夏木広介の日本語ワールド

駄目な日本語を斬る。いい加減な発言も斬る。文化、科学、芸能、政治、暮しと、目にした物は何でも。文句は過激なくらいがいい。

中国がレアメタルの日本への輸出禁止を解くらしい

2010年09月30日 | 経済問題
 レアメタルの生産は中国が世界の96%を占めていると聞いていた。だがそれは産出の96%が中国に限られているのではなかった。埋蔵量の3分の2は他の国々が持っているのだと言う。生産による環境破壊とコストの高さから、他の国々が生産を見合わせているに過ぎないのだと言う。
 結局はカネの問題がどこでも優先されている訳だ。独占がどんなに怖い事かは世界中が知っているはずなのに、カネで迷わされている。日本もやっと他国での生産を考慮し始めているらしい。日本の花形産業の生命であるレアメタルの輸出を禁止すれば日本が困ると中国は踏んだ。でも御陰さまで、世界が目覚めた。中国の横暴さに席巻されるのは御免だと。

 日本も他国並みなのだが、特に日本は食糧の自給率が4割を切っているから、余計に心得ていなければならないのだ。何かの都合で他国が日本への食糧の輸出を禁止したらどうなるか。ただ、この4割を切るとの数字にはごまかしがあると言う。例えば肥料などが他国の製品であれば、それで作った食糧は国産とは言えなくなると聞いた。なぜそんな事をするのか。日本の食糧危機に対する認識を高めるためなら納得が行くが、どうも目的は別にあるらしい。
 この私の話は何から何まで「らしい」に尽きているが、どんな話だって「らしい」から始まるしか無いのではないか。その「らいし」がどこまで本当になるかを見極める力が要る。多くの国がその力を持っている。その力が徹底的に不足しているのが我が日本ではないのか。特に我が国はすぐにカネに目がくらむ。政治家はもとより、企業家もカネにすぐ転んでしまう。
 私ふぜいでさえ、安くても中国製品は買わないと心に決めているのに、日本を導く人間が安ければ何でも良いと飛び付いている。これを機会に、中国を生産の拠点とする事を考え直してはどうなのか。一時的に中国が強行方針を緩めつつあるように見えるが、そんなやわな国ではない事は十分に知っているはずだ。なんせ「中華」の国なのだ。自分だけが世界で一番優れているとの自負から出ている言葉である。「中華の中枢」ともなると、まさに鬼に金棒である。その「中華の中枢」は全体主義国家の長でもあるのだ。これからも何をしでかすか分かったもんじゃない。
 たとえ一時的につらい環境になったとしても、その後にはもっとずっと暮らし良い世界が待っているとしたら、その方が遥かに素晴らしいに決まっている。

「名」の漢字の由来

2010年09月29日 | 言葉
 新聞にキム・ジョンウンの登場の記事の枕として「名」の漢字の由来が書かれている(読売新聞・編集手帳・9月29日)。「手元の漢和辞典によれば」と断って、「夕方の暗い時に自分の名前を告げる」事から、と言うような事が書かれている。なるほど、分かり易い話だ。私は手元の漢和辞典を全部で7冊持っている。すべて手元にあるからすぐに引ける。そしてその5冊に同じ事が書かれている。その内の1冊には藤堂明保氏の『漢字語源辞典』も入っている。
 しかし別の2冊、それは同じ著者だが、そこには全く別の事が書かれている。

 「夕」は「肉」の省略形で、「口」は神への祈りの文である祝詞(のりと)を入れる器。子供が生まれて一定期間を過ぎると、祖先を祭る廟(みたまや)に祭肉を供え、祝詞をあげて子供の成長を告げる名と言う儀礼を行う。その時に名を付けたので、「な。なづける」の意味となった、とある。

 「名と言う儀礼」の説明が納得が行かない。祖先に子が生まれた事を報告し、そこで付けたから「名」であって、それを行う儀礼が後に「名」と名付けられた、と言うのが順序ではないのか。
 それは別としても、私はこの由来の方が納得が行く。先の記事が引いているように、日本では夕暮れの暗い時に「誰(た)そ彼」と聞いたので「たそがれ」の言葉が生まれた、との話は分かる。そしてこれは日本語である。だが「名」の由来は、中国でのしかも漢字の話なのである。そこに神への祈りの文である「祝詞」や祖先への報告などが出て来るのは当然と言える。古代には神に祈る事や祖先を祭る事は、現代より遥かに重要な事だったはずなのだ。漢字がそうした事から生まれるの当然である。
 「口」を祝詞を入れる器であると説明しているのは、私の数少ない見聞では、この著者、それは白川静氏しか居ない。そして数々の「口」を伴った漢字の由来がそれで明解になる。

 「夕」は「肉」の省略形とあるから、「肉」を見ると、象形文字では「夕」の点が二つになった形が載っている。正確には二つの点を丸く包むような形なのだが、それは大きな肉片で、柔らかい肉の中に筋目がある形なのである。
 こうした説明が、中高生にも分かるようにと書かれた『常用字解』にある。上に引いた説明をもっと詳しくすると、次のようになる。
 子が生まれて一定の日数が過ぎ、養育の見込みが立つと廟に出生を報告する儀礼を行い、幼名を付ける。それを「小字」「字(あざな)」と言い、更に一定期間が過ぎると廟に成長を告げ、命名の儀礼を行う。また実名を呼ぶ事を避けるために、名と何らかの関係のある文字が選ばれて、字が付けられ、通名として使用した。

 ただしこの説明は分かりにくい。この説明では、幼名が「字」であり、それは実名ではなく、通名であり、その後に命名する事になる。その順序がきちんと書かれていない。始めの方の説明と後の方の説明とでは矛盾とも思えてしまう。
 私は白川氏の辞書を信頼しているのだが、『常用字解』にはこうしたちょっと分かりにくい、うっかりすると誤解を生んでしまうような説明が少なくない。本人は分かって書いているからそれで通じるのだろうが、初めて読む人間にはそれでは正確な事が伝わりにくい。私はこうした説明に何度もつまずかされている。惜しいと思う。編集者の力が足りないのである。いくら白川氏が優れた学者であっても、「先生、それでは分かりにくいのではありませんか?」と疑問を呈する事が出来なくて、何が編集者か。

 漢和辞典だが、たいていは1冊しか持っていないだろう。たとえ2冊持っていても、説明が全く同じようなら、2冊持つ必要は無い。しかし多くの漢和辞典とは違う説明の漢和辞典を持てば、どちらが本当なのか、と迷う事はあるだろうが、より知識が広がる事は間違いない。ただ、そうした漢和辞典を見付けるのは簡単ではない。私のお勧めする『常用字解』は白川氏のほかの大辞典とは違い、2800円と、買えない値段ではない。多分「目からうろこ」の事が一杯あると思う。

BS4チャンネルの月曜日夜10時からの「日本の歌」は素晴らしい

2010年09月28日 | 文化
 男女12人ほどのグループが美しい歌声で日本の数々の抒情歌を歌い上げる。本格的な発声と正確な音程。下手な演出が無いから、歌その物の良さが堪能出来る。歌詞の日本語の美しさ、メロディーの自然な流れ。それらが際立つ。
 10時ジャストに番組は始まり、どんどん歌が流れる。普通はCMで始まったり、番組が始まってすぐにCMになるが、そんな不細工な事はしない。滔々とメインの番組が流れる。CMも少ない。そのCMもまた品が良い。非破壊検査株式会社一社がスポンサーで、CMは金子みすずの詩をテーマにしている。
 ぎゃーぎゃーわーわーわめいたり、品の無いCMが圧倒的に多い中で、極めて異質とも言える。番組とCMが一体となって、日本語の美しさがひしひしと伝わって来る。
 これでCMが無かったら、誰もが多分NHKの番組と勘違いするだろう。と言っても、一昔前の真面目なNHKの番組の事だが。やたらと視聴者に迎合する最近のNHKの番組よりもずっと正真正銘のNHKらしく思える。
 唱歌、童謡、そして流行歌までを対象にしているが、こうなると、歌には垣根が無い事がよく分かる。聞き慣れた歌が新鮮によみがえる。変に小節をまわしたりはしないから、メロディーが素直にすっと心に入って来る。
 私ら夫婦はこの番組を一週間中で一番心待ちにしている。「一番」と言って、二番以下が無い。私の個人的な感想だが、格が違うのである。こんな何でもないごくごく普通の番組が「格が違う」と思ってしまう。そこに現在のテレビ界の限界が見えている、と私は思う。

弱みを見せるから侮られる

2010年09月25日 | 社会問題
 那覇地検が中国人船長を処分保留で釈放した。えっ? と思っていたら、中国政府が「日本は謝罪と賠償をせよ」と要求して来た。「盗人たけだけしい」とはこうした事を言う。もしも謝罪などをしたら、それこそ「盗人に追い銭」になってしまう。
 そして新聞によれば、どうも裏で日本政府が妥協工作をしたらしい。それが本当ならとんでもない事だ。検察もだらしが無い。そうか、やはり検察は底の底までくさっていたのか。大阪地検も那覇地検も結局は同じ体質なのだろう。
 総理大臣がアメリカで何を話して来ようと、このような弱腰なら、世界中からなめられる。北朝鮮の拉致問題だって解決はしないだろう。

 それにしてもテレビを見ていて、腹が立った。コメンテーターと称する人間や評論家と称する人間が登場しているが、彼等は口々に中国人の観光客の減る事が怖いだとか、中国との経済関係が不安になる、などと勝手な事を言っている。常に金銭的な事しか頭に無いから、そんな事を平気で言うし、相手から馬鹿にされている事に一向に気が付かない。本当にカネの事しか頭が回らないのだろう。
 先日、私はこのブログで「欲しがりません勝つまでは」と書いた。そんな気概がまるで無い。

 話は変わるが、中国政府は日本が中国を「支那」と呼ぶ事に嫌悪感を持っている。日本が中国と全面戦争をしていた時の呼称が「支那」だからと言うのが理由らしいが、馬鹿を言っちゃいけない。これはあの始皇帝の「秦」が起源である。英語だってフランス語だってドイツ語だってみんな「秦」を起源としたチャイナ、シーヌ、ヒーナと呼んでいる。一人日本だけが非難されるいわれは無い。
 でも私は本当はそうではない、と思っている。支那と言う言い方は中国大陸を漠然と指している言い方なのではないのか。中国大陸には様々な国が興亡した。民族や言語が違い、版図も違う。そうした国々を「中国」と呼ぶ事は出来ない。なぜなら、「中国」は現在の「中華人民共和国」の略称だからだ。
 隋や唐の事を「中国」と言い、「唐の時代」などと言って平気だが、日本のように、大和朝廷が全国制覇をしてからは一つの国であり続けた国なら「平安時代」と言っても、それは単に歴史の一つの時代に過ぎないが、中国大陸は違う。それは一つの時代などと言う生易しいものではなく、「唐」と言う国その物なのである。
 現在の「中国」と歴史上の「中国」が違うのは、前後関係で分かる、と言う事情はある。しかし、現在の「中国」は内モンゴル自治区やウイグル自治区などを含んでいる。これらは独立運動が盛んで、中国政府がそれを弾圧しているのは北京オリンピックの時にも明確になった。
 更には台湾をも自国の領土だと言っている。
 そうしたすべてを含んでいるのが「中華人民共和国」であり『中国」なのである。

 しかし日本は少なくとも台湾は「中国」ではないと認めている。台湾に「中華民国」などの名称は使わせはしないが、一応は独立国として認めている格好をしている。そして、公平な目で見るならば、モンゴルやウイグルは中国とは別の国である。全体主義国家の中共が言う「中国」と世界が見る「中国」とが異なっている事に何の問題も無い。
 「支那」と言うのは、そうした現在の国の姿を越えて、中国大陸の歴史上に登場して来た地域を指す呼称だと私は思っている。だから「支那」には台湾は含まれない。でもそれでは中国は困るのだ。台湾をも含む広大な地域がすべて中華人民共和国であると言いたいのである。

 このような話を持ち出したのは、常に中国の勝手気ままが優先しているからだ。そもそもは第二次世界大戦後に連合国が中華民国を五大国の一つに入れてしまった事が原因なのだろうが、人口の多さを武器にやりたい放題である。東南アジアでも多くの国が中国ともめていると言う。アジアのリーダーの一員だと自負している日本がカネの魅力に負けて中国に妥協していてはアジア全体の幸せにはほど遠い。
 中国人観光客が減るのは打撃だと? では彼等が少なかった時はどうしていたと言うのか。それはそれで何とかやっていたのではないのか。一度手にした利益は絶対に手放せないらしい。そんなさもしい根性だから付け入られるのである。根性をすっかり見抜かれてしまっているから、相手は次々と弱みに付け込んで来る。そんな事も分からないようなでくの坊の連中にこの国を任せてはいけない。
 誰か腹のどーんと座った政治家は居ないのか。ただ、それは一人では駄目だ。田中角栄はアメリカの頭越しに中国と国交を結び、結果、アメリカによって抹殺された。そして第二の田中角栄は出なかった。田中角栄が良い、と言うのではないが、大国の圧力をはね飛ばせる政治家が何人も必要だ。そしてそれは一人政治家の信念ではなく、国民の信念でなければならない。再び言うが、今こそ「欲しがりません、勝つまでは」の精神が必要なのではないか。ちゃらちゃらと浮かれてばかりいては、一生、この国は這い上がれない。

理屈と感性

2010年09月23日 | 社会問題
 理屈と感性が争って、どちらを取るかと言う事になったら、私は文句無く感性を取る。
 と言うのは、感性はその人間と切っても切れない関係にある。例えば高所恐怖症の人を高所を怖がらせなくする事は不可能だ。しかし理屈ならどうにでもなる。その証拠には、何とか学派と言うのが幾つもある。同じ一つの事柄が,学派によって違う解釈になる。そんなのが真実だとはとても思えない。
 今度の村木元局長の事件にしても、これは終始、理屈が優先した。感性の出番が無かった。私の狭い了簡で言えば、最初にこの事件を知った時、既に同氏は罪人扱いをされていた。そこに私如きの感性の立ち入る領域は無い。事件を自分で最初から洗い出せば感性の出番はあっただろう。しかしそんな事を誰もが出来るはずが無い。
 私は常に自分の感性を最優先させて考えている。理屈はすべて後回しである。お前さんの感性なんか、くそくらえだ、と言われてもひるまない。なぜなら、自分自身の感性を無くしたら、私はどうやって生きて行けば良いのか。
 感性はかなりいい加減な所がある。例えば酒の味。私は収入が極端に減って、好きな日本酒は最低の純米酒にしている。明確に言うなら、3リットル1200円の純米酒を旨いと思っている。もちろん、1・8リットルで2500円とか3000円の純米酒が旨い事は体験している。
 で、その格安の純米酒なのだが、息子が私の誕生日に八海山の吟醸純米酒を買ってくれた。それは楽しみに少しずつ味わっているのだが、その酒を飲んだ後に、格安の純米酒を飲むと、それが旨いのである。それは当然なのだ。脳は最初にこの酒は旨い、と思った。だから、次に飲んだ酒も、その延長線上だと思う。
 で、反対に、先に格安の酒を飲んで、次に旨い酒を飲むとする。当然に、安い酒はそれだけの事。旨い酒はやはり旨いと感じる。この時、脳はどのように感じているか。最初に飲んだ酒の味を脳はしっかりと覚えている。だから次に飲んだ旨い酒の味は格段に違う事が分かる。
 つまり、安い酒→旨い酒の場合には、安い酒の記憶が脳に残る。しかし、旨い酒→安い酒の場合には、脳に残る記憶は「旨い」なのである。
 感性とはそれに似ていると思う。そうした点ではあまり信頼は出来ないのだが、そうした認識があれば、感性は馬鹿には出来ない。何と言われようと、嫌な物は嫌なのだ。その原始的な感性で物事を考えると、実は正確に物事を見る事が出来るのではないか、と私は思っている。もちろん、それは自分にとっての正確さなのだが、自分にとってどうなのかが、一番重要な事なのである。
 村木元局長の事件に関しては、私の思いが間違っていたと分かった時点で、私は自分の感性で考えた。だから、大阪地検の主任検事の犯罪は彼一人の独断ではないと思った。絶対にこれは大阪地検全体の体質であると思った。そうしたら、何とその上司も、そのまた上司も関わっていた事が判明した。
 これまた私の感覚なのだが、役所と言う所はそうした物なのである。上がそうだから下もそうなるのである。逮捕された前田主任検事が改竄をしたのは、そうすべき体質が大阪地検にあったからに過ぎない。大阪地検がそうした事を絶対に許さない体質であれば、彼がそんな事をするはずも無いのである。そんな事をしても許されて、結果的には進級出来ると知っているからこそ、改竄などと言う卑怯卑劣な事をしたのである。

 感性を大切にしよう、と言う私の主張は、村木元局長逮捕で一時は力を失った。私は報道の同氏は犯罪人である、との主張を信じてしまったのだ。感性は日本酒ではないが、簡単に騙される。しかし、立ち直るのも感性次第である。物事は調べれば分かる。後は感性の出番である。だから、私は常に自分自身の感性を磨いているつもりである。たとえ他人が、それは違うよ、と言ったって私はひるまない。その他人の言う事が正しいとの結論は出ていないのだ。感性と感性の争いになったら、引き下がる必要は無い。その場の情況に応じて妥協するかしないか、だけの問題である。
 そして、感性と理屈の争いになったら、最初に述べたように、私は感性に凱歌を挙げる。その感性が驚くほどに未熟であり、低劣だと分かれば、理屈の勉強をするまでの事である。そして、今の所,自分自身では私の感性がそれほどひどくはない、と思っているだけの事である。

私はいい加減な判断をしていた

2010年09月22日 | 社会問題
 お恥ずかしい事に、私は村木元局長を罪人だと思っていた。マスコミの報道にすっかり操られていた。テレビで元局長が答弁していたのを見たが、その時の彼女の態度はまさにお役人その物だった。けんもほろろと言うか、木で鼻をくくったと言うか、役人の私に向かって何を言うか、と言うような態度に見えた。もちろん、一部だけの映像を取り出せばそうした印象を作り出せる事は承知している。
 その映像に私はすっかり騙された。と言うと聞こえが良いが、本当の所は私のいい加減な判断が私自身を騙したのである。ただ、もっと言い訳を続けるなら、我々はこうした事件にそんなに真剣に取り組んだりはしない。どうせどこかの誰かの、我々にはあまり関係の無い話だ、くらいにしか思っていない。
 だから入って来るニュースを断片的に取り入れるだけの事である。繋がらない、どこかを一部強調したニュースの断片で真実が分かるはずが無い。でも、誰かが一部始終を分かり易く説明したからと言って、それで真実が分かると言う事も言えない。それが定評のあるコメンテーターだとしても、だからと言って全面的に信頼出来る訳ではない。

 この世の中の事をすべて見通せるような人は存在しない、と私は思う。何か一つの事に目的を定めたとしても、それは出来ない。よく○○事件を半生を掛けて追及した、と言う話がある。寝食も忘れて追及したんだから、そこには真実がある、と思いたい。しかしそうとは言えない。
 この世には様々なすべて異なる人生がある。その人生を自分の思うようにしたいとみんなが思う。だからそこには極端な場合には様々な仕掛けが凝らされる。カネのある人間、権力のある人間ほどそれが出来る。簡単には見破られないくらいに見事な仕掛けだって出来る。そうした複雑な仕掛けをすっかり見抜けるだろうか。
 そして現代のような電子技術を使えば、昔なら想像も付かないような複雑で巧妙な証拠を作り上げる事が出来る。今度の事件では検事の重要人物が電子データを改竄していた事が判明した。先日、私は読売の「編集手帳」の文章を批判したが、そこには「検察は創作活動に転身する事をお勧めする」と言うような事が書かれていた。それを私は皮肉ったのだが、とてもとても、創作活動などには及ぶべくもない程度だった事が分かった。
 自分達がでっち上げた筋書きが矛盾しないように、局長が発言したと言う日にちを改竄したのである。その記録はフロッピーディスクに保存されていた。その場合の改竄が簡単に出来る事は誰だって知っている。ただ、うっかりと忘れている事がある。データをいじれば、たとえ何もしていなくても、新たに保存の操作をすれば、最終保存日は変わってしまう。変更をする意思が無いのなら、「保存」操作ではなく、単に「終了」操作にするのはパソコンの基本の「き」である。証拠になり得るデータであれば、うっかりと保存操作をしてしまうようなお粗末なミスをしたのでは何にもならない。
 もしも完璧にデータ改竄をするなら、パソコン本体の日付を変えておかなくてはならない。そしてそこまで頭が回らなかった。これではとてもミステリーなどは書けない。トリックは片っ端から見破られてしまう。でも、そこまでしても完全犯罪は成立しないらしい。と言うのは、技術者が見れば、たとえ日付で騙しても、データその物に手を加えた証拠が残ると言う。そうだろう。破棄したはずのデータを復活させるソフトもあるのだ。普通には全く目に見えないデータが見えるのである。

 馬鹿な事に、この検事はフロッピーをいたずらしていて、間違ってデータを変えてしまった、などと馬鹿馬鹿しい言い訳をしたが、結局は、そんな程度なのである。だが、そこに身震いするほどの恐ろしさが存在しているのだ。そんな程度の低いいい加減な人間に、人の運命が左右されてしまうのである。
 これは一人、この検事だけの問題ではない。検察全体の基本的な考え方が問題になる。真実を追求するのではなく、自分が真実だと思えば、それが真実になってしまうのだ。だから様々な冤罪がある。死刑問題で、冤罪もあり得るから、死刑は廃止すべきだ、との考え方があるが、考え方が逆転している。
 冤罪はあってはならないのである。しかしそれが「あってしまう」と言う現実が、こうした検察の基本的な考え方から否定出来ない事を我々はもっと真剣に考えるべきなのである。

 この事件は、単に村木元局長の無罪が決定した、などと言う単純な事で幕引きをしては駄目だ。これを機に、検察の深い闇の部分を徹底的に洗い出す事だ。足利事件の菅家さんを、何か疑われるような所があったのだろう、などと言う人が居る。とんでもない。一点非の打ち所の無い人間なんて居ない。当時の血液鑑定の不十分さが理由になったりしているが、これまたとんでもない。基本には自分達の作った「真実」を何としてでも通そうとする検察の基本的な考え方が存在している。
 この世の中の事をすべて見通せるような人は存在しない、と書いた。だから、常にこの考えでは不十分かも知れない、との謙虚な思いが必要になる。その謙虚さが完全に失われている。

欲しがりません、勝つまでは

2010年09月21日 | 社会問題
 この所、ずっとうなぎを食べていない。高いから買わない。中国産は怖くて食べられない。食品の中には国産品の顔をして、よく見ると中国産の物がたくさんある。もやしだって、肝心の豆が中国産である。あるスーパーではその豆が国産の製品を売っているが、量が少ないので、すぐ売り切れてしまう。値段は高いのだが、それほど中国産は恐れられている。でも、蜂蜜とか、相変わらず中国製品は闊歩している。
 少しでも安く、と言うのは分かるが、だからと言って,衣料品の多くを中国で日本が生産している事に私は嫌悪感を持っている。仕事仲間に洋服の仕立て屋さんが居るが、中国製の安物の衣料品は縫製が駄目だと言う。縫製のせいだけではないだろうが、何回か洗濯をしたら、それで終わりと言う物が多いと言う。私はユニクロなどの中国製品をあまり買わないから分からないが。
 安さばかりに気を取られて、中国を有り難がったりするから、足元を見られる。今度の尖閣諸島での事件で中国が日本に制裁を加えているのが何よりの証拠である。もちろん、中国は全体主義国家だから、我がままが通るのが元凶だろう。そんな事を許していたら、それこそならず者国家である。中国人民の日本に対する抗議運動だって、どうせ中国政府がやらせているに違いない。文革の良い例があるではないか。

 武士は食わねど高楊枝、と言う。戦争中には「欲しがりません、勝つまでは」の標語があった。これは時の政府の作った標語だから、とんでもない標語なのだが、その精神だけは今だって通用する。私なら、中国が日本に対する理不尽な制裁を止めない限り、中国製品は一切ポイコットする。中国製の食料品は一切買わないから、買うとしたら、中国製の電気機器くらいだろう。それは丹念に探せば、他国の製品が絶対に見付かるはずである。

「おいしく頂けます」はないだろう

2010年09月17日 | 言葉
 今朝のテレビで、東京のもんじゃ焼きが出て来た。もんじゃ焼き専門店会とか言うのがあって、そこの理事長と称する人がもんじゃ焼きの作り方、食べ方を紹介している。そこでその理事長氏が言ったのが「おいしくいただけます」である。多分、彼は「頂けます」ではなく、この仮名表記の「いただけます」のつもりで言ったのだろう。
 えっ? 漢字と仮名とで意味が違うのか、って?
 そう違うのですよ。もちろん、私は違うなどとはこれっぽっちも思ってなどいないが、世間の大方はそう思っているはずである。
 「頂く」は、私の信頼する『字解』(白川静 平凡社)では次のように説明している。

 「丁」は釘の形で、古い字形は釘の頭の平面形である。「頁」(けつ)は頭に儀礼用の帽子をつけて拝んでいる人の姿。それで身体の最上部を「頂」といい、「いただき」、頭頂(頭のてっぺん。ずちょうとも読む)の平かなの意味となる。国語では「いただく」とよみ、ごちそうを頂く、雪を頂いた峰のようにいう。

 「いただき」、頭部の…以下の説明が今一つよく分からない(特に「いただき」、の「、」での繋がりが分からない)事と、「ごちそうを頂く」と「雪を頂いた峰」が同列に置かれているのが私には大きな不満である。
 この二つは本来は違うはずである。「頂」が元々は身体の最上部を言う事から,山の頂点をも言うようになった。その頂点が雪を冠るから、「雪を頂く」との言い方が生まれた。つまり、それはてっぺん(因みにこれは「天辺」から出た言葉)だからこその言い方になる。
 そこで「上」を意識した「上の立場の人から物をもらう」事を「頂く」と言うようになった。それは「もらう」の謙譲の言い方である。こうした場合、もらう側はもらう物をうやうやしく自分の頭上に捧げ持つ。それはまさしく「頂く」なのである。だから「ごちそうを頂く」は「ごちそうをもらう」であって、決して「食べる」ではない。けれども、『字解』のような説明では、それは分からない。
 そして、多くの人が「ごちそうを頂く」の「頂く」をきちんと理解していない。単に「食べる」事だと思っている。国語辞典でさえ、そのように説明しているのがある。だから、その場合の「いただく」は「頂く」とはならず、「いただく」と仮名書きになる。

 最初に述べた「頂く」と「いただく」が違うと言うのはそうした事である。だから理事長氏が「おいしくいただけます」と言ったのは「おいしく食べられます」と言ったのである。
 近所の有名な商店街にこれまた有名な魚屋がある。テレビでもよく紹介される。確かに鮮度と言い、味と言い,値段の安さと言い、抜群の店である。だが、店長とも思える人が「さあ、おいしい○○だよー。ぜひいただいて下さいね」としょっちゅう叫んでいるのが私にはとても耳障りなのである。
 「頂く」は「もらう」「たべる」の謙譲語である。客が「それ頂きます」と言うのは正しい。しかし、店側が客に向かって、客が謙譲の意を表せ、と強要するのは無礼である。で、私は、ははあ、この人は単に言葉を知らないだけなんだ、と思っている。彼は「食べて下さいね」と言っているつもりなのである。
 それと同じなのが、もんじゃ焼きの理事長氏の言い方になる。でも、どうせ言うのなら、「おいしく召し上がれます」である。

 「頂く」を「いただく」と仮名書きにする事が多い。それが当然だとさえ思っている。だから「頂く」の意味などまるで考えない。「頂く」は小学校六年で習う常用漢字である。それは「いただき」でもあり「いただく」でもある事を六年生で習う。そうであれば、なぜ「山の頂き」と「頂く」が同じ漢字なのか、と思う事が出来る。しかし常に「いただく」とだけ書いていたのでは、そうした疑問は全く育たない。「頂く」を習った大人もそれをすっかり忘れている。
 やたらと仮名書きにする事で、日本語がどんどん駄目になって行く。
 日本語は漢字を使う事で現在のように発達して来た。中国語を起源とする漢字熟語だけではなく、やまと言葉を漢字で表記する事も日本語の発展に大きな力になっている。純粋の日本語を表意文字である漢字で表記出来ると言うのはとても素晴らしい事なのである。「いただく」の意味が分かるのだ。それが欠点になる場合もあるが、欠点なら克服すれば良いのだし、利点ならどんどん伸ばせば良いのである。
 朝鮮語では本来の朝鮮語を漢字で表記出来ない。漢字は中国産の漢字熟語に限られる。だから「大学生」を朝鮮語ではハングルで「テーハクセン」としか書けない。そこには「大学」の意味も「生」の意味も存在出来ない。あるいは「学生」の意味も無い。
 朝鮮語ではハングルだけで用が足りているんだから、日本語も仮名だけでいいんだ、などと言う人が居るらしいが、とんでもない馬鹿げた考え方だと私は思う。和語は仮名書きにすべし、などと言う人もこの部類に入る。「和語は」などと言うのであれば、和語とは一体何なのか、と言う事をとことん突き詰めて始めてそうした事が言える。中途半端な事を無責任に言う人間に大きな顔をされるのは迷惑である。

「あと」には「前」と「後ろ」の両方がある

2010年09月16日 | 言葉
 きのう、「先」に「前」と「後ろ」の両方の意味がある事について考えた。そこで今日は「あと」にもその両方の意味がある事を考えてみる。

 A それはあとでするよ。
 B 彼はあとから来る。

 Aの「あと」は「この先」の事である。
 Bの「あと」は「後ろ」の事である。
 「あと=後ろ」なのに、なぜAの「この先」が成立するのか。もちろん、Aは「この先でするよ」との意味なのだが,なぜか、そうは言わない。近い未来なのに、どうして「あと」などと言うのか。それは発言者が「する事」に関して後ろ向きになっているからだ。発言者の前には発言者が夢中になっている事柄がある。つまり、発言者の前、言い換えれば発言者の近い未来に発言者の関心は向いている。「あとでする」事柄は発言者の近い未来の更にその近い未来にある。しかし関心が無い。
 関心事が済んだその先にするのに、発言者にとってはそれはあくまでも「後ろ」なのである。

 「あと」を国語辞典は「時間的にうしろ」だと説明する。言葉としてはそれは正しい。しかし「あとでする」は「この先でする」と言う事である。国語辞典は「あと」の言葉その物の意味に囚われてしまった。「あとでする」と言っている人間が「この先」を自分の後ろに置いている事を忘れている。と言うか,気が付いていない。
 せっかく「あと」を「背中の向いている方向」と説明している辞書も、もう一つの意味として、「現在から隔たった時点。将来・今後を指すことが多い」と簡単に終わってしまっている。「背中の向いている方向」と「現在から隔たった時点」の関係を説明しない。何よりも「将来」と「今後」と言う二つの言葉が同じ意味であるおかしさを何とも思っていない。
 その辞書は「今後」を「現在より後。これから先」と説明して、平気な顔をしているのである。「後」と「先」が同じ意味になる事を不思議とは思っていない。

 上記の私の考え方が正しいとは限らない。けれども、そうとでも考えなければ、「前=後ろ」である不思議さは解決が出来ないと思う。

金田一春彦氏の『日本語』を読み返しています

2010年09月15日 | 言葉
 岩波新書の同書(上)を読み返している。持っているのは1990年の第1刷。20年も前に読んで、その時はなるほどなるほど、と感心していた。だからこそ今も本棚に残っている。なぜだか知らないが、「上」は2冊もある。その私の読み方は今から考えるととても杜撰である。
 その証拠には、今回読み直していて、あれっ? と思った事がある。その一つに同じ言葉で正反対の意味を持つ単語がある、との話がある。それは英語には顕著らしいのだが、日本語の例として同氏はまず「先」を挙げている。
・着いてみると、彼は先に来ていた。??これは以前の事を表している。
・着いてから先のことは、まだ決めていない??これは以後の事を表している。
 確かに「以前」と「以後」では正反対になる。
 しかし、単語が正反対の意味を持っていて良いのだろうか。まあ、文脈で分かるのだが、だからと言って、先人がそうした反対の意味を持たせて使っていたと考えるのはおかしい。
 これは同氏の解釈が間違っているのだ、と私は考える。
 この場合の「先」はどちらも言葉通りに「前」なのである。「先=前=後」が成立する訳が無い。「先」の意味が正反対になるのは、発言者が正反対の立場に居て発言しているからに過ぎない。
 「着いてみると」は着いて、本人は「前」を見ているつもりである。しかし本人の目の前には既に彼が居る。本人が見ている「現在」は実は現在に限りなく近いが、完全に「過去」なのである。だから「前」が「以前」になる。
 「着いてから」も発言者は当然に自分の前を見ている。しかもそれは現在に非常に近い未来なのである。だから発言者の「前」は「これから」なのである。

 これを正反対の意味がある、と言うのは正しくはあるのだが、それは文章の前後関係でそうなるだけの話であって、そんな事は日本語に限らず様々な言葉には十分にあり得る事である。単語がたった一つだけの意味しか持たないと言う事は非常に少ないはずだ。一つの単語に様々な思いを込めるのが、人間の言葉の性格なのである。

 もっとひどい間違いもある。「打ち消しても意味が変わらない例」として同氏は「とんだことだ」と「とんでもないことだ」を挙げている。
 「とんでもない」は「とんだ」を打ち消すから反対になっていそうだが、意味は同じである、と言っている。
 冗談言っては困ります。「とんでもない」は「とんだない」ではない。
 国語辞典によれば、「とんでもない」は「途でもない」の変化で、「とんだ」は「飛んだ」が語源だと言う。
 「途でもない」は「筋でもない」の意味で、「とんだ」は「とび離れた」の意味である。だから否定のように見えても意味は同じになる。これはかなり多くの人が信じているだろうと思うのだが、何故に国語学の第一人者である金田一氏が信じていないのか、私には理解が出来ない。

 「とでもない」は元々は打ち消しの言い方だったから、「とんでもありません」と言ったっておかしくはないはずなのだが、現在は本来はその言い方は間違いだ、とされている。慣習で認められてはいるが、本当は「とんでもないことです」のように言うのが正しい、と大方の辞書は説明している。
 この場合の「とんでもない」の「ない」は否定ではなく、形容詞の語尾を作る「ない」に変化しているのだと言うのである。同じ事が「みっともない」にある。これは元々は「見とうもない」だったのが、その語源が忘れられて、今では「みっともない」で一つの形容詞になっている。だから「みっともありません」とは言わない。
 けれども「とんでもない」には「とんだ」の言い方があるので、それに引かれて「とんでもない」は「とんだ」の否定の言い方だと思って、「とんでもありません」が許容されているのである。

 こうしてみると、同氏が「○○は××だ」と言っている事が、例えばそれが外国語の事だったりすれば、読者にはそれが正しいのかどうかの判定が出来ない事になりそうだ。何しろ、簡単に間違っていそうな事を言うのだから。
 まあ、本書は「日本語」なのであって、たとえ外国語での話に間違いがあっても、大きな影響は無いだろうが、でも、常に疑いながら読む、と言うのも辛い所がある。