夏木広介の日本語ワールド

駄目な日本語を斬る。いい加減な発言も斬る。文化、科学、芸能、政治、暮しと、目にした物は何でも。文句は過激なくらいがいい。

小三から英語教育をしろとはとんでもない

2008年05月31日 | Weblog
 5月31日の東京新聞の第一面のコラム「筆洗」が小三からの英語教育を言う前に、日本語をきちんと教える重要さを語っていた。当然の話である。その同じ日の投書欄にそれよりもずっと長い、小学生の英語教育は待ったなしだ、との38歳の女性の投書が載っている。自分が日常会話くらいは英語で出来るようになったから、英語が世界共通語として第二母国語として使われていると感じたと言う。最近よく行く東南アジアではコンビニの店員でさえ英語が話せる、と褒め上げている。
 ねえ、奥さん(まさかお嬢さんとは言えないものね)、東南アジア諸国ではどのくらいの言語が話されているかご存じですか。フィリピンでは確か数え切れないくらいの言語が話されている。だからタガログ語が公用語にもなっているはずだ。そうした国で英語が共通語として使われているのは理解が出来る。何よりも民族の垣根を越えているから不公平にはならない。
 だが、日本は日本語一つで事足りている世界でも希有の国である。多言語国家と同じように考えられるはずが無い。
 彼女は日本の「危機」が分かっていないのではないか、と懸念しているが、その危機は主体性を持たない事から生まれているのですよ。英語が分かれば国際競争に勝てると言うその単純な発想には恐れ入るしか無い。何よりも、考えがしっかりとしていなければ諸外国から馬鹿にされるだけである。しっかりとした考えを育てるにはきちんと日本語が出来なければ駄目だ。日本語がしっかりと出来ているとお思いか。
 空気が読めない事をKYなどと言って喜んでいないで、日本がクラスター爆弾の禁止に一時、保留の態度を取った事をこそ、空気が読めないと批判すべきだろう。エゴを押し出している米中ロの“超大国”だけが禁止に同意をしていない。世界の空気が読めないのに、英語が話せたからと言って何の役に立つのか。
 でも東京新聞もなんで、こんな意見を大きく載せるんでしょうね。せっかく同紙の良さが分かり掛けて来たと言うのに。
 私はずっと朝日新聞を取り続けていたが、あまりのおかしな分からない記事に業を煮やして読売に替え、それもまた駄目で毎日に替え、やはりがっかりして、今は東京新聞なのである。地元にしっかりと目を注いでいる感じがして好ましいと思っている。日経は記事は冷静なのだが、かなり簡単な事も多く、しかも経済が中心なので、私のような貧乏人の読む新聞とは思えない。
 東京新聞はページ数が毎日と同じく、他紙の3分の2くらいしか無いが、毎日とは違い、700円も安い。ページ数が多いばかりが能ではない。毎日は配達と集金の青年に「薄いねえ」と言ったら、中身が濃いですから、と胸を張ったが、残念ながら決して濃くはない。分からない記事も非常に多い。私はそんなに頭は良くないから、同紙では分からないので、購読を止めたのである。
 新聞でさえ日本語が分かっていない。日本語教育を忘れて英語教育に走った、その結果が恐ろしい。英語で日常会話が出来るようになったのは大変素晴らしい事だと思うが、今一度、御自身の日本語力を振り返ってみる事を是非ともお勧め致します。日本語力とは言うまでもなく、日本語でしっかりと物事を考えられる事を指します。

成田空港とふじみ野市プール

2008年05月28日 | Weblog
成田空港とふじみ野市プール
 え? 何の関係があるのかって? そう、片や国際空港、片や一都市の市営プール。普通には全く何の関係も無い。が、仕事の質と言う点で関係がある。
 成田の税関が世界中に恥をさらしてしまった。大麻を使った麻薬捜査犬の訓練事件である。模擬のカバンを使うのではなく、何と、乗客のカバンに無断で大麻を隠したのだと言う。他人のカバンを勝手に開けた訳だ。当然ながら、大麻は消えた。
 無事発見されたからいいようなものの、何ともいい加減な税関である。日本の国際的な信用にも関わる。

 そう思っていたら、同じ成田空港でこんな話を聞いた。
 空港内で仕事をしている職員が通行証を紛失してしまった。空港の安全を守るための通行証だから、その責任は重い。だが、聞く所によると、関係者以外は通りそうもない所で紛失している。だが、出て来ない。
 そしてその職員は通行証の発行を1カ月か2カ月間してもらえないのだと言う。見せしめのためである。職場に入れないから、当然に休職となる。給料の保証は無いそうで、つまりは無給である。中には過去、解雇された職員もいると聞く。
 となると、この税関職員は多分、1年間は勤務停止か、まさか。

 埼玉県ふじみ野市の市営プールで女児が吸水口に吸い込まれて死亡した事故が起きたのは2年前の7月。その責任者への判決が出た。
 流れるプールだから、その流れを作り出すために吸水力は強かった。吸い込まれるのを防止する柵は二重に設置するよう、文部科学省から通達されていたが、それを守らず、しかも柵が外れていると報告があったにも拘わらず、利用者に注意を呼び掛けただけだった。
 全員をすぐにプールから上げるべきで、そうでなければ、監視員が身を挺して吸水口の柵の代わりを務めるべきである。事故を防ぐのが監視員の役目である。当たり前だ。
 そして業務上過失致死罪に問われたのは、何と、市教育委員会の職員二人。プール管理業務を請け負っていた会社の社長達は起訴猶予処分なのだと言う。遺族からの不服申立があって、今年、この業者側の3人がさいたま検察審査会によって起訴相当と議決されたそうだ。これまた杜撰。

 それにしても、罪に問われた職員は、一人が禁固1年6月で執行猶予3年、もう一人が禁固1年で執行猶予3年。有罪だ、とは言うが、執行猶予である。私は常々、執行猶予とは形だけの有罪だと思っている。猶予の期間中に罪を犯さなければ刑は執行されないのである。人一人の命が奪われたと言うのに、何と甘い事よ、と呆れるほか無い。もっとも、この事故の場合は罪に問われるべきは直接のプール管理者だろう。現場で、柵が外れているとの報告を受けてもそのままに放置したその責任は非常に重い。彼等は吸水力がどれほど強いのか、当然に知っている。知っていなければ、管理の仕事は務まらない。
 しかも監視員のほとんど全員が泳げなかったと言うおまけまで付いている。

 この判決を伝えるNHKのニュースをたまたま見たが、この事故以降、柵は二重に設置されるようになった、と言っていたが、それは大嘘だ。二重に設置せよとの通達は7年も前から毎年出されていた。ところが、それをきちんと守っていたのは、山形、福井、長野、大分、沖縄のわずか5県の教育委員会だけだった。あとの都道府県教委はすべていい加減。不備プールの数なんと2339箇所。
 それだけ多くの職員が自分の仕事を放棄していた。恐るべき事である。そして多分、何の処罰も受けてはいないだろう。

 さて、成田税関だが、こちらは人命には関わりが無かった。水死事故でこの程度の刑だから、税関など、当局からの厳重注意で終わるのだろう。
 不注意で大事な通行証を無くした。
 承知して他人の荷物を開けてその中に大麻を入れた。
 吸水力の強い吸水口の柵が外れている事を知っていて放置して一人の命が奪われた。
 この三つ、互いに何の関係も無い。無いが、責任の重さでは大きな関係がある。そして処罰の重さ軽さのアンバランス。なんか、物の見方が大きく狂っているとしか思えない。
 同じ紙面には「原油価格 実体の倍」との大きな見出しが。世界中がいい加減なんですね。初めて知った事じゃないけど。
 あーあ、今日から、ちょっといい加減に生きてみようかなあ。
 えっ? 今だって十分いい加減じゃないかって? 大きなお世話です。
 

テレビはなぜ辞書を引かないのか

2008年05月24日 | Weblog
 テレビの言葉遣いについて書いたら、流蛍さんから、なぜテレビは辞書を引かないのか、などについても、もっと深く観察した意見を聞きたいと言われた。彼は時々無理をおっしゃる。御自分のブログで大胆な発言をしているのはよく知っている。そして私は何と勉強家なのだろうかと、常々感服しているのだが、私にはとてもそこまでの力が無い。
 私の発言は、いつも、何かしらの根拠と根拠をつなぎ合わせた所から発生している事柄を、自分なりの発見としているだけの事なのである。だから、例えば、この「テレビは辞書を引かない」についても、そうした事実を目の当たりにしただけで、もう一つの別の根拠が見付からないので、事実を採り上げただけに終わっていると言う訳なのである。
 でも、とても良い励ましにはなる。で、少しばかり考えてみた。

 テレビは一過性である。映像も音声もすぐに消えてしまう。あとには何も残らない。おぼろげな記憶しか残らない。あまりにもスピードが速すぎて(私には)、半分しか分からない事が多かったりする。それに、はっきりとしゃべらない事も多い。出演者達は一斉に笑っていたりするのだが、私には何で笑っているのか、皆目分からない。
 妻も笑っているから、「ねえねえ、今何で笑ったの?」と聞くと、知らないわよ、と言うのである。何か、雰囲気に引きずられて笑ってしまったらしい。
 そうなのだ。テレビはいつも雰囲気なのだ。視聴者もその雰囲気に流されてしまうから、真剣になって見なくても済む。だからいい加減な間違いも気付かずに済んでしまう。間違いと言えば、訂正の仕方もずるい。「番組中、人の名前が間違っていました。○○の間違いでした。訂正とお詫びを申し上げます」。
 どのように間違ったのかは分からない。その「人」だって、明確にこちらは理解出来ている訳ではない。へえー、そんな話の展開があったんだ、くらいにしか思えない。邪推が好きな私は、○○を××と間違ったと明確に言えば、その間違いの恥ずかしさがはっきりと分かってしまうので、ぼかしたのだろう、と思う。そして間違いに気付いた人にだけ分かれば良い、分からなかった人にまで、間違いを喧伝する事はないと。でも、新聞や雑誌などの訂正はそんな卑怯な事はしていない。
 あるパソコン雑誌はほんのわずかなミスでも、「懺悔部屋」と称するコラムを設けて、そこに担当編集者を入れてしまう。「?」の次に「、」を付けてしまった編集者は「句点を打たれなさい」の刑に処せられ、額にフェルトペンで「てん」と黒々と書かれ、合掌してお詫びをしている姿を載せられてしまった。わずか150gのハードウェアを150kgと書いてしまった編集者は「体重を大幅増量の刑」に処せられ、顔を異様に膨らまされた姿で載せられている。
 大体が笑って済ませられるようなミスだから、こうしたユーモアたっぷりのお詫びでも通る。これと対照的なお詫びが新聞にあった。多摩川を遡る鮎が鵜の餌食になってしまうとの話で、鵜に食べられてしまう鮎が6・3万トンで、2520万円の損失とあった。天然物の鮎だから、一尾幾らぐらいになっているのかと、私は計算してみた。すると、何と1円で2・5キロになる。まさか。何度計算しても同じ。
 すると翌日、鮎の単位が間違っていました、と訂正が出た。6・3トンの間違いである。これなら1円で0・25g、つまり1000円で250gで、妥当だ。簡単な計算をしなかった校閲部の杜撰なミスだが、その謝罪はひどく簡単なものだった。同じ新聞には「?」の次に「、」を打ったミスもあったが、それは知らん顔を決め込んでいた。

 テレビは垂れ流しでもある。意識せずに見る事が出来る。スイッチポンで、自動的に映像と音声が流れて来る。こちらから積極的に関わって行く、と言う姿勢を取らずに済んでしまう。だから、視聴者としても、見方がいい加減になる。そうした見方に乗っかっていれば、簡単に流れ去る映像と音声で十分である。だから、勉強しなくても、辞書を引かなくても困らないのではないのか。
 結構、勝手なつまらない意見でも堂々と通っている。テレビだからこそ、それが出来るのではないのか。出版物では、そうした事は通らない。何よりもお金を出して買ってくれる読者の事を考えなければならない。しかしテレビの視聴者はただでテレビを見ている。お金を出しているのはスポンサーで、スポンサーの思惑はまた違う。スポンサーは番組の内容の良さではなく、どれほど視聴者を惹き付けられる面白さがあるかが問題なのだと思う。良い番組が視聴者を喜ばせるとは限らない。
 私は出来の悪い原稿を何冊も書いているが、ことごとく、読者に伝わらないと言われて本にはならない。ただし、私が何万部ものベストセラーを既に出しているなら、話は別になるらしい。それで、読者に思いが届くらしい。
 と言う事は、テレビは既に大ベストセラーなのである。そりゃそうだ。何千万人もの人々が日々見ている。だからどのような内容でも伝える事が出来ている。
 そう、力が違うのですよ、力が。悔しかったら、お前もそうした力を持ってみろ、と言われても仕方がない。けれども、力があるからこそ、責任もまた重いのだと、私は思います。

標準語と東京弁と「僕」

2008年05月22日 | Weblog
 きのうに続いてテレビの標準語について考えた。
 私はNHKは、番組を手伝う仕事をしていて、それは何年も続いていたのだが、始まっていた仕事の途中で突然に、私には分からない理由で仕事を取り上げられたので、それ以後、見ない。生活の糧でもあったし、それ以上に意欲を持って当たっていた仕事だったのだから、悔しさは言いようも無い。
 朝の連続テレビ小説は毎日見なければ、との脅迫観念に駆られるから、以前からも見なかったが、ある時、ふとチャンネルを間違えて、見てしまった。ところが、それが非常に印象的なシーンであって、ついつい、続きを見たくなってしまった。それが、何と、3回も続いたのである。
 ドラマの作り方が上手かった訳だが、次第に引き込まれて行ったのには別な理由があった。それがドラマでの方言である。

 最初は「ちゅらさん」の沖縄方言、次が「どんど晴れ」の盛岡弁、そして「ちりとてちん」の若狭弁。「どんど晴れ」では草笛光子の、「ちりとてちん」では和久井映見の話し方が心に染み込んで来る話し方なのである。
 「どんど晴れ」では主人公の一人である青年は東京のホテルマンである。彼が郷里で叔父の家族と話している時は「僕」で、祖母の前だと「俺」になる。彼にとって、叔父一家はある種の敷居の高さを感じる間柄であり、祖母との間にはその敷居は存在しないのである。「僕」と「「俺」の関係がそこにははっきりと出ていた。これは絶対に「私」と「僕」との関係にはなり得ないと私は考えている。「僕」が「私」のくだけた言い方になるのは、相手が同等以下の場合に限られるのである。「私」と「僕」の間には大きな断絶があるはずなのだ。

 話がそれたが、つくづくと、東京人はそうし心に染みる話し方が出来ているのかと考えた。標準語が東京方言を基準にして作られたがために、標準語=東京弁のような錯覚、並びに現実がある。東京弁は活力を失っているのではないか。
 活力を失っている証拠の一つに、東京弁の特徴でもある「ガ行」の柔らかな鼻音がある。これが今や風前のともしびになってしまった。

 小学校の国語の時間に、「ガ行」が鼻音である事を習った。「学校」の「ガ」などの語頭の音ではなく、「歓迎」などの途中に出て来る「ガ行音」の事である。「……ですが、」の「が」も当然に鼻音になる。「……です」を略した言い方の「が、」も、だから鼻音だ。
 しかし民放テレビの、それも特に女性のアナウンサーやリポーターのほとんどが非常に強くて汚い「ガ」の発音をする。それはそれは本当に汚い。まるで、視聴者の期待を裏切るのが楽しくて楽しくて仕方がない、とでも言うように嬉しそうに「ガ」とおっしゃるのである。
 こうした女性達は、多分、人前で平気で音を立てておならをするのだろうと、私は思っている。

 無礼な考えではない。人前でしゃべる事を仕事としているからには、全国の美しい方言の数々を勉強しなれ。これは若狭弁。「しなさい」より、どれほど優しくて、しかも諭している気持が込もっている事か。
 ついでにきちんと標準語の勉強もしなくてはいけない。アクセントなどでたらめではないか。言葉その物も知らない。

 自分の恥が局の恥にもなる事をしっかりと胸に刻み込むべし。
 これは知識の有無の問題ではない。仕事人としての自覚が有るか無いかの問題なのである。私がこんな事を勝手に言えるのも、私はこうした事で一銭も得てはいないからである。私の恥は私自身の恥にしかならないのである。

標準語なんて、使っている人いるのかなあ

2008年05月21日 | Weblog
 テレビでは「僕」を成人男性がごく当たり前に使っているので、もしかしたら、これは現代の標準語になっているのか、と考えた。日常の事ではなく、社会的な事、仕事上の事で、今も私は「僕」を聞いた記憶がはっきりとは無い。サラリーマンなどでも上司に対して「僕」と言っている、と言う人もいるのだが、私には信じられない。つまり、私は標準語を知らないらしい。

 標準語とは、全国共通の言語、全国のどこでも通用する言語、そう考えられている。自分は使えないが、聞いて分かる、読んで分かる、と言うのが標準語だろう。それは話し言葉もあるし、書き言葉もある。全国的に使われているのは書き言葉の方である。各地方の新聞はみな標準語で書かれているはずだ。
 だが、話す事になると、標準語でなど話す人はいない。いるとすれば、NHKのニュースのアナウンサーぐらいなものだ。民放はニュースのアナウンサーであっても、結構アクセントのおかしな人が多い。結構と言うよりも、驚くほど多く居る。
 テレビの出演者、特にバラエティー番組では、全員と言えるくらい、皆さん出身地の言葉でおしゃべりになる。東京の局の番組でも半分くらいは関西弁だったりする。ところが、東京弁は、と言うと、これがさっぱり聞かれない。えっ? 東京弁なんてあったっけ?

 ……ちゃった、などが典型的な東京弁で、関西人が東京弁の真似をすると、決まって、……でさ、……ちゃったよ、などの連発になる。「落っこちる」などは関東地方の方言らしい。正統的な江戸弁だと、よござんしょ、などがそうだと聞いた。歌舞伎俳優の誰だったかにそうした言葉を言ってもらって、喜んでいた人をテレビで見た事がある。確かに粋である。
 方言の特色は特に付属的な言葉に現れるし、それが面白い。名詞や動詞、形容詞などは、場合によっては意味が分からなかったりするので、それほど注意はされない。私の知っているごく少数の方言としては、大分県の「とぶ」や「美しい」がある。「とぶ」は「走る」、「美しい」は普通に言う「きれい・清潔」である。
 こうした方言はあれっ? とは思うが、別にあまり面白くはない。

 標準語で話す、などと言うが、それはとても無理な事だと思う。やれば出来なくないが、ニュースのアナウンサーのような話し方しか出来ない。そんな話し方をしたって、ちっとも楽しくない。生き生きともしない。もっとも、NHKの宮田輝氏などは標準語を使って、時には方言を交えてではあったが、全国ののど自慢会場を沸かせていたと思う。ただ、本当に標準語だったかどうかは、あまり番組を見た事がないので、明確には言えないが、NHKだから当然に標準語だろうと思うのだ。そしてそれは飛び切りのプロだから出来る事だと思う。だからこそ、テレビでは方言が花盛りになるのだろう。だから、東京人は「言ってしまった」などと言わずに「言っちゃった」と言ったって、良いのである。
 もちろん、公式の席上以外での話である。

 話し言葉に標準語は要らないと私は思う。実際に、無いのかも知れない。変な作り言葉、無理な言葉、感情の込もらない言葉で話されるよりも、方言まるだしの方がずっと気持が伝わる。













































































































































テレビは言葉を知らない・その3

2008年05月18日 | Weblog
 相変わらずの小言で、一席御機嫌をお伺いさせて頂きます。
 えー、テレビの言葉遣いをお話ししておりますが、これは字幕の事で。
 昨日の土曜日の晩、食事をしながら、旅番組を見ておりました。本日はわたくしめの作りました鶏の唐揚げでして、唐揚げ粉は先日使ったのは家族からあまり旨くない、との評判で、違う物と半々に混ぜて使いました。これをビニール袋に入れまして、肉全体に均等にまぶしまして、20分程おいておきます。
 油は低温でじっくりと揚げます。二度揚げをするとカラッと揚がると聞いたのですが、まだやってはおりません。キャベツを細かく刻むのは私、得意でして。
 その旨い唐揚げを頬張っておりましたら、突然に「朝護孫子寺」が出てまいりました。あの「信貴山縁起絵巻」で有名なお寺です。「ちょうごそんしじ」。何とも舌を噛みそうな名前ですが、私の“大好きな”広辞苑によりますと、信貴山寺の正式名称とあります。ちゃんと、「ちょうごそんしじ」の名前で出ております。
 ところが、テレビの字幕の振り仮名は、何とあったかと申しますと、
 「あさごそんしじ」
 唐揚げが喉につっかえそうなくらい、私は驚きましたね。もしかしたら、私の老眼の見損ないかも知れないので、そのテレビ局の名前は申し上げませんが。でもテレビって便利だなとつくづく思いましたね。簡単に消えてしまうんですから。
 これは完全に湯桶読みです。お寺の名前で湯桶読みなんてあったかしら。それにお寺はほとんどが漢語の音読みのはず。
 訓読みなのは、三井寺とか石山寺ぐらいしか咄嗟には思い付かないんですが、三井寺は園城寺(おんじょうじ)の俗称ですね。
 「あさごそんしじ」がオーケーだとすると、東大寺はさしずめ、「ひがしだいじ」、法隆寺は「のりりゅうじ」ですか。延暦寺は「のべりゃくじ」、園城寺は「そのじょうじ」。あはは、もうやめましょう。
 それに、この字幕を作った人には「法」を「のり」と読んだり、「延」を「のべ」と読んだりするのはとても無理でしょうから。

 どうしてテレビは辞書を引かないのかと、前々から不思議に思っております。まあね、「相応しい」を「あいおうしい」と堂々と言っている熟年のリポーターがいらっしゃるくらいですから。でもね、こんなの、誰か周りの人が注意して差し上げればいいじゃないですか。テレビはそれこそファミリー意識でやってるんですから。

 新聞や本には必ず校閲と言う作業がある。私は一流会社の社史だとか広報などをDTPで作る仕事をしているが、校閲部と言うのは無いにしても、様々な人々が読み、直す。だから統一がとれない事、はなはだしいのだが、大勢の目が入っている。
 だが、テレビでは全く一人しか見ていないらしい。録画番組なら何度でも見直す時間がありそうなものと、思うのだが、見直されているようにはとても思えない。あまりにもみっともない間違いが多過ぎる。
 どうせただで見てるんだから、などと思ってはいないだろうとは思うが、番組を提供しているスポンサーは大金をはたいているはずである。少なくとも、そのスポンサーの顔に泥を塗った事になる。こうした時、そのスポンサーは局に対して、どのように出るのだろうか、とても興味がある。まさか、スポンサーも気が付かない、なんて事ありませんよね。

テレビの言葉遣い・その続き

2008年05月12日 | Weblog
 「僕」に始まって、テレビの言葉遣いについて考えた。
 今朝は、「流線形」を「りゅうせんがた」と言っている女子アナに出会ってしまった。今日もまた運が付かないか、とそう思った。確かにこの字はそうも読める。「流線型」とも書く。しかし「りゅうせんけい」は「りゅうせんけい」以外にあり得ないではないか。調べた七冊の国語辞典で、「りゅうせんがた」も挙げている辞書はわずか二冊。しかも説明の最後に「りゅうせんがた」とあるだけだ。それは「りゅうせんがたとも言う」のような堂々たる主張には思えない。私は物を知らない人間なのか、今の今まで「りゅうせんがた」などと言う言い方があるのを知らなかった。
 そして、この「りゅうせんがた」を載せている辞書を素晴らしいと思うかと言えば、反対に、何だか信頼出来そうもないな、としか思えないのである。この二冊は「垂涎」(すいぜん)を「すいえん」と読むのは慣用読みだ、と説明している。だが、他の辞書の多くは「すいえん」は間違いだと明確に書いている。「すいえん」など載せていない辞書もある。ある辞書には「百姓読み」の例として「すいえん」が挙がっているくらいである。
 「慣用読み」とはまた曖昧で重宝な言い方である。慣用と言われれば、間違いとは言えなくなる。私は国語辞典とは現状を認識するのではなく、指針を示すべき物だと考えている。現状を示すだけなら、どのような間違いだって載せなければならなくなる。そして明確な指針を示せない辞書があまりにも多い。多過ぎる。

 昨日、「怒り心頭に達した」と書いた。誰か何かを言ってくれるかと期待したのだが、駄目だった。あまり私のブログは読まれていないらしい。本当は「怒り心頭に発する」と言うのである。激しく怒る事を表す。でも私は本当に怒りが心頭(心)に達してしまったのです。
 こうした言葉は時折、総務省などが調査をしていて、間違って覚えている人がこれこれ、このくらいいますよ、と親切に教えてくれる。
 その記事を材料にしたニュースワイドショーがあった。もちろん、この言葉も出て来た。そして、その中には「白羽の矢が立つ」を「白羽の矢が当たる」と誤解している話も出た。司会者は「白羽の矢が当たってどうする」と一言の下に斬って捨てたが、私はそうは思わなかった。
 なぜなら、「白羽の矢が立つ」がどのような事で、それは「白羽の矢が当たる」とはどのように違うのかが分からなかったからだ。そこで調べた。
 「白羽の矢が立つ」は、神が選んだ人を示すために、人知れず、その人の家に白羽の矢を立てる、との言い伝えから生まれた言葉である。では、「矢を立てる」とはどのような事を言うのか。
 どの国語辞典を見ても詳しい事は書かれていない。

 昔はほとんどの家が茅葺きや藁葺きだった。しかも普通は平屋である。そこに白羽の矢が立っていれば、すぐに分かる。つまり、これは家の戸口に矢が刺さっているのでは駄目なのだ。どこからでも見える屋根に立っている必要がある。
 それでは、この矢は神がそっと屋根に突き刺したのだろうか。神が選んだ家を示すためなら、何も白羽の矢である必要は無い。白羽は目立つからだろうが、屋根に立てるだけなら、榊でもいいし、何か神聖な物で飾った物でも良い。目立ちさえすればそれで良い。
 しかし、白羽の矢なのである。矢である必要は何か。
 『常用字解』(白川静)には「新」の字の説明があり、そこには「立」+「木」+「斤」ではなく、「辛」+「木」+「斤」だと書いてある。この「辛」は取っ手の付いた大きな針の事で、位牌を作る木を選ぶ時、この針を投げ、針の当たった木を斤(斧)で切る事を「新」と言った、と書かれている。更に、「この神意による木の選定方法は、重要な建物の建設場所を決める時、神聖な矢を放ってその到達地点を建設場所とするのに似ている」とも言う。
 そうであれば、神も誰かを選ぶ時、神聖な矢を放ったのではないのか。もちろん、人々は神が矢を放つのではない事を知っている。神に代わった人が矢を放つのである。ただ、的は決まってはいない。だから、天に向かって矢を放ち、その矢が落ちて来る所が神意だと考えたのである。
 つまり、それは矢が当たった場所である。
 「矢が立つ」なら、神がそっと藁葺き屋根に矢を置いても良い。しかし放った矢が落ちて来るなら、「矢が立つ」だけではなく、「矢が当たった」と言ったっておかしくはない。実際に、情況を想像すれば、「矢が立つ」よりは、「矢が当たる」の方がずっと的を射ていると、私は思う。
 先の司会者は「矢が当たってどうする」と非難したが、「矢が当たる」はそんなに非難されるべき情況ではないと私は考える。と言うよりも、この司会者はそこまで考えて発言したのか、と言うのである。単に「矢が立つ」が正しいのだから、「矢が当たる」は間違いだ、との単純な思考しかそこには無いのではないか。
 「怒り心頭に発する」が正しくて、「心頭に達する」が間違いなのは、その意味が明確に分かっているからこそ言えるのだ。「白羽の矢が立つ」が正しくて、「当たる」が間違いだと言うのも、同じように、その意味がはっきりと分かっていて初めて言える。
 どの辞書も、テレビのお好きな『広辞苑』でさえ、「立つ」の理由を説明してはいない。「白羽の矢が当たる」が間違いなのは、そうした言い方が慣習的にされていない、と言うだけに過ぎない。しかし、「矢が当たってどうする」と言う意味は、そうではなく、「とんでもない間違いだ」と言っている事になる。
 広辞苑でさえ説明が出来ていない事を、この司会者は知っている事になる。

 テレビがお好きな、と言ったのは、この局は「広辞苑」をもじって、人物紹介を「広人苑」とタイトルを付けているからだ。
 話は別だが、朝日新聞の「新」はこの「辛」+「木」である。そうであるからには、同紙は神意を重んじているに違いない。心して記事を書くべきだと思う。

テレビ人は日本語の勉強をもっとした方がよろしい

2008年05月11日 | Weblog
 テレビでは「僕」が全盛だと言う話から、リポーターの事を思い出した。彼等とても生活が掛かっている、いや、人生が掛かっているから、真剣なのだろうが、ちょっとその真剣さがずれているのでは、と思う。
 政治家や役人に密着取材して、痛い所を突くのは大変面白い。今後とも是非続けて頂きたい。でも、単なる普通の人に、それも辛い思いをしている人に向かってマイクを突き付けるのだけは是非ともやめて頂きたい。
 テレビは事実は何が何でも放送しなければならない、と言う強迫観念に追い掛けられているようだ。だから、どこへでもずかずかと踏み込む。事故で肉親を亡くして悲嘆にくれている家族に向かって、平然と、いや、非常に冷静に、正確に言えば、冷酷に、マイクを突き付け、口を開かせる。この野郎、と私は怒り心頭に達するが、すべてそんな人達ばかりである。

 亀田事件でもそうだった。息子が真剣になって詫びているのに対して、あるリポーターはこれでもかこれでもか、と言うくらいに責め立てていた。大人げない事をするなあ、と私は呆れて見ていた。たとえ謝罪が足りなくても、筋が違うだろう。
 船場吉兆でまたもやおかしな言い訳がされていて、それを突っ込んだ所で、何も得られはしない。単に彼等のおかしさが浮き彫りになるだけで、それはそんな事をしなくても、分かる人には分かっている。いくら謝らせた所で、やる人間は再びでも三たびでもやる。喉もと過ぎれば何とやらと言う。
 まあ、懲りない面々には綿々としてやってもいいだろうが、善意の被害者に対しては全く事情が違うのである。
 一人くらい、お気の毒でとてもマイクは向けられませんでした、と言うリポーターがいても良いだろうに、と思う。何で取材しないんだ、と局からお目玉を食らっても、それこそ、我々視聴者が味方になって差し上げますよ。

 自分達は公共のための報道をしているんだ、とばかりに、傍若無人に振る舞う。だから相手が大臣だろうが首相だろうが、構うもんか。それ、行けー。それが慣れっこになってしまっているから、怖い物無しなのである。取材している自分を拒否してみろ、テレビを見ている世間が黙っちゃいないぞ、と心の底では思っているに違いない。一部始終が見えてしまうから、相手も突っぱねるのは難しい。見ている我々は前後関係が分からないから、その突っぱねた瞬間だけで、なんと横暴な人間なんだ、と早合点してしまいがちである。彼等はそれも計算済みなのである。ホント、まさに絶妙な所だけ切り取るよね。
 
 ひどく偉そうに振る舞っているくせに、質問はひどく下らなかったり、いい加減だったりもする。これは政治家に対してではないが、二年前だったか、埼玉県の流れるプールの吸水口に女の子が吸い込まれて亡くなった悲惨な事故があった。どの局も同じように報道をしていたが、ある局の女性リポーターは、プールの係員がどこに居たか分からないと報道していた。事故から一夜明けてもまだ彼女はきちんとした事が掴めていない。夜中の三時には既に刷り上がっている朝刊には、はっきりと係員は水中ではなく、プールサイドに立っていただけ、と書いてある。しかし、司会者はそれを問いたださなかった。知らん顔を決め込んだ。問いただせば、番組のお粗末さが分かってしまう。そんな大事な事が分からないで、なにがニュースワイドショーか。
 そして、ご両親は涙ぐんでいた、と言ったのである。馬鹿言ってんじゃないよ、どこの世界に自分の最愛の子供が吸い込まれて、手の届かない所に居るのに、涙ぐむくらいで済んでいる親がいるもんか。別の局では、号泣していた、と言っていた。それだって生ぬるいくらいである。恐らくは半狂乱になっていたはずだ。
 私はこうした心無いリポーターとそれを平然として許している司会者のやっている番組など見るつもりは無い。その司会者は平気で「僕」を連発する一人なのである。

 東京の私鉄の駅で、線路に飛び込んで自殺を図った女性を助けようとした巡査が死亡した残酷な事件があった。小中学校がその近所にあったから、私はその場所をよく知っている。直前がゆるいカーブになっていて、折から差し掛かった急行電車の運転士には見えなかった。急ブレーキを掛けたのだが、間に合わなかった。その事をリポーターは何と言ったか。
 ブレーキを踏んだが間に合わなかった、と言ったのだ。
 車のブレーキは足で踏む。だが、電車のブレーキを足で踏むとは今の今まで知らなかった。車はハンドル操作が命取りになるから手をほかには使えない。そこでブレーキは足で操作する。それが踏む、という動作になる。
 だが、電車はハンドル操作は無い。必要なのは加速する事と減速し停止する事だけだ。その重要な事はすべて手での操作になる。
 理屈などどうでもいい。こんな事は日常用語とも言える事だ。電車のブレーキを掛ける。車でブレーキを掛ける、と言っても間違いではないだろう。しかし電車でブレーキを踏むは駄目だ。これは言葉を職業とする人間にとっては当然の常識である。
 リポーターではなくアナウンサーだが、高速道路でバスが暴走した事故があった。幸いにも怪我人はいなかった。その報道をしたアナウンサーは何と言ったか。幸いに歩行者にも怪我人はいませんでした、と言ったのだ。現場の映像を流したから、誰だって分かるが、高架の高速道路である。私は残念ながら、歩道がある高架の高速道路を知らない。

 意地悪じじいのような真似は私とてしたくはない。でも、夫婦の会話じゃないんだ。仕事なんだから、もっと真面目にやろうよ。
 わたくし事だが、校正やDTPの仕事でミスがあると、たとえ致命的ではなくても、文句を言われるのは当然である。私は目次のページ番号を1ページ間違えたがために、70万円の損害金を払った経験がある。本の訂正にそれだけ掛かったのである。その本の編集費は30万円。そしてそれは取材などでほとんど実費同然なのだ。結局70万円丸々が損害になった。
 電車のブレーキを踏んだって、半狂乱になった親が涙ぐんだって、高架の高速道路に歩行者が居たって、70万円もの弁償金は払わないはずである。不公平だと言っているのではない。もっと責任を持って仕事をなさい、と言うだけの事である。名を知られた番組の主要メンバーだとの自負はおありだろうから、番組の恥さらしは慎みなさい、と言っているだけである。あーあ、性格の悪いじじいだ、ホントに。

「僕」がテレビで使われる理由を考えてみた

2008年05月10日 | Weblog
 ブログを始めた以上は、穴を開けてはいけない事は重々承知しているつもりなのだが、ついつい目先の仕事に追われてしまう。先日、私のブログの読者でもあり、厳しい批判者でもある流蛍さんから、前回の「僕を目上に使うのは無礼だ」については、全面的に賛成だ、との嬉しい御感想と共に、穴を開けないように、との御注意も頂いてしまった。
 「僕」については、跳梁跋扈しているその原因を追及せよ、との指令も頂いているのだが、うーん、難しい。

 テレビの番組の中で、同じような年代の人の対談や討論があって、そこで「僕はねえ」などと言っているのはそれはそれでいい感じでもある。ざっくばらんに腹蔵無く話をしている事がとてもよく分かる。こうした場合に「わたしは」と言っては話が弾まない。こうした場合の「僕」はそれこそ、「ぼく」でなくては表せない気持を見事に表現していると思う。
 そうした雰囲気が、多くの人々には、多分理想的に見えたのだろうと私は思っている。だから、「僕」が跋扈する。
 それでも、「僕」が似合う人と似合わない人がいるのも確かである。
 例えば、首相の福田さんは似合わない。民主党の鳩山さんも駄目、菅さんも駄目。もちろん、私の勝手な感覚だが。福田さんはともかく、菅さんは「私」しか似合わないと思う。と言うのは、きちんと相手を見て、自分の立場を心得て話す事が出来る人だからだ。
 「わたし」は社会人としての男性の標準的な自称である。これ一つだけで十分用が足りる。ひどく改まった場合には「わたくし」とも言うが、別に「わたし」と言ったからと、その人の価値が下がる訳ではない。可も無く不可も無い言い方である。なぜなら、相手と自分の間に一定の間隔を置き、相手を敬い過ぎもせず、自分を卑下し過ぎもしない、中庸な自称が「わたし」だからだ。
 ほかに代わる言葉は無い。

 「僕」は「わたし」のくだけた言い方だとの誤解があるが、それは、「僕」と言い合っている雰囲気が非常にくだけた場面が多いからだろう。単に仲間内での会話だから成り立っているだけに過ぎないのに、そうした理解が無い。
 ざっくばらんな雰囲気はくだけた言葉遣いでないと出せないだろうか。妙にしゃっちょこばる必要はないが、下品な言い方を敢えてする必要もまた無い。丁寧な言葉遣いだって、立派に腹蔵無い話は出来る。出来ないのは知恵が無いだけの事である。
 中には、心を開きたくないので、わざととても丁寧な言葉を遣い、距離を置こうとする人も居る。礼儀と儀礼は違う。儀礼はとかく形だけの事が多いし、それで通じる。しかし礼儀は形だけでは通じない。しっかりと心が入っていなければ駄目なのだ。

 先に、「わたし」の似合う人の事を言い、似合わない人の事には触れなかった。似合わない人とは、礼儀をわきまえていないように思える人の事だからである。どんな時にも「僕はねえ」などと口走るような人は、決して礼儀を重んじているとは言えない。
 それどころか、自分に絶大なる自信を持っている人がほとんどのように見える。政治家のIさん然り、テレビの司会者のOさん然り、元議員の、あれっ、今も議員だったか、Hさんなんか、自信があり過ぎて、「俺」だもんね。
 「僕」と言えば、「君」である。「君と僕の仲じゃないか」である。つまり、「僕はねえ」と言う人は相手を「だからだねえ、君」と言うのである。たとえ、「僕はね、あなた」と言ったとしても、その「あなた」には尊敬の気持などさらさら無いのである。
 「君」は絶対に「あなた」のくだけた言い方ではない。だから「君」に対応している「僕」が「わたし」のくだけた言い方ではない事は明確に分かるのである。

 ざっくばらんな庶民的な気持と、人を人とも思わない大胆な気持が重なって、「僕はねえ」の言い方を支えているのである。
 模範的な言葉遣いのはずのテレビの司会者や出演者達が揃いも揃って「僕」を連発するのも同じ感覚のはずである。ホント、テレビって力がありますからね。全国津々浦々まで顔は知られ、名前は覚えてもらえる。それで結構なお給金も頂けている。そりゃあ、真夜中から局に出て来て、しかも生番組なんだから、緊張も人一倍だろうし、前の晩に深酒なんかも出来やしない。
 でも、世の中には、もっと苛酷な仕事をしている人はたくさん居る。でも「名も無く貧しく美しく」(高峰秀子さんの映画のタイトルでもあります。古いねえ)暮らしている人は数え切れないほど居るだろう。単に、働く場が、電波と言う名の公共的な媒体と縁が有るか無いかだけの違いである。

 「僕」の特徴は、子供の自称だと言う事にある。それが大人でも同等以下に対してなら使えるのは、互いに子供の感覚になっているからだと思う。そして同等以下に対して、と言うのは非常に重要な意味がある。つまり、相手を自分と同等と見る事は、自分が相手より上ではない、と明確に意識している事になるのである。だから、家庭では夫は妻に対して「僕」と言えるし、それが気恥ずかしければ「俺」で良いのだ。私は「俺」である。
 家庭でも「わたし」などと言う人は、相手を上に見ているのではなく、反対に尊大なだけのはずである。もちろん、これは家庭内と言うごくプライベートな場での話である。
 だから、サラリーマンは仕事では、絶対に「僕」などとは言わないはずだ。第一、「僕」などサラリーマンの心の中には存在しないはずである。と言うのは、かつてサラリーマンだった私はそうだったし、現在、出版社や印刷会社の人々を相手に仕事をしている時も「僕」など意識した事も無い。飲み仲間とくつろいでいる時ぐらいには、「僕」が意識に上って来る、ぐらいの事なのである。

 言うまでも無いが、敬語は知識があるから使えると言うものではない。相手を敬う心、相手を思いやる心、そして自分は一歩下がる心が無ければ、使えない。丁寧な言葉と敬語は違う。その敬語だって、文法的には正しくても、ははあ、形だけだな、と分かってしまう事は多々ある。それは、その人の顔つきや態度などに明瞭に現れてしまう。
 その点、テレビはとても残酷だ。私はまだハイビジョンは持っていないが、多分、本心がはっきりと出てしまっているんでしょうね。いくらドーランを塗っても、隠し切れないはずである。機械の目は本当に冷静で冷酷ですからね。

思い上がったテレビ。視聴者に「僕」は無礼千万

2008年05月02日 | Weblog
 テレビの朝のニュースワイドショーをよく見るが、司会者が最初は視聴者に呼び掛けているのだが、すぐに仲間内の会話になる事が少なくない。仲間同士の話だから、自称は「僕」だし、相手は目下なら「○○君」になる。それがつい視聴者に向かっても「僕は」などと言う事になる。いや、つい、などではない。「僕」が当たり前のようになっている。たまに「私(わたし)」とも言うが、すぐに「僕」に戻ってしまう。
 すべての国語辞典が、「僕」は同等以下の相手に対しての言葉だ、と明確に説明している。「すべての」と言っても、私の場合、四冊の小型辞典と一冊の中型辞典、二冊の大型辞典だが、この計7冊を常に引いている。日本を代表すると言っても過言ではない辞典類だから、「すべての」と言っても差し支えあるまい。
 目上に対しては「わたし」または「わたくし」だが、普通には「わたし」である。もちろん、同等以下に対しても丁寧に言うなら「わたし」である。
 サラリーマンをやめてから30年以上にもなるが、サラリーマン時代に上司に向かって「僕」などと言う不心得者はいなかったし、出版社や印刷会社の人達との付き合いの中で、「僕」は聞いた事が無い。

 ある司会者はニュースワイドショーには「ファミリー意識」があると言っている。だからプライベートな事を話題にしても構わないとも言う。そうであれば、「僕」など当然の言葉になる。そして出演者達が討論し合う番組では、それこそ「僕」が飛び交ったって、一向に構わないのだろう。ただ、討論の中身はたいていは社会的な重要な問題でもあるから、そんなざっくばらんな討論ではなく、きちんと「私」を使った、慎重な物言いであるべきだ、と私は思う。

 ある番組では司会者達やリポーターの役職が表に出て来る。リポーターは司会者に対して、「○○さんがおっしゃったように」などと言う。その司会者はリポーターに向かって「御苦労さま」とねぎらう。「御苦労さま」は目上に対しては無礼な物言いになる、と言うのが大方の見解である。
 しかしながら、リポーターは「○○大臣がおっしゃった」などとは言わない。平気で「大臣が言った」と言うのである。つまり、彼等は職場意識で話しているらしい。「ファミリー」だったり「職場」だったり、お忙しい事です。
 ある司会者などは、出演している大臣に向かって「僕は」と言っていた。とんでもない司会者である。
 ある会社に他社の人々が来た。その人達の前で、「先ほど我が社の社長がおっしゃったように、僕も……」などと言う社員がいたら、多分、その会社は相手にされなくなるだろう。ええ、そんな社員は存在しないのですよ。
 それなのに、テレビでは堂々と存在している。つまり、テレビは、社会とは相容れないおかしな世界なのかも知れない。しかし、彼等がおかしいからと言って、その無法さを許す必要は無い。我々の常識に従って当然ではないか。

 テレビはそうは思わないのだろうが、視聴者はテレビにとっては大事なお客様である。視聴者が居るからこそ、テレビは成り立っている。ところが、テレビは勘違いをして、お客様はスポンサーだと思っている。確かに、大金を惜し気もなく払ってくれるのはスポンサーである。だが、そのお金の出所はどこか。スポンサーの提供している商品やサービスの価格に含まれているのだ。即ち、我々視聴者が払っている。
 もちろん、そこには企業努力があるのは百も承知である。だが、自分の利益を削ってまでCM料金を支払っている企業がどれほどあるのか。原材料が値上がりすれば、それを価格に上乗せして、平気で価格を上げる。利益は我慢して、などとはならない。
 私は、何もそうしたシステムを非難しているのではない。そうした交換が成り立っている以上、CM料金は消費者が負担していると考えておかしくはないはずだ、と言っているだけである。
 消費者が買わなければ、それらの企業はCMなど提供出来ないのである。
 従って、テレビはまず第一に視聴者の顔色を窺うべきなのである。それなのにスポンサーの顔色ばかり窺っている。視聴者に対しては、どうせただで見ているんだから、くらいの感覚しか無いのではないか。
 テレビは公共的な存在だから、新参者には出来ません、と門前払いをしておきながら、公共的な番組などまるでしようとは思わない。視聴率だけが問題なのである。だから良い番組であっても、視聴率が悪ければ、即座に打ち切りになる。なにが「公共的」なもんか。

 もしかしたら、「僕」は格上げになっていて、目上にも立派に使える言葉になっているのだ、と言う人がいるかも知れない。それなら、そうした人はこれからは、目上に対して「僕」と言い続ける事をお勧めする。それで、世間の「僕」に対する評価が分かるはずだ。そして国語辞典はすぐにも「僕」の説明を変更すべきである。
 私の使っているのは今から10年くらい前の辞典だが、10年で言葉ががらりと変わるとは思えないのだが。

 無礼を承知で言う。テレビの人々は言葉を知らないのではないか。地方出身の人もいるだろう。そうした人々の自称は何だったのか。東日本では「おれ」や「おら」だったりするし、西日本では「あて」「わて」などもあるだろう。そうした人々が共通語として使うのが「僕」なのだ、と言うのかも知れない。
 けれども、その「僕」は明治時代には書生や学生達の共通語として使われ始めたのである。元々は「やつがれ」と読んだと辞典にはある。もちろん、謙譲語である。江戸末期、薩摩や長州や土佐の勤王の志士が活躍した時代、各地の方言まるだしでは困ると、彼等の間で使われるようになったのが「僕」である。いわば、若者の言葉である。そしてそれは共通語である。言い替えれば標準語である。ただし、大人の言葉ではない。
 私はずっと東京だが、小学校では「おれ」ではなく、「ぼく」と言いましょうね、と教えられた。でも「ぼく」なんて言っていると、やーい、すかしてやがんの、とからかわれたりもした。東京人にしても、「僕」は標準語なのである。背伸びをした言葉なのである。
 だから、地方から来た人にとって、「僕」が大人の標準語だと錯覚するのも分かるが、自分の商売を考えたら、そんな安易な理解では済まないはずである。
 ある辞典には明確に「成人前の男性が使う」とある。子供言葉だから、例えば幼児に向かって「ぼく、何が欲しいの?」などと言う事が出来るのだ。「僕」が大の大人が使える言葉だと言うのなら、大人の相手に向かって「僕、お名前は何とおっしゃいますか」と言ったらいい。張り倒されるか、以後、口をきいてはもらえなくなるはずだ。

 「君と僕」の言葉がある。「君」は完全に同等以下にしか使えない。上司が「きみ、私はだね」などと言う情況を想像してみたらいい。相手が「あなた」なら「あなたと私」になる。同等以下に対して、「あなた」は当然に使える。その時、「あなたねえ、僕は」などと言うのは、目下に対する意識が明確にある。その場合の「あなた」は確実に相手を馬鹿にした言い方である。相手を敬って「あなた」と言うなら、自称は「私」になる。

 だから、視聴者に向かって平気で「僕は」などと口走る司会者の番組は見ない事にしている。理屈ではなく、本当に不愉快になるからだ。さもさも得意げに「僕は」と言っているのを見聞きすると虫酸が走る。テレビの司会者が言葉を知らない、あるいは勉強をしない、などとは考えられないから、多分、視聴者を同等以下と認識していらっしゃるのだろう。
 でも、私はあなたさまの部下でもなければ、同等以下の友達でもありません。
 亡くなった川内康範氏が自分の詩を勝手に変えた森進一氏に対しての発言ですべて「俺は」で通していた。それはそれで立派な見識である。十分に見下げているとの意思表明である。
 その「俺」と「僕」は丁寧かそうではないか、の関係にある。「僕」の地位はそれほど低いのだ。「わたし」の丁寧な言い方は「わたくし」であり、「僕」の丁寧な言い方は「わたし」なのだが、「わたし」関係と「僕」関係の間には大きな溝がある。
 丁寧かどうかで言えば、上のようになるが、「わたし」のくだけた言い方が「僕」になるのでは絶対にない。同等以下の場合に限ってそれは成立するだけの話なのである。
 つまり、同等以下に対して「わたし」と言って決しておかしくはなく、そのくだけた言い方が「僕」になるのだが、目上に対して「わたし」は当たり前の言い方であり、その場合にはくだけた言い方など存在しないのである。

 テレビは新聞や雑誌などと違って、音声がある。更には字幕だってある。言葉を音声と文字の両面から扱う事が出来る。いわば、言葉に対しては万能なのである。だから言葉に対して、十分に言葉の機能を発揮させる事が出来ている。それなのに、語感を大切にしない、いい加減な言葉遣いをして平気である。日本人の財産である日本語をそんなに粗末に扱って良いものか。
 民放の社員の平均年収は1300万円ほどと言う。月収100万円を下らない。その給料はどこから出ているか。もちろん、テレビ局がそれだけの利益を挙げているからではある。その利益は、先ほども述べたように、スポンサーのCM料金からであり、それは我々視聴者が買っている商品やサービスの価格の中に含まれている。
 いい加減に増上慢から足を洗ったらどうですか。
 なにっ? 増上慢なんて言葉知らないって?
 そうでしょうねえ。NHK用字用語辞典にも共同通信社の新聞用字用語集にも載ってませんものね。

・増上慢=仏教で、まだ悟らないのに、悟ったと思って、おごり高ぶること。(岩波)
・増上慢=まだ十分に悟りもしないし実力も無いのに、悟った(実力が有る)と思って自信を持ち過ぎること(者)。(新明解)

 あなた方がお好きで、多分、無条件に信頼していると思われる広辞苑では一般用語としては次の説明をしています。

・増上慢=実力が伴わないのに自慢すること。自信過剰。

 あなた方が有名なのは、そりゃあ実力もあるでしょうが、何よりも電波と言う公共の手段を使って、全国的に顔を知られているからです。嘘だとお思いなら、テレビを離れて、御活躍なさってみたら分かると思います。

 最後に、あるリポーターは「相応しい」を「あいおうしい」と言ってましたよ。あるアナウンサーは北九州市小倉北区を「おぐらきたく」と読んで、仲間のアナウンサーが恥ずかしそうに訂正していましたね。こんなのは、氷山の一角です。
 言葉で給料をもらっているのだから、お宝とも言える言葉をもっと大切にしないと、それこそ罰が当たりますよ。分かりましたね? ぼく。