夏木広介の日本語ワールド

駄目な日本語を斬る。いい加減な発言も斬る。文化、科学、芸能、政治、暮しと、目にした物は何でも。文句は過激なくらいがいい。

国会議員とは何と勝手な人間なのか・姫井議員の離反と挫折

2008年08月30日 | Weblog
 民主党の姫井由美子議員が離党を表明し、一夜で本意をひっくり返した。「本意」をひっくり返して「翻意」とはこれいかに、と駄洒落を言っている場合ではない。何ともみっともない人だ。週刊誌であれこれ書かれ、半分同情して、馬鹿を見た。根っらのおかしな人だったらしい。
 新党結成のためなら比例代表選出議員の移動は認められている、と言うのもおかしな話だが、選挙民から直接選ばれたはずの姫井議員は移動は認められないはずである。何よりも、選んでくれた選挙民に顔向けが出来ない。民主党であるからこそ、片山虎之助氏に勝ったのではないのか。
 「自民党による民主党切り崩しの受け皿だったことが分かった。当初描いていた形とは違った。軽率だった。心からおわびしたい」と陳謝した。
 と新聞は伝えているが、これが陳謝になるか? そして詫びて済む事か? 「軽率」は何よりも議員にとってあってはならない心構えではないか。
 最も重大な罪は、選挙民の信頼を裏切った事にある。こんな事が許されるなら、以後、このような輩がどんどん出てくる危険性ある。無所属、しかも新党などでは当選は覚束ない。そこで有力な党から出馬し、ほとぼりが冷めた頃になって、どうも主義主張が合わない、と飛び出るのである。
 菅直人代表代行を始めとする民主党幹部は「結果として、雨降って地固まるだ」と語った、と東京新聞は伝えているが、菅さん、甘いですよ。甘過ぎますよ。私はある仕事で奥様とご一緒した事がある。仕事が終わるまで、それが菅直人夫人とは知らなかった。夫人をその仕事の重要なメンバーとして招いた主催者が明かしてくれなかったからだ。だが、我々編集者、と言ってもわずか二人だったが、我々二人は、彼女のしっかりとした、そしてあか抜けのした立ち居振る舞いに心から感歎していた。
 そのご夫人から、確か年金に加入していなかった期間があった問題だったと思うが、「あなたは甘過ぎます」と言われたと聞いているが、本当にお人好し過ぎますよ。
 多分、党の勢力の問題も含んでの事情だろうが、こんないい加減な議員は、本人が戻りたいと言っても、断固排除すべきである。党のためではない。我々選挙民のためなのだ。
 
 多くの人がそうだが、いったん、ある地位に上ってしまうと、自信過剰になる。すべてが自分の実力の故だと思い込んでしまうらしい。そこから様々な勝手な言動が飛び出している。我々は日常茶飯事のようにそれを見ている。第一、言葉遣いがなっていない。我々を「君ら」扱いし、非常にぞんざいな口の聞き方をする。態度も横柄である。まるで、丁寧なしゃべり方をしたら、議員の、政治家の面目が丸潰れになる、とでも言うようだ。議員や政治家ばかりではない。
 東京新聞は、自民党については、次のように書いている。
 一方、民主党分断の思惑が外れた自民党幹部は「大山鳴動してネズミ四匹…」と嘆息した。
 本当にそう言ったのかは疑問だが、まことに的を射ている表現だと思う。つまり、5人の離反者は単なる「ネズミ」にしか過ぎなかった、と言う訳だ。もちろん、自民党幹部は格言として使ったのだろうが、言い得て妙、とはこうした事だろう。ネズミなら退治しなければならないだろう。

 この「大山鳴動して」だが、私はずっと「泰山」だとばかり思っていた。そこで辞書で調べたら、「泰山」とも書く、と説明しているのは、小型四冊の内で『岩波国語辞典』だけだった。「泰山」とは中国に実在する名山で、物事の安定している様に例えられる。辞書はこぞって「泰山の安きに置く」の用例を挙げ、「しっかりと揺るぎない状態」と説明している。その重要な「泰山」を『明鏡国語辞典』は載せていない。
 「大山」は普通には「おおやま」だ。中国地方には「伯耆大山(だいせん)」があるが、調べた全36の「大山」の内、「だいせん」と読むのはわずかに四つ。それは島根県と岡山県にある。そして同県には「おおやま」もまたある。32もの「大山」が「おおやま」と読むのだから、「大山=おおやま」は定着しているとも言える。
 東京にも「大山=おおやま」の地名が、私の知る限りでは、板橋区と渋谷区にある。
 そうした「おおやま」に「たいざん」を想定するのは難しい。それに「泰山」は単に「大きな山」ではないのだ。
 因みに「大山鳴動して」を「泰山」とも書く、との説明は『大辞泉』にもある。『広辞苑』は私は本質的に信用していないから、引用はしません。

私の問題な日本語・感動で鳥肌は立たない?

2008年08月29日 | Weblog
 東京新聞の「読者応答室」にオリンピックで優勝したソフトボールの上野投手が「マウンドで鳥肌が立った」と言ったのは誤用ではないか、との質問が載った。回答は、「感動時の決まり文句の言葉として定着」である。そして、本来は恐ろしい体験や寒気、嫌悪感、精神的ショックを受けたときに使われていた、と説明している。
 正解だろう。でも、私なども恐怖とはまるで関係の無い、感動的な場面で鳥肌が立った事が何度もある。そんな時、「思わず鳥肌が立っちゃった」と思う。その事に違和感は全く無い。ただ、確率的には圧倒的に恐怖の場合が多いので、「鳥肌が立つ=恐怖」が成り立っている観がある。

 言葉は約束事でもあるから、良くない意味で使う、と決めればそれだけの事。しかし、多くの人が実感として、良い場合にも鳥肌が立つよ、と認めれば、そうした意味でも使えるようになるはずだ。上野投手の言葉はきちんと計算して出て来た言葉ではないだろう。思わず出てしまった。それは実感だからこそである。実感を無視する事は無理だろう。
 東京新聞では、2002年12月当時の紙面で、校閲部長が、感動で「鳥肌が立つ」の表記は誤用、と指摘していたと言う。
 参考までに2000年11月の『岩波国語辞典』を見ると、「近ごろは、感激の場合にも言う」とある。2002年5月の『新選国語辞典』は、「近年、強い感動を受けたときの表現に用いるが、本来の使い方ではない」。2000年12月の『新明解国語辞典』は「急に寒い空気に触れたり恐怖に襲われたりして、皮膚が反射的に収縮し、一種変な気持になる」と説明している。場合としては「寒い空気、恐怖」と言っているが、「たりして」だから、それに限る、と言っている訳ではない。そして重要なのは「一種変な気持になる」だ。これは別に悪い気持とばかりは言えない。「変な=悪い」とは限らない。
 もっと古い1995年12月の『大辞泉』、1998年の『広辞苑』ももちろんの事、ずっと新しい2003年12月の『明鏡国語辞典』も感動の場合の使い方は全く無い。
 
 『岩波国語辞典』を見ている限りでは、同紙の校閲部長が誤用だ、と言った2年も前から、感激にも使う、と言っている。しかも「近ごろは」だから、更に二、三年は遡るのだろう。こうした場合、国語辞典の説明と新聞の校閲部長の見解のどちらが正しいと思えるのだろうか。辞書は権威があり、新聞は時流に敏感だ。でも辞書だって時流に敏感でなければ、役目が果たせない。
 校閲部長は言葉本来の意味にこだわった。でも日本語学者ではないのだから、もっと時勢に敏感であるべきだろうと、私は思う。

 非常に個人的な体験だが、私は30年以上も前に中学校の恩師(女性)から重要な借り物をしていて、返し損なっていた。彼女の戦死した兄上の日記帳だった。何でこのような物を私ふぜいに読ませてくれたのか、分からないが、そこには戦争と青春の板挟みになって苦しむ若者の姿があった。多分、私の弱々しい生き方に活を入れようとの思いやりだったのだろう。
 彼女は担任が病気で臨時の教員だった。だからか、色々な教師に聞いても居所が分からない。当時の住所は東京の三鷹市下連雀だった事は覚えている。電話の普及率はまだ相当低く、電話帳で調べるなどの知恵も無かった。
 30年も経って、三鷹市の電話帳を買い、片端から電話を掛けて調べる事を思い付いた。「お宅にふみこさんと言うお名前の方がいらっしゃいませんでしたか」。とっくに結婚して苗字も変わっているだろうから、旧姓のお宅に一軒ずつ電話を掛けた。三十何軒かあった。どこにも該当者はいない。
 もう諦め掛けていたが、最後の何とか右衛門と言う名前のお宅に電話した。名前だけを見て、何か関係無いなあ、と思った。ああ、これでせっかくの考えも無に終わるか。
 「ふみこは私ですが」
 その瞬間、私は全身に鳥肌が立った。

 聞けば、御主人が彼女の姓を名乗ってくれたのだと言う。つまり、何とか右衛門は御主人の名前だった。私は長い間の借り物の詫びを言ったが、御本人は忘れていたようだ。
 私はある食べ物を同封して、借り物をお返しした。後日手紙が届いた。
 「お送り頂いたのは私の大好物です。何でご存じだったのでしょうね。そして品物が着いたその日は、亡き兄の祥月命日でした」 
 私は再び全身が総毛立った。何と言う巡り合わせか。多分、天国の兄上が導いてくれたのだろう、そう私は思っている。

アフガンでの日本人殺害は日本政府にも責任がある

2008年08月28日 | Weblog
 アフガニスタンで日本人のボランティアが殺された。同国の対日感情は悪化していて、本当は今期の始めに撤退する予定だったと言う。感情悪化の原因は、日本の派兵であり、海上給油である、と新聞は伝えている。それは間違い無いだろう。
 パキスタンではアメリカの後押しを受けていた簒奪政権が崩壊した。国民は諸手を挙げて喜んだ。中東のアメリカへの反感は根強い。
 8月21日の東京新聞には、インド洋で各国に無償で燃料を提供している自衛隊は、イラク空輸では米軍から燃料を購入していた、とある。2001年の米中枢同時テロの報復でアフガニスタン攻撃を始めた米国への支援が目的だった、燃料の洋上補給。防衛省幹部は「海外では有償が当たり前。無償提供が異例」と言う。ずるずると続く活動とその安易な延長は、燃料高騰にあえぐ国民の目にどう映るのか。
 と新聞は書いたのだが、ガソリンの値上げや様々な製品の値上げの事ばかり考えていて、我々は米国支援の意味を考える事を忘れていた。この東京新聞の記事も、上記のリードでは無償提供に目が行っている。米国支援ではない。

 現地の人々の生活のためにと、人々の暮らしの中にとけ込んで活動していた青年はわずか31歳の若さで命を絶たれた。もちろん、手を下した奴らが悪い。しかしそうした情況を招いたのは日本政府の米国支援にあるはずだ。坊主憎けりゃ袈裟まで憎い、と言う庶民感情はどこの国だって同じだろう。人間はこの数千年もの間、決して進化などしていない。国同士の戦いは紀元前何千年もの昔からずっと続いている。
 更には現在のような機械文明の発達が、人間の正常な感覚を麻痺させている。
 8月19日の東京新聞に玄侑宗久氏(臨済宗住職・作家)が「二分法で無意識に戦う人々」の事を書いている。ゲーム機で育った子供には「黒か白」しか無いと言う。動物が本能的に持っている同種の動物を殺す事に対する強い抑止力は、戦闘的なゲームに習熟する事で解除されると言う話を紹介している。イラクに向かう米兵はそうした訓練を受けているのだ、とも言い、そうした事が、今や一般市民にも及んで来たに過ぎない、と同氏は言う。
 「軍事力をもっと増強するなら、異様で残虐な犯罪ももっともっと増えると、覚悟しておいていただきたい」と結んでいる。

 戦争で平和が作れるはずが無いのに、無視されているのはなぜなのか。これは一見、死刑で凶悪犯罪を防ぐ事は出来ない、と言う死刑反対の議論と似ているが、違うはずだ。
 どのような理由があれ、戦争に加担するのは悪だ。日本政府は自分が戦争に行かないから、単に銃後の資金援助に過ぎないからと高をくくっている。直接参加はしなくても、資金援助など、もっと悪質ではないか。言うならば、姿を隠して戦争に参加している。
 日本政府が中東の紛争に米国の支援をしているのは、当地に平和をもたらしたいからではないだろう。当地の平和は当地に任せるしか無いのである。他人の出しゃばる幕ではない。
 対米支援は、アメリカから好意を持って迎えられたいからに決まっている。暴力団の親分にごまをすって、何とか自分だけは無事に暮らしたいとの魂胆である。そうした流れを明確にしたのが、あの「こいずみ」とか言う人間だ。そいつがまたぞろのさばろうとしている。田中真紀子氏は「変人」と言ったが、私は「悪人」だと思っている。今、経済的に苦しんでいる人々の多くは、絶対にそう思っているはずだ。
 大体、彼は「人」としての言葉を持っていない。優勝力士の授賞で「感激した」との一言が話題をさらったが、そして本人もほくそ笑んでいたが、冗談ではない。まあ、勝負の世界で御託を並べても仕方が無いが、政治の世界ではもっときちんと言うべき事がたくさんある。だが、彼は言わなかった。言わずにごまかした。その典型的な例の一つが自衛隊派遣問題だ。

 「自衛隊を非武装地帯に派遣すると約束した。従って、自衛隊の居る場所は非戦闘地域である」
 こんな論理が彼には成り立ってしまう。そして、
 「どこが戦闘地域か、非戦闘地域かなんて、私に分かる訳ないじゃないですか」
 非戦闘地域に派遣すると約束したのだから、どこが非戦闘地域であるのかを確認するのは彼の当然の義務である。当時の防衛庁がそう言って、そうしたのではない。首相自らが約束したのである。自分が確認せずとも、防衛省に確認させるのは当然の義務である。「知っている訳が無い」などと大見得を切る事か!

 考えてもみよう。世界に大国などは要らないのだ。自分が世界の警察だ、などと自認している事がどんなにいい加減で、ずるい、自分勝手な事か。それぞれに個性はあっても、そこそこに食べて暮らして行ければそれで良いではないですか。何で、他人の暮らしを圧迫してまでも、自分だけ良い暮らしがしたいのか。それでホントに幸せか? まあ、幸せなんだろうね。この世には物と金しか無いのだと思っているのだろうから。

「王道」は常識と国語辞典では意味がまるで違う

2008年08月27日 | Weblog
 「王道」とは何か、について私は以前からずっと疑問がある。私の考えていた「王道」の意味は、「最も正統的な道」である。「正統」だからこそ、「王の道」なのだと思っていた。8月25日の東京新聞も「王道」をその意味で使っている。「政権の枠組みは選挙で過半数が王道」と。
 どの政党も過半数を取れず、幾つかの党が結集して政権を取るのは単なる数合わせにしか過ぎず、それでは我々の一票がどのように生かされたのか曖昧になってしまう、と言う。その通りである。
 ところが、国語辞典で「王道」を引いてごらんなさい。そのような説明はほとんどされていないのですよ。私の持っている国語辞典での「王道」の意味は次のようになっている。

・楽な道。近道。「学問に王道なし」(岩波国語辞典)
・らくな方法。安易な道。「学問に王道なし」(新選国語辞典)
・らくな道。らくな方法。「学問に王道無し」(新明解国語辞典)
・安易な方法。近道。「学問に王道なし」。最も正統的な道。「古典研究の王道を行く」(明鏡国語辞典)
・安易な方法。楽な道。近道。「学問に王道なし」(ハイブリッド新辞林)
・安易な方法。近道。「学問に王道無し」(大辞泉)
・楽な方法。近道。「学問に王道なし」(広辞苑)

 まさに横一線。フライングも無ければ、メダル争いも無い。一つだけ目立つのが『明鏡国語辞典』の「最も正統的な道」である。
 そのほかはすべて「楽な道・安易な道」で、しかも共通しているのは「英語のroyal roadの訳」との説明である。
 ふーん、英語圏では「王様の道」は「楽な道なんだ」。そうだろうね、何の苦労もなく安閑としていられるんだからね。そう言いたくもなる。だが、ある英和辞典には「王道。近道。楽な方法」と、三つの意味が挙がっていて、「楽な道」ではない「王道」がある。で、その意味は、となると国語辞典を調べる必要が出て来る。そしてその結果が上記の通り、「楽な道」になってしまうのである。つまり、「楽な道」を二つも挙げている事になる。
 だがこの英和辞典がそんな馬鹿な事を考えているはずが無い。この辞書では、多分、正統的な意味を「王道」として挙げているに違いない。多分、同書は国語辞典では「楽な道」の説明しか無いとは思いもしないのだろう。
 でも、国語辞典を引いてみようとはしていない。この英和辞典は三省堂の『ザ・ニュー・センチュリー英和辞典』で、同じく三省堂の『新明解国語辞典』にも、同じく三省堂の『ハイブリッド新辞林』にも「楽な道」以外の「王道」は無いのである。同じ出版社の国語辞典さえも見ていない。これは怠慢以外の何物でもない。

 そして、もう一冊の英和辞典は、「学問には王道は無い」の意味を明確に「楽な道」としている。
 因みに仏和辞典には「la voie royale」で「王道。確実な方法」とある。ここには「楽な道」など微塵も無い。ただ、この「王道」の意味は分からない。この仏和辞典は小学館の『プログレッシブ仏和辞典』だ。では、この辞書の執筆者が同社の国語辞典を見たらどうなるのか。『新選国語辞典』にも『大辞泉』にも「楽な道」しか無いのだ。
 と言う事は、仏和辞典から見れば、自分の説明が「楽な道。確実な方法」になる事に気が付く。国語辞典から見れば、何だ、この仏和辞典の説明は? となる。
 つまり、両者を付け合わせて見る事で、自分の欠陥が見付かる、と言う訳だ。仏和辞典の欠陥は、「王道」の意味をきちんと説明しなければいけない、と言う事で、国語辞典の欠陥は、「楽な道」しか挙げていない、と言う事である。

 こうした事とは全く別に、イギリスとフランスの王様は確実に生き方が違う事になりそうだ。言うまでもなく、イギリス王はのんべんだらり、で、フランス王は誠実である。これは私が言っているのではない。英語の辞書が言い、フランス語の辞書が言い、日本の国語辞典が揃ってそう言っているのである。私に責任はありません。

 でも、何とも不思議で、しかも見事な光景だと思いませんか? 『明鏡国語辞典』を除く国語辞典に限って言えば、みんな、「お手手つないで野道を行けば」なのである。
 いくら英語の訳だとは言っても、「王の道」が「安易な道」である事に疑問を持たないのか。そして辞書の執筆者達はみな、「安易な道」で納得していると言うのか。それに馬鹿の一つ覚えのように、異口同音に「学問に王道なし」と言って、少しも恥ずかしいとは思わないのか。
 私の見た東京新聞のような使い方を誰もが知らないと言うのか。こうした使い方は以前日本経済新聞でも見た。普通は、この「最も正統的な道」の意味で使っている。
 「学問に王道無し」にしても、「近道は無い」ばかりではなく、仏和辞典の言うような「学問には確実な方法は無い」とも解釈出来るのではないのか。意味は、「幾らでも可能性のある道が存在する」である。
 英英辞典にも「easy way」とあるのだからどうしようも無いが、でも、だからといって、英語の解釈をそのまま採り入れなくても良いではないか。日本語に「王道」の言葉が無い訳ではないのだから。この言葉は英語から入ったのではない。中国語には春秋戦国の時代から「思いやりの心で国を治める」と言う意味の「王道」が存在している。それこそがまさに「王道」であり、「最も正統的な道」なのである。

 東京新聞の見出しの「政権の枠組みは選挙で過半数が王道」を国語辞典の言うような意味で解釈してみる。
 「政権の枠組みは選挙で過半数を取るのが楽な道だ」となる。馬鹿を言ってはいけない。私は様々な自分の原稿で何度もこの「馬鹿を言ってはいけない」を使っている。それくらい世の中は馬鹿を言う人で満ちている。
 記事には過半数を取るのが難しいと、政党の数合わせで政権の座に着く、と言って批判をしているのである。読者だって、それで納得して読んでいる。ここに挙げた『明鏡国語辞典』を除く六冊の辞書の執筆者達は全員、「政権の枠組みは選挙で過半数を取るのが楽な道だ」と解釈して、それで納得している訳だ。本当に馬鹿な人達ですねえ。それとも、東京新聞が馬鹿だとでも言うのですか? それは日経新聞もまた馬鹿だ、と言っている事になるのですよ。
 私が「王道」を見たのはこの二紙だけなので、これしか言えないが、もしかしたら、全部の新聞を敵に回してしまうかも知れないのである。

スーパーの多角経営は消費者のためになるのか

2008年08月26日 | Weblog
 大手スーパーが医薬品にも手を伸ばし始めた。その理由が次のように言われている。
 処方箋受け取りは時間がかかる。近くに食料品売り場があれば、待ち時間に買い物をしてもらえる。
 同じような話がコンビニなどと郵便局の同一店舗化だ。
 馬鹿を言ってはいけない。そんな事を言うなら、すべての商店は皆一つにまとまってしまうではないか。すべてが一箇所にまとまっていたら、確かに便利だ。でも、一箇所にまとまっていないからこそ、それぞれが個性的な展開が出来ているのではないのか。
 そして、我々はそんなにも面倒くさがり屋か。面倒だと思ったら、ちょっと難しい事や複雑な事は何も出来なくなる。面倒な一つ一つをクリアして行くからこの世は順調に回っているのである。一箇所で何事も済ませてしまおうと言う考えは、事業の独占に通じる。一つの企業が様々な仕事を展開していれば、話は非常に簡単になる。
 しかしそれでは、退歩にはなっても進歩にはならないから、独占は否定されているのである。

 結局、大手スーパーは客の利便性を正面に打ち出してはいるが、その実、自分達の利益追求だけが目的なのである。しかしそれを言う事は出来ないから、客が便利に買い物が出来る、などとの理屈を持ち出すのである。一箇所に集中しているのが便利なら、現在のような個々の商店が独立して存在する事は不可能になる。
 個性ある商店があるからこそ、魅力的な商店街が存在出来る。そうではない、と言うのなら、各地に百貨店や大型スーパーがもっとたくさん出来ていて当然である。百貨店の食料品売り場は、著名な商店の支店が店を出していると言う魅力はあるが、それ以外は、街の商店に劣る。高いだけで、それほどの魅力は無い。確かに品物はいいが、値段もすこぶるいい。同様に、百貨店の電気製品売り場には何の魅力も無い。
 百貨店の魅力は、その高級性にある。だから食料品も電化製品も売れるのである。同じ品物に高級性を求める馬鹿な人々が存在するからだ。
 
 私の住んでいるすぐ近くに都内でも有名な商店街がある。よくテレビに登場する。昔、その商店街が、本来は敵になると思われている大型スーパーに出店を依頼した。スーパーは商店街のほぼ中央にあり、両方がうまく行っている。商店街はスーパーの利用客に、スーパーは商店街の利用客に、それぞれ重宝に利用されている。
 そのスーパーの魅力は、何でも揃っている、にあるのではないはずだ。多くの人がそこだけで買い物を済ませようなどとは考えていないように私には見える。私自身、そのスーパーには、商店街には無い品物を買いに行く。魚屋も八百屋も肉屋も和菓子屋も酒屋も、それぞれに複数の店を決めてある。

 最近の日本の商業はおかしい。様々な企業が有力企業の下に寡占化されて行く。寡占、ほぼ独占とも言える企業に合理的な価格を要求するのは無理な事だ。何だって、企業の思うがままに運んでしまう。原材料が値上がりしたからと、簡単に商品の値上げが出来るのは、寡占化が進んでいるからこそである。だから企業は寡占化へと進むのだ。

 原材料の価格が上がったからと、簡単に末端価格を上げる事が出来るのは、独占的な企業だけである。パンにしても、粉にしても、マヨネーズにしても、様々な食品はほとんどが寡占的な情況にある。だから一方的に値上げの通告が出来る。様々な小さな企業があっても、都会では店が扱わない。
 考えてもみよう。我々が原材料の値段が上がったからと言って、商品つまり労働力の価格を値上げ出来るか。では、なんで企業はそれが可能なのか。言うまでも無い。労働力のように無尽蔵ではないからだ。それこそ、寡占の力である。労働力だって、航空機のパイロットなどになれば、非常に高く売れる。日本航空は、その高い給料のパイロットが人件費を押し上げていて、経営を圧迫する原因の一つであると言われている。だから高給を払えない小さな航空会社、例えばスカイマーク社などはパイロットが確保出来ず、運休する憂き目にあっている。

 新聞はスーパーの医薬品への進出を、単に「衣料品の不審を受けて」だと言うだけである。何といい加減な考え方なのか。Aが駄目ならBだ、Bが駄目なら今度はCだ。そんな単純な考えしか無い。そこには誠実さも品格も何も無い。あるのは、消費者の便宜のため、と言う「おためごかし」しか無い。単に手近で用が済ませるとの単純極まる考えしか無い。なにが真に消費者のためになるのか、などと言う高邁な思想は微塵も無い。
 これが日本の代表的な大手スーパーのイトーヨーカ堂やジャスコの真の姿なのである。それはそうだろう。例えば、イトーヨーカ堂はセブン&アイ・ホールディングスの傘下なのだ。頭のてっぺんから足の先までアメリカ資本の考え方に染まっている。
 イトーヨーカ堂の品物が良い、とは思う。だが、それとその商売の仕方は別だ。私はスーパーの薬品部で薬の処方を受けるつもりは毛頭無い。街のいつもの薬局に行く。そこでは、買い物に行って来ます、と言えば、その間に処方をしてくれる。買い物を済ませてすぐに薬が受け取れる。
 互いに個性を発揮する事で、この世は円満に回転している。それを何で、自分だけの物として独占しようとするのか。昔からガキ大将やいじめっ子は嫌われている。だが、大手スーパーはそんな事さえ気が付かない。それこそが、日本人離れしている証拠である。アメリカの資本に牛耳られているスーパーに、我々の生活が牛耳られてなるものか。

「冷たく冷えている」は「ぎんぎん」か「きんきん」か

2008年08月24日 | Weblog
 私の原稿を本にしてくれそうな出版社があって、そのために原稿の手直しを懸命にしていたので、ブログに手が回らなかった。そのくらいの余裕があって然るべきとは思うが、まあ、それほどの力は無いと言う事か。

 テレビで、冷たく冷えている状態を示す言葉として「きんきん」が出て来た。登場した人物はすべて「きんきんに冷えている」と言った。だが、私は「ぎんぎんに」だとばかり思っていた。そうではないか。「きんきん」には何か光っているような情況は感じられるが、冷たい感じは無い。でも「ぎんぎん」なら、その濁音のせいもあって、刺すような感じがある。
 「きんきん」は「きんきんした声」などの用例があるが、それは鋭く甲高いの意味だ。冷たい情況の「ぎんぎん」はそれとは違う。 
 だが、調べた6冊の国語辞典で私と同じ見解は『岩波国語辞典』だけだった。そこには、「外気や飲み物がよく冷えているさま」とある。「ぎんぎんに冷えたビール」の用例もある。
 だが、その他の辞書は、大型を除けば、「ぎんぎん」を載せていない。
 大型の辞書、それも多くの人々が国語辞典の模範と考えている『広辞苑』の説明では、次のようになっている。

・きんきん
1 あることに夢中で気分が高揚しているさま。また、高揚させるさま。「―に踊りまくる」「―のロック」
2 頭がひどく痛むさま。「頭が―する」
・ぎんぎん
1 金属的で耳に不快にひびく鋭く甲高い声や音。「女の―した声」
2 頭や耳に感じる鋭い痛み。「耳が―痛む」

 2では「きんきん」と「ぎんぎん」は同じだ。そして「ぎんぎんに冷えている」は無い。それは同じく大型の『大辞泉』も同じだ。同書の「ぎんぎん」の意味の一つは「頭がひどく痛むさま」である。
 「ぎんぎん」に冷えると「頭が痛い」から、二つの大型辞典は『岩波国語辞典』と同じ事を言っているとは思える。だが、『岩波』ほど明解ではない。
 つまり「ぎんぎんに冷えている」の立場はあまり優勢ではない。
 しかし、大型の二冊は「鋭い痛み」と言う点で、「ぎんぎん」が冷たさを表現していると認めている。

 つまり、このテレビは国語辞典さえ、きちんと読んでいなかった事を明確に表明してしまった。そして、「きんきんに冷えている」と言った人々を私は信用しない。言葉に対する感覚は人様々ではある。だが、「きんきん」と「ぎんぎん」の違いは理屈ではなく、感覚的に分かるはずだと思う。
 「からから」と「がらがら」は明確に違う。「はらはら」と「ばらばら」も違う。「きらきら」と「ぎらぎら」は似てはいるが、そのニュアンスの違いは誰でも分かるはずだ。
 「きんきん」と「ぎんぎん」の違いは、「きらきら」と「ぎらぎら」の違いに似ていると思う。
 清音の擬態語と濁音の擬態語のニュアンスの違いは、濁音の方はどちらかと言うと、品が欠ける点にある。「ぎんぎんに冷えている」が品位が無い、とは言わないが、どちらかと言えば、「きんきん」よりは原始的な表現だろう。冷えて頭に痛い、には「きんきん」よりは「ぎんぎん」の方がずっとふさわしい、と私は思う。

 感覚の問題だから、こうだ、とは言えないが、私は自分の感覚がおかしい、とは思わない。

オリンピックは平和の祭典。戦争国家は退場せよ

2008年08月23日 | Weblog
 オリンピックもそろそろ終わる。日本に限らずもの凄い選手の頑張りを見ると、何も言えなくなってしまう。そう言えば、北島選手のあの感激ぶりは可愛かった。汗を拭く振りをして涙を拭っている。そして「なんも言えねー」。ところが、無粋な字幕は「何も言えない」なのである。何度か同じ字幕が出たが、すべて同じ。こんな字幕に感動もへちまもあるもんか。でも昨日だったか、ちゃんと「なんも言えねー」と流していた局があった。出来のいい局はある。
 この「へちま」だが、『新明解国語辞典』によれば、「へちまの皮が役に立たない所から、〈へちまの皮とも思わない〉と言うようになった、とある。「へちまとも思わない」はその略だそうだ。私はあまりこの言い方は知らないのだが。
 そして、「感動もへちまもあるものか」は、否定的表現において語呂を整える用法、とある。この「語呂を整える」が私にはさっぱり分からない。「へちま」と何が語呂合わせになっているのか。どなたか、教えて下さい。

 それはそうと、何か「きな臭い」オリンピックでしたねえ。古代、オリンピックでは、ギリシア諸国は戦争を中断しオリンピックに参加したと言う。文字通り「平和の祭典」である。ソ連が東欧を侵略した時には欧米も日本もモスクワ大会への参加をボイコットした。
 それなのに、開催国中国は平気で戦争を仕掛けている。いや、戦争ではなく、単に反乱分子を制圧しているだけなのだ、と言うのかも知れない。しかし、そう思っているのは中国だけで、他国はすべて他民族の弾圧であり、戦争だと思っているはずだ。
 ロシアにしても同じである。グルジアで、まさに戦争をしている。本来なら、国際オリンピック委員会が参加を差し止めるべきではないのか。平和の祭典に戦争は似合いません、と。しかし国際オリンピック委員会は金儲け機関に成り下がってしまっているから、金になればなんでもあり、なのである。
 アメリカだって、威張って参加など出来ないんじゃないのか? それにアメリカのテレビ局の放送の都合で、競技の時刻が変更されたんだと。許せねー。

 そして中国は開会式の足跡の花火がCGだったと分かり、しかも少女の口パクまでばれてしまった。更には少数民族が参加していると見せたのはすべて漢民族だったと判明した。それに対して中国人達は、ショーなのだからいいではないかと、とんでもない事を言う。冗談じゃない。ショーだからこそ、全世界の人々に見せる物だからこそ、正しくなくてはいけないのである。これを単なる見せ物だと思う人々はオリンピックを開催する資格が無い。そこには真剣に全力を尽くして闘う人々が居る。中には自分の全生命をかけている人だって居る。

 私は開催前から、聖火リレーの事などもあって、中国は開催国の資格が無いと思っていた。それがその通りだった事を自ら暴露してしまった。国際オリンピック委員会も馬鹿だねえ。中国が単に背伸びをしたいだけなのに、そんな事も見破れない。いや、私だって中国の国力は認める。しかし国力がある事と他国を制圧する事とは相反する。むしろ、国力があれば、他国に優しくなれるのである。
 つまり、中国の国力は見せ掛けである。本物ではない。私が中国は国力があると見たのは間違いだった。本当の国力は国民が持っている。では中国では国民がそれを持っているか。本当は国民はそれを持っている。ただ、それを示す場が無いのだと思う。すべて国家の意のままに御せられている。
 前に、中国人と中華人民共和国人は違うと書いた。テレビで見る中国人はすべて中華人民共和国人ばかりである。

 それにしても、開会式での中国の国名表示を見て驚いた。そこには「中華人民共和国」ではなく、単に「中国」とあったのだ。英語の表示は本来なら「People's Republic of China」である。フランス語の表示も同様だ。我が家のアナログテレビでは細かい所までは見えない。それに中継のカメラは国名表示などに興味が無いらしく、そのプラカードをきちんと見せない。私はいつも開催国が他国をどのように呼んでいるのかに非常に興味があるので、そこに注目してしまうのだが、カメラが気にしているのは旗手と選手団だけである。
 でも、国名って、その国にとってはものすごく重要な事だと思う。人にすれば自分の名前である。自分の名前をおろそかにされて平気な人が居るだろうか。国名のプラカードをきちんと見せないカメラを私は何が大事なのかを知らない人だと判断した。それに、あのだらだらとした、まるで遊び半分のような入場行進を私は認めない。自由でいい、と言うかも知れないが、自由にも限度がある。そんなだらしのない姿をを見せる事に必死になっている。
 外国語表示はともかくとして、いつから中国は国名表示を「中国」と変えたのか。私は知らなかった。でも、国名表示を変えても、その実態は一向に変わらない。相変わらず覇権国家意識まんまんである。
 でも、選手達は素晴らしいねえ。国境を越えて素晴らしい。願わくは、その素晴らしさのわずかでもいいから、「中華人民共和国」が薬にしてくれる事を。

「王妃の離婚」を読んで、漢字の事を考えた

2008年08月22日 | Weblog
 直木賞を受賞した佐藤賢一著『王妃の離婚』(集英社)を買ったのは九年前になる。だが、私は20ページほど読んだだけで、読むのをやめてしまった。なぜだか、その時は面白いとはおもわなかったのだ。本棚の一番目立つ所に入っていて、ああ、読んでいない本だな、といつも思っていた。でもなぜか捨てられない。でも、読もうとも思わない。読むのをやめた、と言うその思いがあまりにも重いのである。
 数日前、いつもの事ながら、夜12時過ぎまで仕事をしたために、眠れなくなってしまった。頭の中で勝手に文章が動き回っている。いつもは今まで読んだ本を再び引っ張り出して読んでいたのだが、それも種が尽きた。そこで取り出したのがこの本だった。
 もうすっかり内容を忘れているから、最初から読む。すると、どうした事か、面白くてぐんぐん引き込まれてしまう。多分、当時は同時に何冊もの本を買っていて、ほかの本を読むのに忙しかったのだろう。それにあまり小説は読まない。
 主人公は弁護士で、検事相手の駆け引きがまことに見事と言うしかない。よくもまあ、こんな面白い小説が書けたものだと感心してしまう。
 会話体がまた見事である。「 」で括られた会話と、地の文かと思ってしまう会話とが飽きさせずに話を運んで行く。ただ困惑するのが、漢字の難しさである。ルビが付いてなくて読めない漢字が幾らでも出て来る。初出には付いていたのだろうが、もう忘れている。
 中には初出に付いておらず、同じ行の三度目に出て来る漢字に付いている事さえある。これは単に編集者、校閲者の怠慢に過ぎないが、困るのは同じである。
 今、見直してみると、初出に付いていないものもある。また、付いていても、何でこんな難しい漢字を使うのか、と疑問になる。漢字自体は難しくはないのだが、読み方が難しい。例えば、
 「零れて」。これは「こぼれて」と読む。確かに辞書にも「こぼれる=零れる・溢れる」とある。だが、あまり訓読みでは使わない。音読みの「零時・零細・零落」くらいしかお目に掛からない。
 「拗れる」。これは「こじれる」。「すねる」は知っていたが、「こじれる」だとは思わなかった。これも音読みなら「執拗」やせいぜい「拗音」くらいだ。
 「啀み合い」。「いがみあい」。これなどは右側が「がい」だろうと見当を付けて漢和辞典でやっと出会える。応用例は無い。
 「済し崩し=なしくずし」。「なす」は普通は「為す・成す」ぐらいしか思い付かない。
 以下、細かい事は略すが、言われてみれば、そうか、と思う程度である。もちろん、私の漢字の知識が不足している事が原因ではあるが、知らなくても一向に恥ずかしくはない。
 「窘める=たしなめる」
 「血塗れ=ちまみれ」
 「仰る=おっしゃる」
 「掌底=たなぞこ」
 「顰め面=しかめつら」
 「弄る=いじる」
 「吝い=しわい」
 「拘り=こだわり」

 こうした漢字に比べると、以下のような表記はまあ、仕方がないか、とは思う。
 貶す=けなす。だが、これだって「おとしめる」の方が一般的だろう。
 所以=ゆえん。これは「由縁」もある。
 贔屓=ひいき。
 長閑=のどか

 なぜこのような事を問題にしているかと言えば、難しい漢字を使って、漢字に対する拒否感が育ってしまう危険性は無いのか、との心配がある。そうした事が、例えば「分かる」と言うような易しい、しかも小学校の低学年で習うような漢字の使い方にまで影響して、「わかる」としか書かない人が増えたりする。更には「子ども」「友だち」なども結構多い。
 漢字は表意文字としてだけではなく、「表語文字」としても使われるべきだと考えている。「表語文字」とは、「エレベーター」や「禁煙」を示す絵文字などと同じく、意味だけではなく、ひとまとまりの言葉である事を示している。特に日本語のような分かち書きが出来ずにずらずら書きになってしまう言語では、表語文字の使用は文章を見易く、分かり易く出来る素晴らしい表記法である。
 そうした事も踏まえて、常用漢字が定められたのだが、現在、その見直しが進んでいる。数をもっと増やすのである。とは言っても、そんなに多くは望めまい。何しろ、漢字を使うのは最新の文明にはそぐわない、などと血迷った事を考えている人々が少なくないのである。
 だから、役人の指示などを当てにせず、我々自身が考えるべきだと思う。必要な漢字はどんどん使えば良いのである。
 「碗」は常用漢字ではなく、従って「茶碗」とは書けず、「茶わん」にしか出来ない。それに、「碗」は俗字であると知っているだろうか。「卒」は「卆」とは書かない。「卆」が俗字だからだ。それと同じく「碗」の正しい漢字は、パソコンでは使われていない漢字なので表し方が無いのだが、「宛」のうかんむりを除き、その下に「皿」と書く漢字である。
 「碗」はたとえ俗字であっても、正字が認められていない以上は、「碗」を常用漢字に入れるべきである。日常使う「茶碗」がきちんと漢字表記出来ないなどと言う事があってたまるもんか。

私の問題な日本語・「朝が明ける」は正しいか

2008年08月21日 | Weblog
「朝が明ける」「新年が明ける」は誤り?
 きのうに続いて「現象の変化」と「変化の結果」のお話。まあ、その話が破綻しているのだと結論付けた訳だから、何も再び、は無いだろう、と思うのも当然だが、本当に自分の考えが正しいだろうか、との疑問もまたあるのです。
●説明
 夜が明けて朝になり、旧年が明けて新年になるのだから、「朝明け」「新年、明けましておめでとう」などの言い方はおかしいのではないかという疑問である。しかし、これは正しい表現で、「夜(旧年)が明ける」は現象の変化に、「朝(新年)が明ける」は変化の結果に注目していうもの。「湯(風呂)がわく」「穴があく」なども同じ言い方。

●疑問
 前項同様、現象の変化、変化の結果で処理をしている。その結果、前項はおかしかった。ここではどうだろうか。私は「朝が明ける」「新年が明ける」の言い方を不幸にして知らない。あるいは「幸いにして知らない」と言おうか。そして「穴があく」はなぜ同じ言い方だと言えるのか。

●私の問題点
 「明ける」は文字通り「明るくなる」である。従って、夜ならいいが、年はどうして「明るくなる」になるのだろうか。
 この事については、私はずっと考え続けて来た。そこでまるっきり「私見」その物だが、その考えを述べたい。
 「灯火」が自由にならなかった古代、夜が明るくなるのを人々は祈る思いで待った。明るくなると同時に、暗い夜は終わる。そこで、「明ける」は「明るくなる」であり、「夜が終わる」でもあった。「明ける=終わる」が定着した考え方になれば、年も「終わる=明ける」でおかしくはない。
 この「明」の漢字は「日+月」ではないと『常用字解』(白川静 平凡社)にある。「日」は元は「冏」の下側が閉じた文字で、「窓」を表していた。つまり「明」は「窓に月明かりが射す」意味である。漢字が作られた中国の北部は気候が厳しく住居は半地下式、窓は天窓がたった一つ。そこに射す月の光はそれこそ神の訪れにも思えた。だから「神」を「神明」と言う。
 神の訪れなら、新しい年もまさに「明ける」にふさわしい。
 こうした情況から「明ける」には「明るくなる」と「ある期間が過ぎる」の二つの意味が生まれていると考えられる。
 以上の事から結論が出るはずだ。
 つまり、「朝が明ける」「新年が明ける」はおかしいと。「明ける」その物が「明るくなる」なのだから、「明るい朝」が更に明るくなるはずが無い。「期間が過ぎる」が「明ける」なのだから、まだ過ぎてもいない「新年」が過ぎるはずが無い。
 この項にもある「新年、明けましておめでとう」だが、「新年」と「明けまして」の間には「、」がある。「新年明けまして(新年が明けまして)」ではない。「新年だ、明けましておめでとう」の意味のはずだ。「新年が」なら「、」など要らない。「、」をいい加減に考える日本語学者が私には信じられない。

 「新年が明ける」と「湯が沸く」は同じではない。「変化の結果」にこだわるから、そうなるのであって、「湯が沸く」と同じなのは「年が明ける」「夜が明ける」である。執筆者の考えでは、「水が熱くなる=湯が沸く=水が沸く」で、だから「旧年が新しくなる=新年が明ける=旧年が明ける」だと言うのである。
 だが、「沸く」では「水が沸く」は成り立たないのと同じように、「明ける」では「新年が明ける」「朝が明ける」は成り立たないのだ。どちらか一つしか成り立たない。そうれはそうだ。どちらでも、なんて言ういい加減な事を許したら、言葉はどんどん曖昧になる。

 さて「穴があく」はどうなるのか。
 「穴」は「穴を掘る」と「壁に穴が開く」の二つが代表的で、「くぼみ」と「突き抜けた空間」とがある。後者で言えば、「開いた結果が穴」だから「穴が開く」は「沸いた結果が湯」と同じだと言うのかも知れない。だとすると、「湯」への変化の前は「水」だから、「穴」への変化の前は「?」。そんな物は無い。「?」に相当する物は無限にある。馬鹿な事を言っては困る。

 次の項には、「一石を投じる」は正しく、「波紋を投じる」もまた正しい、との説明がある。「波紋」は一石を投じた結果生じるもので、「手袋を編む」なども同じ、と言う。英語にも中国語にもある言い方だと言うが、例を示してくれなければ分からない。そうそう、前の項には「家が建つ」も同じだとあった。
 「編んだ結果が手袋」で、「建った結果が家」になる。じゃあ、編む前は何だったんだ? 建つ前は何だったんだ? 手袋の場合は編む前は毛糸だった。だから「毛糸を編む」になるはずだ。だが、そんな言い方はしない。「手袋を編む」は「手袋に編む」なのだ。
 では「家」はどうなんだ。一体、何を建てたら家になるのか。まさか「材木だ」なんて言わないだろうね。
 日本語を易しく解説しているはずの同書で苦しめ悩まされるのでは本末転倒だ。羊頭狗肉である。同書は全国の学校で教材に使われていると言う。これで悩まなかった全国の教師達を心から御尊敬申し上げます。

問題な日本語・「水が沸く」は正しいのか

2008年08月20日 | Weblog
「湯がわく」は誤りで「水がわく」が正しい?
●説明
 水がわいて湯になるのだから、「水がわく」が正しく、「湯がわく」は誤りだという理屈である。一見正論であるが、言葉の論理としては間違いだ。「水がわく」は現象の変化に、「湯がわく」はその変化の結果に注目していうもので、どちらも正しい表現である。

●疑問
 本当にどちらも正しいと言えるのか。「水がわいたよ」と言う人を、幸せな事には私は知らない。

●私の問題点
 確かに「水がわく」は現象の変化に注目している。だが、その現象の変化を表す言葉が日本語にはある。それが「湯が沸く」なのだ。英語には「湯」に相当する言葉が無い。「hotwater」としか言いようが無い。「湯を沸かす」は「boil water」としか言えない。 現象の変化、変化の結果などと二つに分けてしまうから、おかしな考え方になる。
 「わく(沸く)」の意味を調べる。
●水が熱せられ、あわを立てて盛り上がる、または適温に達する。「湯が沸いたから茶をいれよう」「ふろが沸く」(岩波国語辞典)
●水が煮えたつ。(新選国語辞典)
●水が十分に熱せられ、湯気が立ったり泡が出たりする。「湯が沸く」「ふろが沸く」「生水をよく沸かして飲む」(新明解国語辞典)
●水などの液体が加熱されて熱くなる。「水は沸くと湯になる」「ミルクが沸いて吹きこぼれる」(明鏡国語辞典)

 「沸く」その物が「冷たい物が適温になる」なのだから、その最も一般的な現象として「水が湯になる」がある。だから、「水が沸く」が間違いであるのは当然の話である。従って、普通に「水が湯になる」のではない場合に「生水を沸かす」などの言い方になるだけの話である。
 「水がわく」が正しいのだ、との根拠は、多分、この「明鏡国語辞典」の説明にあるのではないのか。同書と同辞典は同じ執筆者陣で作られている。問題の説明は「水は沸くと湯になる」である。この用例の言い方が間違っているのだと私は思う。自ら「沸く=水などの液体が加熱されて熱くなる」と言っている。「加熱されて熱くなった物が湯」なのだから、「沸く=湯になる」である。だから、「水は沸くと湯になる」の言い方は間違いになる。なぜなら、この言い方は「水は湯になると湯になる」と言っているのと同じだからだ。
 しかし、この辞典の執筆者もそれに気が付かない。同辞典におかしな用例があるのはこうした、言葉が分かっていない事が原因なのだろう。
 
 これとは別に一つ気になった事がある。
 「水がわく」が正しく、「湯がわく」は誤りだという理屈は、一見正論だが、言葉の論理としては間違いだ。
 と言う論理展開が分からない。なんで、「一見正論だ」になるのか。我々の常識では、「湯がわく」が正しく、「水がわく」は誤りだという理屈は、一見正論だ、になるのではないのか。そしてそれが「言葉の論理としては間違いだ」になる。
 私は「言葉の論理として間違いだ」とは思わないのだが、こうした論理展開は可能だろう。その論理が「現象の変化」と「変化の結果」の違いがあるのだ、になる。
 そして、実はこの言葉の論理が間違いなのだ、と私は考えている。
 この二つの言葉は確かに違う。だが、「現象が変化」すればそこには必ず「結果」がある。言い替えれば、「変化=結果」になる。「結果」を想定しない「変化」は無いだろうし、「変化」を想定しない「結果」も無いだろう。二つが明確に違うのだと言うなら、「現象の変化」と「変化の結果」の両方に存在する「変化」の違いと言うか、一つの「変化」が一体、どこで二つに切れるのか、を説明して欲しい。
 もっと言うなら、「現象の変化」の「変化」はどこまでで終わり、「変化の結果」の「変化」はどこから始まるのか。
 「水→わく→湯」になるのではない。「水→わく=湯」なのだ。「変化=結果」である。

 言葉の論理とは「1+2=3」のような計算ではない。こうした計算が成り立たないけれども、考え方として成り立つと言う所に「言葉の論理」はあるのではないのか。この執筆者はとても頭の良い人で、多分、常に頭の中には計算があるのだと思う。それですべてを割り切る。だが、言葉はそんなに単純には割り切れない。そこから、様々なおかしな論理が生まれている。
 算数と国語は違う。算数には国語にある曖昧さは存在しない。反対に国語には算数にある計算は存在しない。だから国語に計算を持ち込み、国語から曖昧さを取り去ってしまうから、話が間違ってしまうのである。ここで言う「曖昧さ」とはいい意味での曖昧さであって、言い替えれば「情緒」などの言葉になるのだろう。
 こうした癖はこの執筆者だけではなく、同じグループに共通していると私は思っている。良い意味での曖昧さを的確に判断出来ないのである。