしい。万葉集のあの歌の真意はなんだろう。万葉集には歴史が詠み込まれているから、両者には密接な関係がある。そうした事ばかり考えているから、何かの瞬間にふとひらめいたりするのだが、それが夜中だったり、自転車に乗っている時だったりして、覚えておこうとするのだが、それがなかなかうまく行かない。でも、少し時が経って、再び思い付くからあまり心配はしていない。

 よく政治家が失言をする。うまくごまかした言い訳をしているが、あれは普段からそう思っているから出ただけの事。そんな事、誰もが知っている。でもそこは大人だから、言い訳を納得したような顔をしてやっている。だから下手な言い訳などしない方が絶対に潔い。言い訳したって、その性格はちゃんと見破られているのだから、弁解するだけ更に品格を落としている事に気が付かない。
 ねえ、人前で話す事の多い皆様方、普段から清く正しい事だけを考えていましょうね。